58◇*◆救世――〈人間〉
おれは、人間になるまでは――つまり、生じたときには――もうひとつのおれの、すなわち世双珠の母石の片割れだった。
世界で最初に誕生した世双珠の、人格と情緒を獲得したその一部分。
おれと、もうひとつのおれとの違いは、長い長い間、その情緒の有無のみであると言われていた。
おれが情緒を獲得したがゆえに、母石が二つに分かれたのだと。
――では、そもそもどうして。
どうして、おれが情緒を獲得して、この世に存在しているのか。
そんなことは今日まで考えたこともなかった。
自分が生まれた意味を真剣に考察する人間がどこにいるというのか。
少なくともおれにそんな無為な趣味はなくて、だが今この瞬間にははっきりと分かっている。
ムンドゥスがそう望んだからだ。
地面に向かって傾ぐ視界の中で、肩の重荷を下ろしたかのような身軽な仕草で、罅割れだらけの小さな口を開いて欠伸を漏らしている、親愛なるおれの姉上――
彼女は何だ?
世界だ。
危機に瀕した人の世界、人の主観、人の客観が、ああして形を作ったものだ。
余りに傷付いた世界はその主観に倣った形を得るのだ――
――おれが人の形を模して創られたように。
今やおれの全身が痛んでいた。
痛い――そう表現することすら憚られる。
これは何だ、サイジュとは違う――身体を削られる、あの苦痛とは全く違う。
おれの内側にある心臓が何かの果実のように絞られて、そしてその血液を呑む何かに足許から喰われていっているかのような――丹精込めて育てた花が突如として凶悪な食虫花と化して牙を剥き、おれの両手を齧って丸呑みにしたかのような――、これは。
数秒が引き延ばされるその一瞬に、おれの脳裏には馬鹿みたいな空想が過っている。
薄暗い部屋で背伸びをして、粘土を固めておれの形を作っているムンドゥス――出来上がったおれの顔を見て、彼女が言う――『あなたはわたしのためのものなのよ』。
――そうだ。
おれはムンドゥスの、最後の緊急避難の手段だ。
もうひとつのおれが生じたあの遠い昔の日に、ムンドゥスが果たして、彼女を追い詰め滅ぼす引き金を人間が引くことになると知っていたのかは分からない。
だが少なくとも、滅ぶのであれば最初に人の世界が滅ぶのだと、彼女は知っていたに違いない――あるいはそのように創っていたに違いない。
人の世界が傷ついたとき、ムンドゥスは人の形を取る。
そしておれは、最初から人の形を――いや、傷付き切ったムンドゥスの形をこそ真似て、今この瞬間のために創られた。
おれの役目は、ムンドゥスの痛みを引き受けることだ。
同じ形をした姉の苦痛を引き受け、癒えぬまでもその最期を誤魔化す麻薬の毒、そういったものとして創られた。
己に害成す世双珠までをも最後の緊急避難の手段として利用し切るとは、人形のような見た目をして、なんと狡猾で、なんと懸命な。
あるいはムンドゥスが世双珠に向ける毒の情愛ですら、この認識が――世界最初の世双珠を彼女自身の意思で二つに割ったことが――歪んで認知された結果なのかも知れない。
その真偽は分からないが、もしも仮にそうだとすれば、――親愛なる姉上、なんと愚かな、なんと本末転倒な。
――今の今まで、たった一人でこの痛みに耐えていたというならば、――なんと孤独な。なんと憐れな。
もしも仮に、この痛みを理解できる唯一のものがおれであるというならば、あぁそうだろう、そのひとつの事実のみを以て、ムンドゥスはおれを愛しただろう。
孤独を拭うに足るものがおれだけならば。
「――アンス!」
「兄ちゃん!」
声がする。
目が見えない。
たぶん、目の前におれの親友とおれの息子がいるはずだ。
目が眩んでよく見えない。
起き上がろうとするが、余りにも全身が痛い――いや、これは本当に全身の痛みか?
