52◆ 救世――この恐怖は
カルディオスの腕の傷は、深くざっくりと裂けていたものの、幸いにも治療に手間取るようなものではなかった。
俺がカルディオスの腕を治療しながら、言葉に痞えつつもひたすら謝っているあいだ、ヘリアンサスは苛々した様子で俺たちの周りを歩き回っていた。
彼が珍しいくらいに苛立ちを顔に出していたので、俺としてはかなり怯んだ。
カルディオスは俺よりは平気そうにしていて、治療が終わると、軽く手を握ったり開いたりして、腕をぶんぶん振ったあと、屈託なく俺に微笑んだ。
「ありがと、ルド」
「いや――」
俺は口籠った。
明らかに、カルディオスの負傷は俺のせいだった。
カルディオスは、俺の言いたいことを遮るように手を振って、ヘリアンサスに訝しそうな目を向けた。
「――で、おまえは何をそんな苛々してんの。怖いんだけど」
「怖い? なんで?」
恐ろしいことに、全くの本音と思しき語調でそう尋ね返し、ヘリアンサスは俺を指差した。
しゃらん、と揺れるカライスの腕輪。
「ルドベキア、早く自分の傷を治して」
「治すけど――」
と、俺も困惑する。
そして思い当たって、息を引いた。
「――トゥイーディアに何かあったのか」
ヘリアンサスははっきりと、「身命を賭して」と断言するほどに重く、トゥイーディアの無事を約束していた。
ヘリアンサスは約束を破らない。
こうまで彼が苛立っているなら、きっとトゥイーディアに何かあったのだと思った。
一気に頭に血が昇った俺を一瞥して、ヘリアンサスはきっぱりと言った。
「ご令嬢? ああ、怪我はしてるみたいだけど生きてるよ。
そんなことより早くして。日が落ちる」
「イーディがなんて?」
カルディオスが泡を喰ったように叫ぶ一方、俺はぽかんと瞬き。
内心では、それこそ心臓に針が刺さったように感じていたものの、表情に出す感情は限られた。
「……は?」
「だから、」
苛立たしげに踵を上下させて、ヘリアンサスが繰り返した。
「早くしてよ。日が落ちる。
おれ、夕陽を見るのが好きなんだ」
「――――」
俺もカルディオスも、一並び黙り込んだ。
――ヘリアンサスが夕陽を見るのは、今日が最後だ。
これほど愛する世界の全部と、ヘリアンサスは別れを告げなければならない。
俺たちがそうした。
俺たちがそういう風に彼を追い詰めた。
俺は黙って、自分の左腕を突貫工事で治療し始めた。
それを見守ってから、ふ、とヘリアンサスがカルディオスに視線を移す。
「――おれのこと怖いって? なんで?」
カルディオスが瞬きして、口籠った。
「なんでって、そりゃ――」
ヘリアンサスが、何度も俺たちを殺してきたからだ。
俺たちが何十回と挑もうと、手傷の一つとして負わせることの出来なかった魔王――
――それそのものの貌を、先ほど目の当たりにしたからだ。
ヘリアンサスが首を傾げる。
気まずそうに口籠るカルディオスを見遣ってから、治療を終えた俺が立ち上がって、曖昧に言った。
「――さっきだよ。久し振りにおまえのこと怖いって思った」
「おれを?」
ヘリアンサスが意外そうに瞬きして、それからにっこりと微笑んだ。
毒のある花のように美しく。
「ほんと?
――あいつもその十分の一程度のことは思っていればいいんだけど」
そう嘯いて、少し目を逸らして、ヘリアンサスが呟く。
ぞっとするほど棘のある語調で。
「――死なない相手なら、いくらでも痛めつけられるから、気分はいいかな」
腹の底が冷えるような怖気を感じて、俺は慌ててヘリアンサスの手を引いた。
「治療、終わった」
「あ、良かった」
顔を上げ、たちまち不穏な表情を雲散霧消させて、ヘリアンサスが嬉しそうに言った。
そうして彼は、小川の向こうの原野を突っ切って、俺とカルディオスを急かして夕陽を見るために突き進んだが、カルディオスはさすがに不服そうだった。
「なあ、イーディが怪我してるって言ってなかった?」
「言ったっけ? 忘れたな」
「ひでー怪我だったら、さすがにおまえのこと許さねーからな」
「はいはい、大丈夫だって」
カルディオスがあからさまに不機嫌そうにそう言っていて、俺としては彼が羨ましい。
俺にとっては、口に出してトゥイーディアを心配すること自体が不可能事だ。
代わりに俺は、原野を嬉しそうに邁進するヘリアンサスについて足早に歩きながら、別のことを尋ねていた。
ルインは? アナベルは? 船は?
