03◆* 藤花の髪飾り(3)
ケイント氏の腕は確かだった。
髪飾りは俺が思っていたよりも数段素晴らしい出来で、着々と出来上がっていった。
その間に、俺はなんとかトゥイーディアの顔を見て話せるようにならねばと、彼女と会う度に挑戦していたが、駄目だった。
というか、トゥイーディアの飴色の瞳が探るように俺を見るのが怖くなってきた。
トゥイーディアはいよいよ日に日に可愛く見えて、彼女が俺に気付いていないタイミングとかは、俺は阿呆みたいにぼんやりして、うっとりと彼女を目で追うことになっていたが、トゥイーディアが俺に気が付くと、俺は決まって目を逸らしてしまった。
いや、なんか、トゥイーディアに俺の底を見られるのが怖いというか……これまでの彼女が、素の俺を知らなかったのは事実だから、「思っていたのと違う」と思われそうなのが怖いというか……。
もちろん、彼女に好きでいてもらうためなら何でもするが、どっちの方向を見ればいいのかが分からない。
他の連中に接するように接すればいいのか、俺が振る舞いたいように、最初の頃に彼女に接していたようにすればいいのか……。
そもそも、そう何回もトゥイーディアに会っていたわけではなかった。
怪我の後遺症が時間差でやって来たのか、コリウスが急に熱を出して、同じ宿に泊まっている以上、俺がその看病で大わらわになっていたりもしたのだ。
コリウスの熱は数日で下がったが、俺はしばらくの絶対安静を彼に言い渡すことになった。
まったく肝が冷える。
俺がそうして戸惑ったり肝を冷やしている間に、髪飾りは無事に完成した。感無量だ。
内側が緑色の天鵞絨のクッション張りになった黒胡桃材の箱に丁寧に入れられて、髪飾りは俺の手許にきた。
そのときはぶっちゃけ俺が大はしゃぎし過ぎたので、それを予期してついて来てくれたらしきカルディオスが、「絶対にそれ、落とすなよ」と、百回くらい俺に言い聞かせながら宿に戻ることになった。
金細工の髪飾りは、それこそ夕陽のような柔らかな金色に真新しく輝き、細工は俺が思っていたよりも数段素晴らしく、藤の花は特に見事に仕上がっていた。
花弁のひとつに象嵌された大粒の金剛石は、いちばん輝くようにとカットされて、傍のあらゆる色を吸い込んで、きらきらと眩しいほどに煌めいた。
――が、難関はここからである。
トゥイーディアにちゃんと話をしないといけない。
俺と結婚してほしいと言わねばならない。
未だに目も見られないほどに彼女の前では緊張してしまう俺が。
季節はもうすっかり春めいていた。
この町を貫いて流れ、海に流れ込む川を望む遊歩道では、藤棚の花が綻び始めている。
藤である。
もはや季節が俺の背中を押しているとしか思えない。
――そんなわけで一大決心。
俺は緊張に震えるほどの気持ちで、とうとうある日、捉まえたトゥイーディアに言い出した。
「――話があるんだけど」
トゥイーディアが、びっくりした様子で俺を見て、目を見開いた。
飴色の瞳に俺が映っている。
俺はどういう顔をすればよいものか分からず、早急に自分で自分の表情を決めねば、彼女に見蕩れる一世一代の阿呆面を見せてしまうという危機感から、取り敢えず顔を顰めた。
トゥイーディアが眉を寄せた。
眉間に薄く皺が寄る。俺は心臓が止まるかと思った。
「話……?」
眉を顰めたまま、彼女が首を傾げる。
長い睫毛の影が頬に落ちている。
半ばを丁寧に結い上げられた蜂蜜色の髪が、する、と彼女の肩を滑った。
可愛い。
彼女が顔を顰めているのは怖いが、それはそれとして世界一かわいい。
機嫌を損ねたかと危ぶむのと彼女がひたすら可愛いのとで、俺は二重の意味でどきどきしていた。
「なに?」
トゥイーディアが俺を見て、瞬きした。
表情が硬い。
俺はちょっと目を閉じて、自分を落ち着かせた。
仮に今日、彼女の機嫌が良くないならば、俺のこの大事な話を今日持ち掛けるのは避けたい。
ちょっとでも勝算を確保した状態で、俺はこの一大勝負に臨みたい。
「あー、明日でいいから」
「明日?」
素直な口調で彼女が繰り返してくれた。
瞬きして、少し柔らかくなった表情で俺を見上げる。
そして、さっきとは逆方向に首を傾げた。
――かっ、可愛い……。
「明日ね。――どこで? ここで?」
ここ、と示されたのは言わずもがなの現在地、俺とコリウスが泊まっている宿の一階の広間である。
