13◆ いざ北へ(7)
1年以上ぶりなので再度ご注意を。
後日談は【ジャンル:恋愛】です。
――やばい、本当にやばい。
俺は頭を抱えている。
俺の隣では、俺に凭れ掛かってすやすや寝息を立てているトゥイーディア。
この状況の全てがやばい。
俺は揺れる馬車の中、唇を噛んでぎゅっと拳を握り締め、車輪が回転する振動に意識を集中した――
俺たちがモールフォスの町を出発したのは五日前のこと。
当たり前だがめちゃくちゃ惜しまれた。
何人か泣いてる人もいた。
トゥイーディアは苦笑しつつ、「今生の別れってわけじゃないんだから」と言っていたが、世双珠がなくなった以上、大陸を跨ぐ長距離の旅など、人生に一回出来るか出来ないかだ。
だからまあ、これがトゥイーディアの最後の帰郷になるということも、十分に有り得る。
ゆえにトゥイーディアは十分に時間をかけて皆さんと別れの挨拶をしてから、ミドーの親父さんの馬車でモールフォスを出発した。
ちなみにだが最初は、「港まで送ります」というのがミドーの親父さんの提案だった。
が、これは全力で辞退した。
確かに汽車がなくなった今、馬車で送ってもらえるというなら大変有難いが、しかし相当の長距離、日数もかかる旅程になってしまう。
往復となれば猶更で、今の情勢を踏まえると、道中で何があるかわかったものではない。
俺やトゥイーディアが一緒にいる往路はともかく、復路でミドーの親父さんに何かあれば大事だ。
トゥイーディアがこの先一生、「ミドーの親父さん、大丈夫だったのかな……」と思いながら過ごすことになるかも知れない。
というわけで、遠慮というには鬼気迫る勢いで俺とトゥイーディアが厚意を辞退し、しかしなぜかそれで、ミドーの親父さんから疑うような目で見られた。
俺が。
なんでだ。
トゥイーディアは何か思うところがあったのか、ちょっと赤くなっていた。
可愛いけどなんでだ。
俺がひたすら怪訝そうにしていると、トゥイーディアは急速に真顔になっていたが。
というわけで折衷案、ミドーの親父さんが、「他に馬車が見つかりそうな所まで送ります」と言ってくれた。
俺とトゥイーディアが協議の上、このご厚意は有難く受けることにして、そしてあれよあれよと「じゃ、僕も行く」「あ、私も」といった具合で、それまでの同道者が集まった。
まあ、復路を考えると、複数人がついて来てくれるのは有難い。
というわけで、わいわいと馬車に揺られたこと一日で、上手い具合に、アーヴァンフェルンで最初に乗り込んだような乗り合いの馬車を発見した。
ここがオールドレイ地方で良かった――「ここにいるのはリリタリス卿の愛娘のトゥイーディアである」と名乗るだけで、どうぞどうぞと馬車への同乗が許された。
馬車の中でも下にも置かぬ扱い、有難いがすげぇ目立つ。
俺がこの髪色で正体が露見する危険があることを考えてか、トゥイーディアは俺から周囲の目を逸らすべく、全力で愛想よく振る舞っていた。
すごく嬉しいしすごく有難いんだけど、トゥイーディアが眩しいまでに可愛くて、俺は馬車内の他の男を殺気立った目で睨んでしまった。
トゥイーディアが健気に頑張ってくれても、明らかに彼女の連れである俺はそれなりに目立つ。
母娘連れの同乗者(どうやら、仕事の都合で遠出をしている最中に世双珠が消えてしまった夫――娘さんから見れば父親――と合流するため、この馬車に乗っているらしい)に、「お嬢さまの護衛ですか?」と尋ねられた。
俺はちょっと考えたが、まあ、「婚約者です」と馬鹿正直に言ってしまっては、せっかくトゥイーディアが俺から目を逸らそうと頑張ってくれているのに、俺が注目を集めかねない。
とはいえ、トゥイーディアの藤花の髪飾りが婚約の贈り物だということに、目敏い人は気づいているかもしれないが――。
というわけで俺は、どっちつかずに頷く。
「まあ、はい」
