09◆ いざ北へ(3)
俺たちはだだっ広い領主館を延々と歩かされ、いちど階段を上がって、二階にあるこれまた広い廊下の柔らかい絨毯の上をまた歩かされ、仰々しい黄金の飾りがついた黒檀の扉を開けた先の、広い応接室に通された。
応接室は明るい。
扉を入って対面に当たる壁が、ほぼ一面の硝子張りになっていて、そこから燦々と陽光が射し込んできているのだ。
その壁には扉も開いていて、そこから外に見える庭園に降りる階段が続いているようだった。
庭園には薔薇が咲き乱れていて、幾何学模様の形に伸びる煉瓦の道の先に、鳥籠を模したような形の、薔薇の蔦が這う格子屋根の東屋が見えた。
応接室の足許の床は寄木細工になっていて、見上げると高い天井には色鮮やかな天井画。
恐らく数年に一回は塗り直しているのだろう。
扉を入って左側の壁にはマントルピース。もちろん今は火は入っていない。
扉を入ったばかりの俺たちから見てほぼ正面に、磨いた胡桃材のローテーブルとソファの、如何にも応接間といった調度品があり、右手には、ここで軽食を摂ることも想定しているのか、クロスを掛けられた六人掛けのテーブルがあった。
ローテーブルの上と六人掛けのテーブルの上に、それぞれ天井からシャンデリアがぶら下がっている。
トゥイーディアとディセントラは、ローテーブルのこっち側、つまり扉に背を向ける形で、それぞれソファに腰掛けた。
荷物を床に置いて、トゥイーディアがぴんと背筋を伸ばしている一方、ディセントラが脚を組んで完全に寛いでいる。
それを見て、俺たちをここまで案内してくれた恰幅のいい男性も唖然。
俺は完全に護衛の体で、ソファの後ろに立った。後ろ手に指を組んで、ぼんやりと天井画を見上げる。
――そういえば、ヘリアンサスは絵は嫌いだって言ってたな。
今度会いに行くときも、手土産に絵具は避けた方が良さそうだ。めちゃくちゃ顔を顰めるあいつが目に浮かぶ。
何にしようかな……。
恰幅のいい男性が、ディセントラを見て、その態度に注意しようかするまいか、迷うようにそわそわすること数分。
扉の外から複数の靴音が近付いてきて、ぱっ、と扉が開けられた。
振り返ると、扉を開けた二人の侍女さんに頭を下げられ、ぞろぞろと後ろに護衛を引き連れて、赤い髪を半ば結い上げたこの家の令嬢、ティリーが、颯爽とこの応接間に足を踏み入れてくるところだった。
――と、いうか、頭を下げられ護衛を連れているからこそ、俺はそれをティリーであると判断した。
白状すると、俺は彼女の顔を覚えていなかった。
何しろガルシアを離れてから、本当に色々あったもので。
そしてもっといえば、彼女は俺の人生の重要な位置を占める人ではない。
ぶっちゃけ、彼女の顔よりも、千年前に世話になっていたパトリシアの顔の方が仔細に至るまでよく思い出せるくらいだ。
が、護衛に扮して頭を下げつつ、ちらっと見えた令嬢の顔を頭の中で反芻して、「ああ、そういえばこんな高飛車な顔してたな」と、俺は内心で手を打った。
俺が見たティリーの姿といえば、ガルシアの軍服姿ばかりだったが、もちろん今日の彼女はそうではなかった。
彼女は赤い絹のドレスを身に着けている。正装ではなくて、普段着に近い簡単なドレスではあったが、それでも目を瞠るような値が付くはずだ。
トゥイーディアとディセントラが立ち上がり、ティリーを出迎える格好を取る。
俺は頭を下げたまま。
何しろ今日の俺はただの護衛。
フードをしっかり被っているし、頭を下げているしで、マジでティリーには俺の存在自体が目に入っていなかった可能性もある。
かつかつ、と靴音を鳴らしつつ、ティリーがトゥイーディアに歩み寄った。
護衛の皆さんは、その背後で立ち止まって警戒の眼差し。
ガルシアで見ていた頃のティリーは、あんまり覚えていないが、常にぴりぴりしていた印象がある。
あれが自信の無さの表れだったとすれば、今日のティリーは、自分の生家にあるという利点を得て、やや自信があるように見えた。
つまり、ぴりぴりしているようには見えなかった。
極めて友好的にトゥイーディアに手を差し出して、ティリーが穏やかに言った。
