第175夜 お達者氏の道草
「あたしはね、急いじゃあ見えてこないもんがあると思うんです。ほら高速道路なんてここいら辺をさっと通り過ぎていっちまうでしょ。こんなに水仙が咲き広がっているところなんてあんまりないのにねえ。なのに行き
先ばっかり見て気がつきさえしない。まあこの辺なんて県の観光案内にもこれっぽっちも載りゃあしないからしょうがないがね」
たまたまナビに棚田の文字を確認したので下道を選んだのだが、この季節に稲穂がたなびくはずもないが思ってもみず畦道に水仙が咲き連なり、なかなか見応えのある風景にしばらく浸っていると、後ろから声をかけられた。見るからにここでずっと生きてきたであろう老人だ。歳のころは80に入った頃だろうか、長い白髪を後ろで束ねダボっとした野良着を纏うその姿は仙人のようでもあり、それでいて話も仕草もキビキビとしている。まさにお達者という感じだ。
「あんな道路が出来る前はここも旧街道に近いから、ドライブインのついでに畦道を散歩するような人もいたけど、あそこが営業をやめてからはみんな素通りだ」
お達者氏は手に下げた籠の中から小さなビニール袋を差し上げて言う。
「ほれ、雑穀だ。今朝畑に行く途中、あの原っぱの端のほうでいつもと違う鳴き声がするんでそおっと行ってみたら、雲雀の雛たちが巣の中で親の帰りを待ってんのよ。しばらく遠くから見てても親が帰ってくる様子がないんで、せめてもって餌を持ってきたんだ。まああんな生まれたてのにこんな硬いのが食えるかはわからんが、せめてもな」
お達者氏は話しながらも巣の方を気にしていたが、親鳥らしきが戻ってきたのを見て安心した様子で、
「ここいら辺には雑食の獣や猛禽がいるから襲われなきゃいいと思っていたが、あんなにうれしそうに泣くんじゃあ大丈夫だな」
そう言って袋を仕舞い、
「あんたもどうしてここにいるかはわからんが、先を急ぐのなら前もって早く出発すりゃあいいんだ。そうすりゃあ余裕が生まれる。早く着きすぎて持て余すならどっかに寄り道でもしようと思うようになる。あらかじめ計画するんじゃあ、そこも目的地になっちまうからふと目に入ったものが気になってふらっと行ってみるようなのがいいんだ。まったく自分の意識にないものに突然出会うってのがいい。心の隙間っていうんだろうか、自分の一部じゃないと思ってた部分が動き出すっていう感覚があんたにわかるかな。"おい、俺はこんなものに心が惹かれるのか"なんて感じでな」
お達者氏は私の時間を気にしたが、こんな会話の途中で先を急ぐのも野暮な気がするので話の先を促すと、
「例えばこの間、ナゴヤさんのところに豆腐買いに行った時にな、あ、ナゴヤさんってのはこの辺から一番近い商店だ。そん時にな、他に買っておくものがないか店をぐるっと歩いてたら冬も終わるからだろう、毛糸が安売りしてたのよ。もちろんあたしは編み物なんてしませんよ。でもその毛糸が鳥の巣みたいに見えてね。ちょっと引き出してみると一本の芯の周りに長い焦茶色の毛足がふわふわ付いてて、どんなものを編むための毛糸なのかがまるで想像つかないんだ。店の真由美さん、あ、真由美さんってのは女将さんのことな、真由美さんに聞いても“ 私も分からないんだわあ”って言うから、5玉で200円なんでとりあえず買って帰って、何に使おうか考えながら居間の端っこに積んでたら、なんだかそこが誰かの棲家みたいに見えて、それでいいかってそのままになってるんだ」
お達者氏は私の時間を気にするが、まあ急ぐ理由もないような気がしてきて、逆にこちらから氏のことを聞いてみることにした。
「あたしの歳? 今はちょうど90。おかあは一昨年逝っちまって独りだ。山に入るのが仕事で1週間以上家を空けるのが普通だったから、身の回りのことは目をつぶっても出来て不自由はないんだが、家にいるときに独りってのが辛くてな。だから日中はなるたけこうして外に居るんだ。家ってのは暑さ寒さや獣なんかから身を守って寝られる場所な訳だが広すぎるんだ。あそこに独りでいるのはかえって不安になるんだ。二人分の空間に独りでいるとな。山じゃあ独り分の小屋だったから手を伸ばせば届くような狭さで、囲炉裏の火を見てれば落ち着くんだ」
90歳と聞いて正直驚いたが、そのお達者氏は「もう少しいいかい」そう私に聞いて続ける。
「あんたが独りここに居るからって独り者なのかはわからんが、結局は人間は独りだからな。そして独りであの世に逝くんだ。それまでの間に親の元で育ち伴侶を得て子を持つが、子は育ち親は逝き、賑やかっだった周囲が静かになっていき最後は自分だけ。所詮人生は冥土までの道草なんだわ。あんたもそれまでは達者でな」
そう言ってお達者氏は畦道を戻って行った。雲雀が元気に鳴き周囲にこだました。




