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第59話:一ノ瀬直也

 ITセクターフロアに戻った瞬間だった。

 視界がふっと揺れ、足元から力が抜けるようなめまいに襲われた。

 壁際に手をついて、何とか姿勢を保つ。

 ――ダメだ。もう限界だ。


 すぐに直属の部長と課長が駆け寄ってきた。

「一ノ瀬。よくやったな」

「まさか、ここまで一気に進んだのはお前あっての事だ。本当に大したもんだぞ」


 称賛の言葉。

 本来なら誇らしいはずなのに、頭の奥がぼんやりして、うまく感情が動かない。


 課長が腕を掴み、低い声で言った。

「……すぐに病院に行け。これは業務命令だ。診察を受けて処置してもらえ。しばらくは休養に専念しろ」


 机の引き出しからタクシー券を取り出し、オレの手に押し込む。

「自分の足で帰ろうなんて思うな。タクシーで直行しろ」


 亜紀さんと玲奈が「私たちが付き添います」と声を上げた。

 けれど、部長が首を横に振る。

「君たちは業務を続けなさい。一ノ瀬が休養できるよう、社内外の調整を引き受けるのが君たちの役目だ。……ここまでの状況を一番把握できている2人が居なければ、一ノ瀬も安心して休めないぞ」


 二人は悔しそうに唇を噛んでいた。

 けれど、オレはその想いをありがたく胸に受け止めて、軽く頭を下げた。


 エレベーターを降り、タクシーに乗り込む。

 人事部から「ご家族にはこちらで連絡しておきました」と言われた。

 どうやら保奈美の学校に連絡がいったらしい。胸の奥で申し訳なさがじわりと広がる。


 車窓に流れる街並みは、霞がかかったように滲んでいた。


※※※


 自宅近くの病院。

 幼い頃から診てもらってきた先生の前に座る。

 体温計、血中酸素濃度計……数値を見た瞬間、先生の顔が険しくなった。


「直也くん。何をやっているんだ。血中酸素が90を切ってる。コレは普通なら即救急だぞ。こんなになるまで、どうして病院に来なかった」


 叱責の言葉に、返す言葉がなかった。

 ただ「すみません」と掠れた声を出すのが精一杯だ。


 すぐに点滴が打たれた。抗生剤だろうか。

 息が少しずつ楽になるのを感じながら、先生の説明を聞いた。


「かなり重症の気管支炎だ。放っておけば肺炎になるところだった。幸い、まだ自宅療養で済む。だが、少しでも呼吸が苦しくなったらすぐに来なさい」


 処方箋を受け取り、薬を手にする。

 病院の自動ドアを抜けると、夕暮れの空気が肺に重くのしかかった。

 鞄を握る手が震えている。


 ――やっと、ここまで来た。

 でもまだ終わりじゃない。

 体はボロボロだが、頭の奥では次にやるべきことが、まだ休むことを許してくれない。


 それでも今は――この一時は休ませてもらうしかない。

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