「――ご無沙汰しております、リリタリスのご令嬢」
トゥイーディアも完璧な笑顔。
救世主としての、慈愛に満ちた微笑み。
「お久し振りです、スワンのご令嬢」
トゥイーディアと握手を交わしてから、ティリーがドレスの裾を捌いてディセントラの方へ。
そして同じように手を差し出した。
「ご無沙汰しております、ディセントラさま」
さま、と敬称をつけたのは、ディセントラが救世主であるということを念頭に置いたがゆえだろう。
ディセントラも笑顔でティリーの手を握った。
「突然のことで失礼いたしました、お嬢さま」
「いえいえ」
と、ティリーもめちゃくちゃ穏やかに首を振る。
ただ、探るような目をした。
「ただ、父に――当家の当主にお会い頂くことは出来かねますが――」
当主って公爵じゃねえか。
そりゃそう。
こいつ、俺たちが公爵に至るための最短経路として自分を利用してんじゃないかと警戒しているらしい。
普通、もうちょっと世間話もして空気が和んでから釘を刺してくるものだろうに、こいつも実は救世主が訪ねてきて混乱しているのかも知れない。
あるいは、今は何の世間話をしても殺伐とした話にしかならないから、もういいやと思ったのか。
いやそれでもさ、トゥイーディアがこんなに綺麗な髪飾りを着けてんだから気付くだろ。
そこに話を持って行けよ。
婚約ですか、おめでとうございます、くらい言えるだろ。
それであわよくば、婚約者のどこが好きかトゥイーディアに訊いてくれよ。
トゥイーディアがふふっと笑った(かわいい)。
そして、安心させるように首を傾げる。
「もちろん、弁えておりますわ。
わたくしども、今日はご令嬢にお会いしたくて参りましたの」
「まあ、わたくしに?」
本気で意外そうにティリーは言って、トゥイーディアとディセントラに座るように手振りで示してから、自分もローテーブルを挟んだその対面のソファに腰掛けた。
その後ろに、護衛の皆さんがずらり。
もう硝子張りの窓の外も見えない。
まあ、ティリーが意外に思うのも無理はない。
何しろ俺たちは、こいつと親しかったわけではなかった。
「まあ。嬉しいことですが、どういう――」
そこまで言って、不自然にティリーが言葉を切った。
視線が俺を向いていた。
護衛として極めて正しい位置で頭を下げているというのに、なんでだ。
ティリーが瞬きして、急に後ろの護衛を振り返った。
そして、つっけんどんに命じた。
「――退出しなさい」
護衛の皆さんがざわめいた。
俺も内心で慄いた。
この世相で、他所から来た正体不明の客人を前に人払いする馬鹿がどこにいるんだ。
「――お嬢さま、ですが」
「下がりなさい。ガルシアの同輩です。
――おまえもです。出て行きなさい」
俺たちの側にいた恰幅のいい男性を見据えてそう言い放ち、ティリーが有無を言わせず出入口を指差した。
しばらくざわざわしたものの、結局はティリーの命令が通った。
護衛の皆さんと、恰幅のいい男性がぞろぞろと応接間から出て行く。
とはいえティリーは、「何かあればすぐお呼びになってください」と、しつこいくらいに念を押されていた。
そりゃそうだ。
ティリーはうるさそうに頷き、最後の一人が応接間を出て扉を閉めるのを、じりじりした様子で待っていた。
そのへんで、客人に見せるものとしては有り得ない押し問答を見せられたディセントラが、礼を尽くすのに飽きたように足を組んで頬杖をつき始めた。
まあ、こいつがすればそういう格好も絵になるからいいんだけどね。
豊かな陽光を受けて、赤金色の髪を光らせて、大陸一整った美貌に退屈そうな色を載せているディセントラは、それこそ一幅の絵画のようだった。
『退屈する貴婦人』みたいな題がつきそう。
がちゃり、と音がして扉が閉じられて、一秒。
ティリーが立ち上がった。
俺がびびったくらいの満面の笑顔だった。
そして呼んだ。
「――ルドベキア?」
「――――」
俺、唖然。
――マジか。
なんで気付く?
フードを被って頭を下げて顔を隠していて、なんで気付かれた?
匂いか?
俺、なんかの匂いしてる?
