55◇◆救世――亜ぐ魔法
カルディオスを連れて、指示される方向へ進むこと数十分。
既に日はとっぷりと暮れているはずだが、常に視界の隅にルドベキアが打ち上げた巨大な火球が映って、周囲はほの明るいように見えていた。
お蔭で星明りが掻き消えてしまっていて、それがおれには残念だった。
巨大な火球は、じりじりと宙を移動しているように見えた。
おれがそれに気付いて不思議そうにしていることを察したのか、カルディオスが素早く、「いつもああだよ」と言った。
「ルドが周り中を照らすときはいつもああなるの。ルドにくっついて火の玉が動く」
なるほど、とおれは頷き、そのときおれはカルディオスを連れて、足場にした空気の上に立っていたわけだが、夜空に君臨する巨大な火球を眺めた。
なるほど、では、あの下にルドベキアがいるのか。
おれはカルディオスを連れて、船から見れば南の方に位置する島をひとつ越え、更にその向こうに進んでいる。
島をひとつ越えたときには、多分その島には人間がいたのだろう、おれたちが梢を越えるようにして足場にした空気を踏んでいる最中に、ざわざわと揺れる梢の向こうに、民家の灯火と思しき明かりがちらついていた。
その島を越えてしまったから、今、おれとカルディオスの真下には、二十ヤードの高処から見下ろす暗い海が広がっている。
おれたちが目指す島は、ルドベキアから見れば南西に位置しているようだった。
よくよく気を付けて見れば、あの青髪の子が、わざわざ島の上を通るなどというまどろっこしいことはせず、真っ直ぐに南を目指して海の上を歩いて行ったことが分かる。
というのも、波に浚われて消えつつあったが、辺り一帯の海が凍り付いていたことを示す、分厚い氷の欠片が、波間に煌めいて見えるときがあったからだ。
どうやらあの子は、最初に南に向かって氷の道を敷き、あとはひたすらその道を歩いて行ったらしい。
湧き出る亡霊どもも、さすがに手も足も出なくて、そのうちにあの青髪の子から距離を置いたのか。
おれたちから見れば、遠目に巨大な亡霊を認めることはあったが、その亡霊がこちらへ向かって来ることはなかった。
――どうしてだろう。
おれを見れば、それだけで垂涎の仕草で寄って来そうなものなのに。
「――アナベル、豪快に行ったなー」
おれと並んで空中を歩くカルディオスが、楽しそうに眼下を覗き込みながら呟いた。
楽しそうな口調ではあったが、なんというか――その楽しさを作っているような感じもあった。
おれは少し考えて、カルディオスも少し緊張しているのかも知れないと思い至る。
――緊張する理由は何だろう。
あっちのおれのところまで辿り着けるかどうか分からないからか、あるいはその後のことか、それとも今まさに、おれがカルディオスを落っことしてしまわないかどうかということか。
おれがそれを考えて黙り込んでいると、ややあって、カルディオスがおれを覗き込んできた。
「どしたの、アンス」
きょとん、という風な口調でそう尋ねられて、おれは口を開いて、少し考えてから、呟いた。
「――おれ、おまえをここから落っことしたりはしないけど」
カルディオスは大きく目を見開いた。
翡翠色の綺麗な瞳が、ルドベキアの打ち上げた火球の明かりを遠くに拾って、橙色の煌めきを宿して輝いた。
「は?」
「おまえがどうして緊張してるのかを考えてた」
おれがそう言うと、カルディオスの顔が緩んだ。
そのまま噴き出してしばらく笑って、カルディオスは目尻の涙を拭いつつ。
「そんなこと思ってるわけないでしょ。馬鹿だなあ、もう」
おれは瞬きして、頷いた。
確かにおれは馬鹿だったが、それはおれに、賢くなるだけの経験がなかったためだ。
青髪の子はあっさりと見付かった。
もうひとつのおれがあるだろう島までは、更に一つ、高い山を頂く島を越えていかねばならない島の、その北側の海辺にいた。
どうやら困り切っているようで、その理由は明らかだった。
傍のムンドゥスが、あからさまに困憊している様子だったからだ。
青髪の子は波に洗われる砂浜に座り込んで、これをどうあしらっていいものか分からない、という困惑を全面に出しながら、ふらふらしているムンドゥスを傍に捉まえている。
彼女がいる砂浜は広大に広がるものではなく、むしろ狭かった。
誰かが気紛れに白い砂を集めてきたものの、途中で飽きてしまったかのようだった。
小さな砂浜を囲むようにして、背の高い木々が身を寄せ合い、冬を受けて葉を落とした枝を、風を受けては互いにざわざわと擦り合わせていた。
木々の奥は暗くて見えない。
「――アナベル!」
おれが足許を空中から下ろしてやるなり、そこは陸地というよりは浅瀬だったが、カルディオスが弾かれたように駆け出していって、ばしゃばしゃと盛大に波を蹴立て、青髪の子に駆け寄った。
青髪の子はほっとした様子だったが、それも定かではない。
何しろ暗かった。
おれはその場に立ったまま、しばらくカルディオスを眺めていた。
カルディオスは青髪の子の隣に膝を突いて、何事かを囁き掛けている。
青髪の子が何か言おうとするのを遮って、「ほんとお手柄だよ、アナベル、おまえのお蔭で――」と言っているのが、なんとなく聞こえてきた。
おれは瞬きする。
その場で踵を上げ下げしてみて、それでようやく、自分が波の中ではなくて波の上に立っていることに気付いた。
ゆっくりと揺れる海の上に、水を凍らせることもなく、おれはただ立っていた。
おれは自分の足許を見下ろし、どこからか光を拾って白く煌めく波を数秒間観察したあと、別に足が濡れるくらいはどうってことないのに、と考える。
――途端、ぱしゃんっ、と波を割って、おれの両脚が水の中に沈んだ。
その下の、柔らかく沈む砂の感触が足裏に伝わる。
冬の海は凍るほどに冷たかった。
まるで鋭利な刃物を、特別に柔らかく鍛え直したかのようだった。
これはこれで面白い、と思って唇を曲げてから、おれは顔を上げた。
ムンドゥスもちょうど、おれを見たようだった。
銀色の大きな瞳が、盲の仕草でおれを見た。
彼女が無垢な仕草で両手を持ち上げて、おれを招くような様子を見せたので、おれは溜息を吐いた。
「――ムンドゥス」
呟いて、波を蹴って浅瀬を昇る。
