第57話:新堂亜紀
――ついに、この日が来た。
五井物産本社、最上階の大会議室。
天井まで届くガラス窓の向こうには、秋晴れの東京の街並みが広がっている。
いつも見慣れているはずの景色なのに、今日は特別に鋭く、煌めいて見えた。
この場所で、五井物産としての正式な機関決定が下されるのだ。
投資委員会での概略了承を経て、今日は実質的にはセレモニーに近い。
けれど、この場には資源セクター、ITセクター、経営企画、財務、リスク管理の幹部たちが顔を揃え、そして代表取締役社長までもが直々に臨席していた。
社運を懸けたプロジェクトだと、誰もが理解している。
長机の中央に座る社長が、静かに、けれど会議室全体を揺らすような重みで口を開いた。
「――このAIデータセンターおよび地熱発電プラント建設に関わるJV。
本件について、五井物産は正式に参画する。総投資規模五千億円。
ことここに至っては、全五井物産グループをあげて、なんとしても成功に導く」
その言葉が落ちた瞬間、空気が震えた。
普段は沈着冷静な役員たちが、わずかに表情を引き締め、互いに頷き合う。
総合商社だからこそ実現できる――壮大で、かつ社会的意義をも内包するプラン。
この短期間で条件を整え、関係者をまとめ、国をも動かしてここまで持ってきたのは――間違いなく、直也くんだ。
社長が視線を彼に向け、ふっと微笑む。
「一ノ瀬君。何と言っても君がよくやった。……胸を張っていい仕事だ」
続けて統括取締役も言葉を添えた。
「君がいなければ、ここまでのスピードで動くことは絶対に不可能だった」
その一言に、会議室の中でさらに熱が高まった。
直也くんは席を正し、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます」――声は掠れていて、最後に小さな咳が混じった。
私は、その横顔を見つめていた。
胸が締め付けられる。
誇らしいのに、同時に苦しい思いが混じってしまう。
国を動かした彼を、目の前で見ているのに――その身体は明らかに限界に近づいている。
頬は青白く、目の下には隠せない疲れの影。
咳を押し殺しながら、それでも堂々と立ち続ける姿に、私は震えるほどの感情を抱いていた。
――正直、惚れ惚れする。
これほどのスケールで会社を動かし、国を動かし、世界に挑もうとしている人を、私は他に知らない。
入社してまだ数年の若手が、ここまでもって来るなんて――誰が想像できただろう。
でも私は知っている。
その裏で、どれだけ睡眠を削り、体を痛めつけながら資料を作り、会議を突破してきたのかを。
そして、誰にも見せない孤独と、重圧を抱えていることを。
――理性では、私は彼の仕事を尊敬し、同僚として支え続けるべきだと思う。
けれど女として、私の心は、ただそれだけでは収まらない。
守りたい、抱きしめたい、失いたくない。
その気持ちは、もう抑えきれないほどに膨れ上がっていた。
「……一刻も早く休ませなくてはならない」
胸の奥でそう呟きながら、私は握りしめた拳をそっと膝の上でほどいた。
お偉いさんたちのセレモニーは、これで十分だ。
次に必要なのは――直也くんを病院に連れて行くこと。
彼はきっと「まだやることがある」と言うだろう。
ステークスホルダーへの連絡、経産省との再調整、海外との情報共有――やるべきことはいくらでもある。
でも、今この瞬間だけは違う。
誰よりも、彼の身体を守れるのは、私なんだ。
会議室を出る背中を見つめながら、胸の奥で静かに誓った。
――直也くん。あなたは五井を動かした。国を動かした。
もう動いた。だからもういいの。
私はあなたという一人の人を守りたい。
私は今ハッキリと自分の心がどこにあるのか理解した。
私は、あなたの隣を歩く。
それが、私の未来だ。