とはいえ、もうしらばっくれるのも無理だろう。俺は顔を上げた。
そしてそのとき、トゥイーディアの不機嫌そうな顔が目に入って、いっそうびびった。
顔を上げた俺に、ティリーはますます嬉しそう。
俺はドン引き。
ティリーはなんかもう、こっちに歩み寄って来そうな勢いだった。
俺は思わず一歩下がり、トゥイーディアが思いっ切り咳払いした。
「やっぱり! だから顔を隠してたの?」
俺はびびり上がっていたが、ティリーのこの言い回しには怪訝を覚えた。
眉を寄せて、思わず挨拶よりも先に問い返す。
「――『だから』?」
あ、と言うように唇に手を当て、ティリーがソファに座り直した。
それでもそわそわと身を乗り出してくるので、トゥイーディアが二度目の咳払い。
「あ、その、ちょっと噂になったのよ――ガルシアで。
何しろあなた、急に現れて、しかも真っ黒な髪だったでしょう――」
それで俺も得心した。
なるほどね、やっぱり俺を魔王と関連付けて考えるやつがいたわけだ。
ご明察だ。
ヘリアンサスがその場にいれば、さぞご満悦だったことだろう。
俺の表情をどう誤解したのか、ティリーがぱたぱたと両手を振る。
白いレースの手袋に覆われた両手。
それを見て俺はふと、最初の人生で、手袋をしていないトゥイーディアの手に口づけして、彼女を盛大に呆れさせたことを思い出した。
「もちろん、分かっているわ。救世主さまだもの、そんな、魔王なんて」
「ああ、うん」
と、面倒になって俺は彼女を遮った。
遮ってから、ここはガルシアではないということを思い出した。
建前上は身分の壁がないということにしていたガルシアならばともかく、ここで公爵令嬢に無礼な口振りを取ったのは拙かったか、と思って、俺はどきっとしたが、幸いにもティリーが俺の口調に違和感を覚えた様子や、不快感を示すことはなかった。
そうなってくるとわざわざ敬語に直すのも妙な気がして、俺はぼそぼそと続ける。
「そんな感じ。面倒な髪の色だから、隠してた」
「そうだったのね!」
なぜかめっちゃ嬉しそうなティリー。
無礼な口利きは、逆鱗に触れるどころかこいつを喜ばせたらしい。
こいつの情緒が俺には分からない。
俺が顔を強張らせたそのとき、ディセントラが素気なく言った。
「ルドベキア、ばれちゃったんだし、座れば?」
「あ、はい」
思わず敬語になる俺。
トゥイーディアが、彼女のソファの上でちょっと左にずれて、俺を見上げて右側をぽんぽんと叩いた。
――かっ……かわいい……。
「こっちに座る?」
喜んで!
一も二もなく俺は頷いて、トゥイーディアの隣に滑り込んだ。
トゥイーディアがにこっと笑ってくれたが、目が笑っていない。
俺はどうすればいいのか分からず、取り敢えず肩を竦めた。
ティリーが怪訝そうに俺とトゥイーディアを見比べている。
そんなに不釣り合いに見えるか、あぁ? と、俺はじゃっかん喧嘩腰で考えたが、違った。
そういえばティリーは、トゥイーディアに対して異様に素気なく接する俺しか知らないんだった。
「えぇっと……」
ティリーが何か言い掛けたが、その機先を制するが如く、ディセントラが口を開いた。
「もう畏まる雰囲気でもありませんね、ティリーさん。
端的に申し上げますと、お願いがあって参りましたの」
ティリーが、慌ててディセントラに目を向けた。
背筋を伸ばし、そそっ、と耳飾りに触れるような仕草を取って、首を傾げる。
公爵令嬢なんだからちょっとは落ち着けばいいのに。
「は――はい? はい、それはもちろん……救世主さまの仰せとあらば」
「あら、それは有難い」
真顔でそう言って(美人の真顔はじゃっかん怖い)、ディセントラがちらっとトゥイーディアを見た。
仮にも「魔王の首を落とした救世主」はトゥイーディアだから、肝心の頼みの内容だけはトゥイーディアから伝えるよう、視線で促したのだ。
トゥイーディアがこくっと頷き、半ばを結い上げた蜂蜜色の髪を耳に掛けて、真剣な瞳でちょっと身を乗り出した。
「お願いといいますのは、他でもない魔法のことなのですが、」
ティリーが眉を寄せた。
「魔法の?」
「はい」
トゥイーディアが頷いて、息を吸い込んだ。
「ガルシアでいちど、私のルドベキアが、世双珠を経由しない魔法の使い方をあなたにお教えしたかと思います。そのことです」
「――――」
ティリーの顔が、けっこう変な具合に歪んだ。
俺は真顔でディセントラを窺った。
トゥイーディアは真剣な話をしている、それは分かっている。
だが、それはそれとして、――今、トゥイーディア、『私のルドベキア』って言った?