ちょうど波打ち際、海と陸の境目で、おれは柔らかい砂浜に膝を突いた。
冷たい水気が膝を這い登ってくる。
ちいさな波の音がひっきりなしに聞こえてくる。
「ムンドゥス、どうしたの。おれに返事もしなかっただろう」
「ヘリアンサス」
ムンドゥスが応じた。
おれは眉を寄せた。
いつもの、水晶の笛を鳴らすような声ではなかった。
おれが初めてこの子を見たときにそうだったような――掠れた、耳障りな、あの声に近いものになっている。
「ヘリアンサス、あなたは、わたしのための」
ムンドゥスが呟いたが、声は不明瞭だった。
「――アンス」
カルディオスがおれを振り返って呼んだ。
おれはそちらに視線を向けたが、同時に、肌が粟立つような不快感を覚えて眉を寄せた。
――これは、無論、カルディオスに対して覚えた不快感ではない。
何しろカルディオスは、おれが知る中では最も美しい世界の部分の一つだ。
「アナベルもムンドゥスも見付かったわけだし、戻ろう」
カルディオスがそう言った。
どことなく気が急いているようだった。
青髪の子は胡乱な目でそんなカルディオスを見て、それからおれを、どことなく警戒するように眺め遣る。
おれは小さく息を吐いて、微笑んだ。
「――そうだね」
呟く。
言葉にもならない低い声の片鱗が耳に届き始めていた。
地面が揺れている。
カルディオスと青髪の子が、はっきりと顔を顰めた。
おれは正面にいるムンドゥスの、茫漠とした表情を覗き込む。
「親愛なるおれの姉上、確かにきみは随分弱っているらしい」
世界の条理に背くものも、もう撥ね退けるどころか、それから逃げることしか出来ないほどに。
「アンス?」
カルディオスが語尾を上げておれを呼んだ。
おれはカルディオスに視線を戻して、いっそう微笑む。
「その子が、」
と、顎で青髪の子を示す。
「あの連中を遠ざけてたみたいだけど、もう駄目だね、おれがここに居ることに気付いたらしい」
あの亡霊たちは、大抵の場合は目敏くも、おれを見付ければ寄ってくる。
まさに光に群がる蛾のように。
おれを見付けることに掛けては目敏いというのに、おれが人間になったことには気付けないらしい。
「ヘリアンサス」
青髪の子が、危機感を煽られたような声で呟いた。
「あたしが――」
「もちろん、駄目だ」
おれはそう言っている。
四方八方から低い声が聞こえてきている。
海面が、本来の流れとは別に翻って、小さく波立ったことが気配で分かった。
おれは微笑んでいる。
この千年で、意識せずともそう出来るようになった。
「きみは『対価』の価値を担保する。だから無事でいないといけないし、安心していいよ、僕がそうしてあげるから」
カルディオスが、暗闇に大きく目を見開いて、おれを見ていた。
表情が強張っている。
昔から、こいつは察しが良かった。
――おれが怒っていることに気が付いている。
「アンス――」
カルディオスがそう呼んだが、おれは応じなかった。
――死なない相手なら、いくらでも痛めつけられるから、気分はいいかな。
先程そう言った、その言葉に嘘はない。
虚勢もない。
「アンス、アナベルなら大丈夫だ」
カルディオスが、切羽詰まった声でそう言っている。
「ここではかなり有利だし――」
おれたちのすぐ近くで、背の高い木々が薙ぎ倒された。
めきめきと木の幹が裂ける騒音が耳を劈く。
薙ぎ倒したのは巨きな掌で、薄墨色のその五指が、闇夜にはいっそほの白くさえ見えている。
根こそぎになった木々がどうと倒れる地響き、枝が絡まる騒がしい音。
どこかで大量に鳥が飛び立つ羽音――混乱した鳴き声の合唱。
おれは木々が倒れた方へ目を向ける。
巨きな手指の向こうから、まるで不相応に小さな玩具でかくれんぼをしているかのように、四つ這いになってこちらを窺う、無数の巨大な黄金の眼が見えていた。
振り返る。
海の上からも、するすると海面の上を滑るようにして、こちらに近付く無数の巨躯がある。
――あああ、あああああ。
――ああ、あああ、モリビトぉ……
おれは微笑むが、それは全く本心ではない。
――おれはもう守人ではないし、ものではなくて人間だ。
それなのにどうして、これらはおれをそうは見ない。
そしてあまつさえ、おれが人間らしく振舞ったところを見てなお、おれに許しを乞うという考えがないのだ。
どうして――あれだけの仕打ちをしたおれを目の前にしてまだ、「おまえは何だ」という一言が出てきたのだ。
乞われたところで許してやらない。
人間ではないおれに非道な真似をして当然だったというならば、ちょうどいい、こいつらも人間ではなくなったのだ。
今度はおれが何をしようが、責められる謂れはないはずだ。
ここにルドベキアはいない。おれが助けてやらねばならない息子はいない。
ここにご令嬢はいない。おれが守らなければならない義理のある彼女はいない。
――好機だった。これ以上ない好機だった。
「ヘリアンサス」
カルディオスが、珍しくおれの本名を呼んだ。
おれの腕を掴んで、カルディオスが声を大きくした。
「ヘリアンサス、ここを離れてイーディたちのところに戻るんだ。ここでいくらレヴナントを撃退したって意味ないんだから。どうせまた湧いてくるんだ――」
「うん」
認めて、おれはカルディオスの顔を見上げた。
よいしょ、と立ち上がって、おれは膝から砂を払った。
「きみたちは戻っていて」
「ヘリアンサス――」
カルディオスが言い差すのを遮って、おれは微笑んで言った。
「カルディオス、おまえ、やられた側にはやり返す権利があるって、そうおれに教えたのは間違いだったって言ってたね」
カルディオスは虚を突かれたようだった。
だがすぐに頷いた。
夜陰の中でさえ、その翡翠の瞳が綺麗に光った。
「あ――ああ、そうだ。間違いだった」
「おまえは人倫の観点からそう言ったのかな。だとすれば、幸いにも、こいつらは人の皮を脱ぎ捨てているわけだけど」
呟くように続けるおれに、カルディオスは目を怒らせた。
おれの腕をいっそう強く掴んで、カルディオスは言い聞かせるように。
「違う。こいつらに優しくしてやれとか許してやれとか、そんなことを言ってるんじゃない。
――おまえにとって、こいつらはそんなに価値のある連中か? 違うだろ?
