66◆ あなたを見つめる
俺は目を開けた。
――柔らかい地面の上だった。
「――う」
小さく呻いて、身体を起こそうとする。
地面に突いた手が冷たい感覚を得て柔らかく沈み込み、俺はそこが砂浜であることを知った。
清涼な、冷えた潮の匂いが辺りに満ちている。
――どうやら、千年前の自分が造った出来損ないの階段を這い出すうちに、背後から迫る熱波に押し流されるような格好で、ここまで辿り着いていたらしい。
頭でも打って気絶していたのか。
身を起こし、濡れた髪を掻き上げて、夢心地で周囲を見渡す。
夢心地ではあっても夢ではなかった――身動きした途端に劈くように痛んだ全身が、これが現実であることを俺に教えていた。
ここは波打ち際だった。
ひたひたと寄せる穏やかな波が、俺の足許に打ち寄せてきて、俺という異物に戸惑った様子で翻っている。
どのくらい気絶していたのか――すっかり濡れた全身が冷たい。
――沁み入るほどの静寂。
全身の傷が痛み、指先は冷え切って感覚がない。
ゆっくりと両手を持ち上げ、期せずして濡れた砂を掬い上げたようになったその指を、ちゃぷちゃぷと寄せては返す波で洗うようにしてから、俺は確かめるように、両手の指を握って、開いた。
幾度かそれを繰り返す。
両手に感覚が戻る。
――時刻は払暁を迎えていた。
空が白み、涙が出るほどの透明感を湛えて、東の空が明るい白金色に輝き渡りつつあった。
水平線に、一直線に煌めく輝線が見えている。
流れる雲が茜色を帯びた真珠色に照らし出され、新しい朝を――全く新しい朝を歓迎している。
辺りは、刻々と明るくなりつつも、まだ曙光の差す前の、輝かしい影のような暗がり。
ひたひたと、夜から朝へ変わりつつある海が、俺たちの足許に寄せてきている。
静かな、穏やかな、静寂の一部のような海の音。
波打ち際で、俺と同様に横たわっていたみんなが、次々に、ゆっくりと身を起こそうとしていた。
コリウスが、痛みを堪える懸命の仕草で身を起こし、周囲を見渡して目を細める。
潮水に傷が触れることを嫌って、彼が両手を砂の中に突いて、ゆっくりと膝立ちの姿勢を取った。
そのまま危なっかしくよろめきつつ、なおも濃紫の瞳で、確かめるように周囲を見渡すコリウス。
アナベルがゆっくりと起き上がって、ちゃぷん、と浅い波の中に座り込んだ。
茫然とした様子で、星が消えつつある天穹を見上げる。
彼女が両手を持ち上げて、頬を押さえた。
息を詰めているように見えた。
カルディオスが濡れた手で髪を掻き上げてから、その手指に砂浜の白い砂をくっつけていたことに気付いた様子で、きょとん、として自分の両手を見下ろし、静かに息を吸い込む。
ゆっくりと両手を握り込んで、カルディオスが翡翠の瞳で俺たちを順番に、確かめるように振り返って、見渡した。
彼の目許が赤い。吐いた息が震えている。
ディセントラが、半ば横たわったような姿勢のままで、茫然と周囲を見渡していた。
赤金色の髪が一筋、波に泳ぐように砂浜の上に垂れている。
ディセントラは俺たち一人一人を目で追って、数えて、そして大きく息を吸い込んで、俯いた。
ぽたぽたと涙が落ちていくのが見える。
――息を憚るような、その数秒。
本当に母石が壊れたのか、全員が危ぶむ、その一瞬。
――母石が壊れたならば呪いも消える。
だが、消えたのだとすぐに分かる呪いは少ない。
そんな呪いは一つしかない。
ずぼ、と、沈むような足許を踏みしめて、膝を突いて、俺は立ち上がった。
一瞬目が眩んだが、それも本当に一瞬のことだった。
濡れた軍服から砂を払おうとしたが、すぐにそれは諦めた。
軍服の外套から雫が落ちて、それがささやかな音を立てて波の上に落ちる。
しずしずと慎ましく寄せる波は、波紋も隠して――寄せては返し。
遥か彼方、東の水平線の向こうから、真新しい太陽が顔を出した。
白く眩しい曙光が真っ直ぐに天穹を照らし出す。