もはやそんなものでは語り切れない、これまで生きてきた、おれの全生涯が痛みを訴えているかのような。
誰かが、おれの腕を掴んでおれを引っ張り上げ、そして肩を貸すような格好を取った。
それは感触で分かったが、おれには状況がよく分からなくなっていた。
何か――何か厄介なものを追い払ってやっていたはずだった。あれは何だったか。
騒がしい。
耳の中に音の濁流を注ぎ込まれているかのよう。
怒鳴り声、低く抑えた声、狼狽の声が入り混じる。
誰かがおれを引っ張って、どこかへ連れて行こうとしているような気がするが、そんなことは関心の対象たり得ない。
――痛い。全てが痛い。
全ての記憶、全ての予感が痛い。
どこにも逃げ場がない。
おれは独りだ。
――『それに、俺がいなくても、これ、俺と一緒だよ』。
不意に懐かしい声が聞こえた気がして、おれは目を開いた。
目を開いたことで、自分が目蓋を閉じていたことに気が付いた。
暗い。
辺りが暗くてよく見えない。
右手を動かそうとしたが、劈くような痛みがあってそれも難しかった。
自分が今、立っているのか座っているのか、あるいは横たわっているのかさえ分からない。
分からないまま視線を下げようとする。
あれは。
あれはどこだ。
おれの空は。
左腕を動かそうとする。
ここに。
確かここに。
「――ヘリアンサス」
切羽詰まったような声がおれを呼んで、おれの左手首がぎゅっと掴まれた。
「ヘリアンサス、どうした。
――おい、腕輪なんか気にするな、また同じようなの買ってやるよ」
怯えたような小声でおれの息子がそう言うのが、辛うじて耳朶に引っ掛かるようにして聞こえた。
おれは呟きで応じたが、それが言葉の体を成したものかどうかは分からなかった。何しろ全てが痛かった。
「――これがいいんだ、馬鹿息子」
おまえがくれたおれの空だから。
周囲が沸騰したようにうるさい。
まさに、沸騰した熱湯の中に放り込まれればこんな風な音が聞こえるかも知れない――意味の取れないざわめき。切迫感のみが漂う騒音。
その中で少し黙ったあとで、ルドベキアがはっきりと言うのが聞こえた。
「――大丈夫、傷もないよ」
おれはそれで安心した。
安心したとはいえ痛みは酷かった。
必死に目蓋を持ち上げて、おれにこの痛みを無理やりに分け与えたムンドゥスを捜したが、周囲が暗くてそれも覚束ない。
結局、おれは吐き出すように呼んでいた。
「……ムン――ドゥス。ムンドゥス」
「なあに?」
ムンドゥスが応じた。
前触れもなく、視界いっぱいに、ムンドゥスの傷だらけの顔貌が迫っていた。
両眸すら潰れて壊れ掛けの陶器の人形のようだ。
だがそれでも間違いなくおれを見て、彼女は陶然と応じている。
「なあに、ヘリアンサス。――ほんとうにいい子ね。
あなたはわたしのためのものなのよ」
◇*◇
――そしてこの瞬間、ヘリアンサスを除けば、私だけが事情を理解できる唯一の人間だった。
私とヘリアンサスの間には繋がりがある。
今夜を限りに消滅していくはずの繋がりだ。
そしてその繋がりゆえに、私はヘリアンサスが理解したことを同じく理解することが出来る。
――ヘリアンサスが倒れるところなど、私たちは見たことがない。
そのために全員が度を失っている。
コリウスとアナベルでさえ顔色を変えている状況で、そして分けてもルドベキアとカルディオスの動揺が大きい。
とにかく四方をレヴナントに包囲されることは避けて、なんとか岩壁に開いた洞穴の中までヘリアンサスを運んだけれど、このままでは本当に一歩も進めなくなってしまう。
ヘリアンサスは――ヘリアンサスが受け容れてくれたことは、今夜の私たちの行動の要なのに。
ヘリアンサスは、自分が今どこにいるのかすら把握していないようだった。
唇の下まで悪罵が衝き上がってきたのを堪えるために、私は強く唇を噛んだ。
