07◆*いざ北へ(1)
「――まあ、良かった良かった」
ディセントラがそう言ったのは、俺とトゥイーディアの婚約(婚約!)の三日後だった。
空は薄雲に曇っていたが、もう寒さを感じるような季節ではなくなった。
いつぞや――ちょうど、髪飾りを作ってもらいに行った帰りに――俺がトゥイーディアを見掛けたのと同じ甘味処の、テラス席の同じ席で、ディセントラは生温い目で俺を見ている。
俺とコリウスとディセントラが、この席であとの三人を待っている格好である。
「何が?」
と俺。
早くトゥイーディアが来ないかな、と上の空。
いや、昨日も会ったんだけど、会っていないときに彼女のことを考え続けるのはもはや俺の習い性である。
ディセントラが溜息を吐いた。
「あんたがイーディに慣れてくれて」
コリウスが小声で笑った。
こいつ、実は笑い上戸だったのかも知れない。この頃いつも愉快そうにしている。
俺は瞬きした。
「いや、慣れたっていうか」
ディセントラが首を傾げたので、俺は適当に、テーブルの少し上に掌を持っていき、何かの丈を示すときのようにひらひらさせて、
「今まで、トゥイーディアがこのくらい可愛いと思ってたわけじゃん。けど実際は、」
掌を頭の上まで持っていき、
「このくらい可愛かったと。――その差にびっくりしてたわけで、ちゃんとトゥイーディアがどのくらい可愛いかを呑み込んだから、びっくりしなくなったって言う方が、正しい」
俺は真面目に指摘したのに、俺の隣でコリウスが爆笑し始めた。
堪えかねたように、ぶっ、と噴き出すこいつは見たことがなかった。
思わず珍妙な目で隣のコリウスを見てしまうが、そんな俺を見てなぜか涙ぐんだディセントラが、しみじみと呟く。
「……今までつらかったのね……」
「いや、それはみんなだろ」
それはそうだけど、とディセントラが神妙に頷く一方、理屈に左右されない第六感によってふと大通りの方を振り返った俺は、嬉しくなってにっこりした。
トゥイーディアがこちらへ向かって来ていた。
一緒に、カルディオスとアナベルがいる。
トゥイーディアは、今日も半ばを結い上げた蜂蜜色の髪に俺が贈った髪飾りを着けてくれていて、それが曇天にさえきらきら光って見えていた。
トゥイーディアはアナベルと何か話し込んでいたようだったが、そのときふと顔を上げて、こちらを見てくれた。
ぱっ、と、彼女が顔を赤らめる(かわいい)。
ますます嬉しくなって俺は手を振り――
――トゥイーディアが、両手で口許を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
「えっ」
思わず俺は腰を浮かせ、「放っておきなさい」と呟くディセントラの声も耳に入らないほど動揺した。
◆*◆
――かっ、かっこいい……
テラス席に座って、こちらをふと振り返って笑顔を見せてくれたルドベキアを見て、当然ながら私の脳裏を占めたのはそんなことである。
格好いい。
つい二箇月前までは、断じて有り得なかった笑顔である。
「ねえ、ねえ、あれ、私に向かって笑ってない?」
思わずアナベルに尋ねてしまう。
アナベルはなんだか憐れむような目で私を見た。
「でしょうね。他に誰がいるのよ」
ルドベキアが笑顔で手を振ってくれた。わぁ……。
ルドベキアの仕草には、一種独特のさりげなさや何気なさがあって、それがとても格好よくて、私は好きだ。
「私に手を振ってくれてる……」
感動の余りに手で口許を覆って、私はその場にしゃがみ込んだ。
これはすごい。これはすごい。
「ねえ、あなたルドベキアの贔屓ってわけじゃないでしょう? 婚約者なんでしょう? 何してるの? あなたいつになったら慣れるの?」
慣れる、とかではないのだ。
私だって、彼と逢引(逢引!)したときには、まだ平気だった。
自分から手を繋ごうと誘ったくらいだ。あのときの私の勇気に乾杯。
とはいえあのときは私も必死だった――というか、ルドベキアが一向に私の顔を見てくれなかったので、ちょっと焦れていたということもある。
