第12話 人間
吹きさらしの屋上に、ただ風が吹く音だけが響いていく。
そこにいるはずの二人は、しばらくの間何も口にすることはなかった。
一人は次に何を話せば良いのか、逡巡し。
もう一人は、その間にも、何を答えれば良いのか分からない。
一人の人間と、何者か定かではないもう一人。
次に口を開いたのは、人間の方だった。
「……その、火傷は……つまり、黒江さんのお母さんに?」
葵は恐る恐る、そう尋ねる。
今は何を聞いたところで、何かを侵しそうなものだった。何を質問しても、黒江にとっては何かしらのモノを侵食されているような、そんなものだ。
しかしその中で、葵が口にしたのはまだ平和的なものだったらしい。黒江は表情を変えることなく、
「そうだな。そうなる……俺の顔を不良品にしたのは、他ならぬ母さんだ」
「……それは」
「けどな」
葵は、黒江の話を聞いて一種の哀れみに近い感想を抱いた。確かに「母親に顔を焼かれた」という事実は、「かわいそう」という感情でしか受け取れないものだったが。
しかし黒江は、他ならぬ黒江自身の意思でそれを否定する。
「俺は母さんを恨んだことはない。母さんを憎いと思ったこともないし、母さんのことが好きだった」
「……え?」
「母さんはさ」
黒江は静かに目を伏せて、話を続けていた。その様はまるで、叱られた子供の、可愛らしい償いの行為を見ているような顔で。
「ずっとずっと働いてたんだよ。働いて働いて……日中は普通のOLとして、年中無休で働いて。夜には内職やって、休みなんて無いようなもんだった」
「それは……その、どうして?」
「どうしてって?俺のためさ」
黒江は自嘲するように言った。
「ライターで顔を炙っちまった、息子への償いだったんだ。俺は母さんが死に物狂いで金を稼いで来てくれたおかげで、欲しいものに不自由することはなかった」
「その、お母さんは……黒江さんは、ずっとお母さんと暮らしていたんですか?」
「ああ。色々あったらしいけど、俺の親権は母さんが持ってたらしい……本当、色々あったんだろうよ。俺は知らないけど」
色々、あったのだろう。乳児の顔を燃やすような母親が、そのままその子供の母親でいたというのは、本当に色々と無ければあり得ない結果だ。
色々と、彼女の事情が考慮された、奇跡の結果なのだろう。
「……あれ?」
「気付いたか」
葵がふと漏らした疑問の声に、黒江は顎の火傷を弄りながらそう答える。
「あ、あの……『吸血鬼の不死性』、っていうのでその火傷は?」
「ああ。そうだな、傷なんかものの数秒で治る俺の体が、この火傷を治せてない」
黒江はそう言って、おもむろに立ち上がる。そして、葵の目の前にしゃがみ込んだ。
葵は突然の黒江の行動に、どきまぎしながら背中を後ろに仰け反る。
しかし、そんな浮ついた葵の表情は、次の黒江の行動に凍りついた。
黒江は葵の目の前で、自分の人差し指を掴む。そうして九十度、関節の可動域と反対方向に折り曲げた。
「なっ……何を!」
「見ろ。こんな怪我だと、数秒で治るんだ」
黒江は痛みなど無いように、平然と解説を続行する。折れた指を誇示するように前に出し、そして実際に、その指には誇示するだけの現象が起きていた。
九十度に折れ曲がった指は、そのまま九十度の角度を狭めていくように、べきべきと形を変えていた。
そして、瞬く間にあるべき角度に戻る。五秒もかからなかった。
「これが今の俺だ。今の俺は、こういう安定した吸血鬼なんだよ」
黒江は、葵の隣に座りなおしながらそう話す。
「安定した……?」
「ああ。傷が治る速度は等速だし、筋力も一定だ。一定に化物レベル。けど、俺は最初からそうじゃなかったんだ。俺は生まれながらの吸血鬼じゃなかったからな」
黒江は、化物として生まれたわけではない。人間と化け物が交わった結果の、イレギュラーな存在だ。
