第55話:一ノ瀬保奈美
――まだ、咳が止まらない。
薬を飲んでいるのに、夜になると特にひどくなる。
そんな直也さんを見ているのは、本当に苦しい。
料理で支えるのも限界がある。
もちろん、消化が良くて身体を温める献立を工夫し続けているけれど――それだけでは足りない。
むしろ「どうしてもっと早く病院に行ってくれないの」と詰めたくなる気持ちすらあった。
でも、そんなことを言ってしまえば、彼の心と身体に余計な負担をかけてしまう。
だから――できる事を全部やって、支えるしかない。
「もう少しでしばらく休めるようになる」と言っていた直也さんを、信じて。
私は調べに調べた。
ネットで「咳に効く漢方」を検索して、評判を見比べて。
――そこで出会ったのが「麦門冬湯」。
昔から咳止めに使われてきた処方らしい。
思い切って薬局で買ってきて、説明書を何度も読み返した。
さらに気になったのが、クーラー。
6月に入ってから使い始めたけれど、掃除をしないまま利用している。
まさか、それが咳の原因になっているんじゃ……。
そう思った瞬間、私は手を動かしていた。
スマホで「クーラー 分解 掃除 初心者」と検索して、動画を何本も見て。
カバーを外し、フィルターを取り出し、ブラシと布で少しずつ。
内部に溜まっていた黒い汚れや埃が、ぞっとするほど出てきた。
「これが……」
背筋が寒くなる。こんな空気を直也さんに吸わせていたなんて。
こんな状態で送風すれば家じゅうにほこりが舞うだけだ。
作業を終えた頃には腕も腰も痛くなっていたけれど、心は少しだけ軽くなった。
さらに、部屋全体をキョダイソンで徹底的に吸い取り、布巾で家具も拭き上げた。
リビングの空気が、ようやく“澄んだ”気がした。
夜。
夕飯の片付けを済ませた私はリビングに布団を敷いた。
「え、何やってるの、義妹ちゃん?」
驚く直也さんに、私は真っ直ぐ言った。
「……ここで寝ます」
「いやいや、自分の部屋で――」
「ダメです!」
気づけば涙が頬を伝っていた。
「夜中に直也さんが咳き込んでる音が聞こえて心配で、別々の部屋じゃ眠れないんです……。直也さんに何かあったら、私は……本当に、一人ぼっちになっちゃうよ……」
嗚咽まじりに絞り出した言葉に、直也さんは一瞬黙り込んだ。
そして、観念したように息をついた。
「……分かった。じゃあ、今夜はここで一緒に寝よう」
その言葉に、胸の奥の不安がようやく少し溶けていった。
麦門冬湯と、掃除した空気と、私の願い。
どうか――直也さんの咳が、少しでも和らぎますように。
※※※
翌朝。
ふと目を覚ますと、隣で寝ている直也さんの呼吸が昨夜よりもずっと穏やかだった。
咳き込みも少なく、寝顔は静かで優しい。
「……よかった」
胸の奥からこみ上げるものがあった。
気づけば涙が頬をつたっていた。
でも、それは昨夜の不安の涙ではない。
少しだけでも直也さんが楽になっている――その安堵の涙だった。
「もう少しで……休めるんだよね」
小さく呟いて、布団の端を直也さんの肩にそっと掛け直した。