「どちらまで……?」
「港まで出る予定ですが」
「お嬢さま、もしかして東の大陸に戻られるの?」
トゥイーディアがアーヴァンフェルンに留学した話は、結構広く知られている。
ついでに、向こうに救世主としての仲間がいることも知られているので、この推測はまあ当然といえば当然だった。
知られて悪いことでもないので、俺は曖昧に頷いた。
「その予定ではありますね……」
「あなたは?」
「えっ?」
「あなたはどうされるの?」
そりゃあ、トゥイーディアと一緒に――と俺が返答する前に、娘さんの方がぐいっと身を乗り出してきて俺の手をぎゅっと握った。
「もしかして、護衛を請け負ってらっしゃるのでは? あの、もしよければお嬢さまを港にお送りした後、私たちと一緒にいらっしゃいません?」
まあ、女性の二人旅だもんな。
不安になるよな。
――そう思いつつ、俺は苦笑い。
捲し立てんばかりの娘さんが一段落してから「すみませんが」と断ろうとしていると、唐突に隣からトゥイーディアの手が伸びてきて、ぐいっ、と俺の手を娘さんの手の中から引っ張り出した。
そして、不機嫌な様子で娘さんを見据える。
「ごめんなさい、この人、私と離れる予定はないので。ずっと一緒にいるんです」
娘さんはぱちりと目を見開いてから、恥じ入った様子で「そうでしたか……」と引き下がった。
普段のトゥイーディアなら、女性二人連れでの旅の不安に共感して、なんだかんだで同情しそうなのに、珍しいくらいに突き放した物言いだ。
意外に思いつつ、「ずっと一緒」と言われたのが嬉しい、という複雑な心境で首を傾げていると、彼女はむっとした様子で俺を見つめて頬を膨らませていた。
あ、かわいい……。
思わず目を逸らす。
直視できない。
トゥイーディアが不満そうに俺を軽く引っ張り寄せて、俺の耳許で囁いた。
「他の人に手を握らせたらだめ」
「――――」
俺の心臓が、勝手に夢見心地に入って活動を停止しそうになった。
気合でなんとか心臓を動かしつつ、俺はこくこく頷く。
思わず顔を覆ってしまったが仕方ない。
トゥイーディアの方は見られない。
ここのところずっとだ。
――拗ねた囁きの、ひそめた声音の、含羞のある響きの、やきもちの窺える語調の、なんと可愛いことか……。
そして同時に、もう本当に拙い。
何が拙いって俺はトゥイーディアに惚れているのだ。
そしてトゥイーディアも俺が好きで、やたらと可愛い顔を見せてくれるし、信頼し切った様子で凭れ掛かってきたりしてくれるのだ。
そして俺の理性は、お義父さんとお義母さんにご挨拶してからというもの、完全に馬鹿になっている。
千年以上役目のなかった煩悩が、「出番だな」とばかりに押し寄せてきている。
そして千年以上のあいだ呪いで雁字搦めだった俺は、煩悩の躱し方も殺し方も知らない。
――唇を噛み、あるいは頬の内側を噛み、必死にあれこれ気を逸らし、不埒な欲求に蓋をすることこれで四日。
本当に人目があって良かった。
助かった。
でなければ割とやばかった。
胸を撫で下ろすこと、更に一日。
――ここで馬車はいったん停まった。
理由は幾つかあって、まず第一に天候が崩れたからだ。
強くはないが根気強い雨が降って、かなり寒い。
そして、馬車に缶詰状態が幾日も続いているとあって、ここで無理して進み続ければ、体調を崩す人も出て、結局それが集団の足を引っ張るだろうと判断された。
そしてちょうど、まだしも秩序がありそうな、大きな町に辿り着いていたということもある。
さてその町で、宿を探して方々を回る。
意外にもと言うべきか、町は世双珠がないなりに秩序を取り戻しつつあり、宿の確保は難なく進んだ。
そして確保された宿のうち、かなり高級宿に類される方の宿に、「リリタリス卿の娘さんですから!」ということでトゥイーディアが通される。
そして彼女は当然のように俺を伴う。
――あれ?