だから、生まれた瞬間から黒江の体は、人間とも化物ともつかない、不安定なものだった。
「これはもう、『多分そうだったんだろう』って俺の予測でしかないんだけど」
黒江はそう前置きして話し始めた。
「生まれた瞬間から俺の体の中では、人間の部分と化け物の部分とがせめぎ合ってた。最終的には、ものすごく都合のいい形で落ち着いたんだが……」
「都合のいい……形?」
「俺の体が現在、人間化け物の贔屓目なしで見るとどうなってると思う?」
黒江はにこりともせずにそう言い、それから説明を始めた。
①吸血鬼の怪力・不死性が備わっている。
②吸血鬼の弱点である「太陽光」「十字架」「ニンニク」などは意味を成さない。
③いわゆる吸血鬼の「吸血欲求」は存在しない。人間の食物で生存できる。
④黒江が知らないだけで、おそらく他にも吸血鬼の特性は引き継がれている。
まとめれば、こんなものである。黒江は話している途中で、自嘲するような笑みをこぼし始めていた。
「どんなチートだ、って話になるだろ。吸血鬼の優れたところはほとんど掻っ攫って、弱点なんか知りません、だ」
「えっと……いや、その。その、『他の特性』っていうのは……?」
「ん……ああ。例えば魔眼だとか、肉体を変化させたりか」
その目だけで人間を魅了する吸血鬼の「魔眼」。
そして肉体を霧や蝙蝠に自在に変化させる特性。
黒江自身、必要がなかったため試したことはないが、この辺りは出来るんじゃないかと思っていた。
肉体変化はそもそも、不死性による再生にも応用されている要素だし、黒江の異常な動体視力は魔眼の片鱗と見て間違い無いのだろう。
「あ。あとは魔力適性もそうか」
「魔力適性……あ」
「そうだな。男の俺が化物退治に入局できるだけの魔力適性を持ってるのは、それが理由なんだろ」
何しろ、黒江は吸血鬼の子供だ。
化物の子供なのだ。
化物は確かに、それ単体では魔力と対を成す「不安定」なものだが、しかし黒江の場合、それが上手いこと人間と混ざっている。
「星の意思」が生み出した「化物」の子供だ。それに、正当な「安定性」が宿っている。
「魔力ってものをよく知らなかった頃から俺は、『そんなものがあるんなら人より優れてるんだろう』ってなんとなく思ってたな」
「自分が、化物の血を引いてるって知ってたんなら……そうですよね。私も、そんな風に考えると思います」
「で、実際に検査を受けてみたらとんでもなく珍しい存在になっちまったわけだ……はは」
黒江はそう言って、頭をかく。
実際のところ化物退治が、黒江の魔力適性の高さのことをそこまで調べなかったのは幸いだった。
化物退治設立以来はじめての珍事だ。流石に黒江のことを、「化物そのもの」だとは思わなかっただろうが、それに近い予想はされたはずだ。
にも関わらず黒江が無事に入局できたのは、化物退治の出した結論が「なんらかの突然変異のようなもの」という曖昧なものだったことと、桜酒局長の「使えるものは何でも使う」という方針のおかげだったのだろう。
「……でも、最初からそうじゃなかったんだな。俺の体がどんな風になるのか、少なくともその乳児期には決めあぐねてたんだ」
「決めあぐねたって……誰が?」
「『星の意思』か何かじゃないか。それか神様か」
「神様?」
「とにかく、俺の体はまだ不安定だったってこと。怪力やら不死性も、定着してなかった。その段階で、不幸なことに顔面に炎を浴びたんだ」
おそらく、「その段階」で一生残る傷がつくなんてことは、確率を考えれば奇跡に近いものだったのだろう。
しかしそれは、結局のところ黒江に証を残した。
分かりやすい、不安定な存在の証だ。
「……その、お母さんは……今は?」
葵は、遠慮がちにそう尋ねた。
本当なら、聞くべきことではなかったのかも知れない。しかし、黒江自身が、そのことを否定した以上、禁忌の話題ではなくなったはずだ。
