50◆ 救世――急転直下
外殻は消滅したが、トゥイーディアの消耗は傍目にも明らかだった。
――外殻が消滅したことにより、船は問題なくトゥイーディアが居るはずの島に接岸した。
船長が「錨を下ろせ!」と指示を出す間に、コリウスが素早く、「錨は下ろさず結構」と。
船長が面喰らっている間に、コリウスの姿がぱっと船上から消えた。
俺たちからすれば見慣れた瞬間移動だが、何も知らない人間からすれば、コリウスがただ消えたに等しい事象であり、船上が大きくどよめく。
そのときにはもう、俺は気が気ではなかった。
俺の耳には、辺り一帯から〝えらいひとたち〟の怒りの声が聞こえていたのだ。
低く、四方八方から轟き、俺を責め立てる声の木霊。
じりじりとこちらに近付いて俺を罰しようとしている、〝えらいひとたち〟の叱責の声。
それが幻聴なのかそうでないのかは、もう判断がつかなかった。
〝えらいひとたち〟が実際にこちらに近付いているのか、それを窺うために周囲を見渡すことすら、俺には恐ろしかった。
俺はただ甲板の上で、忙しなく立ち働く船員たちから時折声を掛けられながらも、痛いほどに手を握り合わせてじっとしていた。
アナベルが俺の隣に居てくれていたが、それすら殆ど意識に昇っていなかった。
ヘリアンサスが欄干から滑り降りて、これも甲板の上に立っていた。
彼の方も俺と同様に怯えていたのか、それは俺には分からなかったが、じっと何かを待っている風情だった。
――と、上空から、全く唐突に、コリウスが船の上に降り立った。
今度は瞬間移動ではなかったが、それにしても速度には特筆すべきものがあった。
加えて、着地直前で速度を落とし、とん、と、爪先から綺麗に船上に着地したその技術は、やはり瞠目に値する。
そして、彼は一人ではなかった。
「――イーディ!」
ディセントラが叫んで、コリウスとトゥイーディアに駆け寄った。
コリウスに抱きかかえられたトゥイーディアは、無理もないがぐったりしている。
顔色は蝋の色に近く、何も言われずとも、彼女が一気に魔力枯渇に陥っていることはよく分かった。
コリウスが、そうっとトゥイーディアを甲板に下ろした。
俺たちのみならず船員一同までもが、固唾を呑むような雰囲気でトゥイーディアを窺っている。
それに気付いて、コリウスが船長を振り返った。
彼が、いっそ剣呑な声で言った。
「――何をぼんやりとしていらっしゃる。船を進めてください」
はっ、と我に返った船長が、間髪入れずに濁声で指示を飛ばす。
俄かに船上が騒がしくなった。
汽笛が轟き、接岸して速度を落としていた船の外輪が、唸りを上げながら海水を押し出し、再び速度を得て動き始めた。
甲板に下ろされたトゥイーディアは、負傷しているようには見えなかったが、端的に具合が悪そうだった。
傍に膝を突いて彼女を支えるコリウスがいなければ、そのまま倒れ込んでいたに違いない。
俺の我侭が通るなら、このまま彼女を船室に連れて行きたい、そこでゆっくりと眠り込んでもらいたい――
トゥイーディアから託された細剣を抱えたままのルインが、咄嗟にトゥイーディアに走り寄り掛けた様子で、しかしそれをぐっと堪えていた。
自分が細剣を託されたのは、この一時のときのことではないと、ちゃんと弁えているがゆえだった。
ディセントラがトゥイーディアの傍に座り込み、彼女の手を握って、トゥイーディアの具合を推し量ろうとしている。
西日があかあかと彼女の赤金色の髪を照らして、その様子を一幅の絵画じみて見せていた。
ヘリアンサスが、すっ、と軽い仕草で足を踏み出して、トゥイーディアに歩み寄った。
トゥイーディアはコリウスに凭れ掛かって、浅い呼吸を繰り返しながら目を閉じていたが、それでもヘリアンサスが近付いて来るのは分かったのか、ぱち、と目を開いて彼を見ると、嫌そうに顔を顰めた。
コリウスの服の裾を軽く引っ張って、ヘリアンサスを追い払ってくれるよう、眼差しで頼み込んでいる。
コリウスがトゥイーディアを見下ろして、それからヘリアンサスを見て、明瞭に狼狽えた表情を見せた。
その無言の遣り取りは見えていただろうに、ヘリアンサスは一切拘泥しなかった。
「――どいて、女王」