彼女は、熱が下がってもなお、俺によって絶対安静を言い渡されて退屈しているだろうコリウスの見舞いに来たのである。
俺はその帰りに意を決して彼女を捉まえたというわけ。
俺は首を振った。
「いや、――あそこがいいな、川の傍の」
川の傍、と復唱するように小さく呟いて(かわいい)、トゥイーディアがこくんと頷く(かわいい)。
「分かった。――ちょっと前に、この町で新聞を買ったところの近くでいい?」
「うん、それで」
そろそろ頬が痙攣しそう。
笑み崩れそうになるのを堪えるのがしんどい。
変な顔になってるかも知れない。
俺はいつでもトゥイーディアの前では格好をつけていたいのに、それが上手くいった例がないのはなんでだ。
トゥイーディアがまじまじと俺の顔を見上げて、ちょっと顔を顰めた。
俺はどきりとした――何かがトゥイーディアの気に喰わなかったのかも知れないと思った。
小さく息を吸い込んでから、彼女が言った。
「他のみんなも?」
「えっ?」
「他のみんなも?」
「――――」
俺は瞬きして、危ぶむ気持ちでトゥイーディアを見下ろした。
――もしかして、彼女は俺が「話がある」と言った真意を分かってるんじゃないだろうか。
確かに、トゥイーディアの立場からすれば、自分に好意があると分かり切っている男と二人で会うのは怖いかも知れない――何しろ、彼女はもう魔法を使えない。
能力的には使えるけれど、それは決してしてはならない。
つまり、理性をどっかに追い遣った俺が彼女に手を出そうとすれば、膂力で俺に劣る以上、トゥイーディアは相当に不利になるのだ。
なんとなく、俺はしゅんとした。
――トゥイーディアが言外に、そこまで俺のことを好きじゃないと言った風なのが悲しかった。
俺に対する信頼がなさそうなのが悲しかった。
けれど、まあ、仕方ない。
俺が頑張って、もっと好きになってもらえばいい。
信頼は勝ち取ればいい――というか、顔を見るだけで緊張しているのだから、俺が彼女に触れるだなんてとんでもない。
息を吐いて、俺は頷いた。
「ああ、いいよ」
トゥイーディアが、ほっとしたように頷いた。
それからまた首を傾げる。
なんなのこいつ、そんなに俺を殺したいの。
なんでこんなに可愛いんだ。
「何時くらいかな。――別に、きみのことなら夜明け前から待っててもいいんだけどね」
「――――っ!」
俺は咽た。
え、なに、なにこいつ、さっきはそこまで俺のことを好きじゃないっていう風だったのに、急になに?
どうした? 俺、かなり掌の上で転がされてる?
思わず額を押さえつつ、俺は声を絞り出した。
「いや、正午頃で」
トゥイーディアが肩を竦めた。
少し決まり悪そうだった。
「了解」
◆*◆
「――ってことだから、明日は付き合ってね」
と、私はアナベルとディセントラに言った。
処はアナベルとカルディオスが泊まっている宿の、アナベルの部屋の前。
ディセントラがアナベルを訪ねていることは知っていたので、こうして私もここに来たわけだけれど――
「――え、なんでよ」
と、思いっ切り胡乱な顔でアナベルが言う。
「話があるって呼ばれたんでしょう? なんであたしたちまで引っ張っていくのよ」
「だって……っ!」
私は拳を握り締める。
「あんな顔で『話がある』って言われたんだもの……! もしかしたら、『やっぱり好きじゃないからこのあいだのことは忘れて』って言われるかも知れないでしょう……っ!」
絞り出すような言葉に、ディセントラは気の毒そうな顔を見せてくれたものの、アナベルはあからさまに「めんどくさい」という顔。
「大丈夫よ。きっと大丈夫よ」
「万が一でも嫌なの!」
私は力説して、アナベルの手を握った。
「一緒に来てよ。『やっぱり好きじゃない』って言われたら、私きっと川に飛び込んじゃうから、そのときは助けに来てよ」
「ねえ、そのときのルドベキア、そんなに嫌な話題を出しそうな顔をしてたの?」
ディセントラが宥めるように私の頭を撫でながら尋ねてくれる。
私はぐっと言葉に詰まり、
「――こ、怖くて、あんまり見られなかったけれど……」
ルドベキアの顔の後ろの一点をひたすら見ていたというか。
「……そのあと、きみのことが好きですって仄めかしたら、」
「うん」
促すように頷く二人。私は項垂れた。
「――かなり困った感じで咽てた……」
心配になる心当たりは他にもある。