だが今や。
あの逢引の翌日――つまり昨日からこちら、ルドベキアは私を見て、しっかりと見て、それはそれは輝くような笑顔を浮かべてくれるようになった。
私はこれまで、本当に穴の開くほど彼のことを見詰めてきたが、その私でも一度も見たことがない表情――いわんや自分に向けてもらえることがあるとは思いもしなかった表情だ。
嬉しそうに、大事そうに、心から喜ばしそうに綻ぶ笑顔――
――そんな顔が出来るなんて聞いてない。
顔を覆って悶絶する私に、頭上から、呆れた――というよりは、困ったようなアナベルの声が降ってきた。
「今度はあなたがルドベキアに慣れるために逢引してもらったら?」
一方で、テラス席を見上げたカルディオスが端的に言った。
「――イーディ、早いとこ立ってくれないと、婚約者さんが今にも道に飛び降りてきそうな顔してるぜ」
◆*◆
トゥイーディアがすぐに立ち上がってくれたお蔭で、俺はテラスから道に飛び降りずに済んだ。
とはいえ心配なものは心配なので、テラスに上がってきたトゥイーディアを前のめりになって出迎えて、彼女の手を握って顔を覗き込む。
「大丈夫か? なんかあったの?」
「だい――っ、大丈夫」
ぶんぶんと首を振るトゥイーディア。
顔が赤いし耳まで赤い。
どうやら照れているだけらしい。
照れている彼女はそれはそれは可愛いので(いつも可愛いが)、俺は安心して、彼女の手を引いて椅子に戻った。
俺の、コリウスの反対側の隣にトゥイーディアが腰掛ける。
ディセントラが感動の眼差しで俺を見てきたが、何なんだよ、俺にエスコートの一つも出来ないと思ってんのか。
椅子に座ったトゥイーディアが、癖になったのか、つい、と手を持ち上げて、髪飾りを確認した。可愛い。
カルディオスとアナベルが、丸机に配された椅子の、ディセントラとコリウスの間を埋めるようにして腰掛けた。
カルディオスが頭を抱えている。
「なんなの、おまえら。ルドがイーディに慣れたと思ったら今度はイーディか」
「さすがにもうすぐ慣れるでしょ」
ディセントラがばっさりそう言っている間に、コリウスが指で合図して(こいつのこういう仕草には、隠しようもない金持ちの気品がある)、すかさず歩み寄って来てくれた店の小僧に、人数分の紅茶と、アナベルが好きそうな適当な甘味を頼んでいる。
トゥイーディアは気まずそうな顔をしたが、すぐに気を取り直したのか、俺の手を両手で握って、確かめるように掌をなぞったり、指の形を辿ったりし始めた。
俺が笑顔を向けたりする度に照れるのに、トゥイーディアはこういう接触に衒いがない。
というか、彼女に触れられても俺が嫌がらないということに、いちいち感動しているらしかった。
可愛いし、千年前ですら決して有り得なかったことだし、触れられているのは嬉しいので、俺は空いている手で顔を覆って自分の緩んだ顔を隠した。
周りのみんなからの、むしろもう温かい見守りの視線が面映ゆい。
トゥイーディアがしばらく俺の手で遊んでいるうちに、コリウスが注文してくれていた紅茶と甘味が届いた。
コリウスの金払いがいいということはこの二箇月でしっかりと覚えているのか、小僧は恭しく頭を下げて後ろに下がっていく。
俺なんかはむしろその挙動に恐縮してしまうが、ここにそんな可愛らしい根性の奴は俺しかいない。
トゥイーディアはといえば、小僧が近付いて来た時点で、はっと我に返ったように俺の手を離していた。
照れて微笑むトゥイーディアを、俺にその権限があれば、ぜひ国宝に指定したい。
「――はい、それで」
と、紅茶をひとくち飲んだディセントラが、軽く手を叩いて話を切り出した。
なお、軽く顔を顰めたところを見ると、あんまりお気に召す味ではなかったと見える。
なお、俺にとってはどんなものであろうと、隣にトゥイーディアが居てくれれば十分に美味い。
「これから私たちがどうするかだけど」
――もっと早くに切り出していて良かったはずのこの話題だが、切り出したのが今日になったのには理由がある。
