51◇◆救世――人の証明
けたたましい危機感が頭の中で鳴り響いて、おれはゆっくりと瞬きした。
息を吸い込むと、色濃い潮の香りがする。
足許がゆらゆらと揺れている。
目が霞んだので、もう一度、今度は強く瞬きした。
それで視界がはっきりする。
それから数秒して、ようやく硬直していた頭が動き始めた。
――ここは船の上で、ご令嬢がガイカクを壊して、それで連中が――またサイジュをしに来て――
息を吸い込んで、周囲を見渡す。
走り回る男たちと、おれの傍になぜか――名前は何だったか――ルドベキアが弟と呼ぶ人間がいる。
ご令嬢がいない。
目を細める。
――ご令嬢が、おれを残して船を離れた。
それが分かったが、別に裏切りだとは思わない。
ご令嬢は頭が固い。
自分がおれから離れるなら、人間を守るに足る手段を、傍に残していったはずだ。
そう考えた矢先、またも意識の中のどこか遠くで危機感が鳴り響く。
これは、おれの感情ではない。
ゆっくりと息を吐いて、おれは足を踏み出した。
まだ少し足許がふわふわしている感じがあった。
だが、足は動いた。
状況がよく分からないが、あの連中がすぐ近くにはいない気がした。
ルドベキアの弟が何か言って、おれを引き留めようとした気配があったが、周囲が騒がしくて聞こえなかったこともあり、おれはそちらを気にしなかった。
揺れる足許を踏んで、船尾楼甲板へ続く階段に向かう。
斜陽に海が白く光っている。
空は見事な群青色に染まっていて、それを見たおれは、自分の胸の中が緩んで、しっかりと息を吸えるようになったことを自覚する。
ささくれて黒い塗料が剥がれ掛けている欄干を掴んで、階段を昇る。
途中、上から凄い勢いで駆け下りて来る男と擦れ違ったが、特に頓着するべきことではなかった。
船尾楼甲板の上を見渡すと、すぐにあの青髪の子の後ろ姿が目に留まった。
――では、ご令嬢がおれの傍を離れたのは、彼女がここにいるからか。
確かにガイカクを壊して魔力の大半を使い切り、おれがルドベキアの魔力を移してやったとはいえ、それでも万全の半分程度の魔力しか保有しないご令嬢と、海の上にいるこの青髪の子を比較すれば、この青髪の子の方に軍配が上がるかも知れない。
青髪の子は、船尾の欄干に凭れ掛かって、気怠そうな仕草で繰り返し指を振っている。
海上に波紋を拡げて進む船の後ろで、全くの無音で、次々に海水が凍り付いては蓄積し、細波の模様のついた巨大な半透明の高い壁を成しつつあった。
その壁を通して、薄ぼんやりと、後方に連中の姿が無数に見えていた。
サイジュをするあの連中――身の丈三十ヤードはあろうかという巨大な姿で、しかし重さを感じさせずに、揺らめくように連なって動く無数の姿――
「おい、嬢ちゃん、どこまで進ませる気だ」
操舵輪を握って、他より偉そうにしている男が濁声を上げている。
おれはこういう声が嫌いだった――いつか、もうずっと昔に、こういう声の持ち主をカルディオスが怖がっていたことを覚えている。
だが、青髪の子はカルディオスより肝が据わっているようだった。
軽く振り返って、薄青い髪を耳に掛けて、無愛想にきっぱりと応じた。
「進める限り進んでくれる?」
男は不機嫌そうに顔を顰めた。
火の点いていない葉巻を口に挟んでいて、言葉がくぐもっている。
「途中であんたらの大半が降りるたぁ聞いてねーぞ」
青髪の子は怯まず、きっぱりと言った。
「降りないとも言ってないわ」
男がもごもごと何か言った。「屁理屈だ」とか何とか。
青髪の子はそれを無いものとして扱った。
おれには気付いていない様子で、強い口調で言い渡している。
「とにかく、予め決めていたように進んでくれる? あの子たちもどのみち、言っていた島を目指しているはずだから、出来るだけその近くで合流したいの」
そう言いながらも、青髪の子はあからさまに顔を顰めていた。
――たぶん、何か、おれが拾っているのとは別の情報を拾っているのだ。
偉そうな男は苦悶の表情。
「雇い主の大半が居なくなったってのに、なんてこった」
「居なくなってはいないわよ。四の五の言ってるとこの船も凍らせるわよ。ルドベキアの弟さんも魔術師だから、そこもお忘れなくね。
――あと、あなたたちのお仕事は、あたしたちの用事が済んで迎えに来てくれるまで終わらないんだから、勘違いしないようにしてちょうだい」
青髪の子が厳しく言葉を連ねて、偉そうな男は渋面で頷き、ちょうどそのとき、おれとは反対側の階段からこちらへ昇って来て、偉そうな男に駆け寄って行った若い男を、腹立ち紛れにどついた。
おれは青髪の子に目を向けている。
青髪の子は、偉そうな男から視線を外して、船の後方に目を戻している。
横顔が険しい。
分厚い氷の壁の向こうに、ゆらゆらと動くサイジュをする連中の、無数の影が見えている。
しかし、おれの気のせいでなければ、連中はおれを――この船を見てはいいない。
おれは息を吸い込んだ。
――大丈夫、と、自分に言い聞かせた。
多分おれは、生涯サイジュを忘れることはない。
指を折られ、腕を捥がれ、目を抉られて喉を潰される、あの苦痛を忘れ去ることは有り得ない。
だが、もうサイジュはない。
有り得ないはずだ。
ご令嬢もそう約束した。
おれが人間だから。
この頃は――この頃は、カルディオスもいたし、ルドベキアも傍にいたから、おれの心の柔らかいところが表に出ていただけだ。
