05◆ 藤花の髪飾り(5)
言うまでもないが、俺は夜明け頃に目を覚ました。
昨日とは雲泥の差の目覚めである。
今日からの俺には婚約者がいる。
寝台の上で掛け布を引っ被り、俺はしばらく、トゥイーディアにはとても見せられない顔でにこにこしていたが、そのうちに掛け布を跳ね除けて起き上がった。
伸びをして、寝台横の小さな丸テーブルに置かれた盥の水で顔を洗う。
春とはいえ朝晩はまだ肌寒く、その冷たさを吸ったような水は冷たかったが、お蔭で完全に目が覚めた。
部屋の中は薄暗い。
明り取りの窓の外で、徐々に徐々に空が白んでいっている。
それを追い掛けるように、薄ぼんやりと浮かぶ部屋の光景が、徐々に物事の輪郭を明確にさせていく。
俺は寝台に腰掛けて片膝を立て、その膝に頬杖を突いた。
ちらりと見遣る先、楢材の椅子の背に、昨日のカルディオスが選んでくれた衣服が掛けられている。
――シェルケには、珍しい既製服の店があるが、それは一軒しかない。
カルディオス曰く、トゥイーディアとディセントラもその店を目指すに違いないということで(いや、わざわざ新しい服を買わなくても、トゥイーディアは何着ても可愛くない? と、俺は懐疑的な顔をしてしまったが)、かつディセントラの性格からして、一回店に入ると滞在が長い。
「同じ店で同じタイミングで服選びたくないでしょ」とはカルディオスの言だったが、俺とカルディオスはトゥイーディアより先回りして店に入らねばならなかった。
が、カルディオスはそこは楽観的で、「トリーもその辺は分かってるから、ちゃんとこっちの動きを察してくれるって」と言っており、実際、俺たちがトゥイーディアたちと鉢合わせすることはなかった。
しかもカルディオスは、「簡単な丈直しならアナベルにお願いしたらやってくれるから」と、極めて素早く買い物を済ませた。
実際、丈直しを頼まれたアナベルは、彼女にしては珍しいくらいそれを快諾してくれた。
さすが、一家の女主人として家を切り盛りしていた経験のある奴は違う。
カルディオスも、上下一式全部を買い揃えたわけではなかった。
俺としてはそのくらい気合を入れるべきだと思っていたのだが、「さすがに無駄」ときっぱり言い渡されてすごすご引き下がった。
そんなわけで、カルディオスが買い求めてくれたのは上着と手巾のみ、他は手許にあるもので大丈夫、とあっさり言われ、俺は動揺したものの、カルディオスはもはや頭痛を覚えたような顔をしていた。
「あのね、おまえ、盛装してどっかの劇場でも行くの? 違うでしょ? 町の中で逢引するだけでしょ?」
いや、そうなんだけど。そうなんだけど。
――そわそわしてきた。
昨日の、不安に起因するものとは違って、今日のことが楽しみでそわそわする。
誘ってくれたのはトゥイーディアだし、具体的に何をするのかは知らないが、トゥイーディアと一緒で楽しくないわけがない。
というか楽しませたい。
誘ってきたのがどっちかとかは関係なく、トゥイーディアに楽しんでもらいたい。
俺は部屋の中をそわそわと歩き回り、今日の奇跡を噛み締めた。
――最初の人生において、俺はとてもではないがトゥイーディアと逢引するなんて考えられない立場にいた。
初めての訪春祭で、偶然彼女と会うことを望んだりもしたが、その時期に彼女はいなかったし。
大体、あのときの彼女は、俺がいくら彼女を可愛いだの綺麗だのと言っても、それを年下の男の言うことと、あっさりいなしてしまっていた。
そしてそのあとの千年以上に及ぶ長い人生では、俺には常に呪いがあった。
それが、婚約である。
逢引である。
俺はぎゅっと拳を握り、心の中で「やったぞ兄貴」と報告する。
レイモンドとチャールズのことだから、それはそれは祝ってくれそうだ。
頃合いの時刻になって、俺はいそいそと着替えた。
白いシャツに黒いズボン、そしてその上に、黒い羊毛で、上衿だけが微かに青い天鵞絨になっている上着を羽織る。
コリウスからのお小遣いを上着の内ポケットに捻じ込み、シャツのポケットに手巾を入れて、部屋のマントルピースの上に掛けられた、小さな円形の鏡で自分の顔を覗き込む。