何をどう転んでも、私がヘリアンサスに好意的な行動を取ることは無理であって、今この瞬間すら同情の欠片も湧きはしない。
だからこそ、倒れるならもっと先まで進んでから倒れろと文句の一つも言いたくなったのを、寸でのところで堪えたのだ。
堪えた理由はただ一つ、そんなことを言おうものなら、今度こそ完膚なきまでルドベキアに嫌われてしまいそうだからだ。
――ああああ、あああ。
洞穴の外から、這うように低いレヴナントの呻き声が聞こえてくる。
もう近い。もう距離がない。
狭く、奥行きばかりがある冷えた洞穴の中で、私はヘリアンサスの様子を窺った――いや本当は、窺うまでもなく様子は分かるのだ。
だからこれは、私の悪足掻きに近い期待の表れだった。
せめて顔だけでも上げていないか、という。
しかしヘリアンサスは、ムンドゥスを呼んだのを最後に力尽きたように横たわっている。
ごつごつした岩壁に上体を凭せ掛けて、本当に今際の際のようだった。
ルドベキアがそのすぐ傍で膝を突いていて、今にもヘリアンサスが死ぬのではないかというような――そしてそれを深刻に恐れている顔をしている。
――そんな顔は見たくないのに。
レヴナントがにじり寄って来る。
焦燥の余りに頭の中が熱くなる。
ここを凌がなければ。
ここを凌いだだけでは到底まだ足りないけれど、それでもまずはここを、この局面を凌がなければ。
みんなもう魔力がない。
辛うじて余裕があるのはアナベルくらいか――あの子にとって有利な戦場が多かったから。
だがそれも、余裕に数えることも躊躇する程度のものだ。
そもそも、ルドベキアがナイカクを突破して、その向こうにある穴ぐらに至るまでに、私たちは魔力を回復しておかねばならないのだ。
本当ならもう一滴の魔力も浪費したくはない、そんな局面にあるのだ。
そして加えて、みんなが疲れ切っている。
この夜に島を幾つ越えたのか、十分以上の強行軍だったのだ。
こんなの、訓練された遠征隊でも精根尽き果てるに決まっている。
洞穴の入口付近で膝を突いて、ディセントラがぱっと手を振った。
みんなそうだが、ディセントラももう怪我だらけだ。
整った頬から血が流れているし、あちこちに切傷や火傷、打ち身を拵えてしまっている。
息も上がって、ディセントラは困惑と同じくらいに、取り敢えず足を止められたことへの安堵も顔に浮かべていた。
夜陰に鮮やかな火花が散って、遠雷のような音と共に、レヴナントの群れの半ばで爆発が起こる。
一瞬間の紅蓮の陰影――ぱっ、と散るレヴナント。
だがその数が一向に減らない。
「――どういうこと?」
アナベルが、抑えた囁き声で呟いた。
私に尋ねたというよりは独り言のようだった。
岩壁を辿るようにして、アナベルがずるずるとその場に座り込む。
薄青い髪が乱れて、彼女がぜぇぜぇと息をつく。
アナベルの白い指先に無数の切傷が走っているのが見えた。
薄く伸びた血液が白い肌を汚している。
いつ切ったのだろう、気付かなかった。
「ヘリアンサスが、あの様子だと――」
コリウスが、憚るような小声で言った。
さすがというべきか、正解に近いところまで瞬時に察しているらしい。
そして、私ほどではないだろうが私と同様、ヘリアンサスに同情を寄せることはまずないだろうコリウスは、ヘリアンサスという最大戦力が使えなくなったことに対して、素直極まりなく顔を顰めている。
ヘリアンサスと、その傍のルドベキアとカルディオス。
私たちは洞穴の入口側で声を低めて、これでは本当に、誰かの臨終に当たってその家族友人に気を遣っているかのようだ。
なんだか腹が立つ。
「イーディ?」
ディセントラが薔薇色の瞳で私を見上げて、首を傾げた。
不本意だが、ディセントラの考えは正しい。
ヘリアンサスのことならば、私に訊くのが一番話が早い。
「早い話が、ヘリアンサスがムンドゥスの身代わりになってるみたいだけど、」
私は口早に応じて、真っ暗な洞穴の中で目を凝らしてムンドゥスの様子を窺った。
