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第34話:一ノ瀬保奈美

 机に広げたノートの上で、鉛筆の先が止まった。

 リビングには直也さんのキーボードを叩く音が響いている。いつもの夜の風景。

 でも――今日は、なかなか集中できない。


 「未来をあきらめない」

 あの日、直也さんが私にそう言ってくれた。

 その言葉が胸の奥でずっと鳴り響いていて、どんな英単語を書いても、すぐに頭の中でその声が蘇ってしまう。


 母と二人だけで暮らしていた頃は、大学なんて全然考えていなかった。

 高校を出たら働いて、家計を支える。それが当たり前の未来だと思っていた。

 でも今は――「将来のことを考えろ」と言われている。


 ……だけど。

 私の“進みたい道”ってなんだろう?


 頭に浮かぶのは、白いエプロンを着けて「おかえりなさい」と笑っている私の姿。

 隣にいるのは直也さんで、疲れた顔をしながらも微笑んでくれる。


 「……っ」

 頬が熱くなり、両手で覆った。

 「な、何考えてるの私……」

 義妹なのに。家族なのに。

 でもその光景は、どうしても胸の奥から消えてくれなかった。


 ただ――ひとつだけ、確かに思うことがある。

 料理を美味しく作れるようになるだけじゃ足りない。

 直也さんは毎日忙しい。健康のこと、栄養のこと、安全な食材の選び方。

 そういうことまでちゃんと分かる人にならなきゃ、心から支えてあげられない。


 「……そういうこと、勉強できる場所ってあるのかな」

 ぽつりと呟いて、ハッとする。

 大学とか、専門の学校とか――。

 そんな場所に自分が行くなんて、考えたこともなかった。


 夢というにはまだ遠すぎる。

 でも、直也さんに「未来をあきらめるな」と言われて初めて、自分の中に芽生えた“未来のかけら”。

 それは、ただの憧れでも思いつきでもなく、切実な気持ちから生まれたものだった。


 横でパソコンに向かう直也さんが、真剣な眼差しで資料を睨んでいる。

 ――この人の隣にふさわしい自分でいたい。


 まだ輪郭はぼんやりしているけれど、その未来は確かに、胸の奥で輝き始めていた。


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