ヘリアンサスは面倒そうだったが、それでもいちいち律儀に答えてくれた。
「ルインってなに――あ、おまえが弟って言ってた、あれ? 大丈夫じゃないの、船にいるよ。
――スクローザ夫人? 船にいるよ。飛び降りてなければね。海の上なんだから、他の誰よりあの子が大丈夫なんじゃないの。
――船? 大丈夫でしょ、夫人がいるんだから」
俺は胃の腑が痛くなってきた。
船を離れたとき、俺は全く余裕がなくて――〝えらいひとたち〟の姿に怯えていて、しっかりとルインと言葉を交わすことすらしていない。
それが急に悔やまれた。
あいつは俺を頼って今までついて来てくれたのに。
ルインが今、怯えていたり困っていたり、あまつさえ危ない状況にいたらと思うと、ここまで連れて来たのは俺なのだが、それでも後悔した。
ルインとて一端の魔術師だし、それに加えて、海の上でアナベルが一緒に居てくれているのだから大丈夫だとは思う――ヘリアンサス曰く、〝えらいひとたち〟は船を追わずにトゥイーディアを追っているようだから、その考えはおおよそのところで正しいだろうと期待も出来るが。
だが、そうなると今度は、トゥイーディアのことが案じられて吐きそうになる。
――怪我をしていると言っていた。
ヘリアンサスは約束を破るのを嫌うから、本当に大した怪我ではないのだろうが、それでも怪我というからには痛いはずだ。
大方、俺たちと同じように、予期せぬ瞬間移動に巻き込まれた結果として、運悪くどこかにぶつかったのかも知れない。
俺にとっては、トゥイーディアが指先を切ることですら耐え難いのに。
「ムンドゥスは? 大丈夫なんだろな――おまえ、あの子がどこにいるか分かる? イーディたちと一緒かな?」
カルディオスが、心配と苛立ちの余りに拳を口許に押し当てながら、くぐもった声で言った。
ヘリアンサスはちょうど、よいしょ、と呟きながら最後の短い斜面を登って、眼下に海を望む原野の端、すなわちこの島――島、だと思う、さすがに大陸の端っこではないことを祈る――の端の、崖の上に位置する場所に足を止めたところだった。
島の端とはいえ、眼下を覗き込めば、波に現れる断崖の縁に、島の延長のような岩礁が頭を突き出し、波に洗われているのが見えた。
ざあん、と波が響き、潮の匂いがする。
吹く風が冷たくて、俺は無意識のうちにぶるりと震えていた。
両手を握り合わせると、自分の指先の冷たさにぎょっとしてしまう。
眼下の海は夕陽の色と暗がりに二分されている。
暗がりに横たわる海は、ひとあし早い夜を呑み込んで、滑らかな濃紺に色を沈めて、艶やかに翻っているが、一方では波の下に金の延べ棒を隠しているように、揺らぐような夕陽の明るさを映している部分もある。
その海を挟んで、ここからは左前方に、他の島の影が見えていた。
昼間であれば、その島の様子までもをありありと見て取ることが出来るだろう距離であり、現に今も、そちらの島の、夕陽に照らされる一面の様子ははっきりと見ることが出来た。
――砂浜を、柔らかく波が洗っている。
砂浜から切り立つ灰色の崖を、夕陽が陰影鮮やかに描き出している。
目を上げれば、天頂は見事な藍色に染まりつつある。
ヘリアンサスがうっとりと目を細めたことに、ちょうどこの崖は西に面していて、正面からやや右にずれた位置に、朱金に燃える夕陽を望むことが出来た。
海の一画を真っ赤に染めて、空は紅蓮に綻んでいる。
深紅から濃紺へ色を移す空は、染料を水で溶いたかのように透明な色の移り変わりを見せていた。
半ばは白いほどに眩しく、そして僅かに緑を映してから、天鵞絨のような藍色に沈む空――
「――わぁ」
ヘリアンサスが呟いた。
直前のカルディオスの言葉も、もう耳に残っていないようだった。
黄金の瞳いっぱいに、この夕暮れの景色を焼き付けていた。
カルディオスも、ぐっと言葉を呑み込んだようだった。
強く目を瞑って両手で顔を拭ってから顔を上げて、彼が小さく言った。
「――おまえが熱心に見るから、空まで照れてる」
「とっても素敵だ。でも、嘘だ」
ヘリアンサスが呟いた。
視線は夕暮れの景色に釘付けになっていたが、言葉は穏やかだった。
「おれがいなくても空は青いし、夕陽は綺麗だ。朝は来るし、雨だって降る――」
両手を身体の前で汲んで、ヘリアンサスは首を傾げ、いっそう小さな声で呟いた。
「――それがとても……いいと思う……」
カルディオスが何か言おうとして、黙り込んだ。
俺も言葉が出なかった。
しばらくうっとりと夕陽を見詰めてから、ヘリアンサスが瞬きして、俺たちを振り返った。
そして、ふと気付いたように言った。
「……さっき、ムンドゥスがどうしてるか、気にしてた?
――大丈夫だと思うよ、少なくとも、」
夕陽に目を戻して、ヘリアンサスは微笑む。
「あの子に何かあったなら、こうしてのんびり夕陽を見てはいられないから……」
「――アンス」
堪りかねた様子で、カルディオスが口を挟んだ。
「あのな、別に今だって、余裕があるってわけじゃない」
「大丈夫だって。あっちのおれに近付く方に瞬間移動は出来なくても、離れる方には出来るから。
ここ、ご令嬢がいる場所よりはあっちのおれに近いんだ」
あんまりにも事も無げにそう言われて、俺とカルディオスは絶句した。
俺はまず、ここがまだ諸島であって、俺たちが大陸まで送還されていないという事実を保証されたことに、僅かの間こそ安堵したものの、いや、それにしても。
「――知ってたの?」
辛うじてそう尋ねれば、ヘリアンサスは眉を顰めて俺を振り返る。
「瞬間移動は出来ないって? ――ああ」
「知ってたなら先に教えてくれよ……」
俺が思わず、膝から崩れ落ちるような気持ちでそう訴えると、ヘリアンサスはゆっくりと瞬きした。