夕方、雨脚が強くなるなか通されたのは、どっしりと構えた高級宿の一室。
俺にとっては非常に有難いことに暖炉もあり、暖炉の前には寝そべり椅子。
床には色褪せつつある赤い模様の絨毯。
天井は少し低い――そして目を凝らせば、一面に、徐々に摩耗しつつあるとはいえ、複雑な彫刻が施されていることが見て取れた。
通りに面した壁に大きな窓があったが、まさか人を入れることになるとは思っていなかったのだろう、窓には鎧戸がしっかりと閉じられている。
耳を澄ませば、雨の音が聞こえてきそうだった。
窓台には空っぽの花瓶。
窓がある壁と直角を成す壁に寄せて、寝台が一つ。
寝台横のサイドテーブルには水甕が乗っていて、宿の裏に井戸があるので、水はご自由に、ということらしい。
――うぅん、これは。
ついでに宿の厚意で、もう着る人がいなくなったらしい部屋着を貸し出してもらえた。
有難く着替え、ついでに軽く身を清めたりしつつ、俺は結構ピンチである。
色々と込み上げるものがあり唇を噛む。
寝そべり椅子に座り込み、こっそり深呼吸しつつ、甦ってくる出発間際のカルディオスの講義を振り払う。
そうこうしているうちに隣にトゥイーディアがやって来て、足を伸ばせる解放感ゆえか、満面の笑みでぎゅっと俺に抱き着いてきた。
解かれた蜂蜜色の髪が頬を彩っている。
長旅の後のはずなのに、いい匂いがするのはどういうことだ。
無邪気に抱き着いてくるトゥイーディアを抱き締め返しつつ、俺は目を瞑って落ち着こうとする。
しかしなかなか難しい。
トゥイーディアの素敵な温かさと柔らかさが、暴力的に意識を浚っていこうとする。
これはまずい……。
取り敢えず落ち着くため、頭の中に兄貴のレイモンドを召喚した。
レイが生温い笑顔で、「まあ、頑張りなさい」と言ってくる。
なのにその後ろに呼んでいないチャールズがいて、拳を振って「やっちゃえ!」と言ってきた。
待て。何をだ。
無責任なことを言うな。
俺はなんとかトゥイーディアから身を離した。
純真無垢にきょとんとするトゥイーディアに胸が痛い。
こんなに清楚なトゥイーディアに、俺はなんていうことを考えているんだ。
俺は目を逸らしつつ、微笑んだ。
ちょっと顔が強張ったかもしれない。
「――疲れただろ」
トゥイーディアは曇りなき笑顔で応じてくれた。
「きみといるから全然平気よ」
「…………」
トゥイーディアがちょっと眉を寄せて(愁い顔もかわいい)、俺の頬にほっそりした指先を触れた。
飴色の瞳が長い睫毛の下から、注意深く俺を見ている。
俺は自分が赤くなるのを自覚した。
「きみは疲れたかな……」
トゥイーディアが呟き、俺は首を振った。
「いや、大丈夫。大丈夫だけど、今日は早めに休もう。俺がカウチで寝るから、おまえは寝台を使って」
「えっ」
「な?」
もはや懇願するような語調になった。
トゥイーディアはぽかんとしていたが、すぐに探るように俺を見た。
俺の疲労の度合いを推し量っているのかもしれない。
が、トゥイーディアが俺の視界の中で元気にしているうちは、俺の調子が悪くなりようがないので心配無用だ。
俺が押し切って、その夜はトゥイーディアが寝台で、俺が寝そべり椅子で休んだ。
とはいえ妙に意識してしまって、俺はずっと寝返りを打っていた。
そしてそのことに俺は凹んだ。
俺はちょっとおかしくなってしまったのかもしれない。
◆◆◆
翌朝も雨は続いていた。
馬車が出てしまって、俺たちが置いてけぼり――などということになればちょっと面倒なので、馬車に同乗していた人を捜して町を歩く。
敷石の凹みの水溜まりを跳び越えるトゥイーディアが、彼女の身の軽さからすれば絶対に必要ないのに、お道化て俺の腕に掴まる。
可愛い。
天使だ。
トゥイーディアの周囲にだけ陽が射しているような明るさ。
天使が空に帰ってしまうと大変なので、俺は彼女の手をぎゅっと握っておくことにした。
細々と食料品を売っている店に同乗者数人がいた。
これ幸いと話を聞くに、天候も回復しないし、休みたいし、物資も補給しなければということで、少なくとも明後日まではこの町にいるらしい。
