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第62話:一ノ瀬保奈美

 台所に立ちながら、私はシンクの横に開いた「魔法のレシピ帳」を見つめていた。

 ――“風邪をひいた時の直也用特製お雑炊”。

 そこには、母さんが残してくれた丁寧な文字が並んでいる。


 普段は京風の薄い味を好む直也さん。

 けれど、風邪の時は鼻が効かなくなってしまうから、少し濃い目に味付けすること。

 鰹節をたっぷり使ってだしを濃く引き、卵は溶いて流すのではなく、あえてゆっくり煮込む。

 そして――とろみをつけるために吉野葛を加え、醤油で味を整えた濃厚な“あん”を最後に雑炊へとかける。


 ページの端には小さなメモが残っていた。

 ――「風邪で食欲がなくても、『おいしい、おいしい』とおかわりをしてくれた」


 母さんが直也さんに食べさせてあげていた、その時の記録。

 私は震える指先でページをなぞりながら、必死で再現しようと鍋をかき混ぜた。


 鍋から立ちのぼる湯気は、鰹節の深い香りと生姜の温かさが混じり合って、部屋全体を包み込んだ。

 ――よし、できた。


 直也さんがリビングの布団の中で身じろぎするのが見えた。

 起きたみたいだ。


 私は急いで鍋ごと持ち運び、寝床の横に膝をついて御椀によそった。

 そしてスプーンに一口分をすくい、フーっと息を吹きかけてから、そっと彼の口元へ運んだ。


「……ああ」


 直也さんが小さく目を見開いた。

 熱いものを飲み込んだ直後、頬を伝う涙が光った。

 リビングに居る会社の方々や莉子さんも驚いて見ている。


「コレだ……。昔、母さんが作ってくれたのと同じだなぁ。懐かしいなぁ……」


 嗚咽まじりにこぼれたその声に、私の胸がいっぱいになる。

 母さんの想いを、少しでも繋げられたんだと思うと――涙が出そうになった。


「自分でやるよ」

 直也さんは照れくさそうに言ったけれど、私は首を横に振った。


「ダメです。これは、私の役目だから」


 もう一度スプーンをすくい、フーっと冷まして、彼の口へと運ぶ。

 その動作を繰り返すたびに、彼の表情が少しずつ和らいでいった。


※※※


 気づけば時計の針は夜七時を指していた。

 直也さんがテレビをつけるように言う。


 リモコンを手にして画面を点けると――いきなりトップニュース。

 「エコエネルギーによるAIデータセンター、五井物産主導のJV発表」


 まさに直也さんが関わってきたプロジェクトが、テレビのニュースで大きく取り上げられていた。

 背広姿の役員たちが並び、記者のフラッシュが眩しく光っている。

 五井物産の社名、経産省の後押し、そして世界を巻き込んだ“エコAI”の未来――。


 私は思わず息をのんだ。

 ――こんなにすごいお仕事を、直也さんはしていたんだ。


 横で静かにニュースを見つめる直也さんは、不思議なくらい冷静だった。

 体は弱っていても、その眼差しには迷いがない。


 私は、熱い雑炊の湯気の中で、胸の奥がじんわりと震えるのを感じていた。

 ――私にとって直也さんは、お義兄さんである以前に、一番大切な人なんだ。

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