――今なお罅割れに覆われ、ともすれば崩れていきそうな、世界そのもの。
――思わず舌打ちを漏らす。
「――駄目ね、引き受けてるのは本当に、ムンドゥスの苦痛だけで、別にムンドゥスの余命が延びてるわけじゃないわ」
息を吐いて、私は苛立ちも露わに続けてしまっていた。
「良かったじゃない、おまえ、人間になってて。これ、おまえが人間じゃなかったら、仮初の肉体に穴の一つも開いてたんじゃない」
「――――」
ヘリアンサスは反応しなかったが、それが苦痛の余りのことであると私には分かる。
「……ああ、もう……」
思わず、私は苛々と爪を噛んでいた。
言葉には出さなかったものの、ここでヘリアンサスが真実ムンドゥスの身代わりになれるのならば話は早かったのだ。
私たちはヘリアンサス一人を生贄に捧げるだけで良く、さっさとこの危険極まりない島から脱出して、翌日からいつもと変わらぬ毎日を過ごしていくことだって出来る――あちらのヘリアンサスが残る以上は、呪いも残るから、本当に幸せに、とはいかないかも知れないけれど。
けれどルドベキアが健やかに幸せに生きていってくれさえするなら、私にとってはそれが最適解だ。
どうせなら本当の意味でムンドゥスの身代わりになってくれれば良かったのに、と思ったのは私だけではないようで、コリウスもアナベルもディセントラも、咄嗟にその感想を喉の奥に留めたようだった。
目が合ってそれが分かった。
伊達に長いこと付き合ってきたのではない。
「――おい」
私の正直な感想は口に出さなかったのに、それでも言外にその本音を感じ取ったのか、ルドベキアが私を睨んできた。
私は内心で大いにたじろいだ。
ルドベキアだって私がヘリアンサスをどう思っているかは理解しているだろうから、睨まれたことにたじろいだのではない。
ただ、ルドベキアがこの緊迫した状況でさえ、私に視線を配ったことに驚いて、不意を打たれたように感じてしまったのだ。
カルディオスが素早く手を伸ばしてルドベキアの腕を叩き、彼を窘めてくれている。
ルドベキアの方は見ていない――カルディオスの整った顔は強張って、恐怖を浮かべてヘリアンサスを凝視していた。
ルドベキアもまた、すぐに私から視線を外して、ヘリアンサスの顔を覗き込んだ。
彼も洞穴の外を気にしている。
表情に焦りが濃い。
「ヘリアンサス、おい、兄ちゃん。痛いのか――立てるか?」
ルドベキアが、やや声を大きくして言った。
ヘリアンサスが億劫そうに黄金の目を開けて、動こうとして、そして動きを止めた。
すうっとその瞼が閉じたのが分かって、私は危うく悪態を吐きそうになる。
――立たせなければ。立って歩かせなければ。
ルドベキアが、流れるように視線をカルディオスに移した。
彼の、こういうときの切り替えは本当に素早い。
「カル、俺がこいつを背負っていくから、立たせるのを手伝ってくれ」
カルディオスが首を振って、「俺が背負うから」と口早に応じた。
私は――なるほど、カルディオスは準救世主である今、最も魔力対効果が高くなる魔法である得意分野を使うことが出来ないから、だから戦力として一歩下がる位置にルドベキアではなく自分を置こうとしているのだな、と了解した。
が、ルドベキアはそうは思わなかったらしかった。
「いいから」と、頑ななまでに言い張っている。
コリウスが何か言おうとした。
その機先を制するようにして、ルドベキアがきっぱりと言った。
「大丈夫だ、こいつ、人間にしては目方が軽い」
ヘリアンサスがもういちど目を開けて、何か言った。
傍のルドベキアにもカルディオスにも、その声は聞こえなかっただろう。
けれど私には、聞こえずとも何と言ったのか分かる。
「おれは荷物じゃないよ」と、そう言った。
今度こそ堪え切れずに舌打ちして、私は一歩踏み出した。
――平生であれば、問題はない。