気のない声でそう言って、ぎょっとしたように振り返るディセントラがその場を退くのを待たずに、トゥイーディアの目の前にしゃがみ込む。
小さな子供が、興味本位に蟻の行列を眺めるときのような、そういう仕草だった。
トゥイーディアが息を吸い込んだ。
彼女が何かを言おうとしたが、咄嗟にはすかすかした息が吐き出されただけだった。
コリウスの腕の中から、彼女がもがいて身を起こそうとしたのが分かって、俺は――絶対に口に出せないながらも――それを制止しそうになった。
トゥイーディ、イーディ、ディア、無理しないで。
アナベルも、ヘリアンサスの挙動に固唾を呑んでいる。
カルディオスが、ムンドゥスを抱えたまま、ヘリアンサスの方に足早に向かおうとしていた。
ヘリアンサスが、ディセントラが握ったままになっているトゥイーディアの手を、面倒そうな表情で取り上げた。
表情は面倒そうだったが、仕草は慎重だった。
トゥイーディアが手を引っ込めるよりも一瞬早く、ヘリアンサスが俺を振り返った。
西日に、黄金の双眸がいっそう深い色合いに煌めいて見えていた。
「――ルドベキア、おいで」
俺は眉を寄せたが、アナベルがぐっと俺の背中を押したことに助けられるようにして、一歩踏み出した。
カルディオスが、ほっとしたような顔で足を止めたのが視界の端に見えた。
「……なんだよ?」
トゥイーディアも、ヘリアンサスに手を取られていることを一瞬忘れ去ったような顔で、ぽかんとして俺を見上げている。
ヘリアンサスは微笑んで、空いている方の手で俺を手招いた。
「いいから、おいで」
「――――」
むすっとした表情を見せてしまったものの、俺は素直にヘリアンサスの傍に寄って、その場にしゃがみ込んだ。
「なんだよ。言っとくけど、――ってか、知ってるだろうけど、魔王にも魔力の回復は出来ねぇからな」
ヘリアンサスが空いている方の手を伸ばして、俺の手を取った。
血の通った温かい指が、俺の掌を軽く握った。
俺とトゥイーディアが、ヘリアンサスを介して手を繋いだような格好になった。
トゥイーディアが大きな飴色の瞳をぱちりと瞬かせ、自分の手、ヘリアンサスの顔、それからヘリアンサスに握られた俺の手へ、順番に視線を移していった。
彼女の表情から険が取れて、トゥイーディアはただただ戸惑っているようだった。
ヘリアンサスが苦笑する。
「この馬鹿息子め。おまえに遣った権能のことで、おれに知らないことがあると思う?」
俺は瞬きする。
耳の奥に、〝えらいひとたち〟の罵声が聞こえてきたような気がして、俺は一瞬、ぎゅっと目を瞑った。
それから目を開けて、平静を装って首を傾げる。
「――じゃあ、なんで?」
トゥイーディアが、俺の方に身体を傾けようとした。
その拍子にバランスを崩し掛けた彼女を、背後のコリウスが慌てて支える。
そちらへの礼もそこそこに、トゥイーディアが俺の顔を覗き込んできた。
「ルドベキア、大丈夫?
――どこか痛いの?」
「――――」
俺は黙っていた。
視線は断固としてヘリアンサスの上から動かなかった。
ヘリアンサスの瞳が、流れるようにトゥイーディアを振り返って、彼が静かに言った。
「ご令嬢、ルドベキアのことは心配いらない」
トゥイーディアが眉を寄せた。
彼女が俺から目を逸らしてくれないので、俺は心臓が引き絞られるような緊張を覚えた。
――俺が未だに千年も昔のことを引き摺っていると知ってしまったら、優しい彼女は俺のために悲しむだろうと思った。
それが耐え難かった。
自分を恥じる気持ちはあったが、それよりもなおいっそう、俺がトゥイーディアを悲しませることがつらかった。
「――ルドベキア」
ヘリアンサスが物静かに俺を呼んで、俺は首を傾げる。
「なに」
「難しいことは考えなくていいから、」
と、ヘリアンサスが、噛んで含めるように言った。
俺を説き伏せようとしているようでさえあった。
「普通に、いつも通りに、彼女を治そうとしてくれない? あとはおれがちゃんとやるから」
「…………?」
――いや、だから、魔力の回復は魔王の権能の外なんだって。
そう思いつつも、俺が兄ちゃんに逆らって碌なことになった例はないので、俺は素直にトゥイーディアに視線を移した。
