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この女は、危険だ。
これまでのことから、そう結論づけることができる。
校内で人を撃つことは、絶対に避けるべきだった。それとも、自分が日和ってしまったから、そう思うのだろうか。われわれは正義の味方でもなければ、一般市民のために動いているわけでもない。
では、なぜそんなことを考える?
やめておこう。自問しても、答えは出そうにない。
昨日の出来事は、本来ならこの女の手筈で、もみ消すはずだった。
だが、何者かがインターネット上にリークした。
響野千鶴──《桜井》の仕業だろうか?
当然、われわれの専門セクションが、情報の隠蔽に奔走した。電脳世界で一度広がった情報を殲滅するのは、容易ではない。しかし強大な組織力をもってすれば、充分に可能だ。
何年かまえに、われわれの情報がネットに漏洩したことがあった。ちがう。あれは、どうでもいい内容だから、そのまま放っておいただけなのだ。
今回は、どういうわけか消せなかった。
それどころか、数時間で信じられないほどに拡散していた。
桜井に、そんな真似はできるだろうか?
そうは見えない。
麻取には、そんな技術はない。ではいったい、どんな手を使ったのだろう。考えられるのは、プロのハッカー……しかも、その世界でもトップクラスの人間を起用した。
麻取に、そういう人脈があるとは考えにくい。
もしそうだとすると、非合法の側と通じている取締官がいることになる。
やめた。不毛な妄想だ。この世界は、結果がすべてだ。
この女に、すべてを公表すべきだと進言した。
中途半端な隠蔽は、ひずみしか生まない。そこから泥水が流れ出し、裏の汚水がまき散らされることになる。
この女は、断固として反対した。
が、重傷を負った女生徒の入院先まで情報を流されたことが、この女を追い詰めた。さすがに突発的な出来事であったため、病院の手配までは行き届かなかったのだ。
この女は、確実に殺しておけばよかった──そう口にした。
たしかに、そうかもしれない。
われわれにとっては、それが正しい。
だが……。
心のどこかで、なにかが囁いている。
それは、なんだ?
弱くなっている。
そういう自覚がある。
自分が、なにかに変化しようとしている。
どうした?
どうして、そんな感情を抱く?
眼の前では、この女──清水が銃をかまえている。
狙いは、《桜井》に合わせている。
学校の屋上──。
状況は、こうだ。
《桜井》が、ここをつきとめた。あのお方の……隠し子、渡瀬紗月がはじめたケシ栽培。そして、そこから構築された麻薬組織。所詮は、この程度の面積しかないから、取るに足らない集団だ。
だが桜井は、あくまでも突き進むだろう。こちらからの取り引きに応じることはない。これまでの交流から、それがよくわかる。そして清水は、桜井のことを撃つだろう。
はたして、それをただ見守るべきか。
いけない。なにを考えている。
もっと合理的になるのだ。
冷静に、狡猾に。
いつもの自分に──。
30
「ずいぶんと都合のいいように話をすすめていますな」
しばし沈黙していた教頭の及川が、ようやく口を開いた。痺れをきらしたというよりも、ことの成り行きを喜々として聞いていたかのように、表情はゆるんでいる。
「この帝国は、だれにも崩せませんよ。たとえあなた方でもね」
「雑魚は引っ込んでな」
清水が暴言を吐いた。本来の関係からすれば、とても許される発言ではない。
「雑魚? はははは! 清水先生、あなたは、なにもわかっていない」
「なにがおかしい?」
「ここの帝王は、彼ではない。この私なんですよ」
「ヘロインを自分に使って、頭がおかしくなったのか?」
そのとき、爆音が轟いた。
〈ダダダダ!〉
渡瀬紗月がかまえているものに、ゾッとした。
短機関銃──。
それまでは、ケシの群生にでも隠していたのだろう。
あやめは、一歩も動けなかった。
いや、柴田も、清水も、佐伯も、それは同じだった。あやめと柴田はともかく、こういう修羅場には慣れているであろう清水と佐伯も、なにもできないでいる。
弾丸をうけたものはいない。すべて地面のコンクリートに吸い込まれた。しかしそれは、ただ狙いがはずれたのではないということがわかる。
渡瀬紗月が、ゆっくりと移動をはじめた。時が止まったように、全員がそれを眺めることしかできない。
彼は、及川の前に移動した。まるで、盾になるように。
拳銃をかまえたままの清水だが、どうすることもできないようだ。護衛対象の──絶対に傷つけるわけにはいかない人物が壁となってしまったのだ。
「まだ、わかりませんか。どういうことなのか」
及川の声に、答えられる者はいない。
「渡瀬君、君からも言ってあげなさい」
「……教頭先生の言うとおりだよ」
消えいりそうなつぶやきが、紗月の口からもれた。
「はははは!」
それとは対照的な、及川の哄笑。
清水が、悔しげに唇を噛みしめた。
「では、教えてあげます。不出来なあなたたちのためにね。ハムの方たち──公安の諸君、彼に関心があるのは、あなたたちだけではありませんよ。それを考慮すれば、おのずと答えは出てくるでしょうに」
「なに……!?」
清水と佐伯の表情が、突然、強張りだしたような……。
「そうか……そういうことか……」
あやめには、まったく理解できなかった。だが、あやめなど存在しないかのごとく、会話は熱を帯びていく。柴田へ視線をはしらせるが、やはりわけがわからないといったふうだった。
「!」
そのとき、ふらふらと京之助が、及川たちのもとから、あやめのもとへ。すでに京之助への興味はないのか、及川はなにもしない。清水や佐伯も、同様だ。
すぐとなりで京之助は立ち止まったが、依然として惚けたように自我が消失している。なにかをされているのは、あきらかだ。
はやく、この場から彼を連れ出さなければ……。治療が必要なら一刻の猶予もない。この場からの離脱が望ましいのに、耳に飛び込んできた内容に、あやめはそれすらも忘れた。
「CIA……だな?」
清水の語気は、鋭さを増していた。
及川は、否定も肯定もしない。ただ、笑みをたたえるだけ。
(CIAって、あのCIA!?)