一人だったときは――魔王の座をルドベキアに返してあの島を出てから、おれが一人で大陸を歩いていたときには――、おれは連中が現れても、その場から離れることくらいは出来ていたのだ。
ガルシアにいたときは、連中を手玉に取ることだって出来ていたのだ。
今、あの連中はおれを見ていない。
あの穴ぐらで、隠れるところもなく全身を切り刻まれていた、あのときとは状況が違う。
「――きみ、」
声が出た。
それでも小さな声だったので、吹き荒れる海風に浚われて、その声は青髪の子まで届かなかったらしい。
おれは小さく咳払いして、もう一度、今度はもう少し大きな声を出した。
「――スクローザ夫人」
青髪の子が、飛び上がるほど驚いて、こちらを振り返った。
その拍子に、めきめきと大きな音を立てながら、氷壁の向こう側から破片が落ちたのが分かった。
ざぱん、と大きな音とともに、海面に氷の塊が落ちる音がする。
サイジュをする連中は、こちらを向いていないとはいえ、気紛れのように青髪の子が築いた氷壁に手を上げているらしい――巨きな掌が、氷壁に叩き付けられる影が見えていた。
――ちゃんとしてほしい。
ちゃんとご令嬢の代役を務めてほしい。
そう思いながらも、おれはそれを声に出さなかった。
別に遠慮したわけではなかった。
おれの意識の端に触れる、けたたましい危機感がうるさかったからだ。
青髪の子がおれを見て、おれが彼女の方に足を踏み出すと、あからさまに一歩下がった。
周囲を見渡して、大きく息を吸い込んだ。
そして覚悟を決めたような顔で、ぎゅっと欄干を握り締めて、その場に踏み留まった。
おれは、青髪の子の些細な言動に拘泥している場合でもなかったので、人間同士ならこういう距離で会話をするだろうな、と思える距離まで彼女に近付いた。
そして、呟くように尋ねた。
「――ご令嬢がいないんだけど」
青髪の子が瞬きし、それから詰めていた息を吐き出した。
ぴっ、と彼女が左手指を振って、その動作を受けた海水が、船の後方で波立ち、立ち上がってばきばきと凍り付いた。
白い冷気が辺りに漂う。
船員たちが歓声を上げるのが聞こえたが、おれにはその理由が理解できない。
昔のこの子は――初めて会ったときの、女侯だった頃のこの子は――この何倍もの規模の魔法を、息をするように扱っていたのに。
「……もう、かなり経つのだけれど」
と、青髪の子は言った。
どことなく棒を呑んだような顔をしていた。
おれは肩を竦める。
「悪いね、気付かなかった」
「イーディ――トゥイーディアも、あなたのことは気にしていたのだけれど、」
青髪の子はどことなく言い訳するように呟いて、じっとおれの顔色を窺うような表情を見せた。
おれはどんな表情を浮かべて見せれば良いのか分からず、結局はいつも通りに振る舞うことにした。
すなわち、表情は動かさずに首を傾げた――ずっと昔にルドベキアに教わった通りの角度で。
「レヴナントが余りに湧いてきて埒が明かないものだから、一旦みんなが船を降りて、レヴナントがみんなを――と言うか、外殻を壊したイーディを追うのか、それともこの船を追って来るのか、それを見極めようって話になったの」
おれは瞬きして、分厚い――氷河のような氷壁を通して、ぼんやりと見えるサイジュをする連中の影に目を移した。
連中はこちらを追っていない。
明らかに、こことは違う一地点を目指して、光に集まる虫のように、陸地に向かって列を成して進んでいた。
背筋が粟立ち、後頭部の毛が逆立つような心地があったが、おれは辛うじて声を出した。
「――なるほど、ご令嬢は人気者だ」
「――だといいんだけど」
青髪の子が哀れっぽく呟いて、片手をぎゅっと腹部に当てた。
表情が強張っていた。
「あの連中がルドベキアを追ってるなら、目も当てられないわ」
おれは青髪の子に目を向ける。
頭の奥に響く危機感が鮮明になってきていた。
「……ルドベキア?」
「気のせいならいいんだけど、」
と、もはや独り言じみた調子で呟いて、青髪の子が爪を噛んだ。
視線はおれから逸れていた。
視覚ではない別の感覚に、いっとき集中したかのようだった。
「魔法を使ってるみたいだから――魔力の気配の場所は分かる。ルドベキアの魔力だけ感じられないけど、事情が事情だから、魔法を使えていなかったとしても不思議はないわ。ルドベキアが死んでないことを祈るだけよ」
青髪の子の言い様に、ざわざわした不快感を覚えて、おれは眉を寄せた。
「――ルドベキアの命を、他所にくれてやるつもりはないんだけど」
サイジュをする連中の手に掛かるくらいなら、いっそおれが殺してやった方が、ルシアナも納得してくれる気がする。
何しろルシアナは、あいつらからルドベキアを助けるために、血だらけになっていてもおれのところに逃げ込んで来てくれたのだ。
あいつらにルドベキアを渡すのは嫌がるだろう。
青髪の子が、はっとしたようにおれを見た。
そして、どことなく早口に言葉を加えた。
「そうね、大丈夫よ、ルドベキアに何かあったなら、イーディが黙ってるはずないもの。今のところ、島が消し飛んでないんだからルドベキアは大丈夫よ」
「――そうかな」
おれは半信半疑で呟いた。
――魔力が半減した今のご令嬢に、島を消し飛ばすことが出来るとは思えない。
それに、仮にルドベキアが居なくなるのだとしても、ご令嬢がこの辺り一帯に危害を加えようとするならば、おれはそれを止めなくてはならない。
