第20話:一ノ瀬保奈美
六月の休日、私は一人で書棚の整理をしていた。
古い文庫やアルバムの奥から、一冊の小さなノートが出てきた。
くたびれた布の表紙。端はすり切れていて、文字は少し色褪せている。
開いた瞬間、息が詰まった。
――料理のレシピ帳。
直也さんのお母さんのもののようだ。
ページの端々には、料理名と材料、そして簡単な作り方。
その横に、小さな文字で「直也、今日はおかわりした」とか「少ししょっぱいと言われた」なんて、子どもへの反応が丁寧に書き込まれていた。
胸の奥がじんわり温かくなった。
――これ、私にとって魔法のノートだ。
ここからなら、直也さんの「好き」が分かる。
けれど、いきなり全部作れるわけじゃない。
私にはまだ、料理初心者の腕しかないから。
ぱらぱらとページをめくっていくと、一つだけ強調されているレシピが目に入った。
《焼きリンゴ(紅玉)》
「直也、大好物」――そう赤いインクで書かれていた。
紅玉。
酸っぱくて固い、普段はあまり食べられない青森のリンゴ。
それを丸ごと焼き上げて、バターと砂糖で甘さを引き出すお菓子。
私は迷わなかった。
すぐにスマホを手に取り、青森産の紅玉を探して注文した。
収穫期は秋だけれど、今の時期でも少しだけ出回っているらしい。
数日後、届いた赤いリンゴを見て胸が高鳴った。
学校から帰ると同時に台所へ向かい、ノートの通りに手を動かす。
芯をくり抜き、中にバターと砂糖を詰めて、オーブンへ。
甘酸っぱい香りが漂い始めたころには、もう心臓がバクバクしていた。
その日の夕食後。
直也さんに向かって、私は小さく笑って言った。
「今日は……特別にデザートがあるんです!」
「へぇ、何かな?」
そう言って見守る彼の前に、小さな耐熱皿を置く。
――焼きリンゴ。
直也さんは一瞬、固まった。
スプーンでそっと果肉を割り、口に運ぶ。
次の瞬間。
「……美味しいなぁ」
その声と同時に、彼の目からと涙が流れていたのだ。
これまで直也さんが涙を流す姿を私は見たことがなかった。
義父と母が亡くなった時も号泣している私の横に静かに佇んでくれていた。
葬儀の際も喪主としてずっと冷静に対応していた。
大人の男性だから泣くことが無いのかなと思っていた。
―その直也さんが泣いている。
私は驚いて、思わず両手で口を覆った。
けれど、込み上げてきたのは自分の涙だった。
直也さんだって、高校生のときに母親を亡くしている。
――私と同じなんだ。
母親の喪失感を、ずっと抱えて生きてきたんだ。
「……直也さん」
涙を拭いながら呼んだ名前は、震えていた。
直也さんは慌てて笑顔を作ったけれど、その頬は濡れたままだった。
胸の奥に、強く、確かな思いが芽生えた。
――私が、この人を守る。
母を失った孤独を知っているからこそ、分かる。
直也さんに二度と孤独を感じさせないように、私がずっとそばにいるんだ。
焼きリンゴの甘酸っぱい香りが、静かな夜のリビングに広がっていた。
涙で視界がにじみながらも、その温もりだけは確かに胸に残っていた。
―この日から、この料理のレシピ帳は、私の一番大切な宝物になった。