しかし葵は、楽観的にそう尋ねたことを後悔する。
「死んだよ。一年前に」
「……し」
「過労死だった。働きすぎで死んじまったんだ」
黒江はそう言って、口元に左手を被せる。表情は変えなかったが、しかしその声は、僅かに震え始めていた。
「母さんはさ……ずっと、俺に謝ってたんだよ。いつもことあるごとに、『ごめんなさい』『私のせいで』って言ってた」
「それ、は……」
「俺は確かに、この火傷で面倒なことは色々経験してきたけどさ」
不良品の顔、のせいで、「面倒」はいくつもおっ被ったものだが。
それでも、と黒江は言う。
「そんなのより、母さんが与えてくれたもんの方がよっぽど大きかったんだよ。母さんがいてくれた方が……そんなのは」
「————」
「俺はなあ」
押し黙った葵に、黒江は言葉を続ける。それは独り言のようでもあった。
黒江にとっては、独り言でもあるいは良かったのかも知れない。
「俺は馬鹿だったよな。考えてみれば、自分の息子が化け物かも知れないなんてこと、母さんには分かってたはずなのに」
「……え?」
「俺が母さんに、その骨折した時のことを話せなかったのはさ。母さんに嫌われたくなかったから、だった……と、思うんだ」
そう話す黒江の表情は、「泣きそうな」と表現して差し支えないものだ。
「考えてみればそうだよ。母さんが一番よく知ってたはずなんだ、自分の子供が化け物かも知れなかったなんて」
それは他ならぬ、彼女自身が、一番分かっていたはずだ。
しかし彼女は、一時は顔を焼くほどに化け物を憎んだ彼女は、それでも黒江に尽くした。本当に死ぬほど黒江のために働いていた。
「そんなことは、気にしなくて良かったんだよ……俺も母さんも。俺もそんな心配はしなくて良かったし、母さんだってただ普通に一緒にいてくれれば、それで良かった」
「……普通に、一緒に」
「死んじまったら、それでおしまいだよ。終わりなんだ。全部」
黒江はそう吐き出した。
吐き出し、全てを言葉にして排出した。言葉が結局は、全て吐き出すための手段だった。
葵はそんな黒江の顔を見つめる。どう言葉をかけるべきなのか——あるいはこの場面でかけるべき言葉など、一つもないのかも知れないが。
一向に葵の目を見ようとしない黒江の目を、横から葵はしっかりと見つめていた。
「……俺は」
そうして何秒もの沈黙が過ぎた後、黒江は再び口を開く。
「俺はこの体に不便を感じたことはない。この体は、実際、都合が良すぎるくらい便利なんだ」
「便利……ですか?」
「ああ。怪我はすぐ治るし、何もしなくても馬鹿みたいな力は出るし……そう、だから食生活に気を使う必要もない。砂糖だけ食い続けてても死なないし、太ったりもしないからな」
それを聞いて葵は少しだけ、羨ましいと思ってしまう。体重やら体型やら、そういったものが安定して保たれているのなら、少なくとも苦労のない話だ。
「それから、何より死なないし」
「……え?」
「吸血鬼の寿命って、どれくらいか知ってるか」
黒江はそう言いながら、自分の右手の指を全て開いて、葵に見せた。
「物によるけど、吸血鬼ってのは大体の場合不老不死だ——少なくとも人間の五倍くらいは寿命がある。伊達に不死者なんて呼ばれてねえよ。まあ、寿命は普通ってタイプの吸血鬼も、いることにはいるんだけど……それが俺ってのも、相当確率の低い話だろ」
「五倍、って……」
五倍。平均的に、というか色々なタイプの吸血鬼を総括的に考えて、その上で平均をとって五倍ほど。
寿命を七十歳と少なめに見積もっても、350年だ——長生きなんてものではない。江戸時代に遡れる年数である。
「それ……は、長生きですよね」
「ああ。俺は今の所死にたいなんて思わないから、まあ都合のいい話だな。人より長生きできるわけだ。すごく」
「私は、先におばあちゃんになりますけど」