――ご令嬢の救世に付き合うためではない。
馬鹿息子の頼みを聞くためでもない。
親友の期待に応じるためでもない。
それよりももっと根源的な、おれの心のいちばん根元にある感情のゆえに。
人間の歩数でいえば、まだまだ距離がある。
だがここまで近付けば、人間ではない部分を併せ持つおれは、もう絶対に見失わない。
――それだけ大事な気配がある。
おれの半信半疑の口調を、どうやら青髪の子は拾わなかったらしい。
思えばカルディオス以外では、おれの感情を過たず捉える人間はいなかった。
――いや、一人だけ、ご令嬢はもしかしたら、カルディオスよりもおれの感情を理解しているのかも知れないが――
青髪の子が口早に続けている。
緊張を殺すように手を握ったり開いたりしている。
「とにかく――ルドベキア以外は――どこに居るのか、大体のところは魔力の気配で分かるのだけれど――あなたも分かるんでしょうけど、気付いてる? カルディオスだけ、みんなから離れてるみたいなのよ。
カルディオスなら、大抵のレヴナントなんて相手にもならないでしょうけど、仮にカルディオスにルドベキアがくっ付いてるなら、いくらなんでもルドベキアをずっと庇うのは無理があるわ。まして、相手が悪い可能性だってある――」
“相手が悪い”、と聞いて、おれは意識するまでもなく、あの姿を想起している。
――サイジュをする連中の、変わりないそのままのもの。
おれは瞬きする。
脳裏で危機感が喚いている。
これはおれの感情ではない。
「イーディがルドベキアと一緒なら問題ないでしょうけど、そうなると一人で放り出されたカルディオスも心配だし――」
「――ご令嬢は、違う」
おれが呟いて、青髪の子が訝しげにおれを見た。
薄青い額髪が、薄紫色の瞳の上で揺れる。
「――え?」
おれは眉を寄せる。
脳裏で喚く危機感は、いっそうけたたましいものになっていた。
「ご令嬢は、ルドベキアとは別の場所にいる」
ご令嬢が、おれに対して感情を伏せるのを忘れるほどに、現状に対する狼狽と危機感を露わにしている。
――ルドベキアが目の前にいるなら有り得ない。
少し目を閉じる。
元々は、ご令嬢の生家にあって、ご令嬢と出来る限りで顔を合わせたくないがゆえに、お互いの了承があって、それぞれの居場所を把握するために使っていた、ご令嬢自身の魔法だった。
その魔法の残滓が根強く残っている。
感覚を研ぎ澄ませてみれば、おれにはご令嬢の大体の居場所と、大きく波立つ感情が分かる。
そしてそれは、逆もまた然り。
だが、目くじらを立てるほどのことではない――今日、本当におれがあの穴ぐらに戻って、おれの半身の代わりに、ルドベキアたちが世界中の人間に呪いを掛けるその媒体になってやるとすれば、おれに注がれる魔力は全てその呪いに割かれることになり、今日を限りにこの魔法の残滓も消えていくから。
ご令嬢は――ここから離れている。
おれはカルディオスほど物知りではないから、方角を表す言葉のうち、ご令嬢がいる方向を言い表すのがどの言葉になるのか、それは分からない。
だが、おれよりも、おれの半身に近いところにいる――だが、おれとご令嬢、その距離の差はごくごく僅かだ。
おれの半身までは、まだまだ距離が開いている。
そして――
「――ああ、これは」
呟いて、おれは目を開く。
斜陽に煌めく海の眩しさが目の端を突いて、おれは目を細めた。
斜陽は氷壁を柔らかく照らして、白い氷を薄らと橙色に輝かせている。
思わず口許を隠して俯き、おれは笑みを殺し切れずににっこりした。
「――ご令嬢、怪我をしてるね。我慢しているけれど、これは痛いだろう」
「……は?」
青髪の子が、目を見開いておれを凝視している。
「待って……待って、なんで分かるの?」
「きみには関係がない」
事実だけを端的に伝えて、おれは笑顔を引っ込めた。
ご令嬢が痛い思いをしているのは面白いが、ルドベキアは嫌がるだろう。
ついでにカルディオスも嫌がるかも知れない。
顔を上げて、状況を反芻する。
頭の片隅に、ずっとサイジュをする連中の影があって、上手く頭が働かない。
だが、上手く頭が働かないことすら、おれは少しずつ忘れつつあった。
――ご令嬢とルドベキアは離れている。
ご令嬢とカルディオスが別々の場所にいるなら、ルドベキアはカルディオスと一緒か、それとも一人でいるのか。
おれが今日、最優先するべきはご令嬢の無事だ。
おれを人間だと断言した彼女に、おれは敬意を払う必要がある。
ご令嬢は怪我をしているが、少なくとも女王と、ついでにあの銀髪が一緒にいる。
女王が一緒にいるなら、ご令嬢に滅多なことはないだろう。
それよりも気に掛かるのはルドベキアとカルディオスだ。
ご令嬢も、おれに対して感情を伏せるのを忘れるほどに焦っている。
――詳しくは分からないが、ルドベキアに何かあったのだ。
あるいはご令嬢が、これほどにルドベキアを案ずるべき、何かの異常を察知しているのだ。
胸が痛んだ。
あのときと同じだった――ルドベキアが絞首台に上がったときと同じ。
息が出来ないほどの危機感。
サイジュをする連中を目の当たりにしたときとはまた別種の、頭に血が昇るような感覚。
――ルシアナの息子が危ない。
おれの、夜のいちばん明るいところが。
千年を経ようが万年を越えようが、断じて薄れない、欠片たりとも消えることのない、ルシアナが目蓋の裏に浮かんだ。