肩を竦めて、彼は平然と言った。
「おれも、自分で試して初めて気付いた」
「うん、イーディに事情を説明するときは、ちゃんとそっちから言おうな。順番に気を付けて話そうな。じゃないと血を見るぞ」
カルディオスが力を籠めてそう言った。
ヘリアンサスは、聞いているのか聞いていないのか、上の空で頷く。
それから、ぱん、と、切り替えるように手を叩いた。
名残惜しげに夕陽を見ながらも、彼は言った。
「――そう、そうだ、ご令嬢だ。そろそろ行かないとね」
「マジで頼むぜ……」
カルディオスが萎れた声音でそう言うのを他所に、俺は覚悟を決める意味もあって息を吸い込んだ。
――トゥイーディアのところに駆け付けたい、それは本当だ。
だが同じくらいに、俺はトゥイーディアに会うのが怖かった。
俺の、無様な姿を見られるのが怖かった。
「――――」
ヘリアンサスがすうっと俺に視線を移して、瞬きした。
俺は、自分の内心が彼に筒抜けになったかと思ってぎょっとしたが、ヘリアンサスは何も言わなかった。
彼は無言のまま、もういちど夕暮れの光景に目を向けた。
――白いほどの黄金と、柔らかな真紅に染まる西の空。
鮮やかに色を変えて広がる、眩しいほどの色の移り変わり――同じ色の空はもう二度とあるまいと思える、見事な陰影。
天頂の藍色の空。
瞬き始める星と、夕闇に力を得て白く輝き始める月。
夕陽を受けて白く輝く海の、波の煌めき。
ひとあし早い夜に沈む、濃紺の艶やかな海の揺らぎ。
――ヘリアンサスが目にする、最後のものとなる夕暮れ。
黄金の瞳が、夕陽に照らされて緋色に輝いている。
俺はその横顔を見て、急に泣きたくなった。
――こいつは、あれだけ虐げられて、光もない地下神殿にずっと一人でいて、それでもなお、これほどこの世界を喜ばしく感じられているのに――
「――……兄ちゃん、ごめん」
衝動的に呟いた俺に、ヘリアンサスが目を向けた。
カルディオスはもう斜面を引き返す方向に足を向けていたが、彼も振り返った。
俺を見て、夕陽を頬に受けて白い頬を赤く照らされながら、ヘリアンサスが微笑んだ。
冷たい風が吹いて、ざわざわと木立の梢が揺れる音がする。
ヘリアンサスの新雪の色の髪が、柔らかく風に靡いた。
「気にしなくていいよ。――言っただろう、おれが欲しいのは、窓一枚分の空でいいって。
ほんとを言うと、それもいいんだ。おまえ、おれのこと覚えててくれる?」
俺は頷いたが、言葉が出なかった。
そんな俺をまじまじと見詰めて、ヘリアンサスが首を傾げる。
もう随分昔に俺が教えた仕草で。
そして口を開いた。
口を開いてから声を出すまでに、俺の好きな、独特の一拍の間があった。
「気にしなくていいんだ。たまに思い出してくれれば、おれのことをずっと考えている必要もない。
――言っただろう、この世界はおまえを幸せにするためにある。おれもだ」
俺は瞬きした。
ヘリアンサスの言葉と自分自身とが、どうにも不釣り合いだった。
そもそも、どうしてヘリアンサスが急にそんな大それたことを言うようになったのか、それが俺には分からない。
――それに、土台からいえば俺は、どちらかといえば幸せになってはいけない部類の人間だった。
どう言い逃れをしようとも、俺が万を超える人を殺した――彼らの人生を奪った、その事実は変わらない。
消えない。
本当ならば、トゥイーディアの隣に立つことを望んでもいけない魔王。
最近の俺は高望みが過ぎる。
そう分かっている。
俺の恋心は、全部を忘れたトゥイーディアにつけ込んで、彼女を騙して心を乞おうとしているようなものだ。
何から何まで全て忘れ去ろうが、何度も何度もトゥイーディアに心の全部を傾けてしまう、俺の傍迷惑な習い性。
俺の心には、トゥイーディアでしか埋まらない何かの穴がずっとあって、それを埋めようとしてしまう――トゥイーディアを目で追ってしまう、ずっと彼女のことを考えてしまう、俺の身勝手な本能。
どれだけ人生を繰り返してもトゥイーディアはトゥイーディアだし、俺は彼女の――首を傾げる仕草とか、何かを説明するときの仕草とか、手を振るときの繊細な指先とか、ものを言うときの声音とか、笑うときの目の細め方とか――そういうものから窺える彼女の全部を、いつだって好きになってしまう。
好きになって、彼女に同じ心を求めてしまう。
全くトゥイーディアのためにならないことに。
俺は彼女のためならどんなことでもしたいと思うのに、結局は彼女のためにならないことを求めてしまう。
――俺の自分本位な片想い。
片想いでしかない。
仮令トゥイーディアが俺に好意を向けていてくれたとして、トゥイーディアからの気持ちでは比較にならないくらいに重いだろう、病的な片想い。
もちろん、そうだと分かっている。
だから俺の高望みを、誰に応援してもらいたいとも思わない。
「……ヘリアンサス、それは――」
俺は言い淀んだ。
言葉を探して目を伏せる俺をじっと見詰めて、不意にヘリアンサスが顔を綻ばせた。
そしてこちらに手を伸ばして、少し背伸びして、ぽん、と、俺の頭の上に右の掌を置いた。
あやすような手付きで。
「――――?」
「ルドベキア、いいんだよ」
ヘリアンサスが、宥めるようにそう言った。
黄金の瞳が、笑みを含んで俺を見た。
俺はこいつの、こんな表情を知らない。
これは――これではまるで、
――トゥイーディアを見るリリタリス卿のような。
「気にしなくていいんだ。気に病ませたんだね、――でも、いいんだよ」
軽く息を吸って、ヘリアンサスはきっぱりと言った。
「おまえが、自分がやったと思っていることの殆どは、おれがやったことだから」
「――――」
俺は眉を寄せた。
――違う、と、刹那の間にそう思った。
そもそもは、俺がヘリアンサスとの約束を反故にしたから、ヘリアンサスがあれほどの暴挙に出たのだ。