マジか……。
食事を済ませ、しとしとと雨が降る中ではあったが、俺とトゥイーディアは町を散歩した。
この町は荒んでいる様子はなかったが、それでも商店街には、陳列窓が叩き割られた店も散見された。
世双珠が消えたその直後は、やっぱり混乱に襲われたらしい。
割れた陳列窓から店の中を覗き込むと、どうやらそこは元々宝飾品店だったらしい。
荒らされた様子のある店内に、トゥイーディアがきゅっと唇を噛む。
俺は無言でトゥイーディアの手を引いて、そこから離れた。
この町の人とも擦れ違ったが、例外なく、「見ない顔だな」という風に振り返ってじろじろと見られた。
やはり、余所者は排斥されこそしないが、歓迎もされない。
町の人に無用の不安をまき散らしたいわけではないので、俺たちは早めに宿に退散したが、久々にゆっくり足を伸ばせて嬉しかったのか、トゥイーディアは明るい顔を見せてくれた。
午後になると雨も止み、弱々しいながらも日差しが射し始めた。
トゥイーディアががたつく鎧戸を開け放して窓を開け、宿の部屋の空気を入れ替える。
風が吹いて、トゥイーディアの蜂蜜色の髪が靡く。
窓から身を乗り出すトゥイーディアを後ろから見守って、俺は馬鹿みたいにうっとりとその光景を眺めていた。
夕方にまた宿を出て、適当に食事を済ませて戻って来る。
トゥイーディアは髪を解き、寝そべり椅子に腰掛けて、火を入れた暖炉の前で素足をひらひらと閃かせている。
可愛いが目の毒だ。
俺はトゥイーディアの隣に座ることさえ躊躇って、窓を眺めてぼんやりしている。
空はもうとっぷりと暮れて、雲も多く真っ暗だ。
窓硝子に、あかあかと燃える暖炉の火と、その前にいるトゥイーディアの姿が映り込んでいる。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音が聞こえてきて、なんともいえず平和だ。
と、不意に、トゥイーディアがこっちを向いて、ちょいちょい、と手招きして俺を呼んだ。
「――ルドベキア」
俺は振り返り、ついでに帳を引いてから、トゥイーディアの方に歩み寄った。
緊張を隠して微笑む。
「おう、どうした?」
トゥイーディアは小首を傾げ、俺をじっと見つめた。
暖炉の炎が飴色の瞳に映って煌めいている。
白い頬にもちらちらと炎の影が踊る。
ややあって、小さく息を吸い込んだトゥイーディアが、俺に向かって両手を伸ばした。
俺は思考停止した。
トゥイーディアが、恥ずかしそうな小声で言った。
彼女の頬がほんのり赤い。
「――馬車酔いしちゃった。寝台まで連れてって」
は?
「――。……!?」
俺の思考が、停止を超えて逆回転した。
一瞬、マジで一瞬、俺は気を失ったかもしれない。
これまでの人生経験を掻き集めて正気を保ち、俺は怒濤のように、「トゥイーディアには他意はないかもしれない」と己に言い聞かせつつ、辛うじて返した。
「……そんな遅効性の馬車酔いがあるかよ」
そう言いつつも、俺は屈んでトゥイーディアを抱き締め、そのまま彼女を抱き上げた。
溜息を吐きつつ、トゥイーディアを寝台まで連れて、そっと座らせる。
それからなんだか遣り切れなくなって、俺も彼女の隣に腰掛けた。
ぎゅう、と彼女を抱き締め直し、蜂蜜色の髪を撫で、その肩口に額を載せて、俺は完全に愚痴の口調で囁く。
「――あのさあ、トゥイーディ」
「なあに?」
俺はもういちど溜息を吐き、ぎゅっと目を瞑って、とうとう呟いた。
「……頑張って我慢してるのに、こういうことを言われると、もう誘われてるようにしか思えないんだけど」
「――えっ?」
トゥイーディアが驚愕の声を発し、俺から身を引いた。
俺は自分が真っ赤になっていることがわかる。
赤くなりつつ、照れ隠しというか負け惜しみというか、自分でもよくわからない心理でトゥイーディアを睨むと、彼女は目を丸くしていた。
そして、ぽかん、と呟く。
「……我慢……?」
俺は居た堪れずに目を逸らす。
声は自然と小さくなった。
「なんだよ……」