「全人類がそうだよ」
黒江はそう返して、それから顔を上げ、夜空を見上げた。
今日は嫌に星が綺麗だった。時々流れてくる雲に、輝いた星が隠れて、そしてまた姿を現していく。
黒江はそんな空を見上げながら、口を開いた。
「俺は化け物なんてもんは認めねえよ」
「……」
「化け物なんてもんに、存在価値なんてねえんだ。化け物なんざ、俺は認めない」
黒江は吐き出す。
自分自身を吐き出すように、言葉を吐き出していく。
「この世に蔓延ってる化け物どもに、存在していい理由はない」
「化物に……存在価値は、無い、って?」
「無いな。化物……そもそも、『フリークス』ってどういう意味なのか知ってるか?」
葵は首を横に振った。黒江はそれを見て、
「『狂信者』だとか、そういう意味だ。やつら化け物ってのは、その名の通り、何かに心酔して、狂信してる」
「何かに……何かって、なんですか?」
「ほとんどの化物は、『人間を殺すこと』に心酔してるらしいよ」
化物は、「星の意思」によって生み出された、人間への抑制装置だ。
狂った抑制装置であり、いわばその存在理由は、「人間の数を減らすこと」そのものにある。
だからこそ、化け物たちは「狂信者」と呼ばれる。
「星の意思」を狂信し、人間を殺すことに心酔する化け物。それが化物だ。
「俺は、毛ほども認めねえよーー化け物も。『星の意思』なんてものも、認めねえ」
「————」
「これっぽっちもそんな奴ら、認めるか。認めちゃいけないんだ、そんなもんは。だから、俺は——」
黒江はそこまで話し、そして自分の右手を握りしめる。それは、怒りの表現のようにも、悔しさの表現のようにも見える行為で。
少なくとも、葵の目にはそのどちらもに映った。
「俺は……俺は認めない。俺が化け物なら、俺という化け物の存在も認めたりはしない」
「……そんな、こと」
「だから俺は——人間で居たいと、人間に居たいって、心から願ってる」
黒江はそこまで言って、今まで横に向いていた体を、葵の方へと向け直した。
そして、真剣な——真っ直ぐに、そして刺すような強い目で、葵の目を見た。
「それには俺が、誰からも人間だって認識されてる必要がある。俺を化け物だって知ってる人がいたら駄目なんだ」
「っ、私は——」
「いいか、小村」
葵が何か言う前に、黒江は言葉を続けた。
「俺のことを忘れてくれ」
「——何を」
何を言っているのか、と反射的に葵は聞き返しそうになる。
「そうになる」ということは、実際にはそうしなかったという意味だが——それは、黒江の射るような視線の重圧で、言葉が押しとどめられたからだ。
そして、葵の押し黙った間に、黒江はさらに言い募る。
「俺は、これから部屋持ちの申請を取り消す。どっかのアパートなんかを借りる。十三班からも、何か理由をつけて移動する。一切、なるべくお前と廊下ですれ違うようなことも無いようにする」
葵は、もう何も言うことが出来ずにいる。何も返せなかった。
そして、そんな葵を置いて、黒江は自分の願望を喋り続ける。
「だから」
「黒江さ——」
「だから小村——俺のことを忘れてくれ。俺という——俺という化け物、がこの世にいるってことを忘れ去ってくれ」
忘れて、去ってくれ。
思い出すこともするな。もう、会うこともなくなるから。
黒江ははっきりと、そう口にした。はっきりとそう願った。
「それが、俺の頼みごとだ」
はっきりと——そう、言った。
吹きさらしの屋上に、ただ風が吹いていく。
五月の夜だが、しかしその風は冷たかった。夜はまだ寒い。
忘れ去れ。
忘れて去れ。
それが、黒江の「頼みごと」だったのだ——あの夜に起きた、不測の事態を最もよく終息させるための頼みごと。
この頼みごとを葵が受け入れたなら、まさしくあの夜の出来事が「終息」する。
終わる。
あの夜の、異様な光景も。
