10◆*いざ北へ(4)
トゥイーディアの声で、俺ははっとして目を覚ました。
目を開けると、部屋の中はすっかり暗い――真夜中で、辺りは静まり返っている。
その中で、トゥイーディアの声が聞こえる――普通の声ではなかった。
悲鳴を押し殺しているような――魘されているような。
俺は跳ね起きて、音を殺して上掛けを跳ね除け、ゆっくりと動いて寝台のふちを探り、床に足を下ろした。
夜目は利く方だと自負しているが、さすがに寝起きでこうも真っ暗だと、何も見えない。
硬い、ささくれのある床が足裏に触れる。
夏らしい、肌に纏いつくような暑さで、この床も冬に触れれば飛び上がるほど冷えるのだろうが、今は昼間に吸い込んだ熱を、ゆっくりと吐き出していっているような温かさがあるのみだった。
ここは港町ケレインの宿である。
トゥイーディアの里帰りに当たって、帆船を待つあいだに泊まっている宿で、古いが清潔で、主人もいい人だった。
今はすっかり閑古鳥が鳴いてしまっているのか、提示された宿代が大変お安かったのも俺とトゥイーディアを喜ばせた――何しろ旅費には限りがある。
――ティリーから、レイヴァスに渡る船があるということを聞き、ぜひとも彼女のご両親に結婚のご挨拶(結婚のご挨拶!)をさせてもらいたいということで、俺とトゥイーディアは一も二もなく、船が出るケレイン港に向かった。
一方ディセントラは、さすがにそこまでは付き合えない――何しろ、ここからシェルケへとんぼ返りしなければ、下手をすればコリウスが出してくれる迎えと擦れ違ってしまうことになりかねないのだ。
そんなわけで、ディセントラはめちゃくちゃ俺たちを心配したし、俺たちは俺たちで女の一人旅となるディセントラを挙動不審になる程度には心配したが、双方合意のうえ、俺たちは領都で別れることになった。
俺たちがディセントラをあんまりにも心配したということと、ティリーの側にも彼女は救世主だという認識があるので、どうやらディセントラの復路には、侯爵家が数人の護衛をつけてくれるらしい――良かった良かった。
むろん、護衛の皆さんが無事に家に帰れるのかという懸念は残るが、スワン公爵家の紋をつけた厳ついおじさんたちである。
ディセントラが一人でシェルケに無事に帰還するよりも、彼らが無事にシェルケまでの道程を往復できる可能性の方が高かろう。
ついでに馬車も貸してくれるということで、トゥイーディアは一時見せていたかわいらしいやきもちはどこへやら、ティリーに熱く感謝を述べていた。
ティリーは公爵令嬢らしく鷹揚にそれを受けつつも、内心ではドン引いていることがよく分かる顔をしていた。
そして、あれこれありつつもケレイン港に辿り着いたのが三日前――船が出るのは二日後とのこと。
港に係留された堂々たる帆船を見て、港の人たちはもの珍しそうにしていたが(だって蒸気船が主流だったからね)、俺もトゥイーディアも、どっちかというと懐かしさの方を強く覚えていた。
なんたって、前回までの人生では帆船に乗っていたもので。
床を踏んで、慎重にトゥイーディアの寝台の方に移動する。
婚姻前なので、当然ながら寝台は別である。
宿を取るとき、寝台二つの部屋か、あるいは別々の部屋がいいと申し出たところ、宿のご主人には三回くらい訊き返されたが。
以前までなら、こういうときは、無意識のうちに灯火を点していたものである――今も、じゃっかんその誘惑がないわけではない。
だが、それはしてはいけないことで、こんなところでその禁を破ってしまったときには、俺はみんなから袋叩きにされ、父さんには会わせる顔がなくなる。
そんなわけで暗闇の中、半ばは手探りで、俺はトゥイーディアの寝台にまで辿り着いた。
そこまで行き着くころには、目も慣れてきた――それに、トゥイーディアの寝台のそばには丸い窓があって、そこから月光が射し込んできている。