ヘリアンサスが俺を説き伏せてくれたから、俺がトゥイーディアを治そうとすることは彼女を想うゆえではないと見えるから、俺はすんなりと動くことが出来た。
授かってから二十年、もう慣れた魔王の権能が働く。
俺は、その魔法が対象を捉えることなく霧散していくだろうと確信していた。
魔力は世界から人に注がれるものであって、魔力の濾過装置である人間は、注がれた魔力が枯渇すれば、その魔力ありきの構造上、当然に苦しむことになるが、魔力は無理に補填できるものではない。
だが、現実は俺の予測を裏切った。
それは、謂わば――俺の遣う魔法が、トゥイーディアに伝わる前に、俺とトゥイーディアを繋ぐヘリアンサスに絡め取られたようだった。
ヘリアンサスが俺の魔法を絡め取り、手を加えて、そしてそれをトゥイーディアに繋いでいく。
治癒の魔法を形作る俺の魔力が、そのままトゥイーディアに還元されていく。
有り得べからざることに、俺の魔力がトゥイーディアに移植されていく。
「――――!」
俺は目を見開いて息を呑んだ。
トゥイーディアが息を吸い込み、コリウスに凭れ掛かっていた姿勢から一転、ヘリアンサスの方へぐっと身を乗り出すようにする。
「なん――何してるのよ!」
ヘリアンサスに握られた手を引っ張り、トゥイーディアが罵声を上げた。
周囲がぎょっとした様子で怯んだが、それを他所に、俺は頭の上に雷が落ちてきたような衝撃を受けていた。
――そんな、俺の魔力を受け取るのは嫌だって思われてるくらいに、俺って嫌われてるの?
トゥイーディア、最近は俺のこと好きなんじゃないかなって思える振る舞いをしてたじゃん。
なんで? なんで?
せめて仲間意識程度は持っていると言ってくれ。
ヘリアンサスは鬱陶しそうに息を吐いて、トゥイーディアの手をぐっと握って捉まえながら、嫌味っぽく口を開いた。
「きみの足りない頭で理解できるように話してあげると、きみは今、立てもしない状態なんだ」
「分かってるわよ、休めば良くなるわ――どうしてルドベキアの魔力を引っ張ってくるのよ!」
トゥイーディアのその言葉で、ようやく周囲にも状況が知れた。
コリウスとディセントラが大きく目を見開くのが分かった。
だが、それでも声を堪えたのは、ここにヘリアンサスがいる以上、常識を置き去りにするようなことも可能になると、これまでの人生で学んでいたからか。
とはいえ一方、ルインは声を堪え切れておらず、「兄さん!?」と凄い声を上げて、カルディオスに窘められていたが。
俺はといえば、周囲の反応にも拘泥できず、最近のトゥイーディアの思わせぶりな態度で舞い上がってきた期待が地面に叩き付けられる予感に、年甲斐もなく戦々恐々としていた。
「おれが治癒の権能を遣ったのはルドベキアだ。ルドベキアにしか使えない魔法なんだから仕方がない。
――おれにとっては、」
不機嫌そうにそう言って、ヘリアンサスは黄金の双眸で俺を一瞥した。
「きみたちの魔力をどうこうすることは、別に難しいことじゃない。でも、だからって、気軽に他から他に魔力を移すことが出来るわけじゃない。
ルドベキアがきみを治そうとする魔法なら利用できる。
それだけだよ、うるさいから騒がないで」
そこで少し口籠って、ヘリアンサスがディセントラを見た。
ディセントラが咄嗟の動きで膝で退ったが、ヘリアンサスはすぐにディセントラから目を逸らして、眼差しを伏せる。
「――たぶん、女王の魔法なら魔力の回復も出来るんだろうけど、今の女王では魔力の丈が足りない。
おれなら魔力の丈も足りるだろうけれど、悪いね、おれは女王ほど上手くはない」
俺はその瞬間、思い出したくもないあのときのことを――俺がカロック帝国を焼き尽くしたときのことを思い出した。
あのとき、ヘリアンサスは、俺の魔力すらも回復させてみせたはずだ。
「――――」
俺の、もの言いたげな眼差しの意味は分かったのか、ヘリアンサスが俺に視線を向けた。
彼が目を細めた――笑みのゆえではなかった。
その表情の意味を、俺が拾うことは出来なかった。
その、不思議に凪いだ表情のまま、ヘリアンサスは呟くように言った。
「――確かに、おまえの魔法なら、魔力も全部戻してやることが出来るけど。
忘れてないだろう、ルドベキア? ご令嬢が、また、ガイカクを壊す魔法を勝手に遣うことになるよ。