それを思い出すことも。
黒江と葵の、この一ヶ月の付き合いも——完全に、終息する。
それが着地点としては、実際のところ最も素晴らしいものだということは、少し考えればわかるだろう。
誰の視点から考えるかにもよるが、しかし一番綺麗にまとまるのが、その着地点だ。
黒江は頼みごとを聞き入れられ、それで終わり。
そして——葵が終わることもない。
最初に、黒江は言っていた。この人っ子一人いない屋上に葵を呼び出したのは、「頼みごと」を断られた時に、すぐに葵を殺すためだと。
彼がそんなことをしないと、葵はもちろん信じていたが——しかし、たった今、「彼」という人間は更新されたのだ。
たった今、彼への認識は「黒江亮」から「吸血鬼・黒江亮」へと変えなければならない。そして、その吸血鬼がいざという時に葵を殺さない保証など、どこにもありはしない。
——冷たい風が吹いていく。
その風の中で、葵は答えを口にする。黒江の願いへの答えを。
それは確かに、葵の意思で生まれた答えだった。
「私は」
口を動かしながら、葵の表情は、今までの凍りついたようなものから、赤ん坊をあやす母親のように柔らかく変わっていった。
そうやって、微笑んで、葵は答える。
「私は——その願いは、聞けません」
確かに葵自身の意思で、そう言った。
葵は自分の意思で確かに、確実に、黒江の願いを——終わりを拒絶した。
*
その答えを聞いて、耳に届いたその答えを理解して、黒江はわけのわからない衝動に、一瞬で支配されていた。
言葉にできないような、それはまるで、爆発だ。焼け付くような、溜め込んだ感情の爆発だった。
「なんで——ッ!」
「黒江さ——っ、ぅあ!」
葵が放った戸惑いの声は、最後まで聞こえることなく途切れる。黒江の手によって途切れた。
爆発した感情は——もう、堪え切れなくなった、不安と不信の塊だった。そんな感情の、炸裂に支配された黒江は、自分の意思と関係なしに腕を動かしている。
端的に言えば、黒江は自分でも気付かないうちに、その手で葵の首を圧迫していた。
「なんで!頷いてくれないんだ⁉︎」
黒江の激情が、目の前で喘ぐ葵に降りかかる。
苦渋の決断だったのだ。黒江にとっても、たった今口にした願いは、心から望んでいるものであるはずはない。
葵と二度と、関わりもしないという、その結論を望むはずがなかった。
しかしそれでも、黒江は化け物としての自分を認められない。
自分という化け物が存在していることを、認めることが出来ない。
自分という化け物を、知っている人間がいることを——許容することが、出来ない。
「なんでだ⁉︎俺は最初に言ったのに!俺は言ったはずだ——頼みを聞いてくれないんなら、お前を殺すって‼︎」
「化け物の黒江」を知る人間が、この世にいることを、黒江は許容できない。だからこそ、その一番の解決策は——結果だけを重視するならば、目撃者を殺してしまうことだ。
そうするのが、一番早い。
しかし、そんなことが出来るはずがない。出来るものか。
葵を、この手で殺すということは、黒江に出来るはずのないことだった——だから。
だから、考え抜いて、考えに考えて、この道を用意したというのに。
「お前はただ忘れるだけで良いんだよ!化け物一匹、記憶から消し去っちまえば良いんだ‼︎そう誓ってくれれば、それで良い!お前がそう口先だけで誓ってくれれば、それで俺は納得できる!なのに——!」
「わた、しは」
その葵が不意に漏らした言葉に、黒江は叫ぶのをやめた。
吸血鬼の力で喉を圧迫されながらも、何かを訴えようとする葵の言葉を、黒江は聞いてしまった。それを聞いて、黒江は「それを聞きたい」と思ってしまった。
その単純な思考に従って、首を絞める手の力が抜けていく。
そして、圧迫から解放された葵は、黒江の目を真っ直ぐに見て、言った。泣き笑いのような、そんな顔をしながら、口にした。