種を蒔いたのは俺だった。
それは絶対に否定できない。
ヘリアンサスは俺の表情を見て、唇を曲げた。
彼が俺の頭の上から手を下ろして、そのまま俺の右手を軽く握った。
冷えた指先に、ヘリアンサスの温かい手が触れて、その温度差が溶けるほどに優しかった。
「……頑固な馬鹿息子め」
お道化て咎めるような声音でそう言って、そしてヘリアンサスが、空いた左手をカルディオスに伸べた。
カルディオスが、阿吽の呼吸でその手を取る。
ヘリアンサスが目を細めた。
黄金の瞳が、俺には分からないどこか別の場所を見たようだった。
彼が、軽く息を吸い込んだ。
ひゅう、と、海へ冷えた風が吹く。
風に泳ぐ新雪の色の髪の下で、黄金の瞳に陰影が踊る。
そしてヘリアンサスがその目を閉じて、
「――ご令嬢?」
ぐい、と、どこかへ引っ張られるような感覚だけがあった。
――あああああ、ああああ。
言葉にならない呻き声が、周り中で上がっている。
空気を震わせ、地面を揺らすような声で――だがそれは、ひとつひとつの声が大きいからではなかった。
無数の声の主が集まっているためだった。
頬に風を感じて俺は目を開けて――そしてそのまま凍り付いた。
予期していなかった、予測していなかった最悪の事態に、声も身体も何もかもが凍り付いた。
――ヘリアンサスに連れられて瞬間移動した、それは分かる。
ここはどこだろう――諸島のどこかだ。
俺が知覚できる範囲では、だだっ広い荒地のように思える。
膝までの高さの硬い野草が一面に隙なく生い茂っており、脚がちくちくと刺されるような感覚があった。
傍にはヘリアンサスがいる――もちろんカルディオスもいる。
だが、それ以上に。
――あああ、あああああ。
身の丈数十ヤードにも及ぶ〝えらいひとたち〟が、立錐の余地なく俺たちを取り囲んでいた。
輪郭すらも曖昧な巨人が、それでも互いの境目を守って、山が連なるように頭と肩を並べている――
薄墨色の巨躯が、最後に降り注ぐ斜陽すら遮って、周囲は薄暗い。
空が狭い。
息が出来ないほどに。
「――おまえ!」
怒鳴り声が上がった。
それは分かった。
どんなときでも、俺が聞き逃すことのない声――いっそ聞き逃せるほどに無関心であれたらと、願ったことすらあった声。
「おまえ! なに考えてるの!」
辛うじて、俺の視線が動いた。
俺は自分の左側を見た。
――そこにトゥイーディアがいた。
そして、俺は今のこの状況でさえも、その刹那に頭の中から放り出しそうになった。
トゥイーディアが怪我をしている。
――それは分かっていた、ヘリアンサスがそう言っていたから。
しかし、違う。
俺が想定していた怪我の度合いではない。
ヘリアンサスが落ち着いていたから、俺はてっきり、怪我といっても大したものではないのだと――軽傷といえる度合いのものだと――
――違う。
乏しい明かりでも分かるほどに、トゥイーディアの顔面が蒼白になっている。
彼女は硬い野草の中に埋もれるようにして座り込んでいて、そしてその左腕が血塗れになっている。
どこから出血しているのかも咄嗟には分からない――トゥイーディアの傍の野草に、点々と血の汚れがついている。
トゥイーディアの傍にはコリウスとディセントラがいて、守るようにトゥイーディアを挟んで膝を突いている。
二人とも無傷ではないようだった。
ディセントラが頬を切っているのが、薄暗がりにも浮かぶ白い頬の翳りとして分かった。
コリウスは珍しいほど狼狽している。
狼狽して、しかし強いて落ち着こうとしていることが分かる、唇を噛んだ硬い表情。
――どん、と、どこかで轟音が響き渡った。
ああああ、と、〝えらいひとたち〟が叫ぶ。
見回すどこかの地面が崩れたのだ――〝えらいひとたち〟が、崩れる地面に引き摺られるようにして消えていく。
この魔法を使えるのはコリウスしかいない。
だが、消えた〝えらいひとたち〟は、全体から見ればほんの僅かでしかない。
「おまえ――」
トゥイーディアが怒号を上げる、その顔が鮮やかに照らされる。
強くディセントラの魔力が香って、俺たちからすれば正面に見える〝えらいひとたち〟の頭の上に、巨大な火球が降った。
温度でいえばそれほど高くはないものだっただろうが、それでも頭上に炎を受けた〝えらいひとたち〟が、身を捩り、絶叫しながら消えていく。
その絶叫に俺の肌が粟立つ。
トゥイーディアが膝立ちになった。
コリウスがその右肩を押さえようとするが、明らかに怪我を慮って迷っている。
ついでにコリウスも、どうやら肩に負傷しているようだった。
動きが固い。
トゥイーディアの方は、コリウスの傷を気遣うことすら、その刹那は忘れ去ったようだった。
コリウスを振り払うようにして右腕を伸ばし、
「おまえ!」
怒鳴りながら、傍に立つヘリアンサスの腕を掴んだ。
ヘリアンサスは興味深そうに周囲を見渡していたが、腕を掴まれるに至って視線を翻し、トゥイーディアを見下ろした。
ちょっと馬鹿にしたような仕草だった。
まじまじと彼女の左腕を見て、怪我の具合を推し量るような目をしたあとで、ヘリアンサスがにっこりと微笑む。
いつもの、あの訳知り顔の表情で。
「――なに? ご令嬢」
「おまえ――なんで――」
トゥイーディアが言葉に詰まった。
怒りで喉が塞がったようだった。
失血して真っ白になっていた頬に、ほんの僅かに血の気が昇った。
「わざわざ置いていってやったのに――私がどれだけ――」
ヘリアンサスが瞬きした。
そして、鼻で笑ってトゥイーディアの手を振り払った。
「それだけ騒げるなら平気そうだね」
痛みが祟って力が入っていなかったらしいトゥイーディアの手が振り払われて、体勢を損ねた彼女が痛みに息を詰めたのが分かった。
