第54話:谷川莉子
夕暮れの街路に、提灯の灯りがぼんやりと揺れていた。
実家の酒屋の店先で、私は腕を組んで待っていた。
――今日は、絶対に見逃さない。
数日前、偶然帰宅する直也を見かけた時、咳き込む姿があった。
それが、頭から離れなかった。
あの人は、無理をしている時ほど「大丈夫だ」って笑ってしまう人だから。
そして今、ゆっくりとした足取りで、直也が姿を見せた。
ネクタイは少し緩んでいて、顔色もどこか青白い。
「……また無理してるでしょ?」
声をかけると、直也は苦笑して頷いた。
「あと少しなんだよ。社内の決定と、JV調整が終われば、あとはセレモニーだ。お偉いさんが並べば格好がつく。オレはしばらく休める。……だから、もうちょっとだけ辛抱すればいい」
そう言うけれど――。
本当に、その「もうちょっと」が身体を壊すんじゃないの?
胸の奥で、ため息が漏れそうになる。
「保奈美ちゃんは……どうしてるの?」
思わず尋ねると、直也は少し表情を曇らせた。
「泣かれたよ。『オレにもしものことがあったら、一人ぼっちになっちゃう』って。あれだけは本当にこたえた」
「……そう」
胸がぎゅっと痛んだ。
あの子が、どれだけ直也のことを想っているのか、分かってしまう。
それでも直也は押し通すしかないのだと、分かってしまうから余計に苦しい。
直也はふっと笑って続けた。
「でもな、先日……咳を抑える料理とかジュースを作ってくれたんだ。大根としょうがと梨で、ネットで調べて作ったらしい。あれが結構効いて助かってる」
その言葉に、思わず唇を噛んだ。
――保奈美が、そんなことまで。
直也のために、一生懸命になって。
心配する気持ちは、私だって同じなのに。
けれど私は、こうして店先で待ち構えて声をかけるくらいしかできていない。
「……保奈美ちゃん、やるじゃない」
そう口にしたものの、胸の奥ではざわつきが消えなかった。
直也のことを心配している気持ちは、私だって同じだ。
でも私は、こうして帰り道を待ち伏せして声をかけるくらいしかできない。
食事を作ってあげたり、生活を支えてあげたり――それは、同じ家に住んでいる保奈美にしかできない役割だから。
分かってる。
分かってるけど、悔しい。
私は笑顔を作って、少し肩をすくめた。
「じゃあ……今度は私も考えないとね。直也に効く“酒屋ならではの特効薬”を」
「特効薬?」
「そう。地元の蜂蜜酒とか、生姜酒とか……お湯で割れば身体が温まるもの、いっぱいあるんだから」
冗談めかして言ったけれど、その奥には本気があった。
私だって――保奈美に負けないくらい、直也を支えたい。
昔からずっと、そばにいたんだから。
直也は少し驚いたように笑って、「頼りにしてるよ」と言ってくれた。
その一言が、心に小さな灯をともす。
……でも同時に、切なさも募る。
――結局、私の立場は“幼馴染”。
正当すぎて、当たり前すぎて、だからこそ一番届きにくい場所。
街灯に照らされた直也の背中を見送りながら、私は胸の奥で小さく拳を握った。
「それでも……私は負けないから」




