第170夜 モネの棲む3月
自然のその一瞬を切り取ろうとした意図を読み取ろうとするほどに核心から遠ざかってゆく。絵の具の重なりが生み出す光。神業。目を細めたくなるほどの光や雪の朝の静寂が充満した人々の視線の中で脈打つ。トリコロールのドラボーたちが建物の側面で盛大に旗めき、紫に染まった霧は朧に街を映し出す。作品毎に切り取られた額縁の窓から、歩むごとに千変万化の景色が現れる。それはしばらく変わらない、モネがここに居る間は。
印象のシャワーを心ゆくまで浴び整った私はいつもの洋菓子店の喫茶に座る。お決まりのサヴァランは今の私のようにヒタヒタに甘い酒を含んでブラックコーヒーの深い沈着をひと塗りで華やかす。そう、絵画も見るものを一瞬で異世界へ運ぶ。次元を超えて。そもそも筆は最強の現実逃避ツールなわけだが、それを扱うものによってビッグバンにもただの棒切れにもなり得る。心の印象を託したモネの筆からは一期一会の絶妙な線が混々と、まさにキャンバスに泉が湧出したかのように繰り出されたのだ。
サヴァランの余韻は微睡に似た浮遊感を及ぼす。先ほど鑑賞した睡蓮池の辺りの私は描き手と談笑を始める。
「どうしてこの池を描き続けるんだい?」
描き手は折り返しのある麻のハットのつばを上げ、驚いた様子で私のことを見直す。
「おい、君はこの煌めきの中に神が見えないのかい? あんなにも穏やかな表情でこの世界を包み込もうとされているのに」
描き手は澄んだ水面の睡蓮を描く前に、一度絵の具を乾かすため筆を置く。集中し一気に塗り込んだことで軽い疲労を覚えた描き手は、ラタンのソファに沈み込みピスタチオのケーキとプラムのリキュールを楽しむ。ジヴェルニーの邸宅の花の庭は7月初頭の明るい日差しを受け、全てが活活と色彩を発するが、描き手は至ってマイペースに時を過ごす。
「どうして睡蓮ばかり描き続けるんだい?」
「待てよ、私は睡蓮を描いているんじゃない。煌めきを写しとっているんだ。水でもなければ植物でもない、強いて言えば描くのは気配だ。君の国にもいたじゃないか、松林の合間の気配をしっかりと描いた墨絵師が」
「等伯のことだな。確かにあの松林図には気配が充満している」
描き手は人差し指を上げながらウインクをする。
展覧会の会期中、モネはそこに居る。なぜなら自らが作り出した煌めきの中に棲んでいるから。今だって千変万化する光を写しとっているはずだ。




