第22話:一ノ瀬保奈美
料理の基礎をちゃんと身に着けよう――そう決めたのは、焼きリンゴのことがきっかけだった。
あのときの直也さんの涙。あの魔法のノートをただの「宝物」として眺めているだけじゃなくて、本当に活かすには、私がちゃんと料理できるようにならなきゃいけない。
ネットで色々と調べてみて分かったのは、「ベターマイホーム」の料理本が基礎を学ぶには一番の近道だということだった。レビューも高評価で、「初心者でも安心」「一冊で一生モノの知識」とまで書かれている。
私は迷わず購入。数日後、宅配で届いたその本を胸に抱えたとき、ちょっとだけ冒険の入り口に立ったような気がした。
直也さんの家の台所は、少し古めの設計だ。シンクもコンロも、最新式のシステムキッチンと比べたらだいぶ前のもの。
でも――そこに並んでいた道具たちは、どれも驚くほど立派だった。
銅の鍋に、鋳物のフライパン、そして重厚な出刃包丁や柳刃包丁。
聞けば全部、直也さんのお母さんが使っていたものだという。
だけど、全然手入れされないまま時が過ぎてしまったのだろう。包丁の切れ味は悪く、鍋の表面は少し黒ずんでいた。
「これは……使えるようにしないと」
そう思った私は、まずは道具の手入れから始めることにした。
包丁を研ぐなんて、もちろん初めてだ。
動画サイトを開き、砥石に水を含ませ、角度に気をつけながら刃を当てる。
シャッ、シャッ――と、ぎこちない音がキッチンに響く。
最初は手が震えて上手くできなかった。
でも何度も繰り返すうちに、刃先が少しずつ光を帯びていくのが分かった。
「……できた!」
まるで自分の手で魔法をかけたような気分だった。
鍋もフライパンも丁寧に磨き直す。
布巾で拭き取っては、ピカッと光る表面を見て小さくガッツポーズ。
「お母さん……大事に使っていたんだな」
そう呟いたとき、胸の奥がじんわりと温かくなった。
道具が整えば、次は料理そのものだ。
まずは「ベターマイホーム」の最初のページにあったカレー。
玉ねぎのみじん切りに四苦八苦しながら、涙をぽろぽろ流しても、なんだか楽しかった。
人参、じゃがいも、牛肉を炒め、ぐつぐつ煮込んでルーを溶かす。台所に広がるカレーの匂いに、思わずお腹が鳴った。
帰宅した直也さんに早速食べてもらう。
「コレ、すごく本格的な味だね。どうやって作ったの?」
「それは秘密でーす!」
美味しそうに食べてくれたし、おかわりをしてくれたので大成功。
次は肉じゃが。
「家庭料理といえばこれ」と書かれていたから挑戦してみたけれど、醤油とみりんの分量を間違えてしまい、最初はちょっとだけ辛いものになってしまった。
でも食べられないことはない。メモして次は絶対に成功させようと決めた。
これは流石に直也さんには出さなかった。
味を少し薄めて自分で全部食べた。
卵焼きも、甘いのとだし巻きと、両方試してみた。
最初はやっぱりぐちゃっと崩れてしまったけど、菜箸の使い方を工夫したら、少しずつ「卵焼きっぽい」形に巻けるようになってきた。
直也さんがオフィスに出社する日の朝ご飯に甘い卵焼きを急いで用意。
喜んで食べてくれたので大成功。
毎日が、ちいさな挑戦の連続だった。
包丁を握る手に力を込めて、ぐつぐつと煮える鍋の音を聞く。
少し焦がしたり、塩を入れすぎたりして、がっくりすることもあった。
でも――。
台所がきれいになって、道具が整って、料理の匂いが漂うこの空間は、なんだか「家」というより「私の居場所」になっていく気がした。
「ベターマイホーム」の本と魔法のレシピ帳を開いては、「次はこれに挑戦しよう」とページをめくるたびに胸が高鳴る。
――直也さんに、美味しいって言ってもらいたいな。
その一心で、私は少しずつ新しいレパートリーを開拓していった。