カルディオス並みに容姿に恵まれていればな、と思ってちょっと顔を顰めると、鏡の中の俺も同様に、ちょっと顔を顰めてきた。
――だがしかし、だがしかし、トゥイーディアに選ばれたのは俺。この世界で俺、ただ一人。
これはすごい、と噛み締めて、俺はひとつ頷くと、ちょいちょいと髪を整えてから、意気揚々と部屋を出た。
大時計と呼ばれているのは、シェルケの商店街の外れにある時計である。
呼ばれ方の割には大したものではなく、高さ十六フィート程度の煉瓦造りの小さな塔に、煌びやかな時計が設けられているもの。
時計の文字盤は緑柱石を削って作られており、時字と針はともに金色。目立つことは目立つ代物である。
俺がその下に着いたのは、時計の長針が「Ⅻ」を示す二分ほど前で、まだトゥイーディアはいなかった。
時間ちょうどで、と言っていたのを、律儀に守ってくれているらしい。
周囲には他にも人がいたが、俺ほど幸福そうな人はいなかった。
一人はどうやら旅行者らしい。
さしづめ、シェルケで足止めを喰らい続け、とうとう現状からの救援を願う書簡を出し、それが受理されて迎えが来るところ――といった感じか。
大きなトランクを抱え、真冬のような長くて黒い外套を羽織り、帽子を目深に被っている。
だが、どことなくほっとしたような雰囲気があった。
他には、何やら「仕入れの経路を変えないと」だの、「あの農園はこうなったらもう遠すぎる」だの、「世双珠も戻るかも知れないから、それまでだけでも」だのと言葉を交わす壮年の二人組。
どうやら何かの商売をしていて、元々使っていた仕入先(何を仕入れているのかは分からないが)が、汽車が死んだ今となっては遠過ぎ、商売に支障を来したがために、新たな仕入先を物色しているらしい。
今はその商談相手を待っているところ、といった風情だ。
かち、と、大時計の長針が動いた。
そのとき俺は、通りを小走りでこちらへやって来るトゥイーディアを見付けた。
思わず、その場で手を挙げて、手を振って居場所をアピールする。
トゥイーディアが、つんのめるようにして足を止めた。
そうして、なぜかその場で両手で口許を覆って感動の表情。
え、と俺が戸惑っている間に、気を取り直したらしき彼女が、俺までの最後の距離を走って来てくれた。
「――ごめんね、お待たせ」
トゥイーディアが息を弾ませてそう言って、俺は無言で彼女から目を逸らした。
見詰めていたら変な声が出そう。
トゥイーディアは、いつものように髪を半ば結い上げていたが、その髪の一部を編み込んでいて、いつもより華やかな髪型になっていた。
そしてもちろん、俺が贈った髪飾りが、そこに燦然と煌めいている。
蜂蜜色の髪の半ばは背中に豊かに流されて、朝の日差しに輝いていた。
彼女は白いブラウスを着ていて、それは彼女の、レイヴァスにおける正装で身に着けていたものと形が似ていた。
たっぷりとした袖を、手首で紐できゅっと締めているからそう思ったのかも知れない。
そして、丈の長いコルセットワンピース――表着用の黒いコルセットに、濃紺のドレスが縫い付けられている代物。
襞を作るスカートは綺麗だし、トゥイーディアはめちゃくちゃ可愛いが、苦しくないだろうか、大丈夫だろうか。
小さな鞄を片方の肩から提げていて、そこにコリウスからのお小遣いが入っていることが想像できる。
トゥイーディアが首を傾げて、長い睫毛の下からまじまじと俺を見た。
俺は思わず一歩下がった。
トゥイーディアがおずおずと微笑んで、呟いた。
「――格好いいね」
「――――」
俺は無言で顔を覆った。
――トゥイーディアのお父さん、お母さん、彼女を俺に都合のいい審美眼の持ち主に育ててくれてありがとう。
ずっと黙っていてはいけないと、俺は息を吸い込んで、意を決してトゥイーディアを見据えた。
そして、辛うじて言った。
「か――可愛いと思う……」
トゥイーディアが、ぱあっと顔を輝かせた。
比喩抜きに眩しい。
照れたように微笑むトゥイーディアが、ちょっとスカートを触って襞を直すような仕草をしたあと、くい、と俺の腕を引っ張った。