トゥイーディアは明らかに魘されていた。
額まで掛け布を引っ張り上げているので顔が見えないが、呻き声が上がっているし、苦しげに身じろぎしているのが分かる。
息遣いも荒い。
俺はそうっと寝台の隅に腰かけて、彼女を起こすべきかどうか、しばしのあいだ考え込んだ。
ためしに彼女の蜂蜜色の頭にそっと掌を置いてみたが、トゥイーディアが気付いた様子はない。
どうしようか……ただ夢見が悪いだけで、すぐにまた眠れるなら、このままでいいと思うんだけど……。
そのとき、トゥイーディアが呻いた。
今度ははっきり言葉が聞き取れた。
「――お父さま……」
俺は息を呑み、即座にトゥイーディアの肩を揺すり、掛け布を引き剥がして、彼女の頬をぺしぺしと叩いた。
「トゥイーディア。トゥイーディ、起きて」
肩を揺すりながら声を掛ける。
トゥイーディアが、小さい頃にお義父さんに叱られているところを夢に見て魘されているのならば、その夢を邪魔するのはたいへん心外だが、万が一、彼女がお義父さんの末期を夢に見ているならば、その夢の中に彼女を置いておくわけにはいかない。
あれから色々あった――本当に色々あって、彼女は幸せそうな顔を見せてくれるようになった。
それでも、何もかもがなかったことになるわけがない。
あの出来事の全部が、彼女の心に癒え難い傷を残していないはずがない。
トゥイーディアが呻いた。
俺は更に強く彼女の肩を揺らす。
「トゥイーディ。トゥイーディア、起きてくれ」
ん、と呻いて、トゥイーディアがゆっくりと目を開ける。
震える淡い金色の睫毛、潤んだような飴色の瞳。
彼女の目が泳いで、一瞬現状を把握できなかった様子で茫然としてから、すぐに俺の顔に焦点が合った。
彼女が息を呑む。
俺はほっとして微笑み、トゥイーディアを抱き起こした。
反射だろうが、トゥイーディアがぎゅっと俺のシャツの胸元にしがみ付いてくる。
ぽんぽん、とトゥイーディアの頭を撫でて、俺は言った。
「ごめん、トゥイーディ。俺、目が覚めちゃって。
ちょっと話し相手になってよ」
◆*◆
「ごめん、トゥイーディ。俺、目が覚めちゃって。
ちょっと話し相手になってよ」
ルドベキアはそう言った。
月明かりの中で彼が微笑んでいる。
私の背中に彼の手が回されていて、非常に距離が近い――ちょっと近過ぎるくらいには。
ちょっと寝癖がついたままの漆黒の髪は、部屋の中の暗闇に今にも溶けていきそう。
シャツが少し皺になっていて、胸元が開いている。
暗い中にあって、今は夜の海の色になっている瞳が、この上なく優しく、気遣うように私を見つめていた。
――ルドベキアは、ときどき優しい嘘を吐く。
それは例えば、他の誰かの責任をそっと誤魔化して自分に矛先を向けたり、あるいは誰かが気を遣わせて恐縮しているときに、あたかも自分も都合が良かったかのように言い繕ったり――そういう嘘だ。
私はそれをよく知っていたし、そういうところも好きだったし、けれども彼の、そういう優し過ぎるようなところが心配でもあった。
そして今、ルドベキアはその優しさを私に向けている。
私が一度たりとも自分に向けられることはないだろうと思っていた優しさを、しかもその最上級の部分を。
――息を吸い込む。
ルドベキアが、私をわざわざ起こしてくれたことは確実だ。
夢を見ていて……その夢が……
「トゥイーディ」
あたかも私が夢の記憶を辿ろうとしたのが分かったかのように、ルドベキアが私を呼んだ。
私ははっとして瞬きする。
ルドベキアが小さく首を傾げて、その仕草だけで、私は自分が悪夢から守られるのを感じる。
「ごめん、起こしたの怒ってる?」
私は慌てて首を振る。
ルドベキアに抱き締められているような体勢なので、もぞもぞと動いて自力で座る。