最近、コリウスとカルディオスが、私を見ると微妙に――何というのか、隠し事を伏せているような顔をするのだ。
ディセントラとアナベルもそれは怪訝に思っているらしいが、「まあ、男同士で何か企んでるんじゃない」と、割合にあっさりと気にするのをやめていて、私としては、ルドベキアがあの二人に対しては「実はトゥイーディアのことは好きじゃなくて」と打ち明けていたのだとしたらどうしようと思うと夜も眠れない。
「まあまあ、はいはい」
ディセントラが取り成すようにそう言って、ぽんぽん、と私の肩を叩いてくれた。
「きっと大丈夫よ。私たちも見守っててあげるから、とにかく元気を出しなさい」
◆*◆
頑張ってください、と、拳を振って俺を応援する兄貴を夢に見た。
俺は夜明け前に起き出して、宿の寝台の上から、窓の外の空が白んでいくのを見守っていた。
空が藍色から鮮やかな青へと色を変えるのを見届ける頃には、俺はトゥイーディアとの約束を正午にしたことを悔やんでいた。
どうにもそわそわする。
夜が明けて一時間ばかりで、コリウスが俺の部屋を訪ねてきた。
俺が悶々としていることを予期してくれたらしいが、俺は仰天。
「寝てなきゃ駄目だろ!」
と叫ぶ俺に、コリウスはいい加減鬱陶しそうに手を振った。
「寝てばかりで身体が鈍ったくらいだ。もう大丈夫だから」
ほんとか? と疑ったものの、「少しは信じて」と言われてしまって、ちょろい俺はあっさりそれを信じた。
それから俺はコリウス相手に、トゥイーディアが俺に「何があっても、絶対に」好きだと言ったことに関して、その言葉を文法的に解体して、本当に「何があっても、絶対に」彼女が俺のことを好きならば、今日の俺からの申し込みを彼女が断るなんて有り得るだろうか、と、延々と話し続けた。
コリウスは優しくうんうんと話を聞いてくれたが、彼が話の途中で五回くらいは時計を見たことを俺は知っている。
俺がようやく言葉を途切れさせると、コリウスは億劫そうに立ち上がった。
「おまえの大演説のせいで、僕は腹が減った。どこかに食べに行こう」
おう、と頷いて立ち上がったものの、そのあとコリウスと一緒に訪れた小さな食堂で、俺は殆ど何も食べられなかった。
緊張が腹の中に溜まっていたのである。
そのあと、いったん宿に戻って、俺は髪飾りを確認。
緊張の余り、次から次へ悪い予想が頭に湧いてくる。
コリウスは半笑いで、まさか木箱のまま抱えていくわけにもいくまいと、布袋を都合してくれた。
ありがとうありがとう、と、俺はじゃっかん涙ぐむ。
そのあとも、俺がずっとそわそわしているのが耐え難かったのか、コリウスが「もう外に出ていようか」と。
――部屋の中でじっとしているよりは、外を歩いていた方がまだ耐えられる。
俺は諸手を挙げて賛成し、髪飾りをしっかり確認してから、コリウスに続いていそいそと外に出た。
――外は快晴。
春らしい穏やかな陽気。
吹く風がまだ冷ややかに感じられるものの、日向にいればほっとするような暖かさがある。
俺はじりじりしながら、いつもよりも歩みの遅い時間の歩みを監視した。
時計を見付ける度に俺がそれを睨むので、コリウスは完全に呆れた様子だった。
「ルドベキア、睨んだところで針は早く進んだりしない」
「いつもより遅い気がする」
コリウスは息を吸い込んだ。
なんかもう、一周回って俺を憐れむ風情すらある。
「おまえ、実年齢はいくつだ?」
うっ、と言葉に詰まる俺。
コリウスはやれやれと首を振って、俺をさっさと待ち合わせの場所まで連れて行った。
もうこれ以上移動の余地のない場所へ俺を連れて行っていれば、俺がそわそわするのをやめると思ったのかも知れない。
そんなはずないのに。
海へ流れ込む広い水面を望む川岸は膠灰で固めて整備されている。
馬車が擦れ違って通ってなお十分な余裕がある道から、低い階で区切られている川岸は、道というより憩いの場に近いものになっている。
階の上の川岸には、飛び飛びに川を眺める長椅子が設けられていて、その長椅子は藤棚の下にあった。
藤の花が咲き、俺にとっては胸が痛むほど懐かしい優しい色合いの花が、慎ましく、けれどたわわに咲き誇っている。
俺の記憶違いでなければ、トゥイーディアもいちど、「なんとなく藤棚って懐かしい感じがして好きだわ」と言っていたはずだ。