――鼻血出そう……。
俺の表情はお留守である。
「ルドベキア、行こう! ――まずは、そのへんの露店でたくさん朝ごはんを食べます」
真面目くさってそう言って、トゥイーディアが首を傾げてにこっとした。
――かわいい……。
「きみとそういう、歩き食べみたいなのしてみたかったの」
――かわいい……。
俺は片手で顔を覆って、頷いた。
「おう。うん。おまえとなら何でも」
商店街の真ん中を占める広場には露店が立ち並んでいる。
広場といっても、実質は抜きん出て道幅の広い道路が続く一帯がそう呼ばれているようなものだ。
朝の時間帯とあって、俺たちと同じくここで朝食を摂ろうとする人は多く、広場はそこそこ混み合っている。
今この情勢下において、稼げる金をケチる愚か者はいないために、露店の客引きの声も大きい。
毛羽立った灰色の帽子を被った旅行者が、どん、と俺の腕にぶつかって、そのまま俺を追い越していった。
ゆっくりと足を進めながら、俺はトゥイーディアを見下ろした。
「トゥイーディ、なに食べたい?」
トゥイーディアが俺を見上げて、楽しそうに微笑んだ。
「あっちの方のスープかな……でもその前に、」
俺に手を差し出して、トゥイーディアが窺うように言った。
「人混みではぐれちゃいそうだから、手を繋ごう。ね?」
俺は瞬きして、差し出されたトゥイーディアの手を見た。
それから自分の手を見て、トゥイーディアの顔に視線を戻した。
トゥイーディアが不安そうに眦を下げる。
――俺はもういちどトゥイーディアの手に目を戻して、ズボンで自分の掌を擦ってから、そうっとその手を握った。
温かい手指の温度に、俺の神経全部が引っ張られるような気持ちになる。
目頭が熱くなって、俺は慎重に指に力を籠めた。
どういう風に握ればいいのか分からず、ごそごそと手を動かしてしまう。
トゥイーディアが笑い出して、彼女が俺の指と彼女の指を絡めた。
そしてそのまま、俺の手を引っ張る。
「行こう、ルドベキア」
「――っ、おう」
トゥイーディアの顔に見蕩れるが余り、その場で転びそうになったのは余談である。
――トゥイーディアご所望のスープの露店の列に並び、順番が来るとブリキの器に入った魚介のスープと、木で出来た匙を受け取る。
そうしながら、トゥイーディアはもはや癖なのか、露店の親父さんに最近の商売の様子を聞いていた。
親父さんは肩を竦めて、「明日のことは考えないようにしてるんでね」と言い、俺たちに器と匙を押し付ける。
それを受け取って列から外れ、人混みの外側の道の端っこで、トゥイーディアと俺はスープを飲んだ。
正直味は分からなかったが、トゥイーディアが美味しいと言って破顔していたので、これは美味しい。
器と匙を、露店の傍の水を張った大きな盥に沈めるようにして返却して、トゥイーディアが次の店に俺を引っ張って行く。
雑穀のパンに切れ目を入れ、そこに香草と燻製にした魚を詰め込み、檸檬のソースを掛けたものを買い、買ったはいいものの、トゥイーディアはそれをどうやって食べればいいのかといった風に、持て余すようにしばらく眺めていた。
俺は普通にそれに齧り付いたものの、まあ、俺とトゥイーディアでは口の大きさも違うからね。
とはいえ歯が立たないというでかさでもないはずなので、俺は思わず指摘した。
「普通に食えばいいじゃん」
トゥイーディアは目を見開いて俺を見上げて、それからそそっと俺に身を寄せて(俺は心臓を吐き出さないでいるために、相当の根性を使った)、心配そうに尋ねてきた。
「――その、なんていうか、そういう私を見て、幻滅したりしない?」
俺は危うくパンを取り落としそうになり、それを堪えて、呻くように言った。
「――天地が引っ繰り返っても、ない」
トゥイーディアは、まだちょっと探るような顔をしたものの、安心した様子で大きく口を開けてパンにかぶり付いた。
口をいっぱいにして美味しそうにしている彼女が可愛かったので、俺は思わずまじまじとそれを見詰めて、トゥイーディアの口の端っこについたソースを指で拭いながら笑ってしまった。
「可愛いじゃん」