まず、這う這うの体でシェルケに戻って来てからのほぼ一箇月、町が殺気立ち過ぎていて、とてもではないが俺たちは落ち着いて顔を合わせられなかった。
そしてそれから一箇月は、俺がそれどころではなかった。
何しろトゥイーディアに求婚するという一世一代の覚悟を決めねばならないときだったので、俺が全く落ち着かず、何ならトゥイーディアと目を合わせることも出来ず、この話題を切り出すどころではなかったのだ。
それに、コリウスが熱を出したりもしたわけだしね。
というわけで、そろそろみんながどこで生きていくのかを決めようぜということになって、今日は全員で顔を揃えたのだ。
いや、全員というにも微妙に足りないが。
ルインが海に出てしまって早二箇月、あいつに何かあったなら、俺はアーロ商会の連中を叩きのめさなくてはならない。
元気にしているだろうか、俺の弟――
「――まず、いちばん心配ないのがコリウスでしょうけど」
ディセントラが首を傾げて淡紅色の瞳でコリウスを見た。
コリウスは紅茶のカップを優雅に傾けたところで、落ち着いてそのカップをソーサーに戻してから、両手の指を組んで、その指の上からディセントラに視線を注いだ。
「もちろん、そうだ。だから僕としては、おまえたちのことが心配なんだが」
何しろ、ここがコリウスの現在の生家の領地である。
領都に戻るのも、汽車がない以上は手間取るだろうが、こいつの身体が全快すればいつでも馬車を調達して戻れるだろう。
「あー、俺も心配ないよ。アナベルも」
カルディオスがのんびりと言って、手を伸ばしてアナベルの前に置かれたバターケーキを一切れ、自分の方へ引き寄せた。
「俺が最後に家に顔出したの、アンスと一緒に行ったときだろ。そのときに『どこに行くんだ』ってのは周りから訊かれて、一応、これからシェルケに戻る予定、ってのは父様に伝言してきたし」
ふうう、と大きく息を吐いて、カルディオスが椅子の上で伸びをする。
そうして彼が頭上を仰ぐと、喉仏が目立って見えた。
「――さすがにこうなった以上は逃げらんねーからな。長生きしなきゃなんねーわけだし。
頑張って家督継ぐわ。コリウス、おまえもそうだろ?」
――おお、あの、放蕩貴族を絵に描いたようなカルディオスが。
言葉を向けられたコリウスは、微動だにせず即答した。
「僕はもともと、家督を継ぐことに抵抗はない」
――いや、こいつはこいつで問題があるが。何しろ絶対に子供を作れない。
だから、親族一同から後継ぎを募る気なのか何なのか。
でも、俺よりも遥かに頭の切れるこいつのことだから、家督を継ぐと言っている以上はそこも考えがあるのだろう。
これまで身分のある生まれを連続して引き当ててきたとはいえ、実際の一生をそれぞれ数えていけば、俺たちはけっこう短命だった。
そのため、コリウスやカルディオスといえど、生家の権力を引き継ぐのはこれが初めてとなる。
それが頭にあるのか、カルディオスが珍しくも弱気になって、「なんかあったら相談乗ってくれる?」とコリウスに尋ねて、コリウスが冷淡に、「冗談だろう」と返している。
まあ、とある家の当主が別の家の当主に何かを相談する、なんてことはまず有り得ないわけで。
などと言うことをつらつら考えてから、俺ははたと気付いて、カルディオスに目を向けた。
「けど、遠いんだろ。おまえのとこの領地。ここから行けるのか?」
と、俺は思わず言っていた。
むしろ距離があるから、あのときものんびりと汽車で移動したりせず、ヘリアンサスの力技で距離を稼いだのだと言える。
カルディオスは鼻で笑った。
それから俺を、例の――親指と人差し指をぴんと立てて、そのうちの人差し指が俺に向く――手付きで、ぴっ、と指差した。
だがそのとき、彼の表情に――なんだろう、罪悪感のような、憐憫のようなものが浮かんだ。
「――――?」
「あのね、ルド。俺を誰だと思ってんの。――父様からしてみたら、俺は血を分けた大事な息子だぜ?