「私は——黒江さんと一緒にいたいんです」
「————」
「黒江さんと。誰でもない、あなたと一緒にいたい」
確かな意思を持って、葵は話す。自分自身の、確かな願いを、言葉にして外に出した。
葵自身の強い意思で思い描いた願いを。
それを現実にしようと、喉を震わせた。
「『黒江さんを化け物と見る人』になんて、私はなりません」
「無理、だ……そんなことは」
「黒江さんのことを、化け物だなんて、私は思いません」
「っ——無理だ!そんなことは無理なんだよ!」
黒江は、顔をくしゃくしゃにしてそう叫ぶ。
「化け物と人間は相容れないんだよ。相容れちゃいけないんだ……そんなことは、無理なんだよ。不可能なんだ」
「化け物」は。「人間」とは、共にはいられない。
化け物は人間の敵そのものだ。化け物という単語が、人間の敵というものの代名詞だ。
化け物の存在価値は、人間に倒されることにしかない。だから、化け物と人間は決して共にはいられな——と。
それが、黒江の愛憎の全てだ。黒江が、自分の母の話を聞いて、自分の生い立ちと自分自身を知って、そうして理解した全てだ。
「出来ますよ、そんなことは」
しかし、葵はそれを否定する。確たる言葉で、黒江の倫理を、黒江の人生そのものを、否定しようとした。
「私と黒江さんは一緒にいられます。だって、黒江さんは——人間ですから」
黒江の、自身への価値観を。葵はそうやって否定した。
自分自身を化け物と断じてしまった、その黒江自身の人生を、葵は否定する。
その言葉を聞いて、黒江は力無く首を振った。
「俺は……俺は吸血鬼だ。お前も、見ただろ……」
「私も見ましたよ。黒江さんは、身を呈して私たちを守ってくれました」
「それは……そんな、ことは!俺を人間になんてしてくれねえだろ⁉︎」
「なら‼︎」
葵は荒げた声を張り上げた。その見たこともない勢いに、黒江は一瞬呼吸を止める。
見ると、葵の目からは、もう涙がこぼれそうになっていた。
「なら——どうして黒江さんは化け物なんですか!黒江さんは、どうして人間じゃないんですが⁉︎」
「それ、は……俺が、吸血鬼で」
吸血鬼という、化物から生まれたものだ。紛れもなく黒江は、「化物の子」などよりも、「化け物の子」なのだ。
「俺は——人の体をボロ雑巾にできる怪力を持ってる。俺は、骨を折ってもすぐに治っちまう……高いところから落ちても死なないし、化物なんかよりも強かった」
「だから、なんだって言うんですか」
「俺の体は!化け物そのものなんだぞ⁉︎」
「だから、それがどうしたっていうの!」
葵は叫んだ。黒江が自分を否定する、その言葉よりも強く、声を張り上げた。
「黒江さんは人間です!私がそう思ってるの!それだけで、他に何がいるんですか⁉︎」
その言葉に、黒江は表情をさらに歪め、声を詰まらせた。
それ以外に、他に何がいるのか——と。その、葵の誘惑は、あまりにも魅力が過ぎる。
葵が、あの姿を見た葵が自ら、黒江を人間だと認めるのならば。
「お前が……お前さえ、それを認めてくれるんなら……それで良いんだよ、俺だって」
絞り出すように呟かれたその答えは。
あまりに理想的すぎる結果への、切望的なまでの羨望だった。
「なら——」
「……でも」
でも、と。まだ足りないのだ。
黒江にとっては、そもそも葵が黒江を人間と見ていることが、まだ分からない。人の心なんてものは、所詮、正確に計り知ることはできない。
「でも、俺はまだ怖い」
「怖い……?」
「お前が、まだ信じられないんだよ……俺には。俺は、お前がもしかしたら、心の中でまだ俺のことを化け物と思ってるかもしれないってことが、怖くてたまらない!」
泣きそうに、なりながら。泣きそうな表情で、黒江はそう訴える。
「俺に信じさせてくれ——!」
「————」