トゥイーディアが咀嚼を止め、雷に打たれたようになって俺を見上げた。
俺は我に返ってはっとしたが、トゥイーディアもまた、ぼっ、と音が鳴るのではないかと思うほどの勢いで赤くなっていき、慌てた様子で残りのパンを口に詰め込んで、咽た。
俺は彼女が窒息しないかどうかにどきどきすることになった。
そのパンを食べ終えて、また俺と手を繋いでくれながら、トゥイーディアが俺の顔を覗き込んだ。
「おなかはどう?」
俺は首を傾げた。
どきどきしたので、視線はトゥイーディアの肩あたりに向かっていた。
「まだちょっと食べたいかな」
「なに食べたい?」
そう訊きながら、トゥイーディアが俺の手を引っ張って歩き出した。
俺が適当な露店(何しろ、今なら何を食っても美味いので)を示すと、頓着なくそちらに向かってくれる。
露店は活況、客引きの声が賑やかだ。
道行く人が露店を値踏みして、言葉を交わしながら方々に向かって動く人混み。
広場の端や要所要所で、暗黙のうちに人混みから隔離されたような場所があって、そこで何かを話しながら、あるいは全く無言で、露店で買い込んだものを食べる人たち。
朝陽が燦々と降り注ぎ、敷石に複雑な形の影が落ちている。
鮮やかな明暗、その中でひときわ輝くようなトゥイーディアの髪、髪飾り、こっちに向けられる笑顔――
広場を移動しながら、トゥイーディアがぽつぽつと、色んなことを話してくれた。
取り留めもないことで、――例えば今生の、俺たちと再会する前の話――お父さんやお母さんの話、ニードルフィアの乱の話をせがむたび、お母さんはにこにことそのことを話してくれたけれど、お父さんは照れたように席を外すことが恒例だったことや、ジョーの作るごはんの中でいちばん好きだった献立の話、
小さい頃に可愛がっていた橇犬に橇を牽かせて、一人で雪原に出てしまった話(これはいちど聞いたことがある。ガルシアの地下に落っこちたときにだ)、
十二くらいのときに、ついうっかり高価な花瓶を割ってしまい、シャルナさんに叱られることを恐れるが余り、ジョーとケットを買収して証拠の隠滅を図ったものの、敢え無くばれて倍ほど怒られた話、
フレイリー戦役のあと、お父さんに死ぬほど怒られたものの、途中で泣き出した(泣いたということは、たぶんお母さんを亡くしたあとに自失していたお父さんがまともにトゥイーディアを叱ってくれたことが、トゥイーディアには嬉しかったに違いない)トゥイーディアに動揺して、お父さんが温かいミルクを作ってくれたこと。
あるいはもっと前の人生のことも、確かめるように話してくれた。
俺が剣奴として生まれた人生は、トゥイーディアとの二人旅という僥倖に恵まれたがために、めちゃくちゃ俺の印象に残っているが、同時にトゥイーディアにも印象に残っていたらしい。
「だってそれは、あんなに怪我だらけのきみを見ちゃったんだもの」
この上なく顔を顰めて言うトゥイーディアに、俺は苦笑。
今生での俺の元気極まる魔界生活を知ったら、トゥイーディアが発狂しそうだな、とちょっと思った。
俺が希望した露店で、油紙に包まれた揚げた魚を購入して、それを食べつつ広場を散歩する。
トゥイーディアは、俺の扱いの酷さゆえに俺の剣奴人生を印象に残したらしいが(この事実に、俺は心の中で百回くらい喝采していた)、俺にとっては違った。
雪山で危うく遭難……と話を向けると、トゥイーディアがぱっと笑って(いや、当時はほんとに死ぬかと思ったんだけど、喉元過ぎれば何とやらである)、「ああ!」と言った。
「あれ、ほんとに大変だったね。きみ、今じゃとても耐えられないでしょ」
「まあ、凍るかも知れない」
トゥイーディアは明るく笑った。
「のんびり山を登ってたら、いきなり目の前が真っ白になって焦ったねぇ」
「山小屋がなかったら危なかった。――俺、実は、」
引かれないかな、と警戒しつつも、俺は打ち明けた。
「おまえが寝たあとも起きてて、ずっとおまえの顔を見てた」
トゥイーディアが、魚を取り落としそうになった。
目を丸くして俺を振り仰ぎ、「え」と呟く。彼女の頬がふわっと赤くなった。