――『この子、この子を守れますか』
あの口調、切羽詰まった表情、――おれへの無類の信頼。
あのときルドベキアを殺そうとした連中が、また同じことをしようとしている。
――それは駄目だ。
ルシアナが嫌がる。
死んだ程度でルシアナは居なくなったりしない。
あの愛情は今もルドベキアに注がれている。
そしておれはその善意と献身に敬意を払い、――少なくともあの連中からは、ルドベキアを守ってやらなくてはならない。
――目を閉じる。
人間になってから、おれは随分弱くなり、目も悪くなり、感覚も愚鈍になった。
それはそれで、おれの人間らしさのひとつだから気に入ってはいるけれど。
そしてカルディオスは、もうムンドゥスが特別に拵えた器ではなくなった。
おれには、無条件であいつの居場所が分かったあの感覚が、もう齎されようがない。
だがそれでも、千年に亘っておれに挑んできたカルディオスの魔力の気配なら、おれには克明に分かる。
目蓋を下ろした眼裏に、ぱっ、と光が点るような感覚を得て、おれは目を開いた。
「……カルディオスが――」
青髪の子が、おれを遮るようにして、前のめりに口を開いた。
「あたしが行ってあげるべきでしょうから、あなた、あたしが居なくて構わない? イーディからはここに居てほしいってお願いされたけれど、レヴナントもこちらには寄って来ていないし、あなたがいいなら――」
「きみが?」
鸚鵡返しに繰り返して、おれは瞬きして、焦点を青髪の子に当てた。
――今日、捧げられるべき『対価』の価値を担保する、スクローザ夫人。
おれは微笑んだ。
「きみはここにいた方がいいんじゃない?」
青髪の子が眉を寄せる。
海風にはたはたと短い髪が揺れている。
額髪が激しく揺れて、そのせいで薄紫色の瞳の中に明暗が閃く。
「でも――」
「大丈夫、おれが行ってくるよ」
おれは呟いた。
ルシアナがおれに嘆願する声で、頭がいっぱいになっていた。
他のことは考えられなかった。
青髪の子が、不意を喰らったようにぽかんと小さく口を開けた。
瞬きし、目を見開き、全く珍しいことに、おれの袖を掴むような素振りを見せた。
「待って、ヘリアンサス、あなた――」
「ルシアナに――」
おれは呟いた。
青髪の子の顔が、もうよく目に入らなくなっていた。
「――ルドベキアのことを頼まれてるんだ」
ぴりぴりと肌が痛む。
それは、おれが初めて外に出たときから変わらない、おれの意思を押し通すために働く魔力の感覚だ。
その感覚が、距離を無視しておれの身体を運ぼうとしている。
――いつも苦も無く働く魔法が、しかし今日に限っては阻まれていた。
理由は分かる。
ナイカクだ。
おれの半身から魔力を掠め取って根を張る古い魔法が、そこに近付く一切を拒んでいるのだ。
いっそ偏執的でさえある守護のための執念が、あらゆる介入を阻んでいる。
仮にあの銀髪が、ナイカクを目指して距離を跨ごうとしたならば、その魔法は常軌を逸して乱れたことだろう。
そんなことをしていないことを願おう、下手をすればあの銀髪が死にかねないし、まあ銀髪がどうなろうとおれの知ったことではないが、傍にいたはずのご令嬢が巻き添えを喰っていたなら困る。
何に困るって、ご令嬢に怪我をさせたのが仮に銀髪だったとして、おれが銀髪に何と言うべきか、判断がつかなくて困る。
心情としては、「よくやったね」だけれど、立場としては、「なんてことするの」と言うべきか。
――人間になっても、おれはこういうときの振る舞いがよく分からない。
それはおれが齢に反して幼いからだ。
きっとこの一生は、おれは幼いままで死んでいく。
だから次の一生で、せめて少しでも大人になれますよう。
おれの魔法が働く。
注がれる無尽蔵の魔力を存分に喰って、この世の条理を捻じ曲げる。
ナイカクの抑止力を魔力量だけで突破して――しかしそれでも、おれ一人を、ナイカクに至らない場所にまで、辛うじて運ぶことが限界。
ぴりぴりと肌が痛む。
目の前が歪む。
足許が歪む。
――どこかに落ちていくような感覚。
おれは目を閉じる。
目を開けたときには、おれに春を教え、夏を伝え、秋を語って冬を温めた、おれの親友が傍にいることだろう。
その傍にルドベキアが居ればいい。
もしもそこにも居なければ、カルディオスと一緒に捜せばいい。
もちろん、カルディオスは手伝ってくれるだろう――千年前にもそうしようとしてくれたように。
◆◇◆
古老長さまが、かくん、かくん、と首を傾げている。
西日が森に遮られ、薄暗い視界にあってさえ、その濁った黄金の――球のような眼が、炯々と輝いているのが見えている。
縦長に切れ込んだ瞳孔が、間違いないく俺を凝視している。
――俺は息が出来なかった。
古老長さまが、角張った動きで右手を持ち上げた。
薄墨色の――薄らと透けるようなその手。
しかし、五指までもが精巧に象られている――
カルディオスが、右手で俺の肩に触れた。
触れて、掴んで、俺を立たせようとしている。
「――ルド」
古老長さまが、持ち上げた右手の四本の指を畳んで、人差し指で俺を示した。
人であった頃に比べて随分とのっぺりとした――しかし他の巨大な亡霊たちと比べればはっきりとした形を示す、口唇と思しき膨らみが、ぱっくりと開いた。
『――お、お、おぉぉぉ、オマエ』
「――――」
俺は息が出来ない。
息をして良いのかすら分からない。
