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俺は南京で開かれた第一回亜細亜西太平洋首脳会談に参加し新しくその国力を背景に亜細亜西太平洋同盟を結んだ。第一次大艦隊計画では新たに46cm砲搭載艦敷島級を新規建造し、伊勢型二隻は満州国、扶桑型は扶桑がインド、山城がオーストラリアにそれぞれ供与された。そして大和型戦艦は四隻建造される予定となる。又空母は赤城型等既存の六正規空母(史実の真珠湾参加空母)を除く空母は各国に供与された。龍驤はオーストラリア、瑞鳳は満州国へ、そして祥鳳はインドへと譲られた。天城型は建造を中止、新型のジェット機を見据えた空母を開発させた。巡洋艦はデモイン級を基に現在開発中の有線誘導噴進弾と魚雷を装備した重巡と阿賀野級軽巡、アトランタ級を基に対空噴進弾等を追加した対空巡洋艦、駆逐艦はオリジナルの十センチ両用砲単装五基、機関砲は二十ミリ三連装八基、魚雷発射管は四連装二基、他に二十五連装ロケットやイギリスから輸入した対潜迫撃砲を二千七百tに纏めた汎用駆逐艦、軽空母は高速護衛空母とも言える一万トンの艦載機三十六機を搭載可能な軽空母、そして潜水艦は史実のUボートXXI型の機銃を取り除き、より高性能な英国製ソナーを搭載した潜水艦を建造予定だった。来るべき太平洋での対米戦に備え台湾、ニューギニアの要塞化も推し進められた。台湾には五つの飛行場と三ヶ所のレーダーサイトと一ヶ所の飛行艇基地を設ける予定だ。北東、北西、中央、南東、南西の内南東と中央、北東は戦略爆撃機も離着陸できる飛行場にする予定だ。勿論改革は続いた。九三式酸素魚雷を改良し、誘導装置を取り付けた。イギリスの宮本から送られたパソコンだが産業用エネルギーのための火力発電所から電気を引いた。発電所は天然ガスを両シベリアから輸入するので特に問題は無かった。高橋是清は引退してつぎに大蔵大臣に池田勇人を置いた。詳しくはまだ話してなかったが大日本帝国の政治体制だが天皇陛下が勿論トップでその下に俺が務める総統、その下に内閣があるという構図だ。ドイツから輸入したテレビは一昨年に生産が始まっており経済発展スローガンは
『全ての家庭にテレビと自動車を!』
であった。重工業の発展と産めよ増やせよ政策、税制の整備に戦時国債の返済と大蔵大臣に一任してしまったが池田は見事な手腕で解決していった。戦時に破壊された物を修理した車両や余剰車輌等は積極的に民間へと払い下げられ、テレビも街頭テレビの普及と国によるプレゼント計画等も相まって国民にテレビをなじませた。それから積極的なセールスやテレビ局の開局も支援し、テレビ局は国立放送局、同盟放送局、日本テレビの三局が作られた。同盟放送局は日本の主導で同盟でもテレビ普及への動きがあるのでそこでの公共放送だ。この世界では全員日本語が話せるのでやりやすい。24時間体制も確立された。ニュースや天気予報の他最初の放送は先の大戦の勲章授与式だった。新しく制定された桐紋勲章、菊花国家英雄章が授与された。山下奉文、岩本徹三、赤松貞明、加藤建夫、安藤重彦らが授与された。陸海空軍は勿論、海兵隊、特殊作戦軍もこれらテレビや映画を通じてプロパガンダや人材募集を行っていた。そんな中バルカン同盟がギリシャに宣戦したのは1943年3月だった。ハンガリー、ルーマニア、ボリビアをまとめたのはこの間の戦争で領土をギリシャに奪われたユーゴスラビア政府だった。生徒会副会長の傳法谷とバルカン三国に固まった女子の仲良し三人組が師匠と呼ばれる男子生徒の統治するギリシャに攻め込んだ。学年2位の師匠とその東、学年三位の女子である鈴木が元首のトルコが対抗した。只の局地戦ですめば良いのだが大国の利権が絡むと厄介になる。世論が新日のトルコを守るべく日本がギリシャに増援を送る用意を整えると亜細亜西太平洋同盟もまとまった兵力派遣を決定。同盟結成以来初のまとまった軍事行動でこの戦いによって恐らく今後の同盟内での発言力が決まるだろう。派兵しないのは論外なため全国が派兵を決定、日本軍は簡単に土さえあれば築けるという最新兵器、へスコ防壁を投入した。縦横幅ともに150センチ、高さ、210センチの蓋と底がない箱が五個数珠繋ぎになったものでこれを並べて壁を作るのだ。最初は実験を兼ねてフィンランド訓練兵の所に送られたが至近距離での手榴弾、小銃は勿論のことアメリカからフィンランド軍に供与された75mm榴弾砲の二キロ先からの直撃にも耐えてみせた。ギリシャ領となったスコピエにて日本から輸出されたへスコ防壁こと日本名二式簡易防壁2セットに守られた17ポンド対戦車砲がルーマニア軍のM3リー中戦車五両を撃破してルーマニア軍の侵攻を食い止めていた。M3から発射された榴弾は全て二式簡易防壁に阻まれた。弾薬不足でそこの砲座は放棄されたが機密防止のためそこの防壁は破壊された。五月には日本空軍が指揮をとり満州、インド、オーストラリア、中華民国、タイの航空隊がアテネについた。整備と訓練を繰り返しているさなかB17フライングフォートレスを装備したルーマニア空軍はアテネへの戦略爆撃を仕掛けてきた。