さすがのおれでも消し飛ぶからね、それはごめんだ」
俺は瞬きした。
――そうだ、忘れていない。
俺はあのとき、直前に使おうとしていたコリウスに対する魔法を、強制的に発動させられたのだ。
俺とヘリアンサスの遣り取りを、全て理解できたわけではないだろうが、ディセントラが躊躇いがちに言った。
「――そうね、イーディがもういちど、さっきの魔法を遣うのは拙いわね」
彼女が船の外を見ていたので、俺もその視線を追い掛けるようにして、流れていく外の光景を見遣った。
――速度を上げた船が、先ほどまでトゥイーディアが居た、外殻破壊の基点となった島の傍を通過している。
俺は思わず大きく息を吸い込んだ。
予想を大きく上回って、島は惨状を呈していた。
恐らくトゥイーディアが居たのだろう位置を中心として、島の上から木立が消し飛んでいる。
それどころか恐らく地面も削れていて、島が、諸島の中心に面した側に向かって、明らかに不自然な傾斜を描いて崩れていた。
小さいとはいえ島ひとつを、余波で完膚なきまでに壊したトゥイーディアの魔法、規模がどれほどのものだったのかは想像に余る。
「……無人島で良かったわね」
ディセントラがしみじみと呟く。
トゥイーディアが、恥じるように顔を伏せた。
そんなトゥイーディアの肩を宥めるように撫でて、ディセントラが言い聞かせるように声を掛ける。
「ここまでしてくれたんだもの、イーディの魔力が底を突いたことは、ルドベキアにも分かるから。
だから、気にしなくていいと思うわ」
いや、俺がどう思うかじゃなくて、トゥイーディアがどう思ってるかを知りたいんだって。
――そう、やきもきする俺の気持ちが外に漏れるのならば苦労はない。
トゥイーディアは唇を噛んで黙っている。
だがその表情は、嫌悪というより悔しさの方に傾いているように見えて、俺は恐る恐る、自分の希望的観測を胸の中に着地させた。
――あんまり……あんまり、嫌がっては、いない?
俺の魔力の半ばがトゥイーディアに移り、さながら俺とトゥイーディアで、魔力を分け合うかのように均された。
魔力を仲介したに等しいヘリアンサスの介入が止まる。
さっ、と、トゥイーディアの手を離して立ち上がりながら、ヘリアンサスが素気なく言った。
「もう立てるでしょ、ご令嬢」
トゥイーディアはむっとした様子で黙っていた。
コリウスが立ち上がり、トゥイーディアを引っ張り上げるようにして立ち上がらせる。
俺も続いて立ち上がり、覚えた眩暈に額を押さえた。
――何もしていないに等しいのに、体内の魔力がごっそりと半減したことに、違和感に起因する眩暈を覚えたのだ。
トゥイーディアの方は、魔力が半ばは回復したとはいえ、全快したわけではない。
まだ少し顔色は悪かったが、それでも彼女はしゃんと立っていた。
「……大丈夫?」
アナベルが、俺との間の数歩の距離を小走りに詰めて、俺の顔を覗き込み、気遣うように尋ねてくれる。
応じて、俺は軽く手を振った。
「大丈夫、大丈夫だ」
俺からも手を離し、ヘリアンサスが上空を軽く仰ぎ見た。
西に傾く夕陽を受けて、天頂は黄金を織り込んだような色濃い濃紺に染まっている。
東の空に浮かぶ細い月が、徐々に白く輝き始めていた。
「――きみが、空から色も盗んだかと思ったけど、ご令嬢」
ヘリアンサスが微笑んでそう言って、それにはトゥイーディアも反応した。
彼女は不機嫌にヘリアンサスの方を見て、低く呟いた。
「――そんなことはしないわ」
ヘリアンサスが肩を竦めた。
そして、その顔貌から、すうっと溶けるように表情が失せた。
トゥイーディアがコリウスの手を離して、ヘリアンサスの傍に立った。
――理由は明白だった。
俺は目を閉じて、痛いほどに奥歯を喰いしばった。
――いつも殴られるときにそうしていたように。
――あああ、ああああ。
言葉にもならない不明瞭な声を上げながら、影が海を踏むようにして、ゆらゆらと――〝えらいひとたち〟がやって来た。
◆◆◆
ばきばきと凄絶な音がする。
海水が沸き立つように揺れ、しかし実際には温度の全てを失って凍て付き、次々に鋭利な刃物に変化していく。
径が十ヤードにも及ぶ氷剣が、凄まじい速さで海上に突き立ち、次々に〝えらいひとたち〟を霧散させていく。