世の中がこんなことになってんだから、それこそ草の根分けてでも、俺を捜し出してくれるに決まってんでしょ。そーなりゃ、手掛かりのあるシェルケから捜すだろうし、俺はここでのんびりしてれば、今ごろ派遣されてるファレノンの捜索隊に拾ってもらえる――いや、さすがに気が気じゃなくなって、父様ご本人が登場するかもだけど」
「……はい?」
俺は思わず、気の抜けた声を出してしまった。
――あれ、おかしい。
なんでそんなことをこいつが言うんだ?
確かに俺たちは、毎回の人生で血縁上の両親を持ってはいたが、親子の情なんてものは感じたことがないはずだ。
この人生において、俺は初めて、ヘリアンサスを通して、俺の父母から俺に注がれた愛情を、伝聞の形ではあれ知ったが、他のみんなはそうではあるまい。
それなのにどうして、さも当然のようにあっさりと、その情を前提にして――信頼して、ここで待つなんていう、そんなことが出来るんだ?
さすがに指摘が入るかと思って、俺は真顔でコリウスとディセントラを見た。
しかし案に相違して、二人とも違和感を覚えた風はなかった。
「ああ、まあ、そうね」
ディセントラがあっさり頷いて、違和感甚だしいながらも、「いいのか」と俺は納得。
ちらっとトゥイーディアを見た。トゥイーディアなら――俺たちの中で唯一、正しく親子の情を理解している彼女なら、もちろんカルディオスの言うことを信じられているだろうと思った。
――だが、想像していたのとトゥイーディアの表情が違った。
トゥイーディアはカルディオスではなく、俺を見ていた。
俺を見て――どうしてだろう、切なそうな、唇を噛んだ、見たことのない表情を浮かべていた。
「――トゥイーディ?」
驚いて声を掛けると、トゥイーディアははっとしたように瞬きした。
そして誤魔化すように微笑んだが、それも少し切なそうだった。
俺は思わず指の背でトゥイーディアの頬を撫でて、「大丈夫?」と。
トゥイーディアが飴色の瞳を細めて苦笑して、俺の手を握って指を下ろさせた。
「――ありがとう、大丈夫よ」
俺は眉を寄せたが、トゥイーディアが強いて言ってこないならば、俺に触れられたくないことなのかも知れないとは思った。
そっか、と頷いて、俺はカルディオスに目を戻しながら、トゥイーディアの手をぎゅっと握って、手を繋ぐような格好を取る。
トゥイーディアが少し赤くなった。
カルディオスは肩を竦めて、「だろ?」とディセントラに応じている。
――納得してしまうと、なんだか寂しくなってきた。
これまで千年以上、ずっと俺たちと一緒にいたカルディオスが、他所に本拠を移してしまうように思えて、横からカルディオスが盗られていくような気がしたのだ。
俺のそういう複雑な心境を表情から察したのか、カルディオスが俺を流し見て、ふっと微笑んだ。
カルディオスを初めて見る人間がこの表情を見たら、その場で魂を抜かれるんじゃないかと思うような笑みだった。
「――あ、ルド。寂しくなっちゃった?」
俺はカルディオスの顔も見慣れているので、魂を抜かれることもない。
ついでに、どっちが寂しがり屋かといえば、明らかに俺よりカルディオスだ。
こいつは常に豪運に生まれつき、だいたい生まれてから数年で俺たちのうちの誰かと再会するので、孤独耐性が俺やコリウスに比べて低いのだ。
「そんなわけねぇだろ。寂しいのはおまえだろ」
カルディオスは曖昧に肩を竦めた。
「そーかもね。――でもほら、アナベルがいるから」
カルディオスがちらっと見遣った先で、黙々とバターケーキを食べていたアナベルが顔を上げた。
こくん、とケーキを飲み込んでから、アナベルが頷く。