カルディオスが俺を立たせようとしているのが分かるが、どうしてそんなことをしているのかが分からない。
古老長さまがそこに居るのに。
「――ルド、立て、大丈夫だから」
古老長さまが、かくかくとした動きで手を下ろした。
そして代わって、ぎこちない動きで足を踏み出す。
輪郭の曖昧な薄墨色の足裏が、小川の上に置かれた。
さらさらと流れていく川面の上に、身の丈六フィートの古老長さまが、まるでそこが確固たる床の上であるかのように、たどたどしく体重を掛けている。
俺は感覚が麻痺した中で、分厚い油膜を通したような驚きを覚えたが、カルディオスは違った。
――さっ、と、彼が左手を軽く振ったのが視界の端に見えた。
ばきん、と、甲高い氷結の音。
古老長さまの足許の水が凍り付き、べきべきと音を立てながら古老長さまの肢を這い上がり、氷の結晶の中にその身体を閉じ込めて――
『――どォして』
古老長さまが呟き、今度は滑らかに手を振った。
ぱあんっ! と、粉砕というよりも弾けるような音を立てて、氷が砕け散る。
破片が落ちた川面が波立つ。
ち、と舌打ちを漏らし、カルディオスが拍子を取るように指を振る。
ぼっ、ぼっ、と、断続的に低い音が弾けて、夥しい数の炎弾が古老長さまに降り注いだ。
余りに激しく炎が降るので、まるでその場所だけが昼日中に逆戻りしたかのようだった。
あかあかと周囲を照らして、驟雨の水を火に変じ、怒濤のように降る炎弾が小川に蒸気を噴き上げ、あるいは地面に落ちて下草が燃え始める。
ちろちろと地面に赤い炎が走って、焦げ臭いような臭いが鼻を衝く――
――俺はいっそう動けなくなった。
カルディオスを止めるべきだと頭で分かっていたが、それすら出来なかった。
『あ、あああ、あああああ!』
古老長さまの苛立たしげな声が炎の幕の向こう側から響き、直後に炎が掻き消える。
全身から薄墨色の煙を噴き上げる古老長さまが、更に小川を踏んでこちらへ距離を詰めて来る。
――俺の全身が粟立った。
『どォして! どォしてここにと外つ国人がいる!』
カルディオスが俺の肩から手を離した。
彼が俺の前に立ったので、俺からは古老長さまが見えなくなった。
見えるのは、ちりちりと燃える下草と、古老長さまから立ち昇る、摩訶不思議な薄墨色の煙だけ――
「――どうして、って」
カルディオスが呟いた。
応じたというより独り言じみた声音で、その声音すら俺には怖い。
古老長さまに対するに、余りに不謹慎な声音だから。
「おまえらの時代が終わってるからじゃない? 分かってないみたいだけど」
『あああ、どォして、どォして――』
古老長さまの声が尖った。
俺にはそれが刃物に等しかった。
『どォして見ている! バンニン!』
「ルド、大丈夫だから」
カルディオスが振り返らずに言った。
全く余裕のない声音だった。
直後、ざんっ! と、地響きのような――あるいは刺突のような気配がして、カルディオスを掠めた何かが、俺の傍の地面に深々と突き刺さって穴を穿った。
いや、そのはずだった。
だが、肝心のその物の正体が俺には見えなかった。
反射的にそちらを見遣り、俺は全く馬鹿なことにぽかんとして、それからようやく思い出した――そうだ、古老長さまにとっては、空気でさえも刃になり得るのだった。
ざん! ざん! と、同じ音が繰り返し繰り返し耳を衝く。
聴覚が全身を圧迫するような危機感に、俺は麻痺した頭であってもここから立ち上がる必要性を認識したが、身体は全く動かなかった。
古老長さまが怒りを露わにしているときはいっそう、俺は動くことを禁じられていた――
「――ああ、くそ、俺、これ嫌いなんだよね」
カルディオスが呟いて、慌ただしく指を振った。
途端、ぼふ、と、一種間抜けな音が上がり、カルディオスが急拵えで圧縮した空気が、古老長さまが無造作に次々と生成しては送り込む、空気の刃の少なくとも一つを受け止めたことが分かった。
だがすぐに、ぽひゅう、と、空気が逃げる音がする――
「――ああ、やっぱ強度が足りねーか」
カルディオスが他人事のように呟いた。
彼が俺の右側に屈んで、俺の肩を押してその場に伏せさせようとする。
ざんっ、ざんっ、と、繰り返し繰り返し、地面に不可視の刃が刺さる。
刃に弾ける土塊が俺の頬に当たった。
それほど間近に刃が落ちた。
俺は咄嗟にカルディオスを見て、そして薄暗い中であっても、カルディオスの右腕が夥しいほどの血に濡れているのを目の当たりにした。
「――――!」
「大丈夫、大丈夫だって」
カルディオスが、俺の視線と顔色に気付いて微笑み、宥めるようにそう言った。
彼が左手の指を振り、それと同時に再び古老長さまの足許が――ああもう古老長さまは小川を越えて、こちら側の地面を踏んでいたのだ――爆発するように炎上する。
煌々と輝く炎の中で、古老長さまの形をした影が身を捩る。
『あ――ああああ、ひ、ひひ、火!』
直後、濛々たる蒸気と共に炎が鎮火される。
視界が一気に暗くなり、俺は束の間茫然としたが、カルディオスはそれを予期して目を伏せていたらしかった。
すぐに目を上げ、暗さに順応していることが分かる眼差しで古老長さまを見て、
「マジでおまえ、俺がルドくらいに火の魔法が上手かったら、今頃そこに居ねーから」
毒づくと同時に再び指を振った。
どご、と、足許が揺れる大音響。
古老長さまが体勢を崩す。
たぶん――その足許の地面が小さく崩れたのだ。