俺は、俺の友達が、いつまでもこんな連中のことを考えてるのが嫌なだけだ。おまえは――」
カルディオスの声が詰まった。
青髪の子が、そうっと、それこそ壊れ物を扱うかのような手付きで、ムンドゥスを抱き寄せたのが視界の端に見えた。
だが青髪の子の表情に動揺はなかった。
この場でなら、この数の亡霊を相手にしても、十分にムンドゥスを守り切ることが出来ると分かっている顔をしていた。
カルディオスが息を吸い込み、おれを真っ直ぐに見据えた。
どうしてか少し目が赤かった。
囁くように、カルディオスが言った。
「おまえには、もっと楽しいことで人生をいっぱいにする、そういう権利が――当然の権利があるんだ」
「――――」
瞬きして、おれはカルディオスを見詰めた。
心底愛しく思って、おれはカルディオスに微笑んだ。
「ありがとう。最初に会ったのがおまえで本当に良かった」
心からそう思って言葉を作って、おれは青髪の子に庇われる、傷だらけになったおれの姉に視線を向けた。
「――ムンドゥス」
ムンドゥスがこちらを見た。
大きな銀色の瞳が、小さな二つの満月のようだった。
無事であったはずの顔貌は、もう罅割れに覆われつつあった。
条理を踏み外して立ち現れる、この亡霊の大群が、少しずつ少しずつムンドゥスを削っていったかのように。
だが、それでも、彼女がおれに応じた言葉は平坦だった。
「なあに」
「お願いがあるんだけど」
そう言って、おれは小さく息を吐く。
「――カルディオスの傍にいてくれないかな」
ムンドゥスの大きな瞳が瞬いた。
無花果の色の彼女の唇が動いた。
「わかったわ」と、そう言ったのがおれには分かった。
「アンス――」
カルディオスが声を上げた、その瞬間に、おれはぱちん、と指を鳴らしている。
――それで十分だった。
条理を捻じ曲げ無理を通して、おれの中に注がれる無尽蔵の魔力が、カルディオスと青髪の子を、問答無用でご令嬢の傍に送ったはずだ。
あるいはそこからは少し離れていたかも知れない――もうひとつのおれに近付く方には、おれの魔力であっても届かないから。
でも、いい。
無事でさえあればそれでいい。
ムンドゥスが、戸惑ったようにぐるりと周りを見渡してからおれを見上げ、それでもおれの頼みを辛うじて覚えていたのか、そのうちにふうっと姿を薄れさせて、消えた。
――これでいい。
俯いて大きく息を吸って、そしておれは顔を上げた。
いつの間にかおれの頭上を、分厚い雲が覆っていた。
ルドベキアの打ち上げた明るい光源がなくとも、もう空に星は一欠片も見えるまい。
夜空に輝いていた月も、雲の向こうに消えていった。
冷えた風が吹いた。
遥か頭上、雲の向こうで、無数の獣が喉を鳴らすような低音が轟く――
「――カルディオスが言うように出来れば良かったんだけど」
呟いて、おれは微笑んだ。
波打ち際に一人で立つおれに、四方八方から亡霊が這い寄って来る。
言葉にもならない声を張り上げて、ばきばきと島の木立をへし折って、下品なまでに必死になって――
「でも、仕方がない」
亡霊に言葉を掛けているというよりは、むしろ独り言だった。
おれはしゃらしゃらと左手首の腕輪を弄びながら、ぐるりを囲む亡霊の群れを見渡して、
「業腹だけれど、いいだろう。――おまえたちに価値を置いてやる。本当ならそうすべきじゃないんだろうけど、僕はあまりにおまえたちに傷つけられ過ぎた。
おまえたちに価値を置いてやる。おまえたちのことを考えてやる。おまえたちのことを覚えていてやる」
それに、と言葉を挟んで、おれは苦笑する。
頭上を閃光が走った。
青白いその閃光が、目の前の光景を影絵じみた不明瞭さで照らし出し、しかしそれも刹那の間に消えていく。
破裂音にも似た大音響が耳を聾する。
――閃光、轟音、その繰り返し。
その昔にカルディオスが、おれを引っ張って大慌てで川の傍から離れようとしたときのように。
「――それに、なにしろ、僕はまだ、子供だからね」
海が波立っていた。
意識してはいなかったが、この島全体が揺れているようだった。
亡霊たちが巨大な頭を擡げ、何かの異変に気付いたように、凹凸にも乏しい顔貌を空に向ける――
「――――っ」
もう何も考えなかった。
おれは手を伸ばしていた。
そのときにおれがどんな魔法を使ったのか、それすらおれには分からなかった。
ただ気付いたときには、おれは数体の亡霊を目の前から放逐し、そして何体目かになる巨体を踏み付け、その上に立ち、これまでに一度もしたことはない――しようと考えたこともなかったことに、繰り返し繰り返し、その大きな顔貌を殴っていた。
頭上で閃光が瞬く。
轟音が響き渡る。
破裂音が繰り返し繰り返し耳を劈く。
閃光が何度も天から島へと落ちてきた。
周囲の木立の一部が燃えている。
煙が細く空に向かって流れている。
閃光に打たれた亡霊どもが消えていく――あぁどうして。
どうしてそうやって消えてしまうのだ。
そうやって呆気なく消えてしまうから、おれはさっぱり気が晴れない。
おれはあの穴ぐらから消えていくことも許されなかったというのに、どうしておまえたちはそうもあっさりとおれの目の前から逃げることを許されるのだ。
ぱきぱきとあえかな音が耳に届いている。
いつの間にか周囲には薄く冷気の霧が漂っていた。
おれの傍の海一面が凍り付いて、そして次々に亡霊たちを氷漬けにしていっている。
夜陰にも白く漂う冷気が、吹く風にたなびきながら、凍った海面の上に層を成すようにして蓄積していく――
それだけではなく、氷は徐々に陸地も侵しつつあった。
分厚い白い氷が、ぱきぱきと音を立てながら、着実に砂浜を覆い、地面を這い、へし折れられた木々に白い霜を降らせて、それらを凍り付かせていく――
おれは何も考えられない。
この場にカルディオスがいたとして、ルドベキアがいたとして、おれがそれを正常に判断してこの手を止めることが出来たとは思えない。
おれはひたすらに、目の前にある巨大な間抜け面を殴り続けている。
おれにどんな魔法が働いていたかも分からない。
ただ、目の前にあるその巨大な亡霊の顔貌が、薄墨色の煙を噴き上げながら薄らぎ始めて、
「――駄目だ」
呟いて、さながら等身大の相手の襟首を掴むようにして、相手をこの場に引き留めた。
これは、この亡霊は、肉体のない魂だ。
〈魂は巡り巡って決して滅びない〉。
おれであっても魂を滅することは出来ない。
だが触れることは出来る。
引き戻して、この場に留めて、
「どうして」
呟いて、殴る。
閃光が降る。
木立が、島が氷漬けになっていく。
「どうしてそうやって、おまえたちには逃げる権利さえ与えられる」
殴るというより、もはやおれが素手で亡霊を引き千切っているといった方が近い。
右手を伸ばして、ちょうど手の届くところにあった、炯々と輝く濁った黄金の眼を掴む。
「おれが人間じゃなかったとき、おれには空も与えられなかっただろう?