川岸から川面までは小さな崖になっているが、その崖から転落しないよう、華奢な欄干が設けられている。
俺はそれを見て、もしも今日色好い返事が貰えなかったら、下手すれば俺はあの欄干を乗り越えることになるかも知れない、と思い詰めた。
――とはいえ、川に身を投げたところで俺は死ねないが。
人より長い寿命を保証されてしまっているので、身投げした日には、川を流れた挙句に海を漂流し、上手い具合に兄ちゃんのところに行き着くことになるかも知れない。
俺とコリウスは、川縁と通りを区切る階の上に立ってトゥイーディアを待つことにした。
俺は頑張ってじっとしていたが、そのうちにコリウスが、「あのね、」と。
「あのね、ルドベキア。せめてもう少し普段通りの顔色をしてくれないか。これでは、僕がおまえを人質にして、交渉相手を待っているように見えかねない」
なんだそれ、と思いはしたものの、コリウスにあらぬ嫌疑が掛けられるのは本意ではない。
とはいえ自分の顔色をどうにか出来そうにはなかったので、俺は両手で顔を覆うことにした。
「あのねぇ……」となおも呆れたコリウスの声を聞いたが、もうこれが限界なので許してほしい。
っていうか、まあ、この辺りには人気がないけど。
正午の少し前になって、カルディオスとアナベルが連れ立ってやって来た。
どこかで昼を食べてきたらしい。
カルディオスが軽快にアナベルに何かを話し掛け続け、アナベルが言葉少なにそれに応じている。
とはいえ、アナベルもけっこう面白がっている様子だった。
彼女がほんのり笑っていて、時折、「もう」と言うようにカルディオスの腕に触れている。
――シオンさんは見た目にそぐわず案外嫉妬深い人、という話を以前にアナベルがしていたが、大丈夫だろうか。今のを見たらシオンさん、怒るんじゃないだろうか。
カルディオスが俺たちに気付いて、「よう」と腕を上げた。
「よ、もう来てたの」
うん、と頷く俺は呼吸困難寸前。
瀕死の俺の顔色を見て、カルディオスは気の毒そうな顔をした。
アナベルがそれを見て、めちゃくちゃ不思議そうに首を傾げている。
更に待つこと数分で、ようやくトゥイーディアの姿が見えた。
今日は褐色のワンピースを着ている。
ディセントラと一緒に来ているようだ。
“ようだ”、と言うのは、俺の視線がトゥイーディアだけを捉えてしまって、横にいる人の造形をあんまり詳細に捉えなかったがゆえだ。
俺は頭の奥の方がじりじりと熱くなるような気持ちになっていた――トゥイーディアは、時間には正確な人だ。
それが、こんなにぎりぎりになってからここに来るなんて。
今も全く顔を上げていないし、俺に呼び出されたのは、実はめちゃくちゃ嫌だったのでは。
恐慌に陥りそうになる俺の前に、ようやくトゥイーディアが――トゥイーディアと、ディセントラがやって来た。
ディセントラの表情がなんだか草臥れているが、どうでもいい。
トゥイーディアが何やら深刻そうな顔をしている方が、俺にとっては百万倍問題だ。
アナベルがディセントラを見て、なぜか知らないが「おつかれさま」と声を掛けた。
ディセントラがぐったり頷く一方で、トゥイーディアはますます深刻そうな顔。
ほぼ真上からの陽光が影を削っているが、それでもなお翳りのあるその表情。
愁いのある表情もすごく素敵だが、俺が見たいのはその表情じゃない。
カルディオスが、「よう」と声を掛けようとして、トゥイーディアの深刻そうな表情に呑まれた様子で言葉を呑み込んだ。
どう切り出していいものか分からず、時間が停まったような気持ちで茫然とトゥイーディアを眺めてしまった俺だが(あとから考えたが、ここで「大丈夫?」とでも言うべきだった)、トゥイーディアが小さく息を吸い込んだことで、俺の時間が再度かちこちと動き始めた。
トゥイーディアが俺を見て、唇を噛んでから、深刻そうな小声で言った。
「――ごめんなさい、ルドベキア。先に私が話したいことがあるんだけど、いい?」
俺の息が止まった。
――これは予想していなかった。
◆ ◆
トゥイーディアに促され、川縁の方へ歩き出すルドベキアを見送ってから、ディセントラは嘆息を漏らした。
――ここまでの道中、うじうじと続く泣き言に付き合わされてどっと疲れた。
長年の親友だから付き合ったものの、並みの関係ならば癇癪を起こしていただろうことは想像に難くない。