だがカルディオスはコリウスとは違う。
地割れを生み出すには足りない――
「――俺が自分の得意分野を使えたら、ほんとマジで一瞬なんだけどな!」
カルディオスが吐き捨てて、俺は胸が痛くなった。
それが罪悪感のゆえなのかそれとも感謝のゆえなのか、それは俺にも分からなかった。
――カルディオスが彼の固有の力を使わないのは、俺のためだ。
今この場で古老長さまが退いたとして、人の魂は壊せない。
だからこそ、直後にも同じく古老長さまがこの場に現れる可能性はある。
カルディオスはそれを警戒して、彼自身が意識を失うことになる、固有の力の行使に踏み切れないのだ。
古老長さまが、崩れた地面から片脚を引き抜き、こちらに手を伸ばす。
俺は、頭のてっぺんから自分という人間が摘まみ出されて吊るし上げられるような、そういう名状し難い感覚に身震いした。
『――おぉオマエ、オマエ、あああオマエには役目を、や役目をぁぁ与えて――』
ざんっ! と、傍で空気の刃が空気を裂く音。
同時に左腕に激痛が走った。
避けることも出来ずに茫然と座り込んでいた俺の左腕を、綺麗に刃が裂いたらしいが――
――短く、だが確実に、俺は悲鳴を上げた。
痛みよりなお恐ろしいのは、古老長さまが激怒したときには、俺が決まって懲罰部屋に連れて行かれること――あの櫃に入れられること――助けが来ないことだった。
痛みがその前兆だった。
それゆえの反射として、俺は悲鳴を上げていた。
だが同時に、俺が素早く悲鳴を呑み込んだのは、俺の声を古老長さまが好まないがためだった。
『おぉぉオマエ、オマエ、じじ慈悲をあぁぁ与えてやっただろぉぉぅう――』
ぼっ、と、古老長さまの足許が爆発。
古老長さまの片脚が溶け、しかし古老長さまが苛立たしげに頭を振るや否や、炎が消え失せ、煙を吐き出しながら片脚が再生する。
再生したばかりの肢が踏み出される。
下草を踏むその音――
唐突に、弾けるように、かつての光景が脳裏に甦った。
――あの日、リーティから連れ戻されたあのとき、雲上船の中に踏み込んで来た〝えらいひとたち〟。
だがもうここにレイはいない。
俺は一人で、怒り狂った古老長さまの前に放り出されたに等しかった。
もうバーシルも居ない。
櫃に入れられても、俺をそこから出してくれる人は居ない。
「――う」
「大丈夫、大丈夫、ルド、大丈夫だ」
俺の肩を殆ど抱くようにしながら、カルディオスが叫んでいる。
だがその声も、もう俺には意味としては聞こえていなかった。
カルディオスが、俺の右腕を引いた。
下がれと合図されていることは理解できたが、その理解が意味として頭の中で実を結ばない。
俺は――俺は――
『や役目を、役目をどォォした! 役目をどォォした、バンニン!』
お役目。
『どォォォしてここに外つ国人がいるぅぅ!
おオマエ、おぉぉオマエ、ひ、ひひひ、ひ』
俺の呼吸が、まさにその瞬間、完膚なきまでに凍った。
『――櫃を!!』
俺の呼吸は止まり、俺の記憶は曖昧になり、俺はまさにそのとき、櫃の前に引き摺られた、あのときの俺に戻っていた。
――殺してくれ。
昼間でも光の差さない穴の底、ぬかるんだ地面、そこに安置された黒い櫃、投げ込まれたときの痛み、冷たさ、そして注がれる水、蓋が閉まる重い音――
叫んでも懇願しても助けが来ず、苦い水に溺れながら泣き喚いていた、あの――
――俺の傍に誰かが立った。
カルディオスが、爆発するような勢いで何かを怒鳴った。
古老長さまの濁った黄金の眼が、ぎゅるり、と動いて、俺の傍に立った誰かを見た。
そして、
『――お、お――おおおお』
打って変わって、陶然とした――神々しいものを見たかのような――妄執すら感じさせる声を出して、
『――おぉぉぉ、おぉぉぉ、ここに、ここにここに、ここにぁぁぁ在ったか、――モリビト』
俺は茫然と隣を見上げた。
俺の左側に、間違いなくヘリアンサスが立っていた。
――薄暗い中にあっても際立つ新雪の色の髪、雪ほどに白い頬、――歪んだ鏡面のような黄金の双眸。
「……とう――」
――そのときの俺は記憶すら曖昧だったから、どうしてヘリアンサスが地下神殿から外へ出て、ここに立っているのか、それすら分からなかったほどだった。
ただ、
「――アンス、この馬鹿、なんで来たんだ!」
カルディオスが怒鳴っている。
青筋を立てて、右腕の負傷も忘れ去ったかのように立ち上がり、叱り付けるように声を荒らげている。
その右手指の先から、ぼとぼとと血が滴っている。
「わざわざ船に置いてったのに!
この馬鹿やろう、俺だって二人は守れねーぞ!」
出し抜けにそこに現れたヘリアンサスは、まじまじと古老長さまを見詰めている。
その顔貌から、一切の表情が抜け落ちていく。
その瞬間に呼吸も断って、およそ彫像のように立ち尽くすヘリアンサス――
「だから置いてったんだ! なんで来たんだ!!」
カルディオスが叫び、俺とヘリアンサスの前に出ようとして、
『も――もど戻った、こここれで元通りだ、あぁぁぁモリビト――』
ヘリアンサスは瞬きもしない。
精巧な陶器の人形のように、透き通るほどの眼差しで古老長さまを凝然と見詰めて、ぴくりとも動かない。
『や役目を、果たしてぃぃいるのか』
古老長さまが、震えるほどの声音でそう言った。
いっそ愛しむように。
『あぁぁぁじ慈悲は』
俺はもう耐えられなかった。