ルドベキアの隣で寝台に腰かけて、私は鼻を啜って、呟いた。
「――ありがとう、ルドベキア」
「何が?」
あっさりと言って、ルドベキアはにっこりと笑って私の顔を覗き込んだ。
現金にも、私は悪夢の名残がその笑顔で溶け消えようとするのを感じ取った。
シェルケからスワンのご令嬢のところまでの馬車の旅で、ルドベキアは度々私を抱き締めたり、人前で平然と私を褒めたり、私に寄り掛かって眠ってくれたりもしたが、一向に慣れない、見る度にときめいてしまう彼の笑顔。
私は彼が好きで、彼の振る舞いだとか言葉の選び方だとか、そういうところを長年見ては恋をしてきた。
たぶん――というか絶対――どれだけ私が彼を好きか、それが彼に知られてしまったら、大いに彼を閉口させることになるだろう気持ちの重さで。
それに加えて最近は、彼が向けてくれるこの笑顔の中毒になりそうになっている。
私はもちろん、以前から彼の笑顔も好きだけれど、なんていうのだろう――ルドベキアが私に向けてくれる笑顔は、私の思い込みかも知れないけれど、他の人に向けるものよりちょっと甘い。
この笑顔で見つめられると、私はくらっとなってしまう――彼も分かっているんじゃないかと思う。
ルドベキアが、穏やかに、今日の食事について話している。
彼はいつかの人生で、この近所に生まれたこともあるはずだ――そのときと比べて、食事に並んだものの違いを、彼らしい言葉遣いで話してくれている。
私が――魘されて、叫んだりしたんだろうか――彼を起こしてしまったというのに、そのことに腹を立てている様子は微塵もない。
私は鼻を啜って微笑んで、頷いたり曖昧な声を出したりしながらそれを聞く。
ルドベキアの声は、低くて、笑うときに少し掠れて、聞いているだけで幸せになる特別な声だ。
私はいつの間にか彼に擦り寄っていて、ルドベキアの肩に頭を凭せ掛けながら、うん、うん、と、彼の言葉を聞いている。
なんという贅沢。
少し前までは考えられなかった状況だ。
どんな黄金も宝石も、千年に一度しか咲かない花も、この瞬間の幸福には及ぶまい。
しばらく話して、ルドベキアが私の手をぎゅっと握ると、私を促してまた寝台に横にならせた。
彼と離れ難くて起き上がろうとすると、ぽんぽん、と宥めるように頭を撫でられる。
諦めて枕に頭を預ける。
ルドベキアがしばらく迷うような様子を見せてから、私の手を持ち上げて、その手の甲に口づけした。
――はっ!?
その瞬間に、凄まじい勢いで私の目は覚め、冴え冴えと覚醒したが、どうやらすっかり照れたらしいルドベキアは、私が突然、かっと目を見開いたことには気づかなかったらしい。
照れくさそうに鼻を掻くと、私から微妙に目を逸らしながら、今度は頬を撫でてくれた。
――駄目だ、溶けそう……。
私が泣きそうになっていると、ルドベキアが私の寝台から腰を上げた。
囁き声が聞こえる。
「おやすみ、トゥイーディ」
私は思わず、寝入りがけの声としては余りにも熱心な声で、彼に向かって囁いていた。
「大好きよ、ルドベキア」
ルドベキアが、一瞬固まった。
そして、彼がはにかむような口調で応じてくれた。
「俺もだよ、トゥイーディア」
私はにっこりした。
もう一度眠れるかは、このどきどきする心臓との相談となるが、もしも眠れたときには、今度はそれはそれは良い夢が見られそうだ。
――明日はもう目前にあり、ルドベキアが傍にいるというだけで、明日という全ての日が私に向かって微笑む。
それはそれとして、このときの私は、私が里帰りをしたその日から、ルドベキアがすっかり私と目を合わせてくれなくなることを、予想すらしていなかったのだけれど。
続きがいつになるか分からないので、
再度、またいったん完結状態に戻します……。