ルドベキアなら、目方の軽いヘリアンサスを担いでこの先を進むことは不可能ではない。
だが今は違う。
ルドベキアも疲労困憊しているし、私に魔力を移してくれたがために彼の魔力は枯渇しつつある。
ここまでの道程で少なくない怪我を負っており――崖から転落したときの傷も、本当に重篤なもの以外は癒していないはずだ――、そしてひっきりなしに亡霊に追われ続けるこの状況。
この状況で、ルドベキアに無用の負担を強いることは絶対に出来ない。
「イーディ」
私がヘリアンサスの胸倉を掴み上げるとでも思ったのか、慌てた風情でカルディオスが私を止めようとする。
私は逆にそれを押し退けて、心外にも身構えるルドベキアを、このときばかりは一瞥もせず、
「――荷物じゃないならちゃんと歩いて」
手を伸べて、ヘリアンサスの冷えた指を握った。
――今この場で、ヘリアンサスとムンドゥスの苦痛を理解できるのは、唯一私だけだった。
◆*◆
俺は目を見開いて――俺だけではなくてその場の全員が驚倒していただろうが――、この千年で初めて、トゥイーディアがヘリアンサスの手を取るのを見ていた。
ヘリアンサスの手を取った瞬間、トゥイーディアが全身を石のように強張らせて息を詰めた。
俺の拍動が一拍飛んだ。
――が、その瞬間、すうっとヘリアンサスが目を開けた。
ヘリアンサスの表情の全てから、彼が覚える苦痛が漏れ出していた。
瞼を持ち上げることすら覚束ない様子でいながら、しかしヘリアンサスは、ゆっくりと――非常にゆっくりと、トゥイーディアの手を取ったまま、身を起こして体勢を変えた。
殆どトゥイーディアに凭れ掛かるような体勢になっていた。
力を籠めてトゥイーディアの手を握り返して、ヘリアンサスが呟いた。
食いしばった歯の間から落とされる声は潰れて震えていた。
「――僕とご令嬢は動けない。
女王、外に出て、きみが殿になって」
ディセントラが、非常に珍しいことに、向けられた言葉への反応が遅れた。
それは言葉の内容ゆえではなくて、この状況――トゥイーディアがヘリアンサスを助け起こした、その状況のゆえだった。
ヘリアンサスが息を吸い込んだ。
その息が震えている。
ぎゅっと目を瞑って、ヘリアンサスが怒鳴った。
「女王は死ねない。分かったら早く!」
鞭で叩かれたように、その場の全員が動き始めた。
ディセントラが即座に洞穴の外に出た。
爆音が轟く。
得意分野ではない魔法を、尋常の規模でなく連発した彼女も、もう魔力は幾許も残ってはおるまい。
アナベルとコリウスがそれに続き、先頭を彼女と代わってこちらを振り返った。
爆炎の明かりに、冷えた息が白く立ち昇っていく様が見える。
トゥイーディアが、ヘリアンサスを引っ張り上げて立ち上がらせようとした。
だが、力が入らない様子で蹈鞴を踏む。
――トゥイーディアも女性としては非力な方ではない。
明らかに様子がおかしい。
内心で息を呑んだ俺は、そのときようやく、トゥイーディアの額の辺りではらはらと散る、白い光の鱗片に気が付いた。
――トゥイーディアの固有の力に特有の光。
それが見えれば俺であっても全て分かる。
トゥイーディアが彼女の固有の力を使って、ヘリアンサスの苦痛を引き受けているのだ。
――そんなことが可能であるのかどうか、俺には分からなかった。
トゥイーディアが自分の魔法をそんな風に使っているところを見たことがなかったし、そもそも痛みというのは現象であって、他者と分け合えるものではないはずだ。
カルディオスが無言で、横からヘリアンサスを支えるようにして、彼を立たせた。
ヘリアンサスがよろめいて、空いた片手で顔を押さえた。
俺は近くにいたムンドゥスの手を取った。
彼女が、もはや表情すらも分からない、罅割れに覆われた顔貌で俺を見上げた。
ヘリアンサスが彼女の苦痛を完全に引き受けているのか、あるいは一部だけなのかは、ムンドゥスの潰れた表情の上からでは察しかねた。