櫃に入れられるくらいならば殺してほしかった。
ずっとそう思っていて、だが本当は死にたいわけがないのだ。
俺は、俺は、俺はずっと――
「――た、」
俺は左手を持ち上げた。
引き裂かれた腕が引き攣れるように痛んだ。
神経全てが痛みに絶叫するようなその感覚も、だが今は、俺を現実に引き留めている一つの楔だった。
俺の左手の指先が、だらんと垂れ下がったまま動かない、ヘリアンサスの右手に触れた。
「――助けて、」
俺はずっと――物心ついてからずっと、本当は、ただ助けてほしかったのだ。
「父さん――」
ヘリアンサスは、俺の父さんは、ずっと俺の命綱だったから。
◆◇◆
サイジュをする連中の前では、おれは動き方を忘れ、声の出し方を忘れ、人間としての存在の全部を忘れる。
だが、それでも、
「――助けて、」
あのときおれはルシアナからの信頼を貰っていて、――ルシアナは。
――『おめでとう』です、ヘリアンサス。
あの、変な風にくるくると変わる、素敵なルシアナの表情を知っている。
思い出す必要もない、だってあの表情はずっとおれの中心にある。
――この子が愛されて生まれてくること、この世界はこの子を幸福にするためにあるんだってことを、ちゃんとあなたが分かっているって意味ですよ。
ルシアナは、“あの子”に、生きていてもらうんです、と――
「父さん――」
これは、傍にいるこのルドベキアは、あのとき、生まれたばかりの小さな掌で一生懸命におれの指を掴んだ、“あの子”だった。
あのルドベキアだった。
ルドベキアにこう呼ばれてしまうと、もうおれに出来ることは殆どないのだ。
昔からそうだった。
どんな状況に自分が置かれているのか、十分にそれが分かっていてなお、おれは――あのとき――父さん、と呼ばれて振り返って、そして危うく壊され掛けたのだ。
――そのときから、おれは呆れるほど変わっていない。
◆◇◆
「――――」
ヘリアンサスの黄金の双眸が、すうっと動いて、俺を見た。
透き通るほどの無表情だった。
俺はもう顔を上げられなかった。
きゃらきゃらと古老長さまが笑っている。
本当に嬉しそうに笑っている。
『慈悲は、ぁぁあ無駄ではなかったのだ』
ヘリアンサスの瞳が、摩訶不思議なあの黄金の目が、ゆっくりと古老長さまに翻った。
彼が瞬きした。
そして、
「――慈悲?」
低い声がそう言った。
ぴた、と、古老長さまの哄笑が止まった。
濁った黄金の眼が、ぎゅりぎゅりと動いて、ヘリアンサスを凝視した。
『――モリビト』
「ルドベキア」
ヘリアンサスがそう呟いて、俺の傍に滑らかな動きで膝を突いた。
丁寧に俺の左腕を見て、そうして微笑んだ。
黄金の瞳に、茫然とした俺の顔が映っている。
「痛いね。――可哀想に」
そう言って、立ち上がる。
もう俺のことは見ていなかった。
ヘリアンサスは古老長さまを見据えて、
「慈悲?」
鸚鵡返しに繰り返して、はっきりと冷笑した。
「……アンス?」
カルディオスが、慄いたように呼んだ。
その気持ちが俺にも分かる。
冷や水を浴びせ掛けられたかのように、明瞭に――
「慈悲を与えてやったって?」
呆れたように首を振り、ヘリアンサスが一歩前に出る。
迷いのないその歩調――仕草、眼差し。
――その全て。
俺たちは知っている。
幾度も見てきた――幾度も殺されてきた。
『――モ、リ、ビ、ト』
古老長さまが、はっきりと区切ってそう言った。
黄金の眼が、ぎゅるぎゅると惑うように揺れている。
「――ああ、きみ、おれが言葉を話すのは見たことなかったっけ?」
あっさりとそう言って、ヘリアンサスはもう古老長さまから五歩の距離のところにいた。
――薄闇の中にあっても、冴え冴えと際立つその輪郭。
「悪いね、きみが守人と呼ぶものは、実を言うともうどこにもない」
『モ――モリビト』
「何しろおれは人間だから」
晴れやかなまでの口調でそう言って、ヘリアンサスがまじまじと古老長さまの顔貌を覗き込んだ。
のっぺりとした亡霊の顔を、まるで興味深い書物か何かのように眺めて、
「――きみ、誰に怪我させてるのさ」
不愉快そうに呟いた。
カルディオスが、無意識の様子で一歩下がった。
俺も、背筋が粟立つような心地を覚えている。
それは古老長さまの姿のゆえではない。
「おれの親友と、おれの息子だよ。
――手を出すな」
はっきりと嫌悪の滲む声でそう言って、ヘリアンサスが古老長さまに指を突き付ける。
しゃらん、と、その手首でカライスの腕輪が揺れる。
「おれの息子だ。エルドラドの息子だ。ルシアナの息子だ。
――おまえ程度が手を触れるな」
古老長さまが、かくん、かくん、と、繰り返し首を傾げている。
まるで、守人が唐突にどこかに隠されてしまって、それを懸命に捜そうとしているかのように。
その様を、明瞭な嘲笑を以て見据えて、ヘリアンサスは、
「ルシアナがどれだけ我が子を愛してると思う。
いつ生まれるのか楽しみにしていて、早く会いたいと言っていて、どれだけのことをしてやりたいか、いつも話していたんだ。おれはそれを見ていたんだ。
――あの愛情が、死んだ程度のことで消えてなくなるわけがないだろう」
『あ、あぁぁぁ、あ、モリビト? あ、ああ?』
「それを――慈悲だって?」
ヘリアンサスが、弾けるように笑い出した。
腹を抱えて大笑し、そして目尻に浮かんだ涙を拭いながら古老長さまを見据えて、
「片腹痛い。慈悲だって? 慈悲を与えてやった?