「え――、なんで……もしかしてそのときから私のこと好きだったの?」
俺は瞬きした。
若干の怪訝を覚えたあとで、俺はぼそりと。
「あれ? 言ってなかったか。――記憶にある限りずっと好きだけど……」
トゥイーディアがぱたっと足を止めてしまったので、俺も足を止めた。
トゥイーディアの顔が赤い。
彼女は感極まるような表情で、目を潤ませている。
それから鼻を啜るような仕草を見せて、はっとしたように再度歩き出しながら、トゥイーディアはねだるように俺を見た。
俺はそっと目を逸らせた。
「――最初の人生では? カルは全然話してくれないけれど」
「最初は――」
口籠り、視線を前方の遠くに向けながら、俺は呟いた。
――最初の人生では、つらいことが多かった。俺にもトゥイーディアにも。
けれどもそれを話す気はない。
「――最初に会ったのは、諸島から大都会に出て道に迷ってる俺を、おまえが拾ってくれたときかな」
「きみ、迷子になったの?」
笑い含みに飴色の瞳が細められる。
俺はやや向きになったが、やっぱりトゥイーディアの顔を直視することは出来なかった。
「いやおまえ、リーティ――あのとき俺がいたところだけど、そこの広さがやばいんだって。今のルフェアの比じゃねぇんだって」
それから俺は、周囲には内緒でトゥイーディアと頻繁に会っていたことや、それが兄貴にばれて気まずい思いをしたことを、事実の優しい部分だけを拾ってぽつぽつ話した。
トゥイーディアは興味津々に聞いてくれて、俺の話が途切れたのは、トゥイーディアが満腹を宣言して手に持っていた揚げた魚を残したからだった。
俺が苦笑して残りを引き受けて、それを食べ切ったところで、喉が渇いたとのお互いの申告により、水の露店に立ち寄った。
海辺の町において真水は貴重である。
先日までは、この町が所有する大きな井戸で地下水を汲み上げていたらしいが、今はその動力源となっていた世双珠が消え失せている。
というわけで、水の値段は高騰中だった。
商売として水を商っているならば、さぞかし今は頭を痛めているだろうと思いきや、露店のおじさんは気さくだった。
並んで水を買い求めた俺とトゥイーディアを見て、目敏くトゥイーディアの髪飾りに気付き、かつ俺の、緊張して吃ったりしている態度にも目を留めて、「おぉ、婚約したてかい? めでてぇ」と声を掛けてくれた。
トゥイーディアがはにかみ、俺がそれを見て三割増しで照れていると、俺にカップを渡してくれながら、おじさんは片目を瞑って、「よく知らない仲かい、頑張れよ」と。
俺の、余りにも初心すぎる態度が誤解させたらしい。
どうやら俺とトゥイーディアを、家どうしの都合で結婚する、初対面に近い婚約者だと思わせてしまったらしいが、おじさん。
なんだかんだで千年以上一緒にいる仲なんだ。
俺は力なく苦笑して、露店を離れながら、片方のカップをトゥイーディアに手渡した。
木の皮を薄く削いで作ったカップで水を飲んで落ち着いたところで、トゥイーディアがぴん、と指を一本立てて(かわいい)、鹿爪らしく宣言した(かわいい)。
「――このあとお芝居を観ます」
「芝居?」
と、俺はぼんやり繰り返す。
トゥイーディアが、遠くにちょこんと見えている、大きな天幕のてっぺんを指差した。
「ディセントラが、結構良かったって言ってて」
俺は笑った。
「あいつがそう言うなら、確かだな」
何しろ王侯貴族の生まれを引き当て続けた豪運の持ち主である。
触れてきた文化芸術の質も推して知るべし。
トゥイーディアが、む、と顔を顰めた。
俺はどきっとしたが、すぐにトゥイーディアが俺から目を逸らして、愚痴のような口調で呟くのが聞こえてきた。
「……名前、出すんじゃなかった」
「――――」
一呼吸のあいだ黙り込み、それから俺は天啓のように降ってきた考えに、大きく息を吸い込んだ。
――トゥイーディア、もしかしてあれか、俺がディセントラを褒めたから、ディセントラに対して妬いてんのか。可愛いな。
しかしながら、トゥイーディアは俺に比べてずいぶん大人だった。
すぐに顔を上げて、くいくい、と俺の手を引っ張る。