「――――!」
「イーディ!」
俺が息を呑むのと全く同時に、カルディオスがトゥイーディアの前に膝を突いた。
同時に、どごっ! と音がして、さっきまでカルディオスが向いていた方で、盛大な爆発が起こって粉塵と土塊が舞い上がった。
〝えらいひとたち〟が吼え猛り、無礼を咎めながら消えていく――
「イーディ、どうした――待て、おまえらずっと一緒にいたの?」
カルディオスが切羽詰まって問い掛け、コリウスが素早く応じた。
頬が強張っている。
語調はいつもよりずっと早口になっていた。
「僕のせいだ、僕たちは三人まとめてここに――」
「あいつらがイーディを追っ掛けて来たの?」
「そうだ。それで、凌ぐにも数が多かったのと――」
「イーディが怪我したの?」
「あいつが居たのよ」
ディセントラが口を挟んだ。
同時に手を伸ばしてカルディオスの手の甲を抓り、どんどんコリウスの言葉を遮っていくカルディオスを黙らせる。
どんっ! と、再び地響き。
俺はもう何が起こっているのかすら見ていられなかったが、〝えらいひとたち〟の絶叫が、増して声高に轟き渡るのを聞いて、首筋から背筋に氷を詰め込まれたような心地を味わっていた。
「あいつ――ルドベキアが何て呼んでたかしら、あの、人型のあいつよ」
「こっちにも!?」
と、カルディオスが叫ぶ。
「俺たちの方にも、あいつ来たんだけど――」
ディセントラは怪訝そうな顔のひとつも見せなかった。
顔を顰めて、頬の傷を庇うようにしながら、淡々と言葉を続けた。
「不思議じゃないでしょ、そもそも魂が形になったものなんだから、同時に現れるのが一つだけだなんて決まってないんでしょ。
――そう、それで、あいつを撃退したはいいんだけど、イーディが怪我しちゃって――」
「こんだけの数のレヴナント相手にしながら、あいつを追い払ったの?」
カルディオスが声を高くした。
「人間じゃねーな――」
「違う、ディセントラが雑魚を引き受けてくれている間に、トゥイーディアと僕で対処したんだ。ただトゥイーディアの負傷で動けなくなって囲まれて、挙句に――」
「ムンドゥスがいないのよ」
ディセントラが力を籠めてそう言って、ひょい、と指を振った。
名状し難い轟音と共に、再び天から降る火球。
〝えらいひとたち〟が声を合わせてディセントラの無礼を咎め、そして一向にその数が減らない。
――俺は無意識に周囲を見渡していた。
〝えらいひとたち〟の怒号が響く中、目が光景の上を滑る。
だが確かに、あの子の――世界そのものの姿が見えない。
ヘリアンサスもまた、はっとしたように瞬きした。
ちら、ディセントラを見てから、彼が試すように呟いた。
「――ムンドゥス?」
応えはない。
「なあに」と応じる、感情のないあの声が聞こえない。
ヘリアンサスは不機嫌に目を細めた。
「……前にもあの子がおれを無視したことはあったんだけど、別にいい思い出じゃないな」
「ルド」
どうやらヘリアンサスの言葉を聞いていない様子で、カルディオスが俺を見上げた。
「イーディを治せる?」
「…………」
俺は瞬きして、苦労してカルディオスの言葉を呑み込んだ。
そして息を吸い込む。
――如何な俺の呪いでも、この状況でトゥイーディアへの治療は阻まない。
戦力になるトゥイーディアを治療することの合理性が、俺からトゥイーディアへ寄せる好意を隠すから。
恐怖に目の焦点を絞ることすら儘ならない俺が、きちんと治癒の権能を扱うことが出来るのかは、それは俺にも分からないけれど。
――が、ヘリアンサスが、トゥイーディアの前に屈もうとした俺の肘の辺りをがしっと掴んで、俺のその動作を止めた。
「――アンス?」
俺が驚いて振り返ると同時に、カルディオスが険のある声で呼んだ。
「アンス、ふざけんなよ――怒るぞ」
トゥイーディアは、どことなくぽかんとした様子でヘリアンサスを見上げている。
痛みがあるはずなのに、驚くほどそれを感じさせない表情だった。
ただ注意して見れば、目尻が痛みに強張っているのが分かる。
また、爆音が轟いた。
どこかで火球が弾けて、その無礼に怒り狂う〝えらいひとたち〟の怒号が響く。
俺は両の拳を握り締めて、必死に指の震えを隠そうとした。
眩暈とは違う――視界が定まらない、目の辺りの筋肉に勝手に力が入るような、そんな感じがしていた。
ヘリアンサスが、俺の肘を掴んだ手を、軽く揺らした。
落ち着くようにと促すような手付きだった。
ヘリアンサスが俺の後ろで何か呟いたが、俺にはそれが聞こえなかった。
耳の奥ががんがんと鳴っている。
生唾を呑む。
せめて落ち着いている振りをしようとしたが、どうしても瞬きが盛んになった。
「――――」
ふ、と、トゥイーディアが大きな飴色の瞳を瞬かせた。
すい、と視線をカルディオスに移すと、慎重に彼を覗き込むようにする。
「――カル、怪我したの?」
「イーディだよ」
カルディオスが応じたが、トゥイーディアは眉を寄せて、無傷の右手でカルディオスの軍服の右袖に触れた。
「破れてるわ。――きみも」
トゥイーディアが不意に俺に目を向けたので、俺は心臓が止まるかと思った。
どきどきしたわけでも、ときめいたわけでもない。
――トゥイーディアの透明な飴色の瞳が、俺のみっともない恐怖を見透かすことが怖かったからだ。
「怪我したの?」
「――――」
俺は答えられなかった。
ヘリアンサスはなおも俺の肘を掴んで、俺の動作を止めている。
震えを隠すために力を入れた手で、俺はやんわりと彼を押し遣ろうとしたが、ヘリアンサスがそれを気に留める様子はなかった。
「アンス。――ヘリアンサス」
ヘリアンサスを相手に声もない他のみんなを置いて、カルディオスが剣呑な声を上げている。