海上には薄らと白い冷気が漂い、それが降り注ぐ斜陽を遮って、海面はひとあし早い夜を映したように暗くなっていた。
船は波頭を割いて進んでいる。
後ろから次々に〝えらいひとたち〟が現れるものだから、仮にこの様を鳥瞰している者がいたならば、船は群を成す亡霊の軍団から逃げているように見えたことだろう。
〝えらいひとたち〟は、どれほどこの場に押し寄せて来ているだろう――数え切れなかった。
俺はひたすら息を詰め、身を憚って、船尾楼甲板に通じる階段の上で、欄干にしがみ付いていた。
カルディオスが俺の隣に居てくれていたが、彼も同じく欄干を掴んで身体を支えていた。
何しろ揺れが酷かった――右へ左へ舵を切る船の上で、総員がよろめきによろめいている。
だが船長も、何も悪ふざけで舵を切っているのではない。
「おお、こりゃすげえ!」
位置が悪い。
ここは諸島の入口で、ここから点在する島々の間に、幾つもの岩礁が顔を出している。
〝えらいひとたち〟から逃げながら、船が座礁することを避け続けねばならないのだ。
操舵輪を器用に操りながら、背後で次々に氷柱が突き立ち、そしてそれが砕け、破片が盛大に飛沫を上げながらどぷんどぷんと海に沈み、数多の亡霊を巻き添えにしていく様を肩越しに見て、船長が声を上げている。
「なんとも見事だなあ! さすが救世主さまってところか、え!」
緊張がないわけではないだろう、船長の蟀谷に汗が光っている。
船の上は阿鼻叫喚。
船員の誰かが、「帰りてえ!」と叫んだ。
俺も全く同感だった。
帰りたかった――俺は帰りたかった――
――どこにだ。
ここが俺の故郷だ。
「アナベルだから何とかなってるけど!」
と、これはディセントラ。
大揺れに揺れる船尾楼甲板で、次々に海面を氷結させては巨大な刃物と化しているアナベルに付き添って、船を掠めんばかりの至近距離でも突き立つ氷柱、そしてその氷柱が砕け、散り落ちて海面に激突する騒音に負けじと声を張り上げている。
「これじゃ埒が明かないわよ!」
「仰るとおり!! ――あんまり浅瀬には入れねえぞ!」
船長が怒鳴る。
「コリウス!」
トゥイーディアが叫んだ。
彼女は甲板に居る。
茫然と立って身動ぎもしないヘリアンサスの隣にいる。
西日が蜂蜜色の髪を照らして、彼女の髪が普段より赤みを帯びた色合いに映えて見えている。
右手に黝い細剣を握る彼女が、その細剣を杖のようにして身体を支えながら、コリウスに向かって声を張り上げていた。
「連中が――船を追ってるのか、私を追ってるのか知りたい!」
「外殻が消し飛んだ理由を理解できているほど、連中が賢いようには見えないが」
コリウスがぼそりと応じた。
彼も甲板にいて、ぐったりしたムンドゥスの身体を、今はコリウスが預っていた。
傍にはルインもいて、出来のいい俺の弟は、右へ左へ不規則に揺れる船上でも、然して慌てた様子はなかった。
「だからって、ずっと船を追い掛けさせてるわけにはいかないでしょ!」
トゥイーディアが倍の勢いで返している。
「――それもそうだ」
コリウスが認めて、船尾楼甲板の上を振り仰ぐようにした――
「大丈夫か」
カルディオスが、声をひそめて俺の顔を覗き込んできた。
「おい、ルド、大丈夫か」
俺は息を吸い込み、声を出そうとして軽く咳き込み、それからようやく、喉に絡んだ声で応じた。
「――大丈夫だ」
「おお、そーか」
軽い語調で、しかし心底からの気遣いの窺える声音でそう言って、ぐん、と揺れた船に、「おっと」と欄干を掴み直して踏ん張ってから、カルディオスが再び俺を見た。
俺はずっと力の限りで欄干を握り締めていて、そろそろ指が痛いほどだった。
「――じゃ、千年ぶりの帰郷の感想はどう?」
俺は目を瞑った。
そうするといっそう船の揺れが堪えて、内臓が下から押し上げられたようにも感じる。
大きく舵を切った船に押し出された海水が波になって翻り、俺は顔面に跳ねる潮水の冷たさを感じた。
目を開けて、呟く。
「――いい思い出なんて一つもないけど、」
「だろーな」
「けど、一人だけ、俺に良くしてくれた人がいるから――」
バーシルのことを思い出した。
――俺を櫃から出してくれた人、俺にパンを分け与えてくれた人。