――どうしておまえたちは、人でなくなってさえ、まだしぶとく空の下にいるんだ」
手指に力を籠める。
おれの掌には余るほどの大きさの球形の眼が、しかし掌の下でひしゃげて、潰れる感触があった。
「おれに、“おまえは何だ”と言ったな? ――こっちの台詞だよ」
囁くように言って、おれは微笑む。
頭の中は煮え滾るほどに熱く、一方で心臓の辺りがしんしんと冷えていく感じがした。
――冬の、雪の、あの清冽な冷たさとは違う。
もっと厭な冷たさが、急速におれの胸を覆っていた。
「こうしても血の一滴も流れない、まだ人の皮を被っていたときからあれだけの真似をした、――おまえたちこそ一体何なのさ」
◆◇◆
「ヘリアンサス、あいつ――何してるの!」
トゥイーディアが悲鳴じみた声を上げている。
空で閃光が踊り、危機感を煽る間断の無さで、次々に地面に突き立っているのが見える。
すぐ傍というほどではないが、遠目に見るというほど暢気に構えていられる距離でもない。
雷鳴がひっきりなしに轟き、もはや声を張り上げなければ会話すら儘ならない。
「ヘリアンサス――ヘリアンサス!!」
蟀谷を指で押さえて、トゥイーディアが繰り返し繰り返し呼び掛ける。
彼女の周りに、怒濤のように激しく、真っ白な光の鱗片が散り落ちていく。
飴色の瞳の中で雷光が弾けているのが見える。
俺は思わずカルディオスに駆け寄って、彼の腕を掴んで引っ張り立たせると同時に、息せき切って尋ねていた。
雷鳴に邪魔されるために、いっそ怒鳴っているような語調になった。
「――ヘリアンサスは!」
「アンスは――」
カルディオスが言い淀んだ。
同時にトゥイーディアがカルディオスを見て、殆ど叫ぶようにして言っていた。
「きみならヘリアンサスを一人にはしないと思ったのに!」
「俺だって好きで戻って来たわけじゃねーぞ!!」
珍しくも、カルディオスがトゥイーディアに向かって倍の勢いで反駁した。
雷鳴が轟く。
雷光が周囲をちかちかと照らして目が痛い。
ムンドゥスがその場に崩れるように蹲り、苦悶に呻いている。
俺にとってはそれが何よりも怖かった。
ディセントラが、逡巡した様子はあれど、ムンドゥスの傍に膝を突いて、彼女の傷だらけの肩を怖々と撫で始める。
――あああ、ああ。
周囲に犇めく巨躯の亡霊たちが、事態の急変すら認識していない様子で、こちらに向かって手を伸ばした。
俺は咄嗟に数体のレヴナントを纏めて焼き払い、直後にはっとしてムンドゥスを見る。
――この至近距離で魔法を使うことが、ムンドゥスにとって良いはずがないと思い至ったがゆえだった。
しかしながら、ここで黙ってあの巨大な掌に叩き潰されても良いかといえば、答えは自ずから否である。
アナベルが頭を押さえて、よろよろと立ち上がった。
立ち上がって、気分が悪そうに腹に手を当てる。
顔を顰めて、彼女が俺たちを見渡した。
「……ねぇちょっと――どうなってるの。急にムンドゥスが寄って来たと思ったら、今度はカルディオスとヘリアンサスって、どういうことよ」
「ごめんね、後で」
ディセントラが口早に言った。
アナベルは瞬きして顔を顰めたものの、立て続けに指を振って、そしてその同じ数だけ巨大な氷塊を降らせ、手近にいたレヴナントを叩き潰していく。
雷鳴に隠れて、地面に叩き付けられた氷塊が砕ける音は、殆ど聞こえてこなかった。
砕けた氷が堆く積もって、一時的にではあれレヴナントが俺たちを囲んで、手を出しかねる様子で巨体をゆらゆらと揺らし、意味を成さない茫洋とした声を口々に漏らし始めた。
轟く雷鳴に首を竦めつつ、ディセントラが声を張り上げて続ける。
「どういうこと――どうしてカルディオスとアナベルだけ戻って来たのよ。ヘリアンサスは何を――」
「なんで分からないの!」
トゥイーディアが、短気を起こしたように怒鳴った。
彼女には非常に珍しいことだった。
俺はもちろん、数秒前にはトゥイーディアに怒鳴り返したカルディオスも、一瞬ぎょっとしたように息を引いて、言葉に詰まった。
「あいつが――」
トゥイーディアが、自制心に富む彼女にしては信じられないくらいに感情的に声を荒らげた。
「全部許したとでも思ったの? 健気にいじらしく、これまでの仕打ちも全部呑み込んで、私たちがあいつに頼むことだけをして、淡々と私たちを守ってくれるとでも思ったの?