言ったよな?
もうこれ、婚約者とかのレベルじゃなくない?
もう夫の扱いじゃない?
思わずディセントラを窺った気持ちとしては、「これは夢じゃないよな?」と確認する意味合いが強い。
ディセントラは、「夢じゃないからここで喝采するな」と念を押す、すげぇ怖い顔で俺を見てきた。
俺は頷いて、唇を噛んで、俯いた。
とはいえ堪え切れず、俺は片手で口許を覆った。
ディセントラが額を押さえて溜息を吐いた。
これは喩えるならば、『呆れ果てる貴婦人』。
トゥイーディアは真面目に、淡々と言葉を続けている。
「あの魔法の使い方ですが、ガルシアや、他のどこかで、誰かにお教えになったりはなさいましたか?」
ティリーはぽかんとしていたが、そしてなぜか俺を見ていたが、尋ねられてはっとした様子でトゥイーディアに目を戻し、小刻みに首を振った。
「いっ――いいえ」
ここで、俺は大きく安堵した。
良かった。セーフ。間に合った。
トゥイーディアも安心したのか、息を吐いてにこっと笑った。
「それは良かった。――実は、あの魔法の使い方なのですが、あなたの胸ひとつに留めていただきたいのです。
それをお願いに参りましたの」
ティリーは唖然とした様子でまじまじとトゥイーディアを見て、首を傾げた。
「ええ……それは――どうして」
「それは、」
と、今度はディセントラ。
有無を言わせぬ美しい笑顔で、ディセントラが言葉をつらつらと重ねていく。
こいつのこれは、もはや才能である。
「いくつか理由がございますが――一番の理由は、申し訳ありません、わたくしどもにも理由が分からないのですけれど、世双珠が失せてからこちら、あの魔法の使い方であっても魔法が安定しないのです――」
ここから、ディセントラが迫真の作り話。
俺とトゥイーディアは、したりとばかりに頷くのみ。
ディセントラが寸分の狂いもなく、「世双珠とどういう関係があったのかは分からないのですが、あの魔法の使い方であっても、意図しない魔法が暴発することがある」だの、「十回に一回程度の頻度ですが、それでも危険」だの、「ゆえにわたくしどもも魔法を使うことは控えております」だの、どんどん言葉を繰り出していく。
果ては、「魔法を使える人間が激減した今、濫りに魔法を使えることを知られてしまってはお嬢さまも危険です」ときた。
しかも言葉の端々に、「あなたのために遠路遥々来たんですよ」というのを、押しつけがましくはなく匂わせている。
すごい。
ティリーはぽかんとして聞いていたが、徐々にディセントラの言葉を呑み込めてきたのか、途中からこくこく頷き始め、ディセントラが言葉を切ると、「それは、」と。
「それは――なるほど、承知いたしました。
出来れば、世双珠を経由しない魔法でも栄えればとは思いますが――」
こいつ、俺たちを早速魔王にしようとしてやがる。
「お勧めは出来ませんわね、現状」
ディセントラがさらっと言って、最後に微笑んだ。
「救世主からの頼みです。どうぞ、ご了承いただけると嬉しいのですけれど」
ティリーは眉を寄せていたが、「原因の究明はわたくしどもで致しますから」というトゥイーディアの言葉を受けて、ようやく頷いた。
よし。
この頷きを見るために遠路遥々旅行して来たと言っても過言ではない。
――そう思い、遠路遥々のつらい道程を思い出そうとした俺だったが、浮かんできたのが可愛いトゥイーディアばっかりだったので、「そう悪い旅路でもなかったな」と、ひとり内心で頷くことになった。
「それは――はい、それが最善と仰るのでしたら。
それに――」
ティリーが俺を見て、ちょっと頬を赤くした。
俺は、申し訳ないが、ぎょっとした。
ティリーは囁くように言った。
「――ルドベキア、あなたが教えてくれたようには、とても私は教えられないと思うわ」
――そりゃそう。
こっちは魔法に関して千年の経験と知識があるのだ。