――何を言ってるの」
心底からの軽蔑を籠めて、
「ルドベキアに慈悲が必要なはずがない。
愛され抜いて生まれたあいつに、生きていく当然の権利がありこそすれ、慈悲を乞うて生きる必要があるはずないだろう。
あの愛情以上のものが、あいつに必要だったものか」
古老長さまが、かくり、と首を傾げる。
人には有り得ない角度で首を傾げ、亡霊には有り得ないはずの頭脳で何かを考えた様子で、
『――お、おぉぉオマエ、何だ』
ヘリアンサスが笑い出した。
狂気を孕んだ笑い声に、カルディオスが更に一歩下がった。
「ひどいこと言うね、おれをあれだけ酷い目に遭わせておいて」
『お、おぉぉ、オマエ、オマエは――オマエ?』
かくん、と、頭の位置を元に戻して、古老長さまが黄金の瞳をぎゅるぎゅると回す。
俺はぞっとして、臓腑が一段落ち込むような心地を覚えたが、あろうことかヘリアンサスは笑い声を上げた。
「いいね、きみ。それ、よく見ると面白いね。生きてたときより愛嬌があるよ。きみ――それともきみたちかな。何人分の魂なのかな、きみ」
『あ、あぁぁぁ、ああああ?』
古老長さまが、ぐるん、と黄金の眼を回転させて、そして改めてまじまじとヘリアンサスを観察した。
ぱかっ、と口唇が開いた。
鼻梁と思しき凸部が膨らんだ。
『お、おぉぉオマエ――オマエに、おぉ親子の情が、わか分かるものか』
ヘリアンサスは微笑んだ。
にっこりと微笑んで、――その表情はまさに。
「ああ、やっと会話が成立した。
――親子の情?」
嬉しそうに両掌を合わせて、歪んだ鏡面のような黄金の瞳で相手を見据えてから、少し困ったように顔を伏せて見せる。
「親子の情。――確かにね」
そして顔を上げる。
純白の髪を掻き上げ、露わになるその顔貌――冴え冴えと微笑むその白い顔貌の中で、黄金の双眸が非情に煌めいている。
「残念ながら、おれにそんなものはない。
舐めるなこれは、」
酷薄に微笑むその表情――その凄み。
――魔王ヘリアンサスの再臨だった。
「盲愛だ」
『――あ、』
ヘリアンサスが地面を踏む。
さく、と下草が鳴る。
立ち竦む亡霊に向かって迷いなく距離を詰め、もはや鼻先に迫るその顔貌を覗き込んで、
「――おれはあいつの命を、老いにすらくれてやったことはない」
囁くようにそう言った。
古老長さまが、転ぶように一歩下がった。
ぎゅりぎゅりと金色の眼が揺れている。
口唇が開いて、その奥の薄墨色の闇が見えている。
「他の何かがあいつの命を奪うくらいなら、絶対におれが殺してやる。――ずっとそう思ってきた」
ヘリアンサスが右手を振った。
ぼっ、と音がして、その指先が光り輝く。
――真っ白な火球が、指先ほどの大きさで灯り、――そしてそれが見る間に大きくなっていく。
滴るほどに煌めく炎から逃げる空気が、ヘリアンサスの衣裳を大きくはためかせている。
新雪の色の髪が揺れる。
黄金の瞳が陰影鮮やかに光を吸い込んで、眩しい光に灼かれつつある亡霊を真っ向から見据えている。
古老長さまが、その瞬間、後ろに飛び退こうとしたように見えた。
だがそれが出来なかった。
ヘリアンサスの左手が、逃がすまいとする強さで、古老長さまの薄墨色の手首を掴んでいる。
その光景は、いっそ影絵じみてすら見えて――
「でも、おれは人間になったからね。ずっと譲ってこなかったその一線を、あいつのために譲ってやる。――おれの知らない、あいつの幸せのために譲ってやる」
ヘリアンサスが右手の火球を古老長さまに叩き付けた、その瞬間は俺には見えなかった。
俺は耐えかねて目を瞑っていた。
だがすぐに目を開けて、熱波が呼ぶ爆風が吹き荒れるなか、もう残滓すら残さずこの場から追放された亡霊の、その足跡すら一顧だにせずに俺を振り返る、ヘリアンサスの姿を見ていた。
ヘリアンサスは笑っている。
その足許一面すら真っ黒に焦げ付き、小川からも濛々と蒸気が上がる中で、嬉しそうに微笑んでいる。
「――ルドベキア。この世界は、おまえを幸福にするためにある」
迷いなく、まるでこの世でいちばん正しい決まり事を告げるかのように、ヘリアンサスはそう断言した。
「――――」
焦げた下草を踏み拉いて、俺のすぐ傍まで戻って来て、ヘリアンサスはその場にしゃがみ込む。
俺と視線を合わせるためだった。
俺は茫然とヘリアンサスの顔を見詰める。
「――痛そうだね、治せる?」
ヘリアンサスが微笑んでそう言うので、俺ははっとした。
古老長さまが目の前からいなくなって、急速に正気が戻ってきた。
「兄ちゃん――」
がっ、と、頭に血が昇ったことを自覚する。
羞恥と屈辱に、頭の中が沸騰するような気持ちだった。
カルディオスを窺うと、彼は素早く俺から目を逸らせてくれた。
その右腕が真っ赤に濡れていることを改めて確認して、焦燥に喉が詰まる。
俺は咄嗟に、カルディオスの右腕に向かって手を伸ばした。
が、カルディオスは一歩下がって、ヘリアンサスの方に目配せしてくる。
付き合いが長いとはいえ、すぐにその真意は推し量れなかったが、それでもカルディオスの、「労ってやれ」という意図は汲み取ることが出来た。
俺はヘリアンサスに目を向けた。
罪悪感の余りに目が滑ったが、ヘリアンサスは辛抱強く俺と視線を合わせてくれた。
「――ヘリアンサス、」
「ん?」
ヘリアンサスが首を傾げる。
微笑んで――つい先刻まで、レヴナントの影を見るだけでぴくりとも動かなくなるほど怯えていたことが嘘のように――
「……ごめん――」
呟く俺に、ヘリアンサスはいっそう深く首を傾げる。
「どうして?」
俺は息を吸い込んだ。
喉の奥に棘があるような、そんな気がした。
拳を握ると、掌が熱を持っていることが分かった。
左腕のじくじくとした痛みも、このときばかりは意識に昇らなかった。
首の辺りを血が昇ってくる感覚がある。
「――おまえ……おまえの方が酷い目に遭ってたって、分かってるのに――」
助けて、と、俺は無自覚にそう縋った。
しかも、「父さん」と彼を呼んだ。
かつて裏切るためにそう呼んでから、一度も呼んでいなかったものを。
ヘリアンサスは、一瞬眉を寄せた。
それからすぐにその眉を開いて、「ああ」と呟く。
「ああ――構わないよ。構わないし……」
少しだけ、躊躇うように黙ってから、ヘリアンサスは目を伏せた。
そして、小さく、しかしきっぱりと言った。
「――可愛い息子のためなら、万の亡霊であっても怖くはない」