――そんなはずないでしょう!」
また地面が揺れた。
雷光はもはや数えるのも馬鹿馬鹿しいほどに、夜空の一画を煌々と照らし出すほどに絶え間なく降っていた。
雷鳴は空が砕けているかのように轟いている。
「あいつが――あいつが譲ったのも許したのも、私たちがあいつに強いることだけなのよ。ルドベキアが――」
トゥイーディアが言葉を呑み込み、小さく首を振って、激しい口調で続ける。
「――これまであいつにされたことを、呑み込んで許せるわけがないでしょう。
ルドベキアもカルもいなくて、どうしてあいつが理性的に踏み留まれると思うのよ!」
空が裂けるほどの轟音。
遂に、俺たちの頭上を覆った雲の重みが限界に達して、叩き付けるような雨が降り始めた。
ばらばらと降る大粒の雨が、痛いほどに肌を叩く。
凍るように冷たい雨に肌が粟立つ。
俺の指先はもう感覚がなかった。
遥か上空で、俺が打ち明けた火球が雨粒を蒸発させている。
濛々と濃い霧が頭上に漂う。
「ヘリアンサスが――」
コリウスが言い差し、そしてその声が十分に俺たちに届かないことに気付いて、小さく息を吸い込んで、声を大きくした。
降り注ぐ雨の音と雷鳴で、いっそう声は通りづらい。
「――レヴナント相手に激昂しているとして、問題があるとすれば」
そのとき、まるでコリウスの言葉に返答するように、ムンドゥスが呟いた。
非常に小さな声だったが、不思議とその声ははっきりと聞こえた。
「――いたい」
みんなが、一斉にムンドゥスを見た。
ディセントラに小さな肩を支えられて、ムンドゥスは顔を上げていた。
だがその目は焦点が合っておらず、俺が心底ぞっとしたことに、もはや彼女の顔貌に走る罅割れが、彼女の右の瞳を潰そうとしていた。
雨の雫が、陶器のようなその頬を伝っていく。
「いたい」
「なんで――」
俺は口走っている。
俺が想定していたよりも遥かに早く、世界そのものの寿命が到来しようとしている事実を目で見て取って、しかしそれを呑み込むことが出来なかった。
「――なんで、もう。まだ猶予があるはずだ。
前は――以前は、世双珠が使われ始めて五百年、保ったはずだ」
言いながらも、その一方で、俺にも分かっていた。
――以前とは違う。
以前はムンドゥスは、自浄作用を自ら働かせていた。
この世界に発生した変則は魔法と世双珠だけだった。
だが今は違う。
千年前からの俺たちの行いが積み重なって、今やこの世界は雁字搦めになっている。
俺たちが弔い合戦に託けて行ったことは、あくまでもただの延命であって、救命にはなり得ていなかった。
ムンドゥスの負担になっていることは、数え上げれば枚挙に暇がない――呪い、俺たちの転生、絶対法を超える俺たちの魔法、レヴナントの跋扈、――カルディオスが最初の人生で定めた、「呪いのことを口に出すことが出来ない」という決まり事さえ、世界の形を捻じ曲げる、一つの大きな負担になっているのかも知れないのだ。
そして、
「……ヘリアンサス」
ムンドゥスが、たどたどしい声で呟いている。
「ヘリアンサス、どうして」
ディセントラが、ムンドゥスの顔を覗き込んだ。
「ムンドゥス? ヘリアンサスが――何をしているの?」
「ヘリアンサス、どうして」
ムンドゥスは、ディセントラの言葉に応じたというよりはむしろ、ただ訥々と独り言を漏らすかのように、消え入りそうな声で呟いた。
「あなたをまもるといったから、わたしがゆるしたものなのに。
わたしがとくべつにゆるしたものなのだから、いなくなろうとするなら、そのようにしなくてはだめよ」
「どういう――」
珍しく、ディセントラが意味を取りかねた様子で絶句した。
だが、トゥイーディアは違った。
「あの――あの馬鹿っ!」
怒鳴るように叫んだトゥイーディアが、雨の幕を通して、雷光踊るその一画を睨み据えた。
「レヴナントが消えていくのも業腹だからって、――無理にレヴナントをその場に引き留めて甚振るなんて、何してるの!」
「――つまり、」
と、さすがに泡を喰った様子でコリウスが声を上げた。
ちょうどそのとき、アナベルが築いた氷礫の防波堤の一部を破って、泡のような声を上げる亡霊たちが、こちらに雪崩れ込んできた。
俺たちは一様にぎょっとしたが、うるさそうにアナベルが指を振り、それを合図に降る雨が凍り付いた。
鋭利な刃の形に凍り付いた雨が、亡霊を次々にずたずたに引き裂いて、この場から放逐していく。
「アナベル、無理しちゃ駄目」
ディセントラが囁いた。
降る雨を次々に凍らせていくなど、俺たちには到底不可能事で、そしてアナベルからしても楽なことではないのだ。
アナベルが頷き、雨に冷えた指先を口許に近付けて、ふう、と息を吹き掛けた。
「――つまり」
彼自身も身構えていたところを、問題はないと目で見て判断してから、コリウスが仕切り直して言葉を続けた。
叩き付ける雨に濡れた顔を片手で拭って、彼はくぐもった声で。
「ヘリアンサスが、レヴナントを消えるままにせず、その場に引き留めてまで、徹底的に痛めつけていると? ――そんなことをして何の意味がある。こいつらに痛覚があるものか」
「意味があるかどうかの問題じゃないわよ。だったらあいつのところに行って、意味がないからやめろって言ってくるべきよ」
トゥイーディアが噛み付くようにそう応じて、しかしすぐに息を吸って、落ち着きを取り戻した様子で言い直した。
「――ごめんなさい、でも、それも頭から吹き飛ぶくらい怒ってるみたい。私が何を言っても聞こえてる様子がないわ」
「止めないと拙い」
俺が言って、もはや正視すら憚られる気持ちでムンドゥスを見た。
唯一無事だったはずの顔貌が、今やびっしりと罅割れに覆われている。
そしてその右の瞼まで微細な罅が及び、そして――俺が殆ど生理的な嫌悪すら覚えたことに――大きな銀色の瞳、その右の目にも、まるでそれが陶器で出来た作り物であったかのように、小さな罅割れが走りつつあった。
銀色の瞳の中に、蜘蛛の糸のように細く、白い亀裂が走っている。
「〝えらいひとたち〟――レヴナントだって、この子に負担を掛けてるはずだ。それでも、『対価』で特別に許されて発生してるんだろ。