靴紐の結び方を教え、地面を棒きれで引っ掻いて文字を教えてくれた人。
今になって、常識を以て振り返ってみれば、バーシルも決して俺に優しかったわけではなかった。
真実バーシルが俺に思い遣りを持っていたのなら、足蹴にされる俺を庇ったはずだし、櫃に入れられる前に俺を助けたはずだし、櫃からももっと早くに出してくれていたはずだ。
俺に分け与えられるパンが固くなっていなかったことはなかった。
たぶんあれは、バーシルの意思ではなくて、古老長さまから、「番人を死なせないよう」という命令を受けていただけだったのだ。
――だが、それでも、あの斜面に座って俺にあれこれ話し掛けてくれたのは、教える必要はなかったはずの文字を教えてくれたのは、バーシルの親切だった。
そしてあの日、最後の日――古老長さまたちがレヴナントになったあの日、バーシルは「頃合いになったら逃げろ」と言ってくれたのだ。
俺に唯一、「可哀想に」という言葉を掛けてくれたのがバーシルだった。
俺はもう、ハルティ諸島連合の共同体がまともなものだったとは思えない。
長く生きてきた記憶があるから、そう判断できるようになった。
魔法を中心として、古老長さまを頂点としていた、あれは狂った価値観に支配された共同体だった。
そうでなければ、小さな子供を命綱一本をつけただけで海に放り出したり、あんな――あんな、櫃に押し込むことが、出来るはずがない。
その狂った共同体において、俺にあのささやかな親切を恵むことが、どれだけ難しいことだったか。
「――だから、最低ってほどじゃない」
俺は呟いた。
強がりの声は海風に千切られた。
カルディオスが、無言で俺の頭をくしゃっと撫でた。
「――カルディオス、ルドベキア」
唐突に呼ばれて、俺は顔を上げた。
振り返るとディセントラが、船の揺れによろめきながらも欄干を辿るようにして、階段を降りて来ようとしているところだった。
ちょうどそのとき船が大きく揺れて、ディセントラが反対側の、船尾楼船室の壁に当たる壁に、ぶち当たるようにして倒れ掛かる。
「いたっ」
「トリー、おい」
カルディオスがディセントラの方へ手を差し伸べて、身長はあっても華奢な彼女の身体を支えた。
「どーしたの」
「“どうしたの”、じゃないわよ、聞いてなかったの?」
ディセントラに噛み付かれて、カルディオスがきょとんと瞬きする。
「え、なに? 大事な話してたの?」
ディセントラが柳眉を顰める。
「コリウスと、割と大きな声で話してたんだけど」
「ごめん、聞こえなかった」
ディセントラは、十くらい言いたいことがありそうな顔をしたが、それらを全部呑み込むようにぐっと唇を引き結んで、すぐに滑らかな早口で言葉を並べ始めた。
「船を降りるわよ。
後ろのレヴナントが、この船を追い掛けてるのか、はたまたヘリアンサスを追い掛けてるのか、それとも外殻を壊したイーディを追い掛けてるのか、それを判断しなきゃ、ずっと後手に回り続けちゃうから」
俺は、覚悟していたにも関わらず、胃袋が数段落ち込むような心地を覚えた。
カルディオスが眉を寄せる。
「それ、俺らが降りたあと、この船が追っ掛けられたらやばいだろ。アンスも居るんだろ、――弟くんも」
「だから、」
ディセントラは、苛立ちを隠すことなくカルディオスの手をぎゅうっと握った。
指が変な方向に曲がったのか、「痛い痛い!」とカルディオスが大仰に訴える。
「まずはイーディを追い掛けてもらおうっていう算段なのよ。船にアナベルが残るから」
「そっか」
カルディオスが指を鳴らす。
「海の上なら、あいつ無敵か」
「そういうこと。私たちが全員ここにいる必要もないの。
――いったん、船の後ろに私たちが降りるから、」
そう言いながら船尾の方を指差し、しかしディセントラが明確に、俺に気遣う眼差しを向けた。
俺は出来るだけ平然と見えるように表情を繕ったが、ディセントラの柳眉は曇った。
「そこで出来る限りレヴナントを排除して、島に上がる。――あの島ね」
と言いつつ、今度は右前方を指差すディセントラ。
とはいえ船の揺れがあり、とてもではないがそちらを振り返っていられない。
ディセントラが島があると言うならあるのだ。
