第71話:一ノ瀬保奈美
「ただいまー」
玄関の扉が開く音に、私は急いでリビングから顔を出した。
スーツ姿の直也さんが、どこか照れくさそうに笑いながら、手にしていた封筒を取り出す。
「これ、今日もらった新しい名刺だ」
差し出された名刺を、両手で受け取る。
そこには見慣れない肩書が印刷されていた。
『AIデータセンタープロジェクト統括進行管理室長』
――室長?
よく分からないけれど、凄そうだということだけは伝わってきた。
「普通はね、十年とかかかって、やっと室長補佐クラスに上がれるくらいなんだ。だから例外中の例外だよ。同期の連中も祝ってくれたけど……正直、心穏やかじゃないだろうし、いろいろやりにくくもなると思う」
困ったように笑う直也さん。
胸がきゅっと苦しくなる。
――そんな。出世したのに辛い思いをするなんて。むしろイヤだな。
けれど、次の言葉が私の心を少し柔らかくした。
「でも……これで収入は大幅にアップするらしい。だから、生活は少しは楽させてあげられると思う」
私は慌てて首を横に振った。
「い、今だって全然楽です!」
本当にそう思っている。
私は生活費を封筒に小分けして、食費、日用品、予備、としっかり管理している。家計簿アプリにも全部入力して、なるべく翌月に繰り越せるように頑張ってきた。
直也さんの収入が増えるなら、その分は――基本的に貯金しよう。
「例えば、将来の子どものために」なんて頭をよぎってしまった。
自分の顔が真っ赤になったのが分かる。
――何を考えているの、バカバカ!
そう義妹として、
お義兄さんに将来何があっても良いように備える。
その為の預金です。
――今から子どもとか、ありえないから!
ごまかすように慌ててカバンを開き、友達にコピーしてもらったノートを広げる。
※※※
今は期末試験直前。
直也さんのために休んだ数日分、必死に取り返さなきゃならない。
マーカーを走らせながら、教科書とノートを睨みつける。
「大丈夫か?」
隣から声がする。
顔を上げると、直也さんが自分のノートパソコンを閉じて、こちらを覗き込んでいた。
昇進に伴って更に忙しくなると思うけれど、今一時は余裕があるらしい。
「オレのせいで学校休ませちゃったからね……だから頑張ってもらわないと」
「全然、大丈夫です」
思わず強く言い張ってしまう。
すると直也さんは、小さく笑ってノートを覗き込んだ。
「じゃあ、ちょっと見てやろうか」
その言葉に、胸が温かくなる。
――勉強を見てもらうなんて、久しぶりになっちゃったな。
英単語と例文を一緒に口にしたり、数Ⅰの公式を教えてもらったり。
私はペンを握りしめながら、ちょっとだけ勇気を出した。
「……あのね」
「ん?」
少し迷ったけど、思い切って言葉にした。
「まだまだ勉強しなきゃいけないけど……目標として、水道橋女子大の生活科学部を目指したいなって、思ってるの」
ペンを置いて、顔を上げる。
直也さんが驚いたように目を丸くした。
次の瞬間――嬉しそうに笑ってくれた。
「いいじゃないか! そうか。すごくいいと思うよ。生活科学ってオレもあまり詳しくないけれど、家政も栄養も住居も、全部を人の暮らしのために考える学問領域だよね? 義妹ちゃんは料理も上手だから、その分野を追求していくのも良いと思う」
胸がいっぱいになった。
「応援するよ。……目標をしっかり持てたのなら、あとは、英語と数学をもっと頑張らないとね」
少し茶化すように言われて、私は思わず笑ってしまった。
「うん。頑張る」
リビングのテーブルの上に、私のノートと直也さんのノートパソコンが並んでいる。
違う世界のもののはずなのに、不思議と隣り合っている光景が、なんだか未来を先取りしているようで――胸がほんのり熱くなった。
――私はここから始める。
直也さんの隣で、私も私の夢を叶えていくんだ。