そう思いつつも、俺は冷や汗。
ちらっとトゥイーディアを窺うと、トゥイーディアはもう笑ってすらいなかった。
めちゃくちゃ冷ややかな目でティリーを見て、それどころか俺のことも、じゃっかん責めるような眼差しで見てきた。
俺の狼狽は素直に顔に出たが、トゥイーディアはすぐに俺から視線を外した。
そうして、また目の笑っていない笑顔でティリーを見て、可笑しそうに首を傾げて尋ねた。
「なるほど。それはそれは。
ルドベキアはよほど丁寧にあなたに教えたようですね」
ティリーが熱を籠めて頷いた。
籠めんでよろしい。
「それはもう。本当に親切に――丁寧に」
トゥイーディアはますます冷ややかな表情を浮かべた。
堪らず、俺はこそっと隣から囁いた。
「――そりゃあ、生きて脱出するために」
「…………」
トゥイーディアが、ばつが悪そうに顔を顰めた。
ディセントラが五回くらい溜息を吐いている。
ティリーが、俺とトゥイーディアをさかんに見比べて、それから瞬きした。
「えっと」と呟いて、たいへん不躾にも俺たちを指差してくる。
「ルドベキア……ご令嬢と、ええっと、以前とずいぶん様子が違うのね」
トゥイーディアがにこっと愛想笑いした。
俺は息を吸い込んだ。
「いやまあ……誤解が解けて」
「誤解」
「色々あって」
「色々」
「やっと婚約したとこ」
「婚約……?」
ティリーが目を剥いた。
まあ、以前の俺たちを見ていればさもありなん。
嘘じゃないよ、と示すために、俺はトゥイーディアを促して、ちょっと横を向いてもらった。
窓から差し込む陽光に、燦然と煌めく金細工。
藤花の髪飾り。
「婚約……」
ティリーが茫然と繰り返した。
そして数秒後、はっとした様子で、吃りながら「おめでとうございます」と。
「ありがとうございます」と、俺とトゥイーディアが頭を下げる。
頭を上げて、トゥイーディアが微笑んだ。
「わたくしどもからのお願いは、先ほど申し上げた一点です。
ご令嬢、大変な中かとは存じますが、どうぞご自愛を」
退出に話を持って行こうとしている。
気付いて、俺もソファから腰を浮かせた。
取り敢えず、トゥイーディアが怒っているっぽいので、さっさとここから退散するに限る。
それなのに、はっ、と、もてなしの精神を思い出した様子で、ティリーが慌てて立ち上がりながら言ってきた。
「遠路遥々お越しいただいたのです。大したおもてなしは出来かねますが、どうぞ今宵は当家でお過ごしください。――自慢の庭です。ご覧になりますか?」
窓の外を示しながら、ティリーが申し出る。
俺たちの今夜の滞在先を決める権利はディセントラにある。
俺は思わず、「ここから出たい」という気持ちを余すところなく表明する顔で彼女を窺ったが、ディセントラは嬉しそうににっこりしていた。
まあ、そりゃ、公爵家ともなればどんな宿より好待遇が約束されるからね。
――マジか……。
「まあ、お願いに上がったというのに、申し訳ございません。お言葉に甘えても?」
ティリーもほっとしたような笑顔。
トゥイーディアが眉間に皺を寄せている。
けれども、仮にティリーが本心からこの親切を申し出たとすれば、それを無碍にするのは得策ではなかった。
何しろ公爵令嬢さまだ。
怒らせて良いことなど一つもない。
俺たちがこの国で長生きしていこうとするならなおのこと。
俺たちにコリウスの後ろ盾があるとはいえ、さすがにコリウスとティリーでは、身分は比べるべくもなくティリーの方が上だ。
ディセントラは硝子張りの窓から庭園を見下ろして、多分これは本心からだろうが、微笑んだ。
こいつはこういう綺麗なものが好きなのだ。
――えええ……。ティシアハウスの庭園の方がずっと綺麗だったじゃん……。
完全なる贔屓目で俺がそう考えたのが顔に出たのか、ディセントラが悪戯っぽく俺を見て、にこっとした。
「あんたはお庭には興味なかったかしら。ここに居たら?