東の水平線の際がひときわ白く輝き、そして花びらのような薄紅の色を経て、中空は青色を思い出したかのように、清々しいその色に息づき始める。
曙光が海を伝って、真っ白に波を煌めかせながら、世界を明るく塗り替えていく。
一歩、足を踏み出す。
眩しさが目に染みて、涙が滲んだ。
俺の足許で波が揺れた。
曙光を受けて、海が透明な緑色に澄み渡っていく――
更に一歩。
よろめいたが堪えた。
ゆっくりと――俺からすれば永遠にも等しいほどゆっくりと数歩を進んで、俺はしずしずと寄せる波の中に膝を突いた。
柔らかい音を立てて波が跳ねた。
目の前で、身を起こしたトゥイーディアが――俺にとっての、朝のいちばん眩しいところが――、明るい世界に驚いたかのように辺りを見渡している。
瞬きして、彼女が俺を見た。
あの飴色の瞳。
睫毛の影が頬に落ちる。その白い頬に傷がある。
そのことに、俺の胸がぎゅっと痛む。
海水に濡れた蜂蜜色の髪から雫が滴っている。
トゥイーディアが髪を耳に掛け、それから首を傾げた。
長い睫毛が、目の前にいる俺に驚いたように瞬く。
息を吸い込んで、彼女が何か言おうとする。
「――――」
膝を突いたまま、少し身を乗り出すようにして、俺は目を閉じてトゥイーディアの額に額を寄せた。
こつん、と互いの額がぶつかって、トゥイーディアの息遣いを傍に感じる。
波の下の、柔らかい砂に埋もれた細い指を、同じく砂に埋もれるような指で探って、俺の指先を彼女の指先に寄せるようにして、握る。
びっくりしたように固くなったトゥイーディアの指が、しかしすぐに、ゆっくりと――探るような動きで、俺の指を握り返してくれた。
冷えた指先。
微かに震える指先。
息を吸い込む。
胸が詰まる。
目を開けて、すぐ傍にある飴色の瞳――息を呑むような、鮮やかにたくさんの感情が行き交うその双眸を見つめ、淡く色づくその頬に目を細めて、俺は口を開いた。
唇が震えたが寒さのゆえではなかった。
「――トゥイーディ、イーディ、ディア」
トゥイーディアが、おずおずと――はにかんだように、探るように、微笑んだ。
俺の胸が痛むほどの繊細さで。
曙光がトゥイーディアの片頬を照らし、彼女は眩しそうに目を眇めている。
濡れて解れた蜂蜜色の髪が、陽光を受けて金色に透ける。
トゥイーディアの手を握る指にやんわりと力を籠めて、俺は囁いた。
千年ぶりとなる想いを告げるその言葉を。
「――愛してる」
トゥイーディアの飴色の瞳が、曙光を受けて煌めいた。
膜が張ったように柔らかく煌めいて、そして温かい滴が頬に落ちる。
その滴も、真新しい陽光に白く煌めいて、トゥイーディアの頬を伝って海に落ちた。
それと同じ滴が、後から後からトゥイーディアの双眸から溢れて、次々に頬を伝っていく。
濡れた睫毛が曙光に煌めく。
彼女が俯いて、小さく肩を震わせる。
俺の手を握る細い指に力が籠もる。
――トゥイーディアがどんなときに泣くのか、俺は知っている。
多幸感でこっちまで泣きそうだ。
だが泣くわけにはいかない。
せめて――せめて今だけは、御伽噺の英雄のように格好をつけて、彼女の返事を待ちたいのだ。
トゥイーディアが顔を上げて、唇を噛んだ。
その一瞬、彼女の唇が震えた。
だがそれも本当に一瞬だった。
――にっこりと微笑んで、トゥイーディアが頷いた。
ルドベキアの名前の由来は《ルドベキア》。
ルドベキアの花言葉は、「あなたを見つめる」。
この物語は、すれ違って背中合わせに立っていたルドベキアとトゥイーディアが、
お互いに向き合おうと足掻き、互いに互いを見つめるまでの物語。
これにて完結となります。
《後日談》が投稿される可能性がございますので、
ご興味のある方は更新通知をそのままに。
詳しくは活動報告にて。
長い長いこの物語にお付き合いくださった方に、
心から感謝申し上げます。