「――おい、大丈夫か」
カルディオスが、切羽詰まった声でそう尋ねている。
ヘリアンサスは大きく呼吸を繰り返して、そうしてちらりと、絞り出すように笑ったようだった。
「……大丈夫ではないけれど、ここで暢気に朝を待つわけにもいかない」
トゥイーディアが、無言でヘリアンサスの手を引いた。
瞬間移動をこなした直後より顔色が悪い。
ヘリアンサスは、歩くというよりもむしろ泳ぐような覚束ない仕草で、トゥイーディアに引かれた方へ動いた。
そして、独り言のような調子で――自分に言い聞かせるように、呟いた。
「――泣いても笑っても、ここを越えなきゃ話にならない」
「泣いても笑っても?」
ムンドゥスの手を引くのとは逆の手を、今にも頽れそうなヘリアンサスの肩に添えながら、俺は敢えて軽い調子で言った。
ヘリアンサスが次の瞬間にも折れて死んでしまいそうで怖かった。
「じゃあ泣いてていいよ。おまえの作り笑いは千年で見飽きた」
ヘリアンサスが俺を見て、眩しそうに目を細めて、顔を顰めた。
洞穴の外から、無数の亡霊の叫び声が聞こえてくる。
早く早くと俺たちを急かすディセントラの声。
カルディオスがヘリアンサスから手を離し、ディセントラの助勢に回ろうとした。
しかしそれを、もはや縋るようにしてヘリアンサスが止めた。
「――アンス?」
大きな翡翠色の瞳を瞬かせるカルディオスをヘリアンサスが見上げる。
彼の目が見えていないのではないかと俺は勘繰った。
それほどに頼りない仕草だった。
「カルディオス、女王は大丈夫だ。おれの近くにいて」
「アンス――」
口籠ったカルディオスの腕を、トゥイーディアが空いた手で掴んだ。
「――大丈夫」
彼女が呟いた。
掠れた声だったが口調はしっかりしていた。
トゥイーディアの飴色の瞳は夜陰を通して前を見ていた。
頬は真冬の夜の冷え込みを受けて青白い。
白い息を吐いて、彼女が繰り返した。
「大丈夫、ディセントラは大丈夫」
「女王は死なない」
ヘリアンサスがそう断言して、瞬きした。
億劫そうな、困憊したような、ゆっくりとした動きだった。
「――女王は死ねない」
「――――」
その語調。
淡白な、事実のみを述べる口調。
痛みさえなければ、きっと彼はつまらなさそうにそう言っていたに違いない。
「トリー――」
カルディオスが咄嗟のようにそう呼んで、しかし直後、はっと息を呑んだ。
――そうだった。
ディセントラには、死ねない呪いが掛けられている。
千年前のあのとき、ディセントラに掛けられた呪いは、〈最も親しい人の死を自ら招く〉こと。
ゆえにディセントラの仲間は誰か一人が、ディセントラを庇って死なねばならない。
コリウスやアナベル、そしてカルディオスは、これまでに呪いの成就のないまま人生の幕を閉じた経験もあろう――だが、ディセントラにそれはない。
これまでにその呪いの成就なく、ディセントラが死んだことは一度もない。
ディセントラは常に、救世主たちの魔王討伐においても、終盤まで生き残るうちの一人だった。
だから、今生においてもそのはずだ。
誰か一人、仲間がディセントラのために死ぬまでは、ディセントラは死ねないはずだ。
――だからこそ、ヘリアンサスは殿にディセントラを名指ししたのだ。
逆に言えば、ここで誰かがディセントラの傍で戦えば、呪いの強制力から、その一人がディセントラの盾になって死にかねない。
「……そうね」
トゥイーディアが不意に呟いた。
やはり、非常に億劫そうな――声の上に重石が載せられているかのような、そんな声音だった。
そして応じた言葉は俺たちに向けられたものではなかった。
短く息継ぎをして、彼女が囁いた。
「……いつも、死の幕からいちばん遠いのはディセントラね」
それが、千年前からの実感を覚えたであろうヘリアンサスに対する同意の応答であると、俺には分かった。
――打って変わって、前へ進むのが困難になった。