ちら、と、暢気な顔をしたアナベルに瞳を向ける。
「――ねえ、何か訊いた?」
ディセントラに尋ねられ、アナベルはきょとんと目を瞬かせてから、ゆるゆると首を振った。
真上から照らされる陽光に、きらきらと薄青い髪が光る。
「え? 誰から何を?」
ディセントラは溜息を零す。
固唾を呑む風情のカルディオスにちらりと目を遣ってから、ひそめた声で根気強く続けた。
「――ここまで、カルディオスと一緒に来たんでしょ? カルディオスに、最近のルドベキアの態度について、何か訊いた?」
アナベルは、今度はふるふると首を振った。
「いえ、別に。――訊く必要もないでしょう? 見たところ、ルドベキアが緊張しているだけでしょうし。あの性格だから、心配する必要もないことをぐるぐる考えているんでしょ」
「――そうかもねぇ」
疲れた息を吐き、ディセントラは蟀谷を押さえて目を閉じた。
「あの子と一緒にいて、ずーっと陰気臭いことばっかり聞いてるからかしら。なんだか洗脳されちゃって、私まで不安になっちゃうのよ」
アナベルは薄紫の瞳を瞬かせて、率直に呟いた。
「そう。大変ね」
大変ですとも、と、ディセントラは口の中で呟く。
◆ ◆
俺の頭は真っ白である。
そうか、その手があったか。
俺が申し込む前に、先回りして断るという手があったか、と、もうなんか涙が出てきそう。
なんでだ。
トゥイーディア、俺のこと好きなんじゃないのか。
俺が頭の中を総浚いし、自分のどの言動がトゥイーディアの気に入らなかったのか、そしてまだ挽回は可能か、必死になって結論の出ない思案に耽っている間に、トゥイーディアが川縁の欄干に行き着いた。
ぎゅう、と、彼女が欄干を握るのが見える。
数歩遅れて、俺もその隣に立った。
真上から陽光に照らされるトゥイーディアの蜂蜜色の髪が、小さな光輪を作って煌めいている。
表情は強張っていたが、それでも俺のいちばん好きな眼差しを載せていた。
ぎゅっと胸が苦しくなった。
トゥイーディアが俺のことを好きじゃなくなったんだとしても、それを聞かなかったことにしよう、と、発作的に思った。
俺の恋慕の大きさに、トゥイーディアには降参してもらうしかない。
彼女が俺自身の心臓よりも俺の生命に近いところにいるのだと、そう理解して俺に彼女のこの一生を譲ってもらうしかない。
トゥイーディアが小さく息を吸い込んだ。
彼女が口の中で何か呟いた。
言葉は聞き取れなかった。
トゥイーディアが、ふい、と、俺の方に顔を向けた。
飴色の瞳が陽光に煌めいて、それそのものが息をしている宝石みたいに目に映った。
トゥイーディアが口を開いた。
一瞬躊躇ったあと、しかしその一瞬後にはもう何の躊躇いもなく、トゥイーディアが言った。
「――ルドベキア、無理しないでね」
「――――?」
俺は眉を寄せた。
何を言われたのかが、想定と違い過ぎる言葉だったために、咄嗟に分からなかった。
「――え?」
呟くと、トゥイーディアが欄干を向いていた身体を、ちゃんと俺の方に向けてくれた。
トゥイーディアがつらそうな――苦しそうな顔をするのを見て、俺の心臓が凍るほどに痛んだ。
「トゥイーディ――」
「ルドベキア、ほんとに、」
俺の呼び掛けは聞こえなかった様子で、トゥイーディアが重ねて言った。
彼女が少し唇を噛んでから、細い声で囁いてきた。
「きみは優しいから、私がきみをどう思っているのかを気にしたり、最初の人生のことを気にしたり、いっぱいそうやって、気を遣ってくれてるんだろうけど、」
「――ん……?」
おかしい。雲行きが怪しい。
やっとそれに気付いて、俺はいっそう眉を寄せた。
トゥイーディアがまた息を吸い込んで、一瞬目を伏せたあと、また強い瞳で俺を見上げて、言った。
「――無理に私を好きでいなきゃならないとか、そんなことは思わなくていいから。
きみが私を好きじゃないなら、私もちゃんと諦めるから。
だから無理をしないで、ちゃんと言って」
「――――」
唖然として、俺はトゥイーディアを見下ろした。
――トゥイーディアの瞳が震えている。
彼女がきゅっと唇を噛んでいる。
冗談の欠片もないその表情。
――トゥイーディアは真剣だ。
真剣に、俺が彼女を好きではなくなる可能性を議論している。
空の彼方よりぶっ飛んだその可能性に、俺はしばし茫然としてしまった。
「……――なんで……?」