――イーディ、お言葉に甘えて、拝見させてもらいましょ」
「えっ」
トゥイーディアが、びっくりした顔でディセントラを見て、それから俺を見た。
俺もきょとんとした。
ディセントラがお構いなしにトゥイーディアの手を引いてしまい、ティリーがいそいそと外に通じる階段の扉を開けて、どうぞどうぞ、と二人を促す。
「わたくしも後でご案内に上がりますので」と言って、二人を見送ったティリーが、ぱたん、とその扉を閉めた。
そうしてティリーは素早く部屋を戻って扉を開け、「お客人が今晩お泊りになると家令に伝えて。食事と部屋と湯殿の用意を」と伝えている。
その間に、俺はそろそろと自分も庭に出る方へ動いていたが、目的の場所に達する前に、ティリーが俺に駆け寄って来てしまった。
――おい、ディセントラ。
俺が本気で怒気を覚えたことなど露知らぬげに、既に階段を降りたディセントラは、庭園の小径で屈み込んで薔薇を愛でている様子。
それが硝子越しに見えたので、俺は遠慮なくその姿を睨み付けた。
トゥイーディアも、降りてしまえば一面の薔薇に心ときめいたらしい。
辺りを見渡している風の彼女の姿と、陽光を反射する髪飾りが見える。
傍に駆け寄ってきたティリーは、なんだか複雑そうな顔で俺を見上げている。
「ルドベキア、久し振りね」
俺は一歩下がった。
「ああ、うん。――はい、そうですね」
取り敢えず口振りを敬語に直した。
ティリーがいっそう複雑そうな顔をした。
「そんな口の利き方はしないで。ガルシアにいたときと同じでいいのよ」
「あ――そう?」
俺は曖昧に首を捻った。
ティリーは、「もちろん」と笑みを浮かべる。
「仲良くしてくれていたでしょう」
どのへんが仲良くしていたんだろう。
こいつも、最近の世相には疲れ切っているのかも知れない。
疲れ切って、過去の記憶を美化している可能性はある。
だがともかく、顔も忘れていましたとは言えない雰囲気だ。
俺が曖昧に肩を竦めていると、ティリーは堰を切ったように喋り始めた。
世双珠が消えて如何に大変だったか。
ある朝起きると世双珠が消えており、それが盗難というレベルのものではないことはすぐに分かったため、上を下への大騒ぎになったこと。
その間にレヴナントが出たらどうしようかと気を揉んだが、現在のところレヴナントの被害の報告はなくてほっとしているということ。
周章狼狽しているうちに、ガルシアの上層部から領地に戻る馬車を手配することを告げられたこと。
自分としては後ろ髪を引かれる思いではあったが、結局のところそれに頷いたこと――
――云々、かんぬん。
こいつ、身分の高い一族にはありがちなことだが、たぶん、この領主館にいる家族とは気軽には話せないんだろうな。
というか、こいつの性格から推して、仲のいい侍女さんとかも居ないんだろう。
これまで誰にも話せなかったんだろうな。
そう思いつつ、俺はティリーの微妙な言葉の切れ目で、「そっか」「そうだったのか」「大変だな」と繰り返して相槌を打つことで、なんとかティリーの機嫌を損ねずにいた。
ここで、ティリーが領地の内情のぶっちゃけを始めるようであれば止めねばならない、と俺は考えていたが、さすがにティリーの頭もそこまでおめでたくはなかった。
一頻り喋ったところで満足したのか、ティリーが少し黙った。
俺は、そろそろトゥイーディアのところに行きたいな、と思って窓の方を見ていた。
そんな俺を、ティリーはなんだか探るように見てきた。
そして、唐突に言った。
「あの――私のことばかり話してごめんなさい。
――びっくりしたわ。ご婚約おめでとう」
俺は瞬きした。
それから、話題が俺のことに移ったことを察して、軽く頷いた。
「うん、ありがとう」
機械のように答える俺を、ティリーはまじまじと見てくる。
「……本当にびっくりだわ。まさかご令嬢となんて……」
「あー」
まあ、そうだろうね。
とはいえ、こいつに経緯を分かってもらう必要もないので、俺はぼそぼそと。
「ガルシアを出てから色々あったから」
ティリーが、少し躊躇った風情のあと、呟いた。
「ご令嬢のお父さまのことは聞いたけれど――」
俺は唇を噛んだ。
――リリタリス卿、トゥイーディアのお父さん。
ヘリアンサスが利用して殺した――俺とカルディオスの記憶を取り戻すための『対価』として選ばれた命。
「――それに、ご令嬢、ご婚約者さまがいたじゃない? ロベリアさま……」
俺は溜息を吐いた。
「もう違うよ」
そこで黙ろうかとも思ったが、やっぱり気に喰わないものは感じるので、俺は続けた。
「そもそもあの二人、好き合ってたことは一瞬たりともないし」
「そうなの?」
目を見開くティリー。
こいつの目は節穴か。ガルシアにいたトゥイーディアとヘリアンサスのどこを見て、好き合っているなんて思えたんだ。
顔を顰めた俺の表情をどう解釈したものか、ティリーは再び、「そう……」と呟いて、それからまたおずおずと俺を見上げてきた。
「ルドベキア、ご令嬢には興味もなさそうだったけれど――」
まあ、そうだろうね。
トゥイーディアが俺に掛けた呪いは完璧だったから。
俺が、どうとでも取れるような身振りで肩を竦めると、ティリーは呟くように言った。
「ご令嬢の方は、そうでもなさそうだったけれど――」
えっ。
俺は思わずティリーをまともに見下ろした。
そういえばこいつ、以前にも同じようなことを言ってくれたような気がする。
そういえば、俺はトゥイーディアに、「記憶にある限りずっと以前から好きだった」と伝えたが、トゥイーディアがいつから俺に振り向いてくれていたのか、それは知らない。
カルは心当たりがあるような口ぶりだったけど。
もしかして、俺が鈍かっただけで、トゥイーディアはかなり前から、俺のことが好きだと態度に出てた?