「そうね。あたし、伯母がカルディオスの家の使用人だから。あの人も妹の忘れ形見が行方知れずなんだから、今ごろ心配しているでしょう。顔は見せてあげなきゃ」
「――――!」
俺は思わず仰け反りそうになった。
カルディオスに続いてこいつまで面妖なことを言い出した。どうしたんだみんな。
トゥイーディアが、きゅっと俺の手を握る指に力を籠めた。
窺うと、トゥイーディアは俺を見て微笑んでいた。
その微笑みを見て、なんとなく俺は納得した。
「アナベル、アナベル、伯母さんもそーだけど、俺を。幼馴染を忘れないで」
カルディオスが健気にアナベルに向かって手を振ってアピールし、アナベルは鼻に皺を寄せた。
「あなたは――だってあなたといると、他の女の人たちからの目が痛いんだもの」
「そんなの俺が追い払ってやるよ。だいいち俺、おまえの好みじゃないでしょ」
「シオンにあなたたちのことを説明するときも、あなたの説明にいちばん困ったのよ」
「それはごめん……」
項垂れるカルディオスに、「日頃の行いだな」と可笑しそうに声を掛けて、コリウスがカルディオスとアナベルを示す。
「では、この二人も問題はない、と――」
「トリーも俺が連れてくよ」
カルディオスが素早く顔を上げて言って、コリウスが本気で不機嫌そうに眉を寄せた。
「は?」
「え、あと一人くらい雇う余裕は全然あるから。
――トリー、田舎に帰るわけじゃないでしょ?」
今生において、ディセントラは珍しく平民の生まれを引き当てている。
確かに、今生における故郷に戻れば、父母に当たる人がいるのだろうが――
「帰るわけないでしょ」
ディセントラが赤金色の髪を払って、眉間に皺を寄せた。
「悪いけど、あんな田舎で独りぼっちなんてごめんだわ。今の両親のことだって、別に特別好きだとか、感謝してるわけじゃないもの」
「なら、」
と、カルディオスがあっけらかんと。
「俺が雇ってあげるよ」
カルディオスがあっさりそう言ったところで、コリウスが――呪いが解けてからというもの、殆ど初めて――怒った様子で円卓を軽く叩いた。
「駄目だ」
カルディオスが目を瞠った。
呪いが解けてからというもの、コリウスは以前までの気難しさはどこへやら、ずっと機嫌が良かったから、急に睨まれて驚いたものと見える。
「なんで」
きょとん、と尋ね返したカルディオスに、コリウスが真顔で言った。
「僕が一人になるだろう。――ディセントラ、うちで雇うよ。カルディオスよりもいい条件で。こっちにおいで」
ディセントラが円卓を叩いて爆笑し始めた。
カルディオスは俺に目配せして、
「これ、あれだ。俺がトリーを連れて行っちゃったら、号泣事件再びだ」
アナベルとトゥイーディアが噴き出した。
俺が、「だな」と頷いたところで、コリウスがめちゃくちゃ不機嫌な声で、「二人とも?」と。
そこでディセントラが、咳き込みながらもなんとか笑いを収め、コリウスの目を見て、必死に真顔を繕いながら(とはいえ、唇の端は痙攣していた)。
「あんたの号泣が見てみたい気はするけれど、コリウス。大丈夫よ。安心しなさい。私が付いて行ってあげますからね」
「馬鹿にしてない?」
コリウスが声を上げたところで、俺とカルディオスも限界。円卓に顔を伏せて大笑い。
コリウスが憤然と席を立とうとしたところで、「ごめんごめんごめん」と、俺がそれを引き留める。
とはいえ急に笑いを収められるものではないので、肩を震わせながらのこととなったが。
「分かる、めっちゃ分かる、俺には分かるぞ」
何しろ俺とコリウスは、生まれてから長期間に亘って誰一人とも再会できなかった経験を持っている同志。