「我慢してたの……?」
トゥイーディア、頼むから、その心底びっくりした声をやめてくれ。
どうやら彼女は、俺が清廉潔白で鉄の理性を持っている人間だと思っていたらしい。
その期待を裏切ってしまって、俺は今にも身悶えしそう。
そうだよな、下心を持たれてたとか嫌だよな、だけど仕方ないじゃん、俺はトゥイーディアが好きで、トゥイーディアも俺を好きだって言ってくれてて、かつトゥイーディアがこれだけ魅力的なんだから……。
が、ぱちくり、と瞬きしたトゥイーディアは、俺の予想の斜め上のことを言い出した。
「えっ、あの、二人旅になってから随分経つけど……」
「うん……」
いや、ご両親へのご挨拶を終えるまでは、俺だって下心を持ったことはなかったんだよ、と言いたくてトゥイーディアの顔を見ると、彼女はますます赤くなっていた。
そして、そっと言葉を続けた。
「全然――本当に全然、そういう雰囲気にならないから、てっきり、私に全然魅力がないか……」
「そんなわけないだろ……!」
「ルドベキアはそういうことに全く興味がないのかなって……」
「あるに決まってんだろ……!」
情けないことを呻く俺。
トゥイーディアは真っ赤になって俺から目を逸らし、「そっか……」と、何やら噛み締めるように呟いた。
それから、トゥイーディアはそっと俺に凭れ掛かってきた。
俺の心臓がいよいよ、限界まで激しく打ち始めた。
トゥイーディアが、はにかんだ上目遣いで俺を見つめた。
こいつは俺を殺す気かな。
「――えっと、誘ってみたんだけど、どうかな」
「――――」
俺は束の間、冷静極まりない瞳でトゥイーディアを見てしまった。
トゥイーディアが耳まで赤くなって俯く。
「――――!」
直後、俺も何を言われたのか悟った。
瞬間、なんだか泣けてきた。
――初めて出会った人生で、俺とトゥイーディアの間にあった関係は、温かくて幸せなものではあったけれど、何ら名前をつけることが出来ないものだった。
それから先の人生でも、俺はずっとトゥイーディアのことが好きで、好きで好きで堪らないからこそ冷淡に接することしか出来なくて、抱き締めることはおろか手を握ることさえ出来ないままだった。
その間もずっと、俺は何千回も何万回も恋に落ち、どんどん彼女のことを好きになり、盲目的なまでに愛してしまって、目が眩むばかりで、それなのに彼女のどんな些細な仕草にも気づいて慕情が重なるばかりで――
トゥイーディアはずるい人だ。
仕草ひとつで俺を幸せにして、言葉ひとつで俺を振り回す。
トゥイーディアが気持ちを一つ向けてくれる度に、俺は十もの気持ちでそれを待ち詫び、喜び、もっともっとと乞うている。
もしも気持ちの重さが時間を留めるものであれば、トゥイーディアは永久に同じ一瞬から抜け出せないままでいるに違いない。
それほどに。
俺は息を吸い込んで、慎重にトゥイーディアを抱き締めた。
トゥイーディアがおずおずと抱き締め返してくれる。
俺は眩暈を堪えるために目を瞑った。
「……いいの?」
トゥイーディアがこくこくと頷く。
が、彼女の身体が強張って、微かに震えていることに気づいて、俺は身を引いて眉を寄せた。
「――怖い? 嫌だ?」
トゥイーディアが俺のことを好きでいてくれている以上、俺になら許してもいいかも、と思ってくれることはあるだろう。
だが、同時に、やっぱり嫌だ、となる一瞬があっても不思議ではない。
というより、トゥイーディアの気の迷いにつけ込んでしまった結果として嫌われるくらいならば、熟慮に熟慮を重ねたトゥイーディアに受け容れてもらった方が何倍も嬉しい。
なので数回程度は断られてもいい。
これまでの千年の苦渋に比べれば可愛いものだ。
が、トゥイーディアはふるふると首を振った。
そして、つっかえながら囁いた。
「う――ううん。初めてだから、緊張して……」
俺は深呼吸した。
何か他のことを考えようと思ったが、トゥイーディアの伏せられた睫毛の繊細さが頭の中を占拠した。
俺が表情をお留守にして、いっそ茫然とトゥイーディアを見つめていると、トゥイーディアがちょっと目を上げて俺を見た。