「ふざけてる場合じゃない。おまえ――イーディが気に掛けてくれてたことが分かるなら、まず礼を言うところだろ。ルドがイーディを治そうとするのを邪魔するところじゃない」
ヘリアンサスが瞬きして、トゥイーディアに視線を戻した。
彼女を見下ろして、ヘリアンサスはまるで、新たな発見をしたかのような表情で。
「――ああ、そうか。きみはおれのことを気に掛けてたのか。ありがとう」
そう言って、更に一秒、ふむと考え込んだあとで、ヘリアンサスはにっこりと笑った。
「確かに、きみは珍しくも、おれに気を遣っていたわけだ。
どうもありがとう、ご令嬢」
トゥイーディアが、ぎゅっと目を瞑った。
まるで、ヘリアンサスの声を聞いたせいで、忘れていた傷の痛みがぶり返したかのようだった。
彼女の頬は透き通るほどに蒼褪めていた。
「たった今、それを後悔してるところよ。
――急に強気になったのね、何かあったの? 残念だわ」
「おれとしては、きみの運の良さに脱帽しているところだよ。おれが来るまでよく生きてたね。
なんでおれを呼ばなかったの?」
少し真面目な表情になって、ヘリアンサスが言った。
「お蔭で、ちゃんと夕陽を見てから来られた。
きみが危ないとなると、さすがにもうちょっと早く来ないといけなかったからね。ありがとう」
「――――」
トゥイーディアは黙っていたが、その瞳が確実に温度を下げたことは感じ取ることが出来た。
コリウスもディセントラも、ヘリアンサスの言葉に絶句している。
救世主たちを一並び絶句させたことなど露ほども気に掛けず、ヘリアンサスは愛想よく微笑んだ。
――あああああ、と、〝えらいひとたち〟が叫んでいる。
「多分、ここの連中をどうにかしないと、二進も三進もいかないんだろうけど――」
そう言って、ヘリアンサスが俺の顔を覗き込んだ。
間近で、歪んだ鏡面のような黄金の瞳が煌めいた。
「――ルドベキア、手伝ってくれる?」
「……は?」
呟いたのは、俺ではなくてトゥイーディアだった。
彼女が立ち上がろうとしたので、コリウスが右肩を掴んでそれを押さえる。
「トゥイーディア、落ち着け――」
どんっ、と、どこかにまた火球が落ちる。
〝えらいひとたち〟が叫ぶ。
〝えらいひとたち〟のうちの一人が、大きな掌で地面を叩いて、ぼこん、と地面が陥没する。
不興を伝えるその仕草にも、俺の頭は真っ白になっている。
「どうしてルドベキアなの」
トゥイーディアが声を荒らげた。
その語調の奥に俺への気遣いを感じ取って、俺は死にたくなった。
――トゥイーディアが、俺の尋常ではない恐怖心に気付いている。
そうでなければ、彼女がこんな――こんな声を出すはずがない。
「私がやるわよ、おまえ――」
「きみ、馬鹿じゃないの?」
ヘリアンサスが、きっぱりとそう言った。
正面からトゥイーディアを見下ろして、ヘリアンサスは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「おれを誰だと思ってるの。ここで周りのこの連中をどうにかするなら、おれなら間違いなくきみたちを巻き添えにするよ。だから手加減してやると言ってるんだ。
手加減するなら、おれでも誰かに手伝ってもらわなきゃならない。それで、おれを手伝うその一人にも気を遣って、そーっと手を抜けって、きみはそう言ってるわけ?
――きみはとっくに忘れて、覚えてないんだろうけど、ご令嬢」
そう言って、ヘリアンサスがカルディオスに視線を流す。
「カルディオスはきっと覚えてるよ。
――ねえ、カルディオス。初めてきみたちとおれが殺し合ったとき、周りはどうなった?」
「それは――」
カルディオスが口籠った。
翡翠の瞳が伏せられて、しかしすぐに視線を上げる。
「――いやでも、ルドじゃなくても……」
「別に、誰かが死んでもいいならいいよ、おれは」
ヘリアンサスは素っ気なく言った。
彼はまだ俺の肘を掴んでいる。
「そういえば、死んでもいいのはそこの女王か銀髪だって、そんな話をしてたっけ?
ならいいよ、どっちかがおれを手伝うのでも」
コリウスとディセントラが、互いに真面目に視線を合わせた。
それを他所に、ヘリアンサスは――彼には珍しいくらいに――はっきりとした語調で続けている。
「おれを手伝う一人くらいは、おれが魔法に巻き込んでしまうからも知れないからね。
たぶん殺してしまうだろうけれど、――ルドベキアだけは別だ」
微笑んで俺を振り返って、ヘリアンサスが断言する。
そして一転、何かを懐かしむように――
「……痛いのはよくない……エルドラドが居なくなったのは間違いだ――だからおれが守ってる」
おれの肘を掴んでいた手を離して、ヘリアンサスが両手を合わせた。
しゃらん、と揺れるカライスの腕輪。
組み合わされる、男にしては華奢な指。
首を傾げて、暗がりにも映える新雪の髪を揺らして、嬉しそうに黄金の瞳を細めたヘリアンサスが、俺の顔を覗き込む。
「だから、ルドベキアなら大丈夫だ」
「――――」
俺は、まじまじと、目の前のヘリアンサスの顔を見詰めていた。
――頭が上手く働かない。
〝えらいひとたち〟が周り中にいて、声高に俺を責めている。
慈悲に背いた俺を、お役目に背く俺を咎めている。
戦慄が背筋を駆け上っている。
臓腑に氷を詰め込まれたかのような恐怖。
俺は、お許しなしに魔法を使うことを、そもそも許されてはいないのだ。
本当ならば顔を上げてもいけないのにここにいて――
――ヘリアンサスなら、俺たちを庇いながらでも、上手く立ち回ることが出来るような気がした。
この長い人生で、俺はヘリアンサスが何かを不可能事だとして扱っているところも――何か彼にとって手に余る事態が起きているところも――見たことはないのだ。
違和感があった。