未だ慣れない俺はもう片方の手で顔を覆ってしまって、トゥイーディアを苦笑させてしまった。
俺と歩調を揃えて、簡易的な劇場であるところの天幕を目指しながら、トゥイーディアがぽろっと尋ねてきた。
「――ねえ、ディセントラのこと好きだったことある?」
「は?」
俺は真顔で尋ね返し、そのときばかりはまともにトゥイーディアの顔を覗き込んだ。
「いや、それなら、これまでの人生で俺がおまえにまともに接した時期があったはずだろ」
む、と唇を引き結び、トゥイーディアは俺から目を逸らした。
伏せられた睫毛が頬に影を落とす。
トゥイーディアが、俺と繋いでいない方の手で、胸元に垂れる蜂蜜色の髪の一房をいじった。
「――トリーと婚約したことあったでしょう」
「は?」
真面目に困惑した俺は、数秒してやっと、俺が珍しく貴族として生まれた人生を思い出した。
あのときは確か、婚約者候補の絵姿と睨めっこした結果、その中にどう見てもディセントラだろって姿があったので会いに行ったのだが――
「未遂だ」
思わず、力を籠めて断言した。
トゥイーディアの手を握る指に力を籠める。
「未遂だ。已むに已まれずだ。絶対に浮気じゃない」
そんなこと言うなら、おまえだって今回の人生で婚約してたことあったじゃねえか――とは言わない。言えない。
俺とて嫌われたくはない。
トゥイーディアが俺を見上げて、俺の真剣な表情を見て、毒気を抜かれたような顔をした。
「そんな怖い顔しないでよ。冗談だから」
広場のあちこちで、健気に客引きをしている役者さんがちらほらいた。
大きな天幕の入口で、トゥイーディアが観劇料を支払う(別に俺が払うのと変わりない。というか本質的には、どっちの金もコリウスの懐から出ているものだ)と、料金を受け取った派手な衣装を着た若い男性が、嬉しそうに天幕の入口の垂れ布を持ち上げてくれた。
トゥイーディアを先に通して、俺も天幕の中へ。
天幕の中は、当然ながら薄暗い。
本来なら真っ暗になってもおかしくないが、どうやらこの天幕の幌布は、それほど分厚くないらしい。陽光をじゃっかん通してしまっている。
天幕の中には木組みの座席が舞台に対して扇状に並べられており、どうやら好きな席に座っていいらしい。
席を選ぶのはトゥイーディアに任せた結果、トゥイーディアはちょうど真ん中あたりの座席に腰を下ろした。
クッションも何もない無愛想な座席だが、トゥイーディアが俺を見上げて、「こっちこっち」と自分の隣の席を叩いているのを見ると、なんかもう一生そこに座っていてもいいかな、という気持ちになる。
薄暗い中で、トゥイーディアの髪飾りが煌めいている。
金剛石が僅かな光明も拾って、華やかなまでに輝いていた。
舞台も年季の入った木組みのもので、舞台の両脇に松明の用意があった。
観客の数は少ない。
まあ、こんな状況下で、観劇に精を出そうとする人も奇特といえば奇特か。
俺たちの斜め前方に、小さな木のトランクを抱えた小太りの男性が座っている。
窮屈そうな灰色の服を着たその人が腰掛けると、座席の下に足が届いていないようだった。
彼はトランクの上に帽子を載せて、項垂れるようにしてそこに座っている。
トゥイーディアもその人に気付いたのか、「何かあったのかな?」と言わんばかりに俺と目を合わせてきた。
俺は肩を竦めて、ちょっと首を振って見せた。
――たぶん何かあったんだろう――というか、この情勢下において何もなかった人なんていないだろう――が、関わり合いになるべきではない。
俺たちはもう救世主ではない。
とはいえトゥイーディアは、身に沁みついた習性と、俺がこよなく愛する彼女の善性のゆえに、どうしても気になってしまうのか、ちらちらとそのおじさんの方を見ていた。
俺は見知らぬおじさんに嫉妬する自分に悲しくなってきた。
トゥイーディアが、開演の時間を昨日のうちに訊いておいてくれたのだろう――俺たちが天幕に入ってほどなくして、「間もなく開演!」との声が聞こえてきた。
それを合図に、舞台の両脇の松明に火が入れられる。