「お前のことを信じたい!信じたいって心の底から願ってる!けど——けど、今のままじゃ、できないんだよ‼︎」
信じたい。心から、葵の言葉を信じられたなら、いったいどれだけ幸せだろう。
葵が、黒江を人間だと思ってくれていることを——黒江自身で認められたならば、どれだけ良いか。
しかしそれには、まだ足りない。
葵との一ヶ月も、いささか足りない。それ以上に、黒江が黒江自身を、それに足るだけ信じられない。
黒江が化け物ではないのだと、黒江はそれでも信じられなかった。
「……お礼を」
「……え?」
「あの夜に、助けてもらって。お礼をしたいって、思っていたんです」
葵は、そう言いながら、自分の脇に置いていた紙袋に手を伸ばす。
黒江はそこで、初めて葵が何かを持っていたことに気付いた。
それまで、他のことに頭がいっぱいだった。他のことで頭が破裂しそうで、そもそも葵が着ている服すら見ていなかった。
葵がどんな格好なのかすら。手に、何かを持っているのかどうかも、知りもしなかった。
「それは……?」
「昨日、大きいデパートに行って買ってきたんです。慣れない、洋服屋さんに入って……頑張ったんですよ、こんなことでも」
そう言いながら、葵はその紙袋を手渡してきた。
黒江はそれを躊躇いがちに受け取って、そして葵の目と紙袋を交互に見る。葵は、「見てみてください」と、微笑んで言った。
恐る恐る、黒江は紙袋の中に手を入れる。そして、中で触った柔らかい感触を掴み、外に出した。
「これって……ネック、ウォーマー?」
「はい。あの夜に、燃えてしまってたから」
紙袋の中身は、黒のネックウォーマーだった。手触りだけでも、前に使っていたものよりも上等なことが分かる。
どう考えても、お高いものだ。黒江は半ば信じられない、という目で葵を見た。
「サイズが合うか、心配だったんですけど」
「これ……なんで俺に。なんで、俺なんかにわざわざ……?」
「あの夜のお礼だって、言ったじゃないですか。……命を助けてもらったのに、それだけじゃ足りないと思ってますけど」
黒江は、そのネックウォーマーに目を落とす。
質感は、良い。黒江好みの柔らかいものだ。
黒色というのも、悪くなかった。明るい色で目立つよりもよっぽど良い。
「つけてみてください」
葵のその言葉を聞いて、黒江はゆっくりと、それを自分の頭の上に持っていった。そして、そのまま首元まで下ろしていく。
サイズは、ぴったりだった。
「……どう、ですか?」
「……良い。チクチクしたりもしないし……暖かい」
黒江は、そのネックウォーマーを鼻先にかけて、そう言った。葵はそれを聞いて、笑う。
柔らかく、笑った。皮肉も嘲りもない、純粋な笑顔だった。
その笑顔を見て、黒江は口を開く。
「……俺は。俺は普通の人間と違う。俺は——化物と同じものだ」
「たとえ黒江さんの体が化物と同じでも、黒江さんは化け物じゃありません」
「……俺は——化け物なんて、認めない」
「黒江さんは、化け物じゃありません」
黒江は、夜空を見上げる。星が綺麗だった。
よくよく探して見ると、月が見えない。たった今気付いたが、今日は新月だった。
黒江は、一筋涙をこぼして、ネックウォーマーの下で——微笑んだ、のかはわからないが。
言った。
「心酔するってのは——こういうことなのか?」
人間になれたのか、黒江にはわからない。
完全に人間に、なっていたわけでは、恐らくないのだろう。
だが。少なくとも、葵の前で黒江は人間だ。人間で、いて良いのだ。
吸血鬼の体を持っていたしても——それは、その黒江の意思は、間違いなく人間でいられる。
「ありがとう……小村。俺を人間にしてくれて、ありがとう」
「……いいえ。なら、それもきっと、お礼なんですよ」
夜の化物退治の屋上で、人が二人。
二人とも涙をこぼして、微笑んでいた。
一章はもうちっとだけ続くんじゃ