ヘリアンサスが、無理やりに説明をこじ付けて、俺をみんなの前に立たせようとしている気がした。
そしてその違和感ゆえに、全く恩知らずなことにも、俺は見捨てられたような気がしていた。
みんなの前で笑いものにされようとしている気がした。
ヘリアンサスがどうしてそんなことをするのか分からず、俺はそのとき、途方に暮れていた。
「……兄――」
呼び掛けようとした俺の言葉を遮って、ヘリアンサスが口を開いた。
微笑んで――俺と一緒に、何かの悪だくみをしているかのように悪戯っぽく微笑んで――そうっと耳打ちするような小声で、言った。
「――おまえに掛けられた呪いのことは、おれもよく知ってる」
「――――」
俺は瞬きした。
――呪い。
俺への呪い。
あのとき、月光に煌めく湖の前で、嫌悪よりも憤激よりもなお重い失望を滲ませて俺を呪ったトゥイーディアの声音を、俺があんな顔をさせてしまった彼女の表情を、激烈な瞳を、俺は生涯忘れることはないだろう。
――『――大切なものが大切たる所以すらも分からないなら、誰を殺しても心が痛まないなら、どうぞこののち、あなたが最も大切になさる方に、その想いが言葉としても仕草としても、片鱗すらも伝わりませんよう』
俺に掛けられた、完璧なあの呪い。
――俺は息を吸い込んだ。
両手で顔を拭った。
その手が震えていることを自覚した。
心臓が狂ったように肋骨を叩いている。
どくどくと耳の奥で鳴る血潮――
「――ルドベキア、大丈夫よ。私が――」
ディセントラが、堪りかねた様子でそう言うのが聞こえた。
ヘリアンサスが小さく溜息を吐いて、呆れたように呟いた。
「黙っててよ、女王」
黄金の瞳をディセントラに移して、ヘリアンサスは顔を顰めてみせた。
「きみもそこの銀髪もお呼びじゃないよ。
分かりやすく言うと、おれはルドベキアとならやってもいいと言ってるんだ」
ヘリアンサスが俺に視線を戻して、首を傾げた。
打って変わって表情は柔らかかった。
「ご令嬢が痛い思いをしているのは、おれからすると気分がいいことは否定できないからね。でも、さすがに今日は控えよう。
周りのこの連中を片付けたあとで、きみにはご令嬢を治してもらわなきゃいけないね」
歌うようにそう呟いて、ヘリアンサスは微笑んだ。
「カルディオスも、そうした方が喜ぶだろう」
俺は息を止めていた。
そうしないと、呼吸が震えて眩暈がしそうだった。
ヘリアンサスの顔を見詰める。
何かの企みごとをしているとき特有の、きらきらした瞳をするヘリアンサス――
――俺の背中を押す父さん。
ヘリアンサスが首を傾げる。
窺うように微笑む。
「――出来るね?」
俺は息を吐き出した。
それから大きく息を吸った。
――舞台が整っている。
ヘリアンサスがそうした。
今ここで俺が動かなければみんなが危ない、そういう状況を、意図的にヘリアンサスが作っている。
こいつなら俺たちを庇った上で、周囲の亡霊を掃討することも出来るだろうに。
そして、だからこそ、俺は動くことが出来る。
そうでなければならない、だって――
「……出来る」
俺は頷いた。
ヘリアンサスがますます深く微笑む。
彼が手を伸ばして、俺の頭を軽く撫でた。
ぽんぽん、と、掌で俺の頭を撫でて、自慢げに呟く。
「えらいね。
――大丈夫、もし何かあっても、父さんが何とかしてやるからな」
――俺が動かなければみんなが危ない。
そういう状況だからといって、俺が〝えらいひとたち〟への反抗の狼煙を上げることが出来るかといえば、答えは否だ。
だが、ここには、俺が絶対に守りたい人がいて――その人を守ることが出来るなら、俺の命も安いものだと思える人がいて――今まさに、ヘリアンサスはその人への治癒を人質にとっているようなもので――
――俺に掛けられた呪いは、俺の代償は、俺が抱く感情の絶対値において、俺の〈最も大切な人〉を判断している。
友情であれ親愛であれ罪悪感であれ憤恨であれ、俺が最も大きな感情を割く人のことを、俺の〈最も大切な人〉であるとして、その感情の発露を拒むのだ。
恐怖でさえもその例外ではない。
俺の感情の振れ幅が、〝えらいひとたち〟を見たときにこそ振り切れるのであれば、俺には口に出せた気持ちがひとつ、あったはずだ。
――それが出来ていない。
俺の呪いの対象は変わっていない。
だからヘリアンサスは、俺が動かなければみんなが危ないという状況を作った。
そうしなければ俺が動けなくなるから。
俺が、俺の朝のいちばん眩しいところを守ろうとしているのだと、みんなに対しても隠してくれた。
俺は、彼女が悲しい思いをするのも、つらい目に遭うのも、痛みを覚えるのも嫌だ。
何がなんでも俺が守りたい――彼女が痛みを覚えているなら、すぐにそれを取り除きたい。
――ただ生きていてくれと願った。
そして今は、どうかずっと笑っていてくれと願っている。
彼女が笑って生きていってくれるためなら、俺はどんなことでもしてみせる。
それは嘘とか冗談とか、ものの喩えとかではなくて――
彼女の痛みを除くに当たって、先ず目の前にいる〝えらいひとたち〟を排除しなければならないなら、刷り込まれた恐怖心すら引き千切ってみせる程度には。
◆◆◆
――トゥイーディアたちから距離を置きつつも、彼らを挟むような形で、みんなの向こう側にいるヘリアンサスと背中合わせに立つ。
目の前には〝えらいひとたち〟が群を成していて、薄墨色の巨躯が、それぞれに憤怒と呵責を叫びながら、俺を咎めて怒号を上げている。
彼らの足踏みで地面が揺れている。
俺の視界も揺らいでいる。
息が詰まる。
認めよう、震えるほど怖い。
だがそれでも、
俺はこの千年、ずっと、日を追うごとに、――ますますトゥイーディアを好きになり続けてきた。