――それを、無暗に傷つけ続けて、しかも目の前から失せるのも止めてるんだ。ムンドゥスが――」
「そんなことは見れば分かる」
コリウスがぴしゃりと言って、雷光が煌めき、もはや昼の如くに明るく照らされる、夜空の一画を振り仰いだ。
――ヘリアンサスが居る方向だ。
「あそこに行ったとして――それこそ、飛んで行ったとしてもだ。辿り着く前に死ぬぞ。仮にヘリアンサスに僕たちに対する害意がないとしても、あれではヘリアンサスが僕たちに気付きようがない。ヘリアンサスが相手だぞ。僕たちでは敵いようがない」
トゥイーディアが息を吸い込み、叩き付ける雨に目を細めながらも、コリウスを見詰めた。
その蜂蜜色の髪が雨を吸い込んで、ぐっしょりと濡れそぼって毛先から雫が滴っている。
コリウスが、トゥイーディアの視線に気付いて顔を顰めた。
その表情が、折しも閃いた雷光に、明瞭に白く照らし出された。
「トゥイーディア、無理だ。瞬間移動で僕があそこに行ったとして――」
轟く雷鳴。
押し寄せてくる〝えらいひとたち〟を、カルディオスとアナベルが次々に放逐していく。
「――僕ではヘリアンサスの行動を止められない。あいつは僕の言うことには耳を貸さないだろうし、力づくでも止められないんだ、手段がない」
「きみは無理でも、」
トゥイーディアが声を張り上げて応じた。
「一緒に連れて行けない? 私か――ルドベキアか――カルを」
「俺は駄目、無駄足になる」
カルディオスが振り返って素早く言って、その言葉の分だけ生じた隙から身を乗り出そうとしたレヴナントを、俺が勢いよく焼き払った。
赤い光を背後から受けて、背中に伝わった熱に顔を顰めながら、カルディオスがきっぱりと言った。
「俺があいつを止められるなら、そもそもこんなことになってねーだろ」
アナベルが、危ぶむ眼差しでトゥイーディアを見た。
「イーディ、大丈夫? 仲は悪いように見えるけれど」
「大丈夫よ」
気負うことなく、トゥイーディアは断言した。
「あいつは約束を破られるのが嫌いだから。逆にいえばあいつ自身は絶対に約束は守るわ」
「トゥイーディア、待て、前提が違う」
コリウスが口を挟んで、焦った様子で一歩、トゥイーディアとの距離を詰めた。
耳を劈く甲高い雷鳴が轟き、全員が一様に首を竦める。
――どこかで火の手が上がっている。夜空の一部が赤く映えている。
「連れて行けない。僕の瞬間移動では危険が大き過ぎる」
「私を連れて行ってくれたでしょう」
負けじと声を上げるトゥイーディアに、コリウスは一瞬、逡巡したようだった。
だがすぐに言った。
「――違う、あれは、――もちろん、最後の最後まで可能性を追求するべきだと思ったこともある。けれども、あれは最悪、おまえに万が一のことがあってもいいと思ったんだ。リリタリス卿の救命はおまえの希望だった。
おまえが死ねば僕たちはあの場から撤退できる。おまえも最悪の結末は知らずに済む」
――その最後の一言の重みを、何と言おう。
コリウス自身が知らなかった最悪の結末に、知らなかったという事実のゆえに救われていた、その実感の分だけの重みのある、その言葉を。
だが、他の誰でもなくトゥイーディアの無事に関わることである。
俺は危うくコリウスを殴りそうになった。
カルディオスが、我が目を疑うといった様子でコリウスを凝視している。
トゥイーディアがぽかんと口を開けた。
降る雨がその口の中に入りそうだ。
彼女が、心底からの声音で叫んだ。
「それ、今言う!?」
「だから、今は駄目なんだ」
コリウスが、どうやら必死の様子で言い募る。
「今は駄目だ――おまえにもルドベキアにも、万が一のことがあっては困る。
それに、万が一にも瞬間移動が成功したとして――いきなりあの、」
あの、と言いながら、コリウスが身振りでヘリアンサスがいる方向を示した。
「魔法の暴力の只中に出現するわけだろう? 一秒で僕たちは消し炭になるよ」
「俺なら何とかなるかも」
俺が口を挟んだ。
「何しろ魔王だ。三秒くらいなら耐えてみせるし、その間に、ヘリアンサスが俺に気付けば」
「そんな賭けが出来るものか」
コリウスがにべもなくそう言って、しかしそうも言っていられない現実が目の前にある。
アナベルが凍らせた雨が、周囲一帯のレヴナントに降り注ぐ。
硬質な音を響かせて、鋭利な氷の刃が重なり合いながら地面に突き刺さる。
薄墨色の煙がたなびき、いちどに数十の単位で、巨大な亡霊たちが放逐されていく。
だが次々に湧き出して、一向に数が減らない――
「今こそ可能性を追求するべきでしょ!?」
珍しいくらいに動揺した口調でそう叫んで、トゥイーディアがいったんコリウスから目を逸らした。
「ヘリアンサス?」と、また何度も呼び掛けている。
「ヘリアンサス――ヘリアンサス。ムンドゥスが壊れるわ。すぐにやめて、戻って」
何度もそう言って、しかし彼女が首を振る。
叩き付けるような雨が、夜陰を白く煙らせる。
その瞬間に、俺は――突飛な、これまで考えたこともない、天啓のような考えに打たれて息を詰めた。
――思えばそれは雨のせいだったかも知れない。
俺がトゥイーディアに対する恋情を恋情であると自覚したのは、あの歌劇を観ている最中だったが、俺が名前も分からなかった気持ちを自覚し始めたのは、雨が降っていた朝――東屋の下で微笑むトゥイーディアの頭上に掌を翳して、彼女に降る雨を受けたいと思った、あのときだった。
――トゥイーディアは俺に彼女の魔法を教えてくれるとき、誰の著作を例に出した?
チャールズたちの雲上船の世双珠に手を加えるとき、カロックの皇太子はトゥイーディアの魔法のことを何と言っていた?
そのとき俺は千年前の俺に戻って、あるいはそのときのことを明瞭に思い出して、発作的に口を開いて声を出していた。
――呪いがなければ、俺がこれを口に出すことはなかっただろう。
他の誰でもないトゥイーディアに、分の悪い賭けをさせることになる、こんな言葉を、誰が好き好んで吐くものか。
「トゥイーディア、おまえは?」
トゥイーディアが俺を振り返った。
降り注ぐ雨に顔を顰めて、表情は懐疑的だった。
「何が――」
「おまえだ。おまえ自身が瞬間移動できないか?
