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第60話:一ノ瀬保奈美

 ――信じられなかった。


 学校の職員室に呼ばれ、人事部からの連絡を受けた瞬間。

 「お義兄さんがオフィスで倒れて、病院に向かったという連絡がありました」

 その言葉が、何度頭の中で反響しても、現実だと受け止められなかった。


 足が震えて、声にならなかった。

 先生の「今日は早退して構わない」という言葉に頷くのが精一杯で、涙で前が見えなくなりながらカバンを掴んで走り出した。


 校門を飛び出すと、もう涙が止まらなかった。

 息が荒くなっても、嗚咽で胸が苦しくても、ただ一心に駅に向かって走った。

 電車で移動中も何度も直也さんの携帯に電話をかける。けれど、コール音は空しく途切れるばかりで繋がらない。


 「どうして……どうして出てくれないの……!」


 最寄り駅に到着する。

 直也さんには連絡が繋がらない。

 頭の中が真っ白になりながらも、ふと気づいた。

 ――自宅からそう遠くない、あの病院。

 以前、私も風邪で診てもらったことがある。

 もしかしたら、そこに――。


 私は走り出した。


 病院の角を曲がった瞬間、玄関口から出てくる姿が見えた。


「……直也さん!」


 叫んだ。

 その場に膝から崩れ落ちそうになった。


 マスクをつけ、処方袋を握りしめた直也さんの姿。

 顔色は青白く、足取りはふらついていたけれど――確かに、そこに生きていた。


 「よかった……よかったぁ……!」


 胸に込み上げる嗚咽を抑えられず、涙で言葉にならなかった。

 直也さんが驚いたようにこちらを見て、そして苦笑してくれた。

 それだけで、全身の力が抜けてしまいそうだった。


 ちょうどそこに莉子さんも駆けつけてきた。

 莉子さんの実家のお店が近くなのですぐ気が付いたみたいだ。

 彼女が「一緒に連れて帰ろう」と声をかけてくれて、私はただ必死に頷いた。


 直也さんはもうフラフラなので、莉子さんと私で左右から支える。

 三人でなんとか自宅へ戻り、直也さんをリビングへ。

 直也さんには寝間着に着替えてもらい

その間に私は布団を敷いた。

ようやく横になってもらう。


 額に触れると、熱い。

 熱は三十八度を超えていた。

 処方袋の中には抗生剤と解熱剤。

 診断書には――「重度の気管支炎。肺炎併発」とはっきり記されていた。


 震える指で氷嚢を作り、額に当てる。

 冷たさに身じろぎした直也さんは、それでも薬の効果か、やがて浅い眠りについた。


 その寝顔を見つめながら、胸が痛くて仕方なかった。

 ――こんなになるまで無理をしていたなんて。

 私はもっと強く止めるべきだったのに。


※※※


 「じゃあ、また夜にでも来るわ」

 そう言って莉子さんは一度帰っていった。


 リビングに残された私は、布団の傍に座り込んだ。

 静かな寝息。小さな咳。

 その一つひとつが怖くて、でも、愛しくて。


 氷嚢をそっと握り直しながら、頬を伝う涙を拭った。

 ――直也さんは私が守る。

 そう、強く心に誓った。

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