「ルドベキアは?」
「え?」
「初めて?」
窺うように尋ねられて、俺はむしろ怪訝に思いつつ。
「……おまえが初めてなら俺も初めてだろ……」
トゥイーディアがにっこり笑った。
彼女が俺の方に身を乗り出して、おずおずと俺の唇に口づけする。
俺は目を閉じてそれに応じて、彼女の身体を抱き寄せた。
――ぱきっ、と小さな音がして、俺は目を覚ました。
眉を顰めて、微かに呻いて目を開ける。
その数インチ先にトゥイーディアの寝顔を見て、俺はぽーっとそれに見惚れた。
トゥイーディアは俺の左腕を枕にして、ぐっすりと眠り込んでいる。
閉じた瞼、伏せられた長い睫毛、規則正しい呼吸、微かに開いた唇。
頬に髪が掛かっている。
その、居心地の良さとか柔らかさとか、愛らしさとか神聖さとか、そういう概念を煮詰めて具現化したような、陽射しと雪と絹と花を混ぜて造られたような、――可愛いトゥイーディア。
左腕は動かさないようにしつつ、俺はそっと身を起こした。
帳の向こうから光が射している。
たぶん、今は朝方といったところ。
さっき俺を起こした音は、暖炉で薪が崩れた音のようだ。
周囲を見渡した目をトゥイーディアに戻す。
――夜の間のことを思い出して、俺はどうしようもなく頬を緩めてしまった。
こればっかりは仕方ない、千年越しに本懐を遂げたようなものなので。
とはいえ、トゥイーディアは痛い思いもしただろうし、労わらなければ。
というか俺、とんでもないことを色々口走った気がするんだけど、気が昂ったがための思い違いってことで大丈夫かな。
夢中になり過ぎて、世界一きれい、だの、めちゃくちゃ可愛い、だの、信じられないくらい好き、だのと口走った、ぼんやりした記憶がある。
トゥイーディアを辟易させていたらどうしよう。
トゥイーディアの寝顔をぼんやりと見つめながら、俺は考える。
トゥイーディアの目が覚めたら、まずは体調を気遣って、痛いところはないか訊いて、それから――
トゥイーディアが微かに呻き、こちら側に寝返りを打った。
毛布がずり落ちて肌が露わになる。
俺が毛布を引っ張り上げてやったとき、トゥイーディアの目がふっと開いた。
俺の魂がそっちに持っていかれた。
直前に考えていたことが、全部頭から飛んだ。
しばらくぼんやりしていたトゥイーディアの表情が、徐々に恥ずかしそうなものに変わった。
めちゃくちゃ可愛い。
俺は笑み崩れてしまう。
もし本当に神さまなんてものがいるなら、トゥイーディアにこの世の奇蹟を注ぎ込み過ぎたことに気づいて、取り立てに来るかもしれない。
神さまなんてのがいなくて良かった。
トゥイーディアがあわあわと自ら毛布を引っ張り上げ、顔を隠そうとするのを押し留め、俺は囁いた。
「――トゥイーディ、イーディ、ディア。愛してる。心から。ずっと」
トゥイーディアは真っ赤になった。
眼福すぎてどうしよう。
「……わ、私も……」
俺は色々と耐えかねてトゥイーディアの蟀谷に口づけし、それからはっと我に返った。
慌てて尋ねる。
「か――身体は大丈夫? 痛いところとか、気持ち悪いところとかない?」
トゥイーディアが小刻みに頷く。
「だ――大丈夫。すごく、あの……素敵だった」
俺は速やかに昇天しそうになったが、今この状況、死んでいては勿体ない。
ぐっと堪えて身を起こす。
トゥイーディアももぞもぞと起き上がった。
片手は胸元で毛布をしっかりと押さえ、もう片方の手で蜂蜜色の髪を恥ずかしそうに梳いている。
慎ましくてむしろ興奮するが、今は朝。
我慢を自分に言い聞かせ、俺は放り出していたズボンを穿いた。
早く隠さないと色々ばれることがあるので。
トゥイーディアがもじもじしている。
俺は「ちょっと待ってて」と囁いて、サイドテーブルの上の水甕に手を伸ばした。
手巾を一枚、昨夜のうちに駄目にしていたので――さすがに長旅の途中なので、最後までしたら拙いことはお互いわかっていた――、もう一枚を手に取って、水にくぐらせて絞ってから、俺はトゥイーディアに向き直った。