躍る炎の明かりが、天幕内の薄暗がりを折り畳んで、四隅へ追い遣ったかのようだった――四隅の闇が濃くなった。
俺は、ちらっと隣のトゥイーディアに目を遣った。
彼女は早くも舞台の上に注目している。
松明の明かりがその頬で踊り、飴色の瞳に映り込んで温かみのある色合いに照り映えている。
――本当に可愛いな、と思った。
外見じゃなくて――仕草だけじゃなくて――その奥にあるもの全部が。
ややあって、開幕が宣言された。
開幕といっても緞帳もない簡易的な舞台だ。
派手な衣装を身に着けた役者が舞台に上がり、それを補足するように、舞台袖から吟唱じみた声で説明が入る。
ここはこういう国です、今あなた方の目の前にいるのはこういう人です、彼の目的はこういうものです――
よくある冒険譚である。
というか、俺はこの戯曲を読んだことがある。演劇も幾度か観た。
狩人がひょんなことから小さな女の子を拾い、その子をまずは町の老人に預けようとするのだが失敗し、谷を越えたところにいる婦人なら引き取ってくれるかも知れないよ、と言われてそちらを目指し、しかし婦人にもたくさんの子供がいて引き取ってもらえず、今度は山を越えた先にいる羊飼いを当たりなさいと言われ――といった具合に、先へ先へと進むうちに、いつの間にか女の子に情が湧いてしまう、という話。
たぶん、今だから、こういう世の中になってしまったから、だからこの演目を、この劇団は選んだのだろう。
女の子の役は小柄な女性が演じていた。
服装と演技力で自分の年齢を十ばかり若く見せている。すごい。
舞台は簡易的なものだったが、役者の演技は本物だった。
展開を知っていても、ついつい引き込まれてしまう。
――多分、だから、トゥイーディアは俺を観劇に誘ってくれたんだな、と思った。
舞台上では、狩人が「岩山の上にいる隠者を訪ねなさい」と言われ、女の子と一緒にその岩山を登るも、肝心の隠者は亡くなっていた――という場面に入っている。
女の子が困惑して、「これからどうするの?」と尋ね、狩人が応じる――「なあおまえ、これまで来た道を引き返して、俺と一緒に住まないかい」。
狩人と女の子は岩山を降り、その直前に訪ねていた村の長老のところで文字を習い、更に戻って羊飼いの下で働き、羊の乳と羊毛を得る術を覚え、更に戻って婦人のところで女の子が裁縫を習い――
そして最後に、最初に訪ねた町の老人のところで、老人が締め括りとなる長い台詞を吟じて、この舞台はお終いとなる。
〝――英雄譚は語られ尽くした。今や誰が英雄になれよう。
御伽噺は埃を被った。今や誰が信じよう。
だがそれでもなお、それらが語ろうとした真髄は、飽くこともなく語り継がれ続けているものだ。
おまえはそれを見付けてきたのだ。
それは幾多に幾重に語られ、謳われ、言い交わされて、今なお色褪せることはない。
底突くことのない真実である。
その真実の呼び名こそが、愛である。
友愛である、隣人愛である、慈愛である、自己愛である。
――そして、無償の愛である。〟
観客席から拍手が上がる。如何せん観客が少ないために、万雷の拍手とはいかないが、それでも各々が惜しみなく手を叩いていた。
俺たちの斜め前に座っているおじさんが、隠すことなく号泣しているのが見えた――彼も相当に追い詰められているのだろう、その事情があって、余計にこの演目が身に染みたのかも知れない。
松明が掻き消され、舞台が暗転する。
さあっと天幕の入口が開けられ、外の明るさが天幕の中を照らし出す。
その中で、役者が次々に舞台の上に立ち、礼をしていく――
最前列に座っていた女の子が立ち上がって、狩人役の役者に花束を渡した。
狩人役の彼の顔が、遠目にでも分かるほどにぱあっと輝いた。
「――私たちも、花か何か用意すれば良かったね」
トゥイーディアが、拍手を続けながら、こっそり俺に囁いた。
俺は頷いて、「また今度、花を持ってもう一回観に来ようか」と。
トゥイーディアがぱっと顔を輝かせて、大きく頷いた。
役者たちが最後に揃ってお辞儀をして、天幕の入口の方で観客を誘導する声がし始めた。