何万回と彼女に恋をして、どんどん盲目になるくせに彼女のことばかりは見えて、トゥイーディアの一挙手一投足に一喜一憂してきた。
トゥイーディアが俺に与えてくれる感情の全部が積み重なっていて――
――息を吸い込む。
右手を口許に当てる。
ふうっ、と、強く息を吹き掛ける。
見えずとも、ヘリアンサスも全く同じ仕草をしていると分かる。
息はそのまま、白熱する熱波となる。
指を立てて、真っ直ぐに正面を指差し、
――トゥイーディアの、再会したときに見せてくれる、ほっとしたような嬉しそうな顔。
すぐに素気なく接する俺に、ちょっと悲しそうな顔をするところ。
喧嘩腰に物を言う俺に腹を立てて、身を乗り出して反論してくるところ。
美味しいものを食べたときに見せる幸せそうな顔、寝起きのぼんやりとした眼差し。
意外と負けず嫌いなところ、呑み比べで大の男を負かしたときに見せた、子供っぽい勝ち誇った顔。
酔って眠り込んだ俺に毛布を掛けてくれたこと、喧嘩をして十日間に亘って口を利いてくれなかったこと、吹雪に遭って二人で慌てて山小屋に駆け込んだこと。
有り金が尽きた食糧難に、二人で湖に垂れた釣り糸――二人とも不機嫌に黙り込んで、そっぽを向いて座り込んでいたのに、掛かった大物にトゥイーディアが躍り上がってはしゃいだこと。
そういう全部。
ずっと好きになり続けてきて、何万回と恋に落ちてきて、涙が出るほど愛おしくて、たまに阿呆みたいに見蕩れてしまう、彼女の振る舞いひとつで幸せになったり不幸になったり――彼女に知られれば呆れさせてしまうだろうけれど、でも間違いなく――
――この千年、俺はそうやって生きてきた。
かつては違った、だが今は。
――この恐怖はこの恋慕を潰せない。
◆◆◆
昼を引き戻すほどに眩しい熱閃が、真っ直ぐに正面に向かって飛んだ。
自慢ではないが、先ほどディセントラが使った熱に関する魔法の比ではない。
熱から逃げる空気が悲鳴を上げる。
触れてもいない荒地を真っ黒に灼きながら、凄絶な高温の熱波が〝えらいひとたち〟の中に着弾する。
俺を責め咎める絶叫が噴き上がり、しかし――
俺が、右側に腕を振り抜いた。
――熱波が伝播する。
白熱した炎が噴き上がり、暮れゆく空も真っ白に照らし出しながら、壮絶な高温があっと言う間に〝えらいひとたち〟の間を走り抜ける。
爆炎が空気を焦がし、光景さえも歪めながら迸る。
熱に耐えかねて地面が爆発する。
地面が砕ける轟音が幾重にも上がる。
全く同じ魔法を使ったヘリアンサスの炎が、俺の左側に伝播して、断末魔の余地もなく〝えらいひとたち〟を放逐していく。
翻る熱波が、叩くような勢いで俺にまで届いた。
外套の裾が激しく翻る。
軍服の裾が焦げる臭いがしたが、俺に害はない。
――そうだ、父さんの言うとおり、俺にとって熱は無害なのだ。
むしろ自分に熱を集めて、背後のみんなを守ろうとする。
ここにアナベルはいないから――俺の魔法を完璧に相殺できる奴はいないから。
その瞬時に、辺りの温度は汗ばむほどの高温に転じていた。
視界一面が真っ赤な炎に染まっている。
炎は揺らめく幕のように、視界を横切ってたなびいている。
陽炎が立つ。
噎せ返るほどの熱気。
〝えらいひとたち〟の絶叫と爆炎の轟音に、耳の中がいっぱいになっていた。
全速力で走り続けて急に立ち止まったあとのように、心臓が激しく打っている。
息が上がる。
だがもう、あの吐き気がするような無力感はない。
――やってやった。
息を継ぎ、爆炎と煙が充満する、〝えらいひとたち〟の消え失せた眼前を見据えて、
――やってやった。
俺を人とも思ったことがないだろうあのひとたちに、ようやく一矢報いてやった。
突き上げるほどの解放感があって、そして緊張が抜けていっそ眩暈すら感じて、俺はその場に座り込む。
硬い野草に、座り込む脚と背中がちくちくと刺された。
野草を指で掻き分けるようにしながら、身体の後ろに手を突く。
どくどくと頭に血が昇る興奮を感じているのに、一方で全身から力が抜けるような感覚もあった。
深々と息を吐いて、俺は片手を持ち上げて、その手をおざなりに振った。
熱を奪われて、あっと言う間に炎が萎んでいく。
大火が、やがてちろちろと荒地の上を這うだけの小火になったことを見届けると、俺はそのまま目を閉じて、身体の後ろに突いた手に体重を掛けた。
上向くと、頬を熱気が撫でていくのを感じる。
ヘリアンサスが俺の方に踵を返していた。
背後で歓声が上がるのが聞こえる。
みんなが、俺の翻した反旗に喝采している。
だがそれすらも俺の耳からは遠く聞こえていて、
――“空の向こうには光の宮殿があって、”
あの人が教えてくれた御伽噺を思い出した。
そのときの声を思い出していた。
心のどこかに閉じていた扉があって、それが開いたかのように、あの明るい庭園がありありと甦ってきた。
向こうから差し込む灯りはあの庭園の色をしていて、あの小川のせせらぎの音をしていて、金木犀の香りを持っていて――
あの人の蜂蜜色の髪の泳ぎ方。
――“そこに住む人たちは、”
あの人の声、仕草。
生涯忘れることのない、俺に幸福を教えてくれた人の姿。
――“真珠と黄金を食べて暮らしておりました……”
もう間違いなく思い出せた。
たぶん、この世界でもう唯一俺だけが知っているのだろう御伽噺。
あの人に教えてもらった、可愛らしい子供のためのお噺。
あの人もきっと、俺にこの御伽噺を教えたときには、俺がこれほど長く深く、彼女に恋をすることになるとは思わなかったに違いない。
今も知らないに違いない――俺がどれだけ彼女を好きか。
――いつだって俺を救ってくれる救世主。
俺は目を開けて、よろめきながら立ち上がり、俺をどうしようもなく恋に落として離さない、俺にとっての、朝のいちばん眩しいところを振り返る。