おまえなら、俺と同じで三秒くらいは耐えられるだろ。その間におまえに気付けば、いくらヘリアンサスでも正気に戻る」
俺がそう言うに至って、さすがのトゥイーディアも、言葉の意味を取りかねた様子で瞬きした。
他のみんなも同様だった。
その一瞬だけは、純粋な困惑が全員の表情を占めた。
一秒のあいだ押し黙って、それから息を吸い込み、トゥイーディアが剣呑な声を出す。
「――きみ、もし私を揶揄って言ってるなら、私だって怒りたくなるんだけど」
「違う」
言下にそう言って、俺はムンドゥスを一瞥する。
――罅割れに覆われた、今にも毀れていきそうな両手で、同じく亀裂の走った顔を覆うムンドゥス。
その姿に急かされて、そして呪いのゆえに、俺は閃いた考えを、半ば強制的に吐き出すことを強いられた。
「そうじゃない。――おまえの魔法もコリウスの魔法も、根っこのところは一緒なんだ。
おまえの魔法はコリウスの魔法の亜種だ」
「そんなはずは――」
トゥイーディアが呟いて、コリウスを見た。
以前に、俺がルフェアの皇宮でも同じことを言っていたのに、そのときのことは綺麗に忘れているようだ。
「私の魔法は絶対法を超えるわ。コリウスの魔法は超えない。――全然違う」
「この馬鹿が」
全く本意ではない罵倒を吐き出して、俺は額に張り付く濡れた髪を掻き上げる。
「“絶対法”っていう概念は、後から俺たちが作ったんだ。当時は絶対法も何もない。
――おまえが言ってたんだ。おまえの魔法はコリウスの魔法を参考にして創られてる」
「私が?」
トゥイーディアが、俺を見て大きく目を見開いた。
夜陰の中でも冴え冴えと、その飴色の瞳が光っている。
「私がそう言ったの?」
「ちょっと待ってよ」
アナベルが声を荒らげた。
「そんな荒唐無稽な話にイーディを巻き込まないで。イーディに何かあったらどうするのよ」
「そんなにムンドゥスが粉々になるとこを見たいか? 今、早急にこの子を助けなきゃならなくなって、いちばん可能性のある話をしてるんだろうが」
ムンドゥスに指を突き付け、俺が憤然として応じる。
口が勝手に動いて、想像の外側の言葉を吐き出していた。
「それに、どうせ失敗しても大したことにはならねぇだろ。せいぜいが腕の一本が落ちるくらい――」
「ちょっと!」
もはや条件反射じみた素早さで、ディセントラが俺を咎める声を上げる。
俺は、首を振ってそれを無視した。
「――で、ヘリアンサスがそれに気付いて、曲がりなりにも義理のある相手だ、やべぇことになったっていうんで正気に戻ってくれりゃ御の字だ」
「ルドベキア――」
アナベルが気色ばんで何か言おうとしたが、トゥイーディア自身がそれを止めた。
アナベルを宥めるようにその腕を掴んで言葉を止めさせて、続きを促すような顔で俺を見る。
――俺は息を吸い込んだ。
「……当時はコリウスも本を出してた。その本を参考にしたって、おまえが言ってた」
トゥイーディアの問いに応じる形で俺は呟いて、いちどぎゅっと目を瞑って、当時のトゥイーディアの言葉を思い出した。
早朝の庭園で、俺に向かって、柔らかい羊毛のような声で話してくれていたトゥイーディア。
あの身振り。あの仕草。
――全部覚えている。
「コリウスの瞬間移動は、とどのつまりが距離の変更だろ。
自分の居場所そのものを、世界の法を書き換えて変更してる――」
コリウスが息を吸い込んだ。
――これまで俺たちは、彼が得意とする瞬間移動について、詳しい話を聞いたことはいちどもなかった。
だからこそ、俺がその原理を知ることがあったとすれば、最初の人生以外には有り得ないと、彼も認めたゆえだった。
「……どうやら、本当に僕は本を出していたらしいが――」
コリウスが呟き、その声の裏にある驚きの所以を正確に理解して、俺は一秒、非常な驚嘆を以て彼を見据えた。
――そうだ、考えてみれば明らかだった。
俺たちの得意分野の魔法は、コリウス以外は、それぞれが絶対法を超える側面を持っている。
そのため、ムンドゥスに特別にそれを許してもらった。
だからこそそれゆえに――俺も自覚しているところはあるが――俺たちの固有の力というものは、みんながみんな、「なんとなく使える魔法」だ。
だがコリウスだけはそうではない。
確かに俺たちは、コリウスに関しても、〈動かすこと〉の魔法において、他より大きな魔力対効果の魔法を生むことをムンドゥスに交渉している。
だからこそ、コリウスは念動の最高峰の魔法を使う魔術師だ。
しかしそれは、コリウスの魔法は、決して瞬間移動に特化した魔法ではない。
コリウスは――全ての記憶を失って転生したコリウスは――もういちど、ゼロから、大魔術師と謳われた当時と同等の魔法を、その頭脳のみで生み出していたのだ。
息を吸い込み、その驚嘆と賞賛の全部を胸の中に仕舞い直して、俺はトゥイーディアに視線を戻した。
トゥイーディアは目を瞠って俺を見ている。
次々にその頬を雨粒が流れ落ちていく。
「――おまえの魔法は、」
雷鳴に掻き消されないよう声を張り上げ、俺は目の前のトゥイーディアに伝えている。
「コリウスの魔法が外的な距離を変更するのに対して、内的な距離を変更してるわけだろ。
疑似的に、相手の中に自分の意識を作ってる、そういう魔法だろ」
トゥイーディアの表情が崩れた。
困惑と混乱がいっぱいに拡がって、いっそ不安そうな顔――
――そんな顔をさせたいわけではないのだ。
「……どうして知ってるの?」
「おまえに、」
俺は息を吸い込む。
呪いが、どこまで俺の言葉を許すものかどうか、分からなかった。
「おまえに、――おまえの魔法の話を聞いたことがある」
トゥイーディアが瞬きする。
彼女が何かを事実として呑み込んだようだった。
いつもの、しゃんとした表情が戻った。
「――だから、おまえの魔法を応用すれば、コリウスほど完璧じゃないにせよ、真似事ていどは出来るはずだ」
俺は言葉を続けている。
――これでは逆だ。
あの庭園で魔法を教わっていたときと、まるで逆――
「いつもは相手の中におまえの意識を作ってるんだろう、だったらそれを、外側でやればいい。
ヘリアンサスの傍におまえを作ればいい。幸いにも、あいつがどこに居るかははっきり分かるんだろう」
溺れ掛けたところで息継ぎをするように息を吸って、トゥイーディアがこくこくと頷いた。
「ええ、――それは、はっきり」
「イーディ」
ディセントラが、制止の口調で声を上げた。
「イーディは魔力を温存しなきゃ――」