ようやく絞り出したその一言に、トゥイーディアは鼻を啜るような仕草のあとで、応じた。
「……そこまで気まずそうに目を逸らされてたら、分かるもの」
俺は瞬きした。
トゥイーディアの言葉が頭に沁み込むまでに一秒。
そして思わず、俺は喚いた。
「ちっ――違うに決まってんだろ!」
◆ ◆
「あ、なんか叫んだ」
ディセントラは呟き、川縁の二人をまじまじと観察していた視線を、傍にいるコリウスとカルディオスに向けた。
コリウスは、自覚はしていないだろうが前のめりの姿勢になっているし、カルディオスに至っては、臆面もなく祈りを捧げるような姿勢になっている。
ふむ、と少し考え込んでから、ディセントラはつんつん、とカルディオスのシャツの裾を引いて、彼に囁いた。
「――ねえ、ほんとのところ、ルドベキアってイーディのこと好きなの?」
「もう病気だろあれ」
カルディオスが呻くように応じて、腹を押さえた。
いつも余裕綽々、甘え上手なこの男が、こうまで苦しそうにすることも少ない、と、ディセントラは内心で目を見開く。
そうしつつも惚けて、ディセントラは呟いた。
「イーディが、全然目が合わないからもう好かれてないんだ、ルドベキアが好きだったのは最初の人生の私だけだったんだ――って、ものすごく気にして落ち込んでるんだけど、当時を知ってるあんたとしては、どう?」
カルディオスが、がば、とディセントラを振り返って恐怖の表情を見せる。
「やっぱり? やっぱりイーディ、気にしてた? だからちゃんと目ぇ見て話せるようになれって言ったのに――!」
「だから、どうなのよ」
「イーディ、何て言ってた? もうルドに愛想尽かした感じだった?」
「あの子がルドベキアに愛想を尽かすなら、その前に空が落ちると思うけれど」
きっぱりとそう言って、ディセントラはカルディオスの腕を叩く。
「だから、どうなのよ。ルドベキア、最初の人生ではイーディのこと好きだったんでしょ?」
カルディオスが口籠った。
ちら、とルドベキア――今は欄干に縋りつくようにして頽れている。何があったのだ、とディセントラは戦慄した――の方を見て、彼は遠慮がちに。
「いや――あー、まあその、俺から言うのはあれだけど、好きだったとは思うよ」
けど、と言い置いて、カルディオスは腕を組んで眉間に皺を寄せる。
「今ほどじゃねーよ。頭おかしいだろ、あいつ。綺麗に全部忘れた挙句、またイーディに惚れて、それが千年以上だろ。アンスも言ってたけど、頑固さが異常だろ。たぶんあいつ、頭打って他のこと全部忘れても、またイーディを口説き始めるよ」
「いざ気持ちを伝えられるようになったら冷めちゃった、とかは」
「あるわけないあるわけない!」
カルディオスが激しく手を振って叫び、コリウスも、「それはないかな」と。
口調は冷静を装っているものの、濃紫の目がトゥイーディアとルドベキアに釘付けになっている。
「あいつ――あの馬鹿――呪いがなくなったらますますイーディが可愛く見えて困る、みたいなことを平然と惚気てるから――ないないない! あいつは――障害があった方が燃える、みたいなんじゃねーから! 障害がない方が燃えるのに、障害があっても千年以上イーディに惚れ込んでた馬鹿だから!」
「やっぱりねぇ」
アナベルがぼそりと呟く一方で、コリウスが冷静な語調で呟いた。
「カルディオス、本人のいないところでそれを言うのはどうかと思う」
「あ」
口を押さえるカルディオス。
ディセントラは思わず安堵の息を漏らしたが、そのときアナベルが声を上げた。
「待って、動いた」
え、と、ルドベキアとトゥイーディアの方へ注視を戻すディセントラ。
確かにルドベキアがトゥイーディアを、藤棚の下へ誘ったようだった。
身長に恵まれているくせにおずおずとした仕草で誘うので、まるで何かのお許しを待っている大型犬にも見える。
「うぁぁぁぁ――」
カルディオスが呻いて、階の上でとうとう膝を突いた。
両手を合わせ、もはや彼は祈るように。
「なんとかなってくれなんとかなってくれ……」
「相思相愛なら何ら心配はないと思うよ」
そう言いながらも、コリウスも固唾を呑んでいる。
何の話だ? と訝ったディセントラはその刹那、ルドベキアが肩から提げていた布袋を思い出して、天啓を受けた気持ちで息を吸い込んだ。
あれは――あの中身は――
◆ ◆
――違うに決まってんだろ……!