「それで、レヴナントが船の方に付いて行くなら、取り敢えずいったんは船に戻るしかなくなるけれど、こっちに来てくれるようであれば、船から引き離すついでに目的の島を目指す。
取り敢えずは、コリウスに瞬間移動が出来るかどうか試してもらうことになるけれど。
瞬間移動が出来そうで、瞬間移動した先に何の危険もなければ、後ろにいる大群をある程度片付けた上で、ヘリアンサスに私たちを運んでもらうようにお願い出来るでしょ」
“ヘリアンサスにお願い”と言いながら、ディセントラは懐疑的な顔をしていた。
それは本音からの疑念ではなくて、もはや習慣めいたものに見えた。
「仮に瞬間移動が出来なかったり――あるいは出来ても、その先にもレヴナントがいるようだったらいったんは地道に目的地を目指すことになるわね。
一応周りの安全が確保できた段階で、イーディにヘリアンサスを呼んでもらって、そのとき一緒にアナベルを連れて来てもらう。
――いいわね?」
カルディオスは眉間に皺を寄せている。
「ムンドゥスは? 連れてく?」
苛々と溜息を零して、ディセントラが腕を組――もうとして、船の大きな揺れによろめき、カルディオスの手に縋る格好になった。
ざっぱぁ、と船体の横で弾けた大波が足許を濡らす。
カルディオスの手に縋りながらも、ディセントラの女王様気質に障りはなかった。
彼女は堂々と言った。
「そういう話だったでしょ」
俺は、ちらっとヘリアンサスを振り返った。
やはり微動だにしていない。
トゥイーディアが、ヘリアンサスにぴったりと付き添っている。
「――あいつはそれでいいって言ったの?」
「言ってなきゃ、あんたたちを押し退けて、まずはあの子の説得に行ってるわよ」
ディセントラが食い気味に返してきて、俺はちょっと顔を顰める。
「……兄ちゃんは。俺たちの中でいちばん暴力的なのがトゥイーディアだろ。
兄ちゃん――ヘリアンサスだって、トゥイーディアが近くにいる算段でここまで付いて来てくれてるんじゃねえの」
ディセントラは冷ややかに俺を見た。
そして、端的に言った。
「魔力が半分程度になったイーディよりは、海の上のアナベルの方が頼れると思わない?」
俺は瞬きした。
内心でちょっといらっとしたものの、たぶんそれは俺が、どんな道理に適ったことであっても、少しでもトゥイーディアを低く見る発言ならば、それが許せない心の造りをしているからだ。
そして呪いがある限り、俺のその気持ちは外に出ない。
俺は無言で頷いた。
◆◆◆
船の上は混乱の極みではあったが、それでも俺たちが船を降りる段になると、「兄貴、お気を付けて!」という声が巻き起こった。
俺はそれに応じるどころではなかったが、カルディオスが代わりに手を振っていた。
トゥイーディアが甲板にいるヘリアンサスをルインに押し付け、船尾楼甲板の上で休む間もなく魔法を遣うアナベルに、「あいつをよろしく」と念を押している。
アナベルは、まるで大軍の指揮を執るかのように、あるいは楽団に向かって指揮棒を振るかのように手と指を振り、そのたびに巨大な氷を生成しながら、おざなりに頷いていた。
俺たちが船から降りた方法は単純明快、船尾楼甲板から海上に向かって飛び降りるというものだった。
真下の海面をアナベルが凍り付かせて台座にしてくれたから溺れることはなく、足許の空気を圧縮して緩衝材にすることなどは、俺たちにとっては造作もない――はずだった。
だが、今の俺は、背後に迫る〝えらいひとたち〟のことで頭がいっぱいで、とてもではないが魔法を扱えない。
そのことを察していたらしいカルディオスが、俺の分まで足場を確保して、安全に氷の上に落ち着かせてくれた。
――ああ、ああああああ。
声が響いている。
〝えらいひとたち〟が俺を叱責する声が轟いている。
俺は俯いて、必死に身体の震えを堪えた。
カルディオスが俺の肘の辺りを掴んで、俺がその場に座り込まないようにしてくれている。
コリウスの腕の中で、ぱち、とムンドゥスが目を開けた。
ふぁ、と小さく欠伸をしたムンドゥスが、コリウスの腕から離れようとするようにばたばたと藻掻く。
それを無視して、コリウスがディセントラにムンドゥスを預けた。
ディセントラが、おっかなびっくり、慎重な仕草でムンドゥスを抱き留める。