つい先刻まで、どれだけ俺たちがヘリアンサスに頼っていたのかが自ずと知れる。
救世主六人掛かりの猛攻さえも歯牙にも掛けない魔王さまは、さすが、伊達ではなかったのだ。
俺たちは崖を離れ、島の中心へ向かう道を辿って進んだが、平地に入ったことが災いした。
わらわらと湧いてくるレヴナントは、もはや前からも後ろからも、節操なしに湧いてくる。
薄墨色の煙が霧を成すほどに濃く漂って、その霧を踏んで次々に現れる〝えらいひとたち〟は、口々に俺たちの不義理を叫んで咎めている。
ヒースに覆われた周囲の景色を見ることも儘ならない、いっそ周辺は亡霊から成る森だった。
頭上をゆらゆらと揺れるレヴナントの頭に覆われて、見えるはずの月影や星明りでさえも見えない。
さすがにこの状況にあっては、方向感覚も馬鹿になってくるというものだ。
俺ですら、自分の現在地が分からなくなるほどの、嵐のような亡霊の猛追があって、しかしトゥイーディアは――というよりも、ヘリアンサスは――正確に目指すべき方向を弁えているようだった。
地下神殿の場所が分かると言っていたのは本当だった。
「――ねえ、もう、ほんとに限界よ」
幾らも進まないうちに、アナベルが潔く音を上げた。
「これじゃあたしたち、世双珠の親玉のところに辿り着いたとしても、そこで魔力の回復を待たなきゃいけなくなるわ。この連中がそんな悠長なことを許してくれればだけど」
この連中、と言いながら、アナベルが複数の氷塊をレヴナントの頭の上に叩き付けた。
絶叫して消えていくレヴナント、地面に落ちてヒースを巻き込み、それを陥没させる氷塊。
ぱっ、とアナベルが手を振って、大きな氷塊が空中に溶けるように消えていった。
「アナベルは、そうね、もう控えた方がいいわ」
疲れ切った声音でディセントラが言った。
殿を担い続けて、さすがに精根尽き果てる寸前であるようだった。
「事前に話してあったでしょ、私とコリウスが対処するのが理想なのよ」
「対処できるならお任せしますけど」
アナベルがぶっきらぼうに呟いた。
ちら、とコリウスを見遣る大粒の薄紫の瞳。
目を向けられたコリウスが肩を竦める。
負傷があって、不格好に片方の肩だけを竦めるような仕草になっていた。
轟音があって、コリウスが無造作に指差した先の地面が陥没していく。
濛々たる土埃が月光を淡く切り取るレヴナントの影の中で流れる。
「イーディかアンスが魔法を使ってくれるなら、俺が得意分野を使ってもいーけど」
カルディオスが呟いて、横目でちらりと二人を見た。
二人ともが、ゆっくりと歩くムンドゥスに並んで、一歩を踏み出すことも苦痛といった調子で、辛うじて足を進めている。
肉体的苦痛ではない何かが、二人の肩に平等に圧し掛かっているようだった。
手を取り合って足を進める二人は、背景を知らなければ盟友のように見えたかも知れない。
「二人が二人とも潰れるとは思わなかったぜ」
カルディオスが悪態じみた語調で言ったが、十割方が本心ではないことは明らかだった。
「あと何マイルあるのよ、これ。――ねえ、誰か、どこかほんとに別のところから魔力を持って来られない? そうでもしなきゃ埒が明かないわよ」
アナベルが憤然と呟いたが、その声音にも覇気がない。
「……別の……」
トゥイーディアが呟いた。
浅い呼吸を継ぐ彼女が、隣のヘリアンサスを、まるで初めて見るものであるかのように見た。
「アニー、もっと実のあること喋ろーぜ」
カルディオスが、嫌味の欠片もない、ただただ疲れ切った声音で窘めた。
俺も全く同感だった。
アナベルも反論はせず、ふう、と息を吐いて目を閉じる。
――そのとき、する、と、トゥイーディアがヘリアンサスの手を離した。
途端、まるで支えを失ったかのように前のめりに体勢を崩して、ヘリアンサスが足を止める。
俺が慌てて手を伸ばして、その肩を支えた。