俺たちが立ち上がろうとしたところで、斜め前に座っていたおじさんが座席から飛び降りて(彼の身長からして、足が地面に届いていなかったのだ)、俺たちを振り返り、涙にしょぼつく目を頻りに拭いながら、「良かったですね、良かったですね……」と。
俺は無言で立ち上がり、彼が座席の上にぽとりと落とした帽子を拾い上げて、彼に差し出した。
トゥイーディアは座席に腰を下ろしたまま、慈しむような目で彼を見て、「良かったですね」と同意したのちに、そっと付け加えた。
「ご無理なさいませんよう」
おじさんは頷き、礼を言って俺から帽子を受け取り、ちょっとよろよろしながら天幕の出口に向かった。
俺は彼が転ばないものか心配したが、どうやら大丈夫そうだった。
ほっ、と息を吐いて、俺はトゥイーディアを振り返り、彼女に手を差し出した。
――演劇をひとつ観るだけの時間、彼女の隣にいたのだから、さしもの俺も彼女に慣れた。
いや、慣れたと言っては語弊があるか。
彼女の実際のところの可愛らしさを呑み込んだ、と言うべきか。
たぶんトゥイーディアは、さすがの俺も、劇ひとつ分の時間を彼女のすぐ傍で過ごせば、俺が挙動不審な態度を取ることも収まるだろうと算段して、俺を観劇に誘ってくれたのだ。
そういう、いつでも俺を気遣ってくれるところも好きだった。
ずっと好きだった。
トゥイーディアが目を瞠って俺を見上げた。
そして差し出された俺の掌を見て、はにかんだような嬉しそうな笑顔を浮かべて、俺の手を取った。
そうして立ち上がって、照れたように呟く。
「――思ったより、きみから手を繋いでもらうのは照れるね」
俺は苦笑した。
――トゥイーディアは知らないだろう――このことを知っているのは俺だけだから――俺が彼女に対する恋情を恋情であると自覚したのが、歌劇を観ているときであったと。
それでこうして、彼女との初めての逢引で演劇を観たことに、なんとなく人生が一周回ったような、そんな不思議な感覚を覚えた。
ぎゅっと彼女の手を握って天幕の外へ誘導しながら、俺は首を傾げた。
「――で、次はどうする、トゥイーディ?」
トゥイーディアは、探るようにおずおずと俺を見上げて、ちょうどそのとき天幕の外に出たものだから、陽光に眩しそうに目を細めて、言った。
「きみが嫌じゃなければ、だけど――」
「おまえと一緒にいて嫌なことなんてないよ」
「――もう」
トゥイーディアは、俺が冗談を言ったと思ったのか、軽く俺の脇腹を小突いた。
可愛い。
俺は鼻血が出ていないか確認するために、空いている手で鼻の下をさりげなく擦った。
大丈夫だった。
トゥイーディアが軽く俺を睨んできたが、頬を赤らめているので可愛いだけだ。
全然怖くない。
そうしてから軽く息を吐いて、トゥイーディアが言った。
「――あのね、私が泊まっている宿のおかみさんと話したの。お願いしたら、厨房を貸してくださるって。だから、もし良かったら、このままお夕飯の準備を買って、一緒にごはんを作らない?
たくさん作ったら、おかみさんたちも食べられるでしょう――助かるって言っていただいたの」
「――――」
俺はまじまじとトゥイーディアを見た。
トゥイーディアが首を傾げる。
「駄目かな? つまんない?」
「あ、いや――」
慌てて否定して、俺は思わず真面目に言った。
「――ただ、なんか、一緒に暮らしてるみたいだな。楽しい」
トゥイーディアが瞬きして、絶句し、それからすごい勢いで赤くなった。
彼女は恐らく、今この町で出来ることなんて限られているのだから、いっそのこと宿の役に立つことをしてしまえ――と思ったのだろうが、いやだって一緒に夕飯の準備って。
そして案の定、夕飯の食材を買い回っているときには、「新婚さん?」だのという声をよく頂いた。
トゥイーディアの髪型は、まだ項を見せていない未婚女性のものだから、すぐに、「あ、新婚さんじゃなくて、婚約者さんね」と言われることも多かったが、トゥイーディアはそういう声を掛けられる度に大いに照れてたじろいでいた。
俺は内心で悦に入っていた。
そうですか、夫婦に見えますか、近いうちにそうなりますんでどうぞよろしく。