思わず、欄干に縋りつくようにして、ずるずるとその場に頽れる俺。
「えっ」と声を上げたトゥイーディアが、慌てた風情で俺の傍に膝を突いて、俺の顔を覗き込むようにする。
「えっ、違う、って」
「違うに決まってんだろ……」
俺は思わず欄干に額をぶつけた。
「わっ」とトゥイーディアが声を上げる。
なんかもう泣きそう。
そうか、そっちか。
そういう風に誤解させてたのか。
トゥイーディアの深刻そうな顔の理由が分かった。
俺に失望したわけではなかったのか。
いや、でも、それよりもっと悪い。
顔を上げて、目を見開いているトゥイーディアの顔を覗き込む。
もう緊張とか言ってる場合じゃねえ。
「ごめん、誤解させたのか」
「あっ……あの……」
「また傷つけた? 本当にごめん」
「あの……」
悔悟の念で死にそうな俺に、トゥイーディアがあわあわと口を挟んでくる。
彼女がぱちりと瞬きした。
飴色の瞳がふるふると揺れて、さあっと顔が赤くなる。
「あの……誤解というのはつまり……?」
語尾を上げて、お伺いを立てる感じで首を傾げるトゥイーディア。
――前言撤回。
やっぱり緊張とか言ってる場合だった。
あんまりにも彼女が可愛いので、俺は思わず目を逸らして、足許の白っぽい膠灰を見つめることになった。
「……好きじゃなくなるなんて絶対に有り得ない――」
呟いた俺の視界に、ずい、と入ってくるトゥイーディアの手。
手を地面に突いて、トゥイーディアがぐい、と俺との距離を縮めてくる。
どうやらトゥイーディアは俺に差し向けられた暗殺者か何かだったらしい。
俺の心臓が口から飛び出そうと翼を得た。
「じゃあなんで目を見てくれないの」
トゥイーディアが、じゃっかん拗ねた口調でそう言った。
俺はじりじりと膝で下がりつつ、うっ、と口籠る。
俺が下がった分だけ距離を詰めて、トゥイーディアが「ねぇ」と俺を促す。
そのとき俺は思い至った。
あのとき、最初の人生で会ったときのトゥイーディアは、俺に好意がなかった――あったとして、表には出せなかった。
それであれだけ可愛かった。
そして今。今のトゥイーディア。
少なくとも俺に好意があるらしいトゥイーディア。
しかも加えて、俺はあのときに比してもトゥイーディアに惚れ込んでいるときている。
――よりいっそう可愛くないわけがない。
思わず両手でトゥイーディアを制止し、俺はその両手で顔を覆った。
「違う……マジで、これは……」
ああもう駄目だ。
なんでこう、俺はトゥイーディアの前で格好をつけられないんだろう。
「……お――おまえの前だと緊張して……」
トゥイーディアが、びっくりしたように肩を跳ねさせた。
勇気を振り絞って顔を見ると、彼女は大きく目を見開いていた。
きょとん、と瞬きして、トゥイーディアが両手で唇を覆う。
「――緊張?」
「――――」
無言で俺は頷いた。
トゥイーディアはなおも瞬き。飴色の瞳にちらちらと光が踊る。
「緊張? ――照れてるの?」
照れ、なんていう可愛らしいものではなく、これはもはや俺の恋慕の情が俺の胸中に仕舞っておける規模でないがゆえの深刻な障害だったが、そんなことを言ってトゥイーディアを怖がらせる気は毛頭ないので、俺はやっぱり無言で頷いた。
トゥイーディアが、そうっ、と、俺の腕に触れてきた。
不意打ちだったので、俺は思わず「おわっ」と叫んで飛び上がったが、トゥイーディアはその反応にびっくりしたように、飴色の瞳が零れてしまうんじゃないかと思うくらいに目を見開いた。
それから、おずおずと首を傾げる。
「あの……触られるのとか、傍に寄られるのが、嫌なわけじゃ、ない……?」
「嫌なわけ……っ」
言下に答えそうになって、いやここでがっついたら怖がらせることになるかも知れないぞ、と気付いた俺は息を吸い込み、目を逸らし、それからまた苦労してトゥイーディアに目を戻して、絞り出すように訴えた。
「――嫌なわけ、ないだろ……」
トゥイーディアが瞳を瞬かせる。
彼女は瞬きひとつとっても、他の人間と明らかに違う仕草をするが、今もそうだった。
透明感のある、見えない煌めきが満ちるような、そういう仕草。
俺は唇を噛んでから、言った。
ともかくもトゥイーディアを傷つける誤解は解いておかねばならない。
「その……そう、――照れてるだけ」
トゥイーディアがますます目を見開いた。
唇を両手で押さえて、彼女が感無量といった声音で。
「――照れてるの……」
茫然と呟き、そしてトゥイーディアが俯いた。
「良かった」と呟いたのが聞こえて、彼女の肩が震えるのが分かった。
俺はたじろいだが、俺が狼狽えているうちに、トゥイーディアが顔を上げて俺の顔を見てしまった。
――眩しい。
駄目だこれ。
俺はちょっと目を閉じて、それからまた開けた。
トゥイーディアはちょこん、と首を傾げ、明るくなった表情で、探るように俺を見ていた。
「――じゃあ、今日の話ってなんなの?」
ちょっと眉を寄せるその表情。