コリウスが軽く俺の頭を叩いて、ついでに手を伸ばしてカルディオスの頭を叩いた。
女性陣三人は、円卓に肘を突き顔を覆って、涙が出そうになるほど笑っている。
トゥイーディアが咽そうなので、俺はトゥイーディアの背中をとんとんと叩いた。
ようやくその場がまともな状態に戻ってから、むすっと顔を顰めたコリウスが、俺たち二人を指差した。
「――で、そこの無礼者二人だが」
俺とトゥイーディアが背筋を伸ばして、「はい」と。
コリウスが溜息を吐いて、トゥイーディアを見た。
「トゥイーディア。レイヴァスに戻れば、おまえの世話に手を挙げる家は幾らでもあるんだろうが――」
トゥイーディアがやや胸を張った(かわいい)。
「まあ、そうね」
何しろ、リリタリス卿の一人娘だ。
リリタリス家が改易になったとはいえ、それとは無関係にトゥイーディアを慕う人は大勢いるだろう。
モールフォスにでも戻れば、トゥイーディアは恐らく、何不自由なく暮らしていけるが――
「――でも、駄目ね」
トゥイーディアが俺を見上げて、お道化たようにそう言った。
手を伸ばして、俺の髪をつんつんと引っ張る。
「この国の比じゃなく、あっちはこの髪色に敏感だし――」
何しろ、「魔王は漆黒の髪である」という証言の基になった国だからね。
「――下手したら、この人の顔を覚えてる人がいるかも知れないし。ちょっとした旅行ならともかく、ずっと暮らしているのは拙いでしょうね」
処刑されたはずの魔王がその辺をうろついているともなれば、国を引っ繰り返すような大騒ぎになってしまう。
だがまあ、確かに、あのときのあの処刑場には、それこそ山ほど人がいた。
俺は眦を下げた。
「……ごめん……」
「私こそごめんね」
トゥイーディアが申し訳なさそうな顔をした。
多分、彼女が俺たちの前から消えたりしなければ、そもそも魔王の処刑まで話が発展しなかっただろうことを言っているのだろうが、それは違う。
トゥイーディアのお父さんの名誉のためにはあれしか方法がなかったし、そもそもあの件に関しては全部俺とヘリアンサスのせいだ。
それに、「魔王の首を落とした救世主」というトゥイーディアの肩書は、世双珠が消え失せることを各国に警告するに当たって、何にも代え難いほど役に立った。
俺は椅子の上でもトゥイーディアに向き直り、両手で彼女の手を握った。
「トゥイーディ、レイヴァスに戻りたい?」
もし仮に、トゥイーディアがレイヴァスに戻った方が幸せになれるというなら、俺は身の振り方を考えなければならない。
トゥイーディアの傍に居られるなら、俺は地下で隠者のように暮らせと言われても万々歳だ。
ただその場合、海までの距離が問題になる。
俺とカルディオスは、定期的にヘリアンサスに会いに行かねばならないが、汽車も消えてしまった以上、余りにも北の方に行ってしまうとヘリアンサスに会うことが難しくなる。
レイヴァスは、言うまでもないが、北国だ。
南の諸島までには何箇国分もの距離がある。
トゥイーディアが、む、と顔を顰めた(かわいい)。
「ルドベキア、きみと一緒にいたいのよ」
「――――!」
俺は大喝采を堪えて唇を噛んだが、自分が笑み崩れることは止められなかった。
にこにこする俺に、トゥイーディアが瞬時に真っ赤になって俯いた。かわいい。
「――惚気るなら他所でやってくれ」
コリウスが端的に言って、ぱちん、と指を鳴らした。
注目を集めたいときのこいつの癖だ。
俺とトゥイーディアが揃ってコリウスの方を向く一方で、コリウスはカルディオスに目を向けて。
「こっちで引き取るよ。おまえの家の領地は北だからね。ルドベキアに不都合がある」