身体を拭ってあげようとすると、彼女が毛布の中に逃げ込もうとしたので、「怪我させてないか心配だから」と宥め賺して落ち着いてもらう。
敷布に血痕があり、俺があからさまに動揺したときは、トゥイーディアの方が俺を宥めて安心させてくれた。
名残惜しいが身支度を整える。
俺の方が先に衣服を身に着け終えて、顔も洗った。
頭を冷やさなければと思い、がたつく窓を開け放つ。霧雨混じりの風が吹き込んできて、寒さに俺は身震いしたが、狙い通り頭は冷えた。
そのときトゥイーディアが、「あ」と声を上げた。
俺は即座に振り返る。
「どうした?」
トゥイーディアもおおよそ身支度を終えていて、今は俺が贈った婚約の髪飾りを手に、当惑の表情で立ち竦んでいた。
一体どうした。
俺は戸惑って瞬きし――
――ひゅっ、と、息を呑んだ。
そうだった。
昨夜は綺麗に頭から吹っ飛んでいたが、俺たちはまだ結婚したわけではない。
婚姻前だった。
なのに手を出してしまった。
いや、いつぞやのカルディオスの言葉を借りるなら、「こんだけ長い付き合いで、婚姻前もクソもある?」というところではあるが。
だが、しかし――
ここにいるのは、ただのトゥイーディアではなくて、リリタリス夫妻が手塩にかけて育てた、トゥイーディア・シンシア・リリタリス嬢なのだ。
俺は息を吸い込んでからトゥイーディアに歩み寄り、おずおずと尋ねた。
「……お――おまえのお父さんとお母さん、こういうこと、めちゃくちゃ怒る?」
いや、怒るだろうな、怒るに決まってるよな、大事な一人娘だもん。
俺には親子の情はわからないけれど、さすがにこれがトゥイーディアのお父さんとお母さんの逆鱗に触れるだろうということはわかる。
俺はリリタリス卿を思い出して、彼に詰め寄られたらびびり上がらない自信はないな、と正直に思った。
「んー」
トゥイーディアの方は、「やっちゃった」と言わんばかりに悪戯っぽく顔を顰めてから、頓着しない様子で髪飾りを着けた。
鏡がなくて苦戦する様子があったので、俺が手を伸ばして手伝う。
それから、トゥイーディアは首を傾げた。
「どうだろう、お母さまがどう思われるかはわからないな」
トゥイーディアのお母さんは、彼女が八歳のときに早逝している。
俺がしゅんと項垂れると、トゥイーディアはそんな俺の顔を覗き込んだ。
「お父さまは――そうね、私がいいならいいって言ってくださると思うけれど。
ただ、責任がとられないとなると、それはもうお怒りになると思うわ」
俺は顔を上げた。
責任。
責任……?
それはなに、責任をとって腹を切れとか、責任をとって消えろとか、そういう意味……?
唐突に恐怖に襲われて、俺はトゥイーディアの腕を掴んだ。
息を詰まらせながら確認する。
「トゥイーディ、俺と結婚してくれるんだよな?」
トゥイーディアは笑い出した。
煌めき渡るようなその笑い声に、俺はきょとんとする。
笑い過ぎて息を詰まらせながら、トゥイーディアが俺の腕を叩く。
笑いを堪えて震える声を出す。
「もう、大人しく私と結婚するのを、世間一般では責任を取るっていうのよ。
結婚してくれるんでしょうねって迫るのは私の方よ。――ばかもの」
笑い含みのその一言に、俺は心の底まで参ってしまう。
というよりももう、俺は心の底をトゥイーディアに譲ってしまっている。
彼女がいないと、俺の心が成り立たないほどに。
ほっとして、俺は遠慮がちにトゥイーディアを抱き締めた。
「そういうことなら任せて、トゥイーディ。
空が降ってきたとしても、何が何でもおまえと結婚するよ」
トゥイーディアはにっこり笑った。
「きみと結婚するためなら、空が落ちてこようとしても止めてみせるわ」
「――――」
俺も微笑み、彼女の手を取り、その手背に口づけた。
俺の尊敬する、毅然たる救世主さまに敬意を籠めて。
「まあ、とはいっても、ちゃんと結婚するまではこれっきりにしようか……」
「そうね……」
となります。
◆◆◆***◆◆◆
続きがいつになるかわからないので、
またいったん完結マークをつけさせていただきます。