「言ってる場合か」
俺は声を荒らげ、ディセントラの傍で苦悶に身体を折るムンドゥスを指差した。
「そんなことを言ってたら、俺が内殻をどうこうするより、この暴力女が母石を壊すより先に、ムンドゥスが壊れるぞ」
ディセントラがムンドゥスに目を向け、そして息を吸い込んで、言葉の全てを呑み込んだ。
――瞬間移動以外の手段では、今はヘリアンサスの傍に寄ることすら難しい。
コリウスが単独で瞬間移動したとしても意味はなく、そして俺かトゥイーディアを連れて瞬間移動してもらおうにも、彼のことだから、勢い余って連れを殺してしまう危険がある。
この局面で、その賭けは出来ない。
だが一方、トゥイーディアが未知の魔法を使うならば――言うまでもなく、成功することが最善だが――最悪の場合であっても命は落とすまい。
そして、俺が本意ではなく指摘した通り、成功しようが失敗しようが、トゥイーディアに何かあれば、それをヘリアンサスが察知して正気に戻る可能性は十分にある。
――雷鳴が轟く。
雷光はもはや、空に走る罅割れのようだった。
言葉にもならない声を上げ、周囲から押し寄せてくる亡霊の群れ――
閃光と地響きの中で、しかしトゥイーディアはそれら全部を意識から締め出したような顔で、真っ直ぐに俺を見詰めていた。
「ヘリアンサスの傍に、私を――」
俺は周囲を見渡して、目の届く範囲に火を放って、こちらへ押し寄せてくる亡霊を駆逐しながら、皮肉っぽく言っていた。
「なんだよ、瞑想でもするか?」
俺の喧嘩腰の言葉に、しかしトゥイーディアは、くすりと小さく笑みを零した。
コリウスがトゥイーディアのすぐ傍に歩み寄って、俺には分からない、専門的な助言を施し始めた。
コリウスも、俺の提案を最も蓋然性のある手段だと認めたのだ。
耳打ちするようにして送られる助言に、トゥイーディアが何度も小さく頷いている。
――無意識のうちに、俺は拳を握り締めていた。
爪が掌に喰い込む鈍い痛みがある。
押し寄せてくる亡霊を払う作業には暇がないが、だがそれでも、脳裏にあったのは目の前に立錐の余地なく立ち並ぶ〝えらいひとたち〟のことではなかった。
ヘリアンサスのことを考えていた。
――ヘリアンサスが、この土壇場になってなお、我を失うほどに激怒しているというならば、その責任は俺にあった。
あいつを助けてやらなかった、あいつを人間扱いしなかった、――俺がもっと早くにあいつを人間だと認めていれば、あいつをこうも怒り狂わせることにはならなかったのに。
あいつは、あいつが享受する世界の全部を諦めるほど、俺に――俺の母親に譲ってくれたのに、俺はそれに報いるに足ることを、なにひとつとしてしてこなかった。
腹の中が捩れるような後悔があった。
そして、俺が果たすべき責任を、こうしてトゥイーディアに押し付けていることへの、吐き気がするほどの嫌悪感があった。
――コリウスと言葉を交わし終えたのか、トゥイーディアがこちらを向いた。
雨に打たれていても一向に曇らない飴色の瞳が、全幅の信頼を以て俺を見詰めていた。
彼女が身を乗り出した――俺は目を逸らしていたが、トゥイーディアの、雨に濡れて冷え切った手が俺の手指を握るに至って、端から見れば面倒そうでさえあるだろう顔つきで、彼女を振り返っていた。
「――あ?」
「きみね、」
トゥイーディアが俺に顔を近付けて、はっきりと言った。
雷鳴が轟く中にあって、声はいつもよりも大きかった。
雨の雫が滴る蜂蜜色の髪の一房が、濡れた髪独特の重さで肩から滑り落ちて、俺の腕に当たった。
トゥイーディアが背伸びして、俺の耳許ぎりぎりに唇を寄せてきたので、俺は驚きに固まった。
トゥイーディアは、俺が手を振り払う前に――とでも言いたげな、急いたような声音で、どことなく慌てて言葉を継いでいる。
「――嘘でもいいから、一回だけ、私の成功を信じてるって言ってくれない?」
「――――」
俺は思わず、本心から、まじまじとトゥイーディアを見遣ってしまった。
至近距離にあるトゥイーディアの瞳。
小さく傾けられた頭。
冬の夜に雨を受けて、蒼褪めるほどに冷えた頬――
――どうして俺にそんなことを言うんだろう。
他の誰でもなく、俺に。
ふわふわした当惑が降ってきたが、呪いは顕著だった。
その当惑すら見事に俺の表情から削ぎ落とす。
そして俺は、ちらりとムンドゥスを見遣っていた。
――傷だらけで蹲り、予後幾許もない様子で膝を突いている、世界そのもの――
俺は息を吐き、まるでムンドゥスのためにトゥイーディアの士気を下げてはならぬがゆえ、というかのように面倒そうに、トゥイーディアに視線を向けた。
目が合って、トゥイーディアが息を詰めたのが分かった。
俺は鬱陶しげにトゥイーディアの手を振り払い、一歩下がって彼女と距離を取り、そしてその上で、心底うんざりしたかのような表情と声音で言っていた。
「――ああ、信じてるよ」
恐らくこれが、転生が始まってから初めて、俺がトゥイーディアに乞われて応じた、肯定的な言葉だった。
トゥイーディアがにっこりと笑った。
頭のてっぺんから爪先まで濡れ鼠になって寒さに震えていてなお、輝くような笑顔だった。
――俺は息を止めた。
それは傍目からは分からなかっただろう。
言葉にならないほど必死に、俺はトゥイーディアの無事を祈った。
いっそ成功は二の次だった。
トゥイーディアに何かあるくらいなら、今このときに世界が崩壊した方がよっぽどいい。
トゥイーディアに何かがあってなお存続する世界に、俺は意味が見出せない。価値も見出せない。
トゥイーディアのいない世界の意味とか価値とかを、親切な誰かが俺の眼前で旗にして振って見せてくれようが、俺はそんなものは認めない。
――ああ、本当に、呪いさえなければ。
トゥイーディアが最後にコリウスを見て、ひとつ頷いた。
彼女が目を閉じた。
しとどに降る雨が、トゥイーディアの額を筋になって滴っていた――
夥しい数の白い光の鱗片が、その場で大量に舞い散った。
雨粒が光を反射して、白く筋になって光って見えた。
トゥイーディアが息を止めた。
肌がぴりぴりと痛むほどの魔力が渦巻いた。
癖になっていたのだろう、魔法の行使の合図に、トゥイーディアが右手を振った。
ぱっ、と、一際華やかに白い光の鱗片が散った。
その眩しさに俺は一瞬目を閉じて、そして瞼を上げたとき、そこにはもうトゥイーディアはいなかった。
タイトルの読み方は「亜ぐ魔法」




