予感
安麻呂が、比売田のお婆に持たされた荷を担いでたどり着くと、少女がひとり歌っていた。
青い上下に赤を聞かせた絹の装束に、前髪を結んだ淡い青の紐。結んだ髪には櫛と簪がさされている。
簪からは薄紅の花房のような飾りが下がっていた。
あれは貝殻だ。小指の爪ほどに小さな。
安麻呂はそれを阿礼の部屋で見たことがあった。
ではあの少女が、阿礼が心にかけている「沙伎」なのだ。当然ながら沙伎はおぼろな記憶の女童よりもはるかに大きく、娘らしくなっていた。
沙伎の歌は静かに空へと染みてゆく。
真礼の、そしてかつての阿礼の歌のような荘厳さ、絢爛さはないが、静かに聞いていたくなる柔らかな声だ。
それは人をひきつけ引き込むと言うよりは、人に寄り添い包み込むような歌だった。老いて傷ついた人々が静かに耳を傾けている。その中に阿礼もいた。
柔らかい静かな阿礼の表情は、安麻呂が見たことのないものだ。
ふと胸が騒いだ。
「おい。」
ズカズカと阿礼に近づき声をかける。
「安麻呂。」
振り返った阿礼の視線が、すぐに歌うサキの方に泳いだ。
「お前がさっさと行ってしまうから、俺がお婆に荷をおっつけられたぞ。」
さすがにサキの歌を聞く人々をはばかってそっと下ろした包みの中には、絹物こそ少ないものの、布や衣類、毛皮まで入っていた。
「おや、阿礼かい。きてくれたんだねえ。」
村長らしい婆が現れる。村長かと思ったのは先程阿礼がお婆に持たされた、絹の綿入れを腕にかけていたからだ。
「比売田の大刀自様にお礼を申し上げておくれ。こんな上等の綿入れははじめてだよ。ありがたく使わせていただこう。」
「その比売田の大刀自からの追加の荷です。阿礼がさっさと行ってしまったので、俺が預かってきました。」
安麻呂がおろしたばかりの葛籠を示した。
大刀自というのは一族の要となる老女の事だ。一族の歴史を知り、差配する力を持っている。ここや比売田の里がそうであるように、この辺りの古い氏族では大刀自が一族をまとめている事が多かった。
「おや、それは世話をかけたねえ。お前さんは?」
「安麻呂です。多氏の嫡子の。」
阿礼が安麻呂を紹介すると、婆さまが頷いた。
「比売田の綾女の孫じゃね。綾女はべっぴんじゃった。多氏の邸に共住みを決めた時は、男衆が悔しがったものよ。」
安麻呂の祖母は珍しく、都の祖父の家に共住みした。祖母が他の男に手出しされないように、口説いて連れ帰ったのだと聞いたことがある。よほど評判の美女だったのだろうが夭折し、安麻呂は会ったことがない。ただ、その祖母とよく似ているという伯母は確かに玲瓏とした美貌の人だった。
「こんなにたくさん。ほんにありがたいことじゃ。大刀自さまには重ねてお礼を伝えておくれ。わしが行かねばならんところじゃが、今は里を離れられん。男手もたくさんよこしてもろうて、まことに助かった。」
婆さまが里を離れられないのは言われなくともわかる。どうやらこの辺りに集められているのは怪我人のようだ。老いた者が多いようなので全員が本復するとは思いにくい。看取りが必要なはずだ。歌っている、ぎりぎり娘と呼べるかという程度の沙伎の手には余るだろう。
「婆さま、無理するなよ。」
心配そうな阿礼に婆さまが笑う。
「大丈夫じゃ。沙伎の婿取りも見ずには死なんよ。」
赤くなった阿礼を見て、どうやらすでに約束があるらしいとわかった。
安麻呂の胸がまた騒ぐ。
女を近づけるというのなら、安麻呂のほうがよほど近づけている。だから安麻呂の心を乱すのはそこではない。
あの阿礼の表情。
柔らかくて静かな、大切なものを見る目。
阿礼が沙伎を得れば、やはり阿礼は変わるだろう。安麻呂との関係にもきっと変化が現れる。
その予感が安麻呂の心を乱すのだ。
安麻呂の至高。
執着せずにはいられない、この世で最も美しいもの。
阿礼への執着はあまりにも強く安麻呂の内に食い込んで、切り離す術もわからない。
その安麻呂を予感が揺らす。
阿礼が変わってゆく予感が。沙伎を得た阿礼が今のままであるはずがないという確信が。
そうなった時、安麻呂はいったいどうある事になるのだろう。
あるべき、でなく。
ありたい、でもなく。
ただ、その時の自分の思いの形がわからない。
祝うのか、妬むのか、惜しむのか。
いっそ呪ってしまうだろうか。
このまだ幼い、やわらかな歌の歌い手を。
短い、休暇とも呼べない休暇はすぐに終わる。
阿礼と安麻呂は次の日のうちに都に戻った。




