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第142話「三十人の僕と龍将のため息」~幻術後日談~

龍族と人間の軍勢がぶつかりかけた事件は、どうにか収まった。

幻術の蜃気楼が晴れたあと、山岳地帯はまるで祭りの後のように静まり返り、冷たい風が細く渓谷を抜けていった。


「……いやあ、死ぬかと思ったよ」


ツムギが積み荷の上にへたり込み、両手をぶらんと投げ出した。

しかし、その表情にはどこか達成感もある。


「僕も、正直、あの幻術は避けたかったんですけれど……避けても避けても別の僕の幻が出てきまして。途中から“増える僕”は見なかったことにしました」


「えぇ……増えたの!?」


「三十人ほど」


「多すぎ!何してんの!?」


「全員、丁寧にお辞儀してましたね……あれ、なんの嫌がらせだったんでしょう」


ツムギはお腹を抱えて笑い転げる。

まあ、ギャグになったなら良いか、と僕は苦笑した。


――それにしても。


頭の片隅に、どうしてもひっかかる気配があった。


幻術が解けた瞬間、龍将の背に、なぜか“謝罪”の気配がちらりとよぎったのだ。

あの龍族の将が……謝るとは。


龍将は、渓谷の端で腕を組み、何か言いたげにこちらをちらちら見ている。

明らかに気にしているが、近づいてはこない。あれは話しかけるべきなのか、そっとしておくべきなのか……。


ツムギが肘で僕をつつく。


「高道、あれは呼ばれてるでしょ。ほら、さっきから“こっち見てください”の目してるよ?」


視線をやると、龍将と目が合った。

龍将は、慌ててそっぽを向き、岩に落ちていた小石を“まるで重要な宝物のように”拾い上げた。


……呼ばれている。たしかに。


「では、行ってきます」


「がんばれ〜!」


「龍将さま、何か……」


言いかけたところで、龍将はガバッと頭を下げた。


「すまぬ!!!!」


叫び声が渓谷に反響し、鳥たちが一斉に飛び立つ。

ツムギが遠くで「ひゃっ!?」と叫び、荷台から転げ落ちた。


「い、いえ、もう誤解も解けましたし……」


「違う!そなたの幻が三十人に分裂した件だ!あれは我が心の動揺が投影されてしまったのだ。悪かった!」


「ああ、いえ。みんな丁寧だったので……」


「礼儀正しいかどうかの問題なのか……?」


龍将はがっくり肩を落とした。


ここまで落ち込んでいるとは。

それほど今回の誤解が負担だったのだろう。


「……龍将さま。ちなみに、どうして幻術を?」


「む……」


龍将は珍しく視線を泳がせた。


「そなたが“あの祈りは感謝の言葉です”と言った時……わ、我は……」


「……?」


「我は、あれほど長い間、怒りに燃えていたというのに……“ただの誤解”と知った瞬間、どう向き合ってよいかわからなくなったのだ」


龍将の声はかすかに震えていた。


――なるほど。


「龍将さま、それは“防衛的投影”という心理の働きです」


「ぼ、ぼうえいてき……?」


「人は、恐れや不安を自覚したくない時、自分の外に投げてしまうんです。だから、相手が悪い、相手が呪っている……そういう形にすることで、不安の正体を見ずに済むんです」


龍将はハッと目を見開く。


「……では、我は……?」


「本当は、怖かったんですよ。“自分が間違っていたらどうしよう”と」


龍将の肩がびくりと震えた。


「だ、大きな龍が……怖がっていたのか……?」


「大きいからこそ、噂を立てられたくないのは同じなんですよ」


しばらく沈黙が落ちた。

渓谷の風の音だけがゆっくりと流れる。


やがて、龍将は大きく息を吐き、恥ずかしそうに頭をかいた。


「……そなた、よく見抜けたな」


「僕は“ことのは堂”の人間ですから。心と言葉は、いつもセットで飛んでくるんです」


「ふ……ふははは……そうか!」


龍将の笑いは山を揺らすような大声だった。


「たしかに、孫子にもある。“己を知り、敵を知らば、百戦危うからず”と。だが己を知るのは……む、案外、難しいものだな」


「ええ。だから僕がいます」


「ふはは!言うではないか!」


龍将はようやくいつもの威厳を取り戻し、その大きな爪で山の石を軽々と砕いた。

……いや、これはちょっと怖い。笑顔のまま砕かないでほしい。


「ところで龍将さま。幻術のとばっちりで、僕の“増える幻”……残っていませんよね?」


「うむ。全員消した」


「全員……?」


「ひとり、片付けに抵抗して土下座した幻がいたがな」


「なんで僕の幻はそんなに律儀なんですか!?」


「知らぬ!」


ふたりで苦笑いし、渓谷に笑い声が響いた。


人間側の将軍もこちらに歩いてくる。

険悪だった両軍の空気は、すっかり霧が晴れたように和らいでいた。


「高道殿、今回は世話になった。……いや、我らの誤解がすべての始まりであったわけだが」


「いえ、誤解は誰の身にも起きます」


僕が軽く会釈すると、龍将が腕を組んだ。


「龍将よ。次は互いの祈りの言葉を、間違いなく翻訳することだな」

朧丸が警告する。


「ああ、今度は専門家を通そう。高道殿、また頼むぞ」


「喜んでお受けいたします」


ツムギが荷台からひょこっと顔を出し、


「もう戦いは終わり?じゃあさ、ご褒美に龍将さまの背中に乗せてくれない?」


「だ、大胆な!」


「いいでしょ?一瞬だけ!あ、落としても泣かないから!」


「乗せんわ!」


龍将が慌てて拒否し、ツムギが追いかけ、高道は腹を抱えて笑い始める。


渓谷に、不思議とあたたかい風が流れた。



こうして、山岳地帯の争いは終わった。

僕らはヨイノの国への帰路を再開する。


背後では、龍族と人間がぎこちなくも握手を交わしている。

最初は敵、次は誤解、そして今は少しの笑い。


――言葉ひとつで争いは始まり、言葉ひとつで終わる。


その事実を改めて胸に抱きながら、僕は筆筒を握り直した。

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