ヘリアンサスは黄金の双眸を見開いて、まるで背中から刺されたことに驚いたようにトゥイーディアを見据えている。
一方のトゥイーディアは、手を離した途端に背筋を伸ばし、まさに重荷を下ろしたかの如き、晴れやかな足取りになっていた。
月光に白く閃くような蜂蜜色の髪を揺らして、トゥイーディアがヘリアンサスを振り返った。
彼女がヘリアンサスの方へ身体を傾けて、何か囁いた。
ヘリアンサスが瞬きした。
短い切れ切れの呼吸の下で、ヘリアンサスが頷いた。
トゥイーディアは数秒、じっとヘリアンサスを見詰めた。
それから、俺が初めて見る仕草で頭を下げた。
「――ヘリアンサス、悪いとは思うけれど」
「きみの考えていることは分かるから、わざわざ謝らなくていいよ。
――けれども、おれを苦しめることじゃなくて、おれを人間扱いしないことを謝ってるなら、もうちょっと誠意を籠めて謝ってくれない」
荒らいだ呼吸の下でなお嫌味を籠めて、ヘリアンサスがそう応じた。
トゥイーディアが飴色の瞳を瞬かせた。
――〝えらいひとたち〟が絶叫している。
不義理を叫び、無礼を咎め、次々にヒースを踏み荒らしては俺たちを止めようとしている。
三秒ていど躊躇してから、トゥイーディアが言った。
「ヘリアンサス、悪いとは思うわ」
ヘリアンサスは無言で頷いた。
もう口を開く気力もないようだった。
彼がそのまま、ずるずると座り込んでいきそうになったので、俺が肩を貸して彼を立たせていた。
――何を話している、二人とも。
怪訝に思ったものの、俺は口を挟めなかった。
ヘリアンサスとトゥイーディアの間の、独特の空気がそうさせていた。
トゥイーディアが髪を耳に掛けた。
生真面目な眼差しでヘリアンサスを見詰めて、トゥイーディアが小首を傾げる。
軽く膝を折ってヘリアンサスと視線を合わせて、彼女が尋ねた。
「――ヘリアンサス、私は、おまえの〈人〉か?」
ヘリアンサスが苦笑した。
彼の右手が胸を押さえる。
絞り出すように、ヘリアンサスは応じた。
「――ああ、そうだ。きみは、おれの、おれのための、〈人〉だ」
トゥイーディアが微笑んだ。
蜂蜜色の髪を翻して、くるりと正面に向き直り、トゥイーディアが指を振り上げる。
それはこれまでに何百回と見た彼女の魔法のための仕草で――
――だが、違う。
感じる気配、トゥイーディアの手許で渦巻く魔力の気配、これは、トゥイーディアの魔力ではない。
「――ほんと、」
トゥイーディアが指を振り下ろす。
何の変哲もない凄絶な爆発が数十フィート離れた場所で巻き起こり、亡霊の断末魔を巻き上げ、ヒースを焦がして熱波を拡げる。
――魔法だ。間違いない。
だがこれは、この魔力の気配は、この場の誰のものでもない。
「――魔力がこんなに貧弱で僅少だったら、」
爆風に蜂蜜色の髪が煽られている。
トゥイーディアは少し目を細めていた。
焦げ臭い――夜空から煤が舞い落ちてくる。
「――それはそれは世双珠って有り難いものなんでしょうね、」
またも爆発。
全員がぽかんとしている。
唯一の例外はヘリアンサスだった。
彼がとうとう、掴まえる俺の手も擦り抜けて、その場に膝を突いていた。
苦しそうに喘ぐヘリアンサスの様子に、まさかという仮説が俺の頭の中で生じて、
「――普通の人たちにとっては」
トゥイーディアがそう言って、俺の知らない魔力を使って、三度目の爆発を引き起こした。
――爆音に夜空が震える。
夜空の一部が薄い紅蓮に照らされる。
この魔力を俺は知らないが、だが、その所以は分かった。
――魔力はどこか別の次元で発生し、世界に注がれ世界を傷つける。
世界はその濾過のため、世界のために存在する魔力の濾過装置、人間という肉の器に魔力を注ぎ込む。
これは、この魔力は、ムンドゥスからトゥイーディアに注がれている、救世主の魔力ではない。
これはヘリアンサスからトゥイーディアに注がれる、凡百の魔力だ。