海上を、ゆらゆらと、漂うような動きで、無数の〝えらいひとたち〟が滑ってくる。
「えーっと、まずはあれをどうする?」
カルディオスが、俺をさり気なく後ろに押し遣りながら、お道化た調子でそう言った。
トゥイーディアが、まじまじと俺を見ている。
その視線が恐ろしくて、俺はいっそう吐きそうになった。
「そうね、イーディに無理はさせられないから――」
ディセントラが言う間に、海上から無数に突き立つ巨大な氷剣。
貫かれた〝えらいひとたち〟が霧散していき、しかしそれ以上の数の〝えらいひとたち〟が、その後ろから続々と現れる。
――ああ、どォォォして、どォォしてぇ……
ディセントラが、前に出ようとするトゥイーディアを抑え込むようにして、ムンドゥスを抱えたまま、氷で滑らないよう細心の注意を払っていることが分かる足取りで、前に進み出た。
「ちょっと待って。なんとかするわ」
「トリー、おまえの得意分野はレヴナントには効かないぞ」
カルディオスが気を揉んだ様子でそう言って、ディセントラに鼻で笑われる。
「あんたが覚えてる程度のこと、私が覚えてないはずがないでしょ」
そう言いながら、ディセントラはちらっとコリウスを振り返る。
「――あっち、人は居ないわよね?」
コリウスはぴくりとも表情を動かさず、断言した。
「居たとして、死体だと思うよ」
ディセントラとトゥイーディアが顔を顰めた。
とはいえ、コリウスの言い様に拘泥していられる場合でもない。
ディセントラが切り替えるように息を吸って、
ぱちん、と指を鳴らし、
――こちらに迫ってきていた〝えらいひとたち〟の大群の、その上半身が捩れて潰れた。
実体がないはずの薄墨色の亡霊の、その輪郭の曖昧な身体でさえもが捻じ曲がり、後ろに捩れ、消し飛んでいく。
俺は心底ぞっとした。
俺が恐慌状態になければ、何が起こったのかは一目で分かったはずだ――ディセントラが得意分野の〈止める〉魔法を、〝えらいひとたち〟の眼前の空気に付与したのだ。
一切の変容を禁じられた空気が、実体がないはずの亡霊の身体でさえもを、異物として弾いた結果がこれだ。
そして今までディセントラがこの手段を採ってこなかった理由も明白で――余りに危険だからだ。
人が傍にいるときには、とてもではないが採られる手段ではない。
巻き込んで周囲の人を殺してしまうことまでが目に見えている。
この場面――レヴナントの大群を前にして、レヴナントの周囲には一切の人がいないことが確定している――この場面に於いてのみ、実行に踏み切ることの出来る苛烈な手段。
もしかしたら、ガルシア近辺で彼女が一人でレヴナントの討伐に当たっているときには、幾度かは採っていた手段かも知れないが――
ムンドゥスが、嫌がるように身を捩った。
わ、と声を上げたディセントラが、支え切れずに屈み込み、ムンドゥスを氷の上に下ろす格好になる。
氷の上で軽く足を滑らせ、その場に座り込んだムンドゥスが、駄々をこねるように首を振った。
今や顔貌までもが蜘蛛の巣のような微細な罅に覆われた、世界そのものが。
「――いやよ、だめよ、いたいわ」
ディセントラが、はっとしたようにムンドゥスの顔を見た。
一方のトゥイーディアもまた、外殻を壊してから初めてムンドゥスの顔をまともに見て、「待って」と狼狽した声を上げる。
「ちょっと――いつの間にこんなに、傷が」
「イーディ、こいつが木端微塵になる前に、色々と片を付けないと拙いんだって」
カルディオスが口を挟み、「な?」とコリウスを見遣る。
〝えらいひとたち〟は、ディセントラの魔法を正確に障壁であると感じ取った様子だった。
ディセントラの魔法に巻き込まれなかった個体も、ゆらゆらと揺らめくような足取りを止めて、窺うように左右に身体を揺らしているひとたちが殆ど。
――確かに、短い間ではあれ、亡霊の大群が止まったのだ。
コリウスがカルディオスに向かって頷いて、俺たちが一旦の目的地に定めた島を――島はすぐ左手にあるわけだが――示した。
「そうだ。――早く行こう」
――結論から言えば、〝えらいひとたち〟は船を追っているのではないようだった。
それが、守るべきヘリアンサスや船の世双珠を認識してのことなのか、それとも外殻を消し