カルディオスが何か言おうとして、しかしすぐに肩を竦めた。
「――ま、そーだね」
コリウスが頷いて、俺たちに濃紫の目を向けた。
「ルドベキア、トゥイーディア。おまえたちの家は僕が用意してやるから」
それから、要らぬ防衛本能を働かせたのか、コリウスは口早に言い添えた。
「――明らかに出自の怪しいおまえたちを守ってやるには、僕の領地が都合がいいだけだからね」
分かってますとも。
――厳粛に頷く俺たちに、コリウスは端麗な仕草で指を立ててみせる。
「少なくともルドベキアは、常人には有り得ないほど長く生きる予定だから、それが目立たないほどの都会か、逆に外部からの人の流入が少ない田舎に住んでもらう。――ただ、都会は少し危険かな。一度でも不審に思われてしまうと、それが一気に噂になりかねないから」
「…………」
俺はちょっと想像した――長々と生きて爺さんになった自分のところに、入れ代わり立ち代わり色んな人間がやってきて、「へえー、これが噂の二百歳の爺さんかー」と言っていくところを。
――遠慮したい。
というか、もし仮にそんな噂が立てば、俺はもういちど処刑場に引っ張って行かれそう。
トゥイーディアもだいたい同じ想像をしたのか神妙な顔。
それはそれで可愛いし、俺の心配をしてくれている風なのがめちゃくちゃ嬉しい。
ただ――
「コリウス、あんまり気を遣わなくても」
俺が言い差すと、コリウスはうるさそうに手を振った。
「馬鹿、違うよ。――いいか、これから僕たちは別々の時代に生まれるわけだ。そこで、明らかに全員が所在を知っている家があるのは役に立つ」
「――――?」
俺、ぽかん。
その俺の顔を見て、ディセントラが親切にも言い添えてくれた。
「つまり、それが決まった合流場所になるのよ。これからは、それぞれの死に際に立ち会うときにしか会えないんでしょうし、取り敢えず生まれたら、自力で行動できるまで成長してからその家に向かうの。そうしたら虫の息の誰かがいるわけでしょ。看取ると一緒に魔王を引き継ぎましょう」
――あ、なるほど、そうか。
これまでの人生では、取り敢えず行き当たりばったりでみんなを捜していたので、合流地点を予め決めておくという発想がなかった。
とはいえ、誰かを看取るのを考えると気が滅入るが。
特に俺。この人生において、五人を看取ることが既に決定している俺。
俺が頷くと同時に溜息を吐くのを見守ってから、コリウスが続ける。
「生活費も工面してやるから、そこは気にしなくていい。稼ぐ当てがあるなら稼いでくれてもいいが、当面は僕が面倒を見るよ。おまえたち、どちらも無一文だろう」
「――仰る通りで……」
救世主と魔王が揃って無一文とは。
とはいえ、俺は渋面。
「けど、そこまでしてもらうわけには――」
何しろ、コリウスが動かすことが出来る財産は全て領民からの税金である。
コリウスが俺を見て、微笑んだ。
「いいから。――少なくともおまえには報酬を受け取る権利がある。
おまえの成果が、誰に知られるものでもなくともだ」
俺はトゥイーディアに目を向けた。
「いや、それを言うなら俺よりトゥイーディア――」
「――ルドベキア」
トゥイーディアが、静かな語調で俺の名前を呼んだ。
「そんなことは絶対にないのよ。きみがいちばん大きなことをしてくれたのよ」
いや、そんなわけ。
――そう思ったものの、トゥイーディアの飴色の瞳でじっと見据えられてしまうと、俺は何も言えなくなった。
コリウスが息を吐いて、「それで、」と言葉を続けた。
「ドゥーツィアの領地はそこそこ広いが、どこに居を構えたい? 北か南か――」
「北」
「南」
