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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
168/176

第168夜 忘れられた戯曲

 父・進藤修の職業は鎌倉彫りの彫職人でした。日がな一日中、滑川に面した畳の部屋であぐらを組んで木彫をしていました。頭にタオルを巻いて、おでこに老眼鏡を乗せて、綿入りのチョッキを着るのが父のユニフォーム。いつも午前は8時半から12時、午後は13時から17時半、まるでサラリーマンのように決められた時間を守っていました。父の刀痕(模様とは別につける彫刻刀跡)は“進藤痕”と呼ばれ、誰にも真似のできない妙技とされていました。父はそれを別段自慢することはありませんでしたが、矜持であったことは間違いありません。黙々と流れる時間、その仕事場に流れるのは時間だけではなく、ラジオでした。規則正しさを維持できたのはこのラジオの存在も大きかったのだと思います。午前10時からの『朗読劇情』と午後15時からの『聴劇名作選』は何十年と欠かさず流していました。番組の始まる時の音楽も何十年変わらず、私が女学生の時から嫁いだ後に実家に顔を出した時にも父の仕事場はいつも同じ空気が流れていました。

 父の7回忌の時、母がこんなことを言っていました。

「お父さんは休みの日でも夕飯が済んでしばらくすると、寝るまでの間仕事場で過ごしていてね。お仕事するわけでもなく、何かを書いていたようなの。あんまり仕事場に入らないようにしていたから何を書いていたかは分からないわ」

私はきっと盆を買ってくれたお客さんへの御礼状か何かなのだろうと片付けてしまっていましたが、先日スーパーに買い物へ行く時に間違ってスイッチを押したカーラジオからあのお馴染みの音楽が流れた時、父の書いていたものが気になってきました。父が読書をしているところを見たことはなかったし、ましてや何かを書いている姿など想像すらできない。思えば学校の提出物はいつも母が書いてくれていたから父の筆跡すらわからない。父の痕跡は嫁ぐ日にもらった、あの二尺盆くらいかもしれない。そう思うと、なんだかすぐにでもそのまま残している父の仕事場に行きたくなる。

 滑川は昨日の雨を集めていつもより水位を上げている。こんなふうに見えていたのか。父が生涯の大半を過ごした座り机は木地が幾度となく擦れていたせいで、ニスがすっかり剥げて木目が露出している。しかし几帳面な父ゆえ、彫刻刀たちは刃の大きさの順番違わず整列している。彫りかけのものはない。きちんと仕事を終えてから旅立ったのだろう。小学校の夏休みの課題で選んだ鎌倉彫りで笹りんどうの彫り方を手取り足取り教わったことや、日曜の朝には毎週八幡宮の源氏池に連れて行ってもらったことなど、私はしばらく両手の平で机を撫でながら父との思い出を蘇らせた。確かに色々なことを思い出そうと思っても、父が書き物をしている姿だけは浮かんでこない。意を決して母の言っていた書き物を探してみることにした。

 それは容易く見つかった。押入れの奥の方に茶道具の棗の木地を送ってもらった時の小さめの段ボールがあり、その中にぎゅうぎゅうに収められていた。原稿用紙に書かれたそれは数百枚はあるだろう。

「これが父の字かあ…」

初めて見た字はペン字のお手本と寸分違わぬほどきちんとした楷書で書かれ、しかも思ってもいなかった、書かれたものすべてが戯曲だった。おそらく仕事で聴くラジオドラマに触発されたのだろう、番組のように題材は日常のひとコマのようなものが多い。何作か読み進めると手が止まった。


『朱里の産湯』

・父

・母

木造平屋の寝室。常夜灯と吊られた蚊帳。

その中で父と母が赤子を挟んで向き合いながら床に横になっている。

父 (赤子の入る母の布団を指先でトントンしながら)かわいいな

母 (赤子の頭を指先で梳かしながら)そうですね

父 (しばらくその動きを黙って続けおもむろに)お前に似ているな

母 (梳かす指を頬に持っていき)そうですかね。あなたに似てるかと思います。

> 父 (手を止め、いかにも嬉しそうに)そうかなあ

> 母 (赤子の上の布団を首元まで整え直し)そおですよお

> 父 (赤子の布団を大事そうに撫でながら)なあ、この子の名前考えたんだが。

> 母 (手を止め)なんですか

> 父 (手を止め)漆の朱に心の置き所、里で朱里だ

> 母 (また赤子の頬を指先で撫でながら)あかりちゃん、よかったわね

父 (体を天井に向けながら復唱するように)あかり、あかり、あかり…


何故か涙が込み上げてきた。私、朱里。もちろんそんな小さな時の記憶などない。でも、あんなに表情の少なかった父が、自らそう描写していた。私の彫刻刀を持つ手に、源氏池を覗こうと身を乗り出す私を握る手に、いつも感じていた温かさが蘇ってくる。涙を拭い目をやると、他界後に授かった紫綬褒章の隣に掛けられた家族写真。ひなげしを手を立つ私を挟んだ父と母が写っている。何気なくも我が家を象徴するような一瞬。父は相変わらず生真面目な顔で立っているが、今はそれが

いちばんの幸せな表情だったんだろうと思えた。


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