もしそうならめっちゃ嬉しいけど。
俺がぐるぐるとそんなことを考えた一瞬の表情をどう受け取ったのか、ティリーはなんだか俺を心配するような顔で、小声で尋ねてきた。
「――あの、誤解だったら申し訳ないのだけれど、……ご令嬢と、無理に婚約させられたわけでは、ない?」
「…………」
人間、あんまりにもびっくりすると、言葉が頭の中を素通りするものである。
ぱちくりと瞬きした俺は、頭の中をひゅんっと抜けていった言葉の意味を捉えるべく、素っ頓狂な声で尋ね返した。
「――なんて?」
「いえ、だから、」
と、ティリーもなんだか気まずそうに、恥ずかしげに繰り返した。
「その、無理を言われて、婚約したわけではない?」
「――――」
俺は無言で、ぱちぱちと瞬き。
それから、余りにも想像の埒外であったその推測に、怒るよりも先に笑ってしまった。
思わず噴き出して、ばたばたと手を振る。
「違う、違う、絶対にそんなことないよ」
むしろ俺の方から頼み込んだ婚約である。
俺が話を持ち出さなければ、トゥイーディアから話を出してくれたかは微妙なところだろう。
「本当に?」
なおも疑わしげなティリーに、俺は顔を顰めた。
「あんまり言うと怒るぞ」
ていうか、俺とトゥイーディアって、傍から見ると仲が良さそうには見えないのかな。
トゥイーディアはさっき、俺が素気なかったから怒ってたんだろうか。
俺の先触れの宣言に、ティリーは怯んだようだった。
少し眉を下げて、言い訳するように呟く。
「ごめんなさい、――ただ、本当に、以前から考えると想像も出来なくて」
「別に、全部を赤裸々におまえに話してたわけじゃない」
俺はきっぱり言って、窓の外にいるトゥイーディアの方を指差した。
「事情があってなかなか言えなかっただけで、俺の方がずっとトゥイーディアを好きだった」
ティリーが、さすがに信じられないといった目で俺を見てくる。
とはいえ、さすがのティリーも突っ込んでは訊いてこなかった。
彼女が瞬きして、少し俯いた。
一瞬、彼女が息を詰めたような雰囲気があった。
俺がぼんやりと、硝子窓を通して見える眼下の庭園で、ディセントラと一緒に薔薇を眺め、嬉しそうに東屋の方へ足を進めていくトゥイーディアの姿を目で追っているうちに、ティリーが顔を上げた。
彼女が息を吸い込んで、話題を変えるようにして、言った。
「――このあとは? どうするの? ご令嬢が里帰りされるの?」
俺は眉を寄せた。
里帰りって、レイヴァスにか。
「里帰り? ――あー、いや、どうだろうな。船が出るまでは難しいから」
ティリーが首を傾げて、遠慮がちに言った。
「船は出ているけれど――」
「――は?」
俺も絶句。
――まさか、母石が壊れても生き残った世双珠があったのか、と、最悪の可能性が脳裏を過って戦慄した。
「船? どういうことだ?」
「どういうこと、って――」
と、ティリーも困惑顔。
俺の豹変した表情に、彼女が半歩下がる。
遥か年下をびびらせていてはいけない、と、俺もはっとして、表情を無理に和らげた。
それで、ティリーもほっとしたようだった。
ひら、と手を振って、俺から目を逸らせた彼女が言う。
「ちょうど、うちの領地の港に船が着くのよ。レイヴァスから。
あの国、まだ帆船なんて造っていたのね、真新しい船で。
それで一応は交易船が通って――」
「――――」
覚えず、俺は息を止めた。
――では、レイヴァスの国王は、トゥイーディアのかつての君主は、トゥイーディアからの警告をきちんと聞いてくれていたのだ。
聞いて、世双珠が消失する事態に備えて、帆船の建造を始めてくれていたのだ。
そして、船が通るということは――
「――どこ?」
思わず、俺は息せき切って尋ねていた。
「どこ? その港。レイヴァスのどこから出てる船だ?」
「え?」
俺の勢いに驚いた様子で瞬きしてから、ティリーがぼそぼそと答える。
「うちの領地のケレイン港よ。レイヴァス側は――どこだったかしら。オールエッジだったかしら」
ケレイン、オールエッジ、と口の中で繰り返して、俺は思わずティリーの肩を、親しみを籠めて叩いた。
「――ありがとう!」
殆ど叫ぶようにそう伝えて、俺は庭園に降りる階段に向かった。
あ、と後ろで声が聞こえた気がするが構わず、扉を開けて階段を駆け下りる。
庭園に降りれば、薔薇の香りが空気の全部を包んでいるようでさえあった。
風が吹いて、さあっと薔薇がそよぐ、微かな音が周り中から湧き上がる。
陽光の中で、ありとあらゆる色彩がいっそう鮮やかに映えていた。
色とりどりの薔薇が咲く中を、煉瓦の小径が続いている。
俺は一目散にその小径を走って、鳥籠を模した東屋の中のベンチに腰掛けて、薔薇の蔦が絡み花が綻ぶ東屋の天井を、感嘆の目で見上げているトゥイーディアを目指した。
駆け寄ってくる俺に気付いて、トゥイーディアが俺を見た。
蜂蜜色の髪が、陽光を受けて小さな光輪を作っている。
ちょっとだけ気まずそうに微笑んで、トゥイーディアが俺に手を振った。
ディセントラが、呆れたような顔でトゥイーディアの肩をちょっとつついている。
もしかしたら、トゥイーディアの可愛らしいやきもちを、ディセントラが少し咎めたのかも知れない。
息を弾ませてトゥイーディアのところに辿り着いて、俺は階になっている東屋の入口で膝を突いた。
そうすると、腰掛けているトゥイーディアを少し見上げる格好になって、目が合う。
トゥイーディアが、あどけないまでの仕草で首を傾げる。
飴色の瞳が不思議そうに瞬く。
「――ルドベキア? どうしたの、何かあった?」
「トゥイーディ」
呼んで、俺はトゥイーディアの手を取った。
その手を握って、俺は一心に告げる。
「トゥイーディ、港からレイヴァス行きの船が出るらしい。帆船。
おまえの王さまは、ちゃんとおまえの言うことを聞いていてくれたんだ」
トゥイーディアが息を吸い込む。
薔薇の蔦を透かした陽光が、輪郭の柔らかいモザイク模様に彼女を照らしている。
俺は重ねて。
「レイヴァスの、オールエッジから船が来て、戻るらしい――交易船が、もうちゃんと動いてるって。
ごめん、オールエッジがレイヴァスのどの辺りなのかは、分からないんだけど、」
ぎゅ、と、彼女の手を握る指に力を籠めて、跪いたまま俺は身を乗り出した。
「トゥイーディ、イーディ、ディア。レイヴァスに行こう。
行って、俺に、おまえのお父さんとお母さんに挨拶させてくれ」
「――――」
トゥイーディアが息を呑んだ。
ディセントラが驚いたように目を見開いている。
トゥイーディアが何か言おうとした。
「忘れたはずなのに」と、そう聞こえたが定かではない。
彼女の唇は震えていた。
トゥイーディアが唇を噛んだ。
みるみるうちにトゥイーディアの瞳に涙が溜まる。
俺はほっとして微笑んだ。
――トゥイーディアがどういうときに涙を見せる人なのか、俺は重々分かっている。
片手をトゥイーディアの手から離して、その手で俺はトゥイーディアの髪を撫でた。
彼女の髪を耳に掛けるようにする。
耳たぶに指が触れた。少しひんやりとしたその体温。
トゥイーディアが、また何か言おうとして失敗した。
彼女の瞳からまるい涙が零れた。
「――――」
俺の手を握り返して、震える唇でにっこりと微笑んで、トゥイーディアが頷いた。
次話まで少しお休みする可能性がありますので、
いったん完結マークをつけておきます。
次話から、「いざ北へ」の本番、
レイヴァスに行ってトゥイーディアのご両親に挨拶をする、
二人の新婚旅行が始まります。
準備が出来ましたら、またこっそりと更新を始めますので、
差し支えなければ更新通知はそのままに。