それに対抗したのは正式採用から1ヶ月、生産開始から2ヶ月のMe262戦闘機こと三式局地戦闘機火龍だった。ただし、ドイツで冷遇されていたハインケル技師を招き、前輪式の車輪配置や圧縮空気による射出座席の装備を搭載した。四個分隊16機が配備された。初陣はアテネ上空でのこと、五月十二日である。この日来襲したのはB17六〇機と護衛のP40四〇機、計百余りの編隊だ。迎撃に上がったのは日本空軍の火龍一六機、満州国空軍の二式戦闘機飛燕二一型三十機、オーストラリア空軍のタイフーン八機である。飛燕二一型は機関銃を12・7mm六丁から二〇ミリ四門に換装した局地戦闘機でタイフーンはイギリスのスピットファイアMk IXeのオーストラリア名だ。指揮官は樫出勇少佐で火龍に搭乗していた。更に遅れてタイ陸軍航空隊の九九式戦闘機隼が離陸して上昇したが高空性能の無さにより泣く泣く帰投せざるを得なかった。上空に迎撃地点に入った時爆撃機より二千m上に位置していた火龍は爆撃機を狙って急降下を開始した。上空に間に合わなかったタイフーンと飛燕は敵編隊横を上昇した。
「行け!」
照準環に先頭を進むB17を収めると降下しながら三式空対空噴進弾の発射レバーを引いた。翼が振動して八本の近接信管付きロケットがルーマニア編隊のど真ん中に突っ込んだ。ドムドムとロケットが爆発した。他の仲間も突っ込んだ。ロケットで編隊を乱すと更に突っ込んで三〇ミリ機関砲を乱射した。樫出が狙いを付けたのは先頭の機体だった。しっかりと照準すると操縦桿の上についている機関砲の発射ボタンに親指を乗せて押した。曳光弾が敵の左内側エンジンに吸い込まれて左内側エンジンが爆発した。そのまま樫出は急降下するが勇敢なのか馬鹿なのかP40がついてきたのだ。高度6千で来襲した敵編隊を攻撃し今は高度五百も無いくらいだ。P40は未だに1千ちょいと言ったところか。反転急上昇すると左エンジンから異音が聞こえてきた。三式局地戦闘機のエンジンはジェットだが信頼性にやや欠けていた。
「クソ!火龍隊樫出より基地へ、左発動機が不調を起こした。燃料も漏れ始めている。緊急脱出する。」
「こちら基地管制塔、樫出大尉、了解した。直ちに陸軍を差し向ける。」
「ありがたい。」
無線を切ると緊急脱出レバーに手を掛けた。風防を開けて射出座席で脱出した。パラシュートが開くとそれに揺られて地上へと向かう。地上に着くとアテネ市民に防空壕へと入れられた。
「日本軍の方ですか。」
樫出は頷いた。彼等は樫出の飛行服に着いている旭日旗で見分けたらしい。
「ご苦労様です。」
労われた。直後面で聞き覚えのあるドイツ製88mm高射砲が撃ちあげられた。
「日本軍万歳!」
アテネに上陸した日本軍を歓迎するアテネ市民、正直な所このバルカン戦争は伊仏米と日独英の代理戦争と化していた。アメリカ製の航空兵器とイタリア製の火砲を使用する敵と日本製とドイツ製の航空兵器、ドイツ製の火砲、日本の戦車とイギリス艦隊の援護を受けたギリシャである。それを象徴するのがこの間行われたレウカ沖海戦だろう。イギリス地中海艦隊の巡洋戦艦レパルスがイタリア戦艦ローマと遭遇、互いに砲撃しながらアテネ方向までレパルスが撤退した。お互い一発も命中しなかったが英伊間の緊張は高まった。アメリカからイタリアへ送られる物資を地中海の入口であるジブラルタルで臨検して通さなかった。英国は更に地中海が戦闘海域に入ったと表明した。これにより西のジブラルタル、東のスエズの双方を持っているイギリスは完全に地中海での交通を牛耳れた。アメリカはこれに対しフランスを通じて陸路でイタリアに物資を送った。俺はどちらかというとこの戦争に余り乗り気では無かった。何故ならソ連戦で国力を疲弊させていて次の対米戦に国力を備えさせたかった。台湾南端のガランビには金剛級から取り外された三六センチ砲連装六基十二門の対艦砲台が置かれた。予想される米軍の上陸に対し台湾防衛の為の地上部隊兵力は陸軍四個歩兵師団、二個重砲兵旅団、二個機甲旅団、三個独立重戦車大隊、海軍はガランビ砲台部隊、海兵隊一個師団、空軍高射砲二個師団となっていた。司令官は栗林大将、彼は常駐している陸軍の工兵師団に頼み込み地下陣地の設置を急がせていた。理由は今のところまだ台北の地下司令部のみしか構築が終わってないことだ。米軍の上陸予定地を嘉南平原と定め、そこから台北に至るまで四重の防衛線を敷いた。機甲兵力以外は基本地下に潜らせた。豊富なコンクリートを使わせて各壕の連絡地下通路も作られた。これらには兵員移動用のレールが引かれ電気トロッコが配備された。弾薬は米軍上陸から三ヶ月の戦闘が可能な量の弾薬が備えられ、食料も全員が四ヶ月食べられるだけの常備食料と一ヶ月分のインスタント味噌汁と缶詰が用意されていた。只、これらの食料は減らされず、毎週届く食料を積極的に消費することで備蓄をしていた。年明けの元旦演説で1944年の4月1日から女性の軍隊入隊を許可した。勿論産児休暇、育児休暇、女性用の隊舎が認められた。彼女たちには通信科、輸送科、事務科の職業を用意していた。これらに女性を使うことで男性兵士をより前線に送れるのである。第二次軍事改革もあらかた終了していた。