見事に俺とトゥイーディアの声が重なった。
とはいえ全くの逆方向である。
俺は思わずトゥイーディアを睨んだが、トゥイーディアも俺を睨んでいた(かわいい)。
「南の方は暑いでしょ」
「北の方は寒いだろ。俺が寒さに弱いの知ってるくせに」
トゥイーディアが、む、と顔を顰めてから、そそっと俺に肩を寄せてきた。
「――寒いときは、私が温めてあげるから」
「コリウス、北の方で頼む」
俺の見事な変説に、コリウスが顔を押さえて肩を震わせた。
アナベルが完全に呆れている。
「もう真ん中の方にしたら?」
「――アナベルが正しい。領都の近辺の郊外を当たろうか。何かあれば僕も駆け付けやすい」
トゥイーディアが不満そうに頬を膨らませた(かわいい)。
「領都って南寄りじゃありませんでしたっけ?」
「山の上の集落にでも住む? 標高が高ければじゅうぶん寒いよ」
冗談なのか本気なのか分からないような口調でコリウスが言って、トゥイーディアはトゥイーディアで、「まあ、それはそれで……」と頷いている。
コリウスは可笑しそうに首を振った。
「じゃあ、そういうことで。探しておくから、それは僕に任せて。式も挙げるだろう?」
首を傾げられて、トゥイーディアが赤くなった。
俺は俄然元気になって頷き、手を上げてトゥイーディアの髪を撫でる。
トゥイーディアがくすぐったそうにした。
――既婚者の女性は、項を見せる形で髪を結い上げて、夫以外には髪を下ろした姿を見せない。
そして髪を結い上げる結紐を結婚の際に男から贈るのが習わしだ。
とはいえ、結紐は消耗品だし、流行の移り変わりも激しい。
頻繁に買い替えるのが一般的な代物で、大抵の場合はそれも男から都度贈る。
「結紐、一緒に見に行く?」
俺が呟くように尋ねると、俺を見上げたトゥイーディアが顔を輝かせた。
俺はそんなに自分の美的感覚に自信がないし、トゥイーディアも普段着の色に合わせたいとか、色々あるだろう。
嬉しそうに頷くトゥイーディアに俺もほっこりしていると、「じゃあ、そんな感じで」と、ディセントラがてきぱきと話を纏めに掛かった。
「取り敢えず、カルディオスとアナベルはファレノン家からの迎えが来るまではここで待機ね。コリウスが近々領都に戻るとして、私もそこに付いて行く、と。
おうちが見付かるまでは、ルドベキアとイーディもここで待機ね。
――じゃあみんな、ばらばらになっても引き続き、重々分かっているとは思うけれど、魔法は使わず、使えることもくれぐれも秘密に。
誰かに魔法の使い方を教えたりしないように。以上」
以上、と言われたとき、トゥイーディアが、「ん?」と眉を寄せた。
俺は、結紐で髪を結い上げたトゥイーディアの姿を想像するのに忙しかったが、トゥイーディアのその表情で我に返った。
「トゥイーディ?」
トゥイーディアが俺を見上げて、あやふやな口調で呟く。
「……きみ――」
瞬きして首を傾げ、そのとき俺も微かな違和感を覚えた。
違和感というか――何かを思い出しそうというか――
そして、頭の中に光が閃くようにして、思い出した。
「――あーっ!」
同時に、トゥイーディアも椅子から立ち上がらんばかりになって叫んでいた。
「――スワンのご令嬢!」
やっべぇ。
俺、一回だけ、あいつに世双珠を使わない魔法の使い方を教えたことあるわ。
些細なこと過ぎて今まですっかり忘れていた。
あいつがその方法を綺麗に忘れてくれていればいいけれど――もし仮に覚えていて、あまつさえ、この世相を受けて変な義務感に駆られて、その方法を広めようなんてしてしまった日には――
冷や汗を掻いて、俺は呟いた。
「――やっべぇ……」