思わず、あやめは声に出してしまいそうだった。本当に出していたら、だれかが返答してくれただろうか。
言わずと知れた、米国中央情報局。
あやめにとっては、映画や小説のなかに登場する荒唐無稽な組織でしかない。もちろん捜査機関にいるのだから、CIAにも日本支部があることぐらいは知っている。アメリカ大使館員の何割かは、諜報活動に従事していて、日夜、この国で暗躍しているということも……。
アメリカの捜査機関であるFBIにも日本支部があって、何度か麻薬取締部も情報のやりとりをしたことがある。同じように、麻薬取締局──DEAとの交流も盛んだ。
そういう麻取にとっても、諜報組織というものは馴染みがない。それは日本の公安部にもいえることかもしれないが、いったい普段、どんなことをしているのかも想像できなかった。
こういう噂を聞いたことがある。
東京地検特捜部は、CIAの出先機関である──と。
無論、皮肉もこめた噂なのだろうが、地検特捜部が動く案件には、すべてCIAの意向が絡んでいる。特捜部が疑惑追求した政治家やそれに準ずる大物は、CIA──つまり合衆国にとって邪魔な存在なのだと。
それを思うと、これまで世間を騒がせた地検特捜部の大捕り物の裏には、青い眼をしたシナリオライターが隠れているのではないか……。
もし、及川が本物のCIA諜報員というのなら、その疑問をぶつけてみたい。この状況としては、とても場違いな質問が喉元まで出かかった。
「清水先生、佐伯先生、この一件から手を引いてください。この渡瀬君の身柄は、われわれの監視下にあります」
あやめは、柴田に目配せした。
最初はゆっくりと、後退をはじめた。京之助の手をつかむと、全力で走り出した。
すぐに気づかれた。
「待ちなさい!」
清水の空気を裂くような声。
振り返らなくても、気配で、背中に狙いをつけられたことがわかった。
だが、足を止めるわけにはいかない。
先陣を切って、柴田が前方を駆けていくのが視界に入っている。その姿を見本に、あやめは走った。京之助も、そのスピードについてきた。それだけで判断するのなら、心配するほど酷い状況ではないようだ。
走る、走る!
〈バンッ〉
発砲音で、足が止まった。
振り返った。
しかし、そこに広がっていた光景は、あやめの想像を遙かに超えたものだった。
倒れていた……清水が。
撃ったのは──。
31
引き金は、恐ろしいほどに軽かった。
これまでに撃った、どの銃よりも──。
清水という女。
倒れたときの瞳が、戸惑いに満ちていた。まさか自分に撃たれるとは、夢にも思っていなかったのだろう。
だがこの女には、もはや関心はない。
逃げていく三人に視線を移した。
立ち止まり、彼女が振り返っていた。その表情もまた、戸惑いが強い。
自分に助けられるとは、清水と同じように、夢にも思っていなかったはずだ。
彼女は、すぐ再び走り出していた。
そうだ、それでいい。
もうこちらを振り返るな。
こちらはこちらで、ケリをつける。
自分の成すべきことを。
眼を、問題の二人に向けた。
教頭の及川。
生徒の渡瀬紗月。
この二人も、自分の行動が理解できていないらしい。
「どういうつもりなんですか?」
「べつに、深い意味はない」
正直に答えた。
撃ちたいから撃っただけだ。いま思えば、こんな気持ちで銃を撃ったことは、これまでなかったのではないか。
縛られていたなにかが、無くなっている。
それを断ち切ったのは……彼女──。
「で、あなた一人が窓口になったということですか? どうするんです? ハムとしては、どう出るつもりですか? まさか、われわれには歯向かえな──」
及川が言い終わらぬうちに、引き金を絞った。
〈バンッ〉
銃声が、とてもマンガチックに聞こえた。リアリティに欠けていたのだ。
これが、自分の選んだ結果なのか……。
「はは、ははははは」
「なにがおかしいの?」
渡瀬紗月に、そう問われた。
指摘されて、自分が笑い声をたてていたことを知った。
渡瀬紗月のかたわらには、及川の身体が転がっている。狙いは、はずしていない。防弾ベストを着ていないかぎり、ほぼ即死のはずだ。及川の着衣の厚さからみて、なにかを装着していることもないだろう。
「これで、大丈夫なの?」
この無機質な少年から心配されたことが、意外だった。
大丈夫かどうかは、よくわからない。
CIAの諜報員を殺した。
はたして、それがどんな面倒を生むのか。
いや、生き残る方法には、もう行き着いている。
ここでのことを目撃した人間は、四人。
逃げた三人のことは、考慮しなくてもいいだろう。《桜井》は、自分に不利な証言はしない。
どうしてだろう?
彼女のことを信じている。
信じる? 他人を信じているというのか、自分が。
願望が入っているのかもしれない。もし、その願望どおりだったとしたら、邪魔な人間は一人しかいない。
眼の前の彼を消せば、すべてを清水の暴走に仕立てることができる。
銃をかまえた。
「ボクを殺すの?」
虚無の瞳が、こちらを覗いている。
短機関銃の銃身は下がったままだ。むしろ破滅を期待するかのように、無抵抗だった。
「清水先生がやったことにするんだね?」
「……そうだ。悪く思うな」
銃声が、空に吸い込まれた。
それは格別、美しい響きだと思った。