「私、てっきり振られるものだと思って、ものすごく悲しい気持ちでここまで来たのよ、ばかもの」
「ごめん……」
本心から謝ると、トゥイーディアは唇を噛んで、ぎゅっと拳を握った。
「ルドベキアが優しい……」
本気で、心の底からの口調でそう呟かれてしまったので、俺は罪悪感で死にそうになった。
が、俺はもう死ねない身体なので、もう少しいい方向に物事を考えることにする。
「これからいっぱい優しくするよ」
そう言って、俺は立ち上がって、掌をズボンで擦ってから、トゥイーディアに手を差し出した。
「トゥイーディ、イーディ、ディア。
話があるんだ。あっちで座ろう」
トゥイーディアが、差し出された俺の掌をぽかんとして見ている。
それから、おずおずと――まるでこの掌が幻か何かなんじゃないかと疑うような、そういう感じで――俺の手を取ってくれた。
彼女を引っ張り上げて立たせると、トゥイーディアの顔がはっきり分かるほど赤くなった。
立ち上がっても俺の掌を離さず、それどころか両手で握って、確かめるように指を絡めたりしてくるトゥイーディア――
――かわいい……。
トゥイーディアに触れているところに、身体中の神経全部が引っ張られているような、そんな感じがする。
俺は、世の中の奇跡がこれほど一人の人に集中してしまって、それでよくトゥイーディアは今日まで刺されずに生きてこられたな、というようなことを考えながら、おずおずと彼女を藤棚の方へ促した。
「トゥイーディ、座って」
トゥイーディアが俺を見て、赤い頬ではにかむように笑った。
うん、と頷いて、素直に藤棚の方へ足を向けながら、トゥイーディアが悪戯っぽく囁く。
「――変わった呼び方をするのね。私、その呼ばれ方、好きよ」
「――――っ」
なんでこいつはこんなに可愛いんだろう。
あるいはトゥイーディアは、どうして俺専用の重力を備えて生まれてきてしまったんだろう。
これではまともに話せない。
そう思いながらも、俺はトゥイーディアに手を引っ張られて、藤棚の下の長椅子に腰掛けることになった。
きらきらする川面が欄干越しに見える。
トゥイーディアが嬉しそうに藤の花を見上げて、ほんのりと笑った。
木漏れ日が彼女の頬でちらちらと煌めいて、俺は息も止めてしまう。
「綺麗ねぇ。――ルドベキア?」
トゥイーディアが、頭上から俺に目を移して首を傾げた。
蜂蜜色の髪に木漏れ日が映る。
飴色の瞳が柔らかい影になっていて、しかしそれでも明るさを吸い込むようにして煌めく。
――俺の、朝のいちばん眩しいところ。
見蕩れるというより吸い込まれるといった方が近い。
俺は息も詰めながら彼女の表情を見つめて、思わずぼろっと呟いた。
「――本当に愛してる」
トゥイーディアの頬が、なおいっそう、ぱっ、と赤くなった。
耳まで赤くなりながら、トゥイーディアが両手で顔を覆ってしまう。
そのままこくこくと頷く彼女が愛おしくて、俺は涙を堪える羽目になった。
布袋から、そうっと木箱を取り出す。
トゥイーディアは顔を覆っていたから、多分それは見ていなかった。
ただ、俺が隣から立ち上がった気配を察したのか、慌てたように彼女が掌から顔を上げた。
不安そうに瞬きして、「ルドベキア?」と俺を呼び、
彼女の目の前に膝を突いた俺を見て、トゥイーディアが息を止めた。
ぱち、と瞬きしたトゥイーディアが、ぽかん、と小さく口を開ける。
「――ルドベキア?」
訝しむように俺を呼ぶトゥイーディアに、もはや祈るような気持ちで、俺はそうっと木箱の蓋を開けた。
滑らかに開いた蓋の下で、ふっかりとした天鵞絨のクッションに、彼女のための金細工の髪飾りが安置されている。
トゥイーディアが硬直した。
髪飾りを見て電撃に打たれたように固まり、それから目を見開いて俺の顔を見て、もういちど髪飾りを見た。
髪飾りが、木漏れ日にきらきらと光っている。
トゥイーディアが両手で口許を押さえた。何かの声を堪えたようだった。
俺は息を吸い込んだ。
「――トゥイーディ、イーディ、ディア。心の底から愛してる。
今も、これまでも、これから先もずっと、俺の唯一最愛のひと。――結婚してくれる?」
トゥイーディアが俺を見た。
彼女の大きな飴色の瞳に涙が膨らむのが見えた。
ぼろ、と、その大粒の涙がトゥイーディアの頬に転がり落ちて、俺は思わず木箱から片手を離して、彼女の頬を落ちる涙の粒を拭う。
トゥイーディアが啜り泣くように肩を震わせ、こくん、と頷いた。
彼女の両手が持ち上げられて、涙を拭った俺の手を握った。
――温かくて繊細な、俺の好きな人の指。
「……――はい」
トゥイーディアが呟いた。
あんまりにも小さな声だったので、俺はそれが空耳ではないかと思った。
だがすぐに、トゥイーディアが俺の手を握る指に力を籠めて、
「――はい」
はっきりした声で囁き直した。
涙に濡れた飴色の瞳が、髪飾りの煌めきを捉えて輝いている。
「はい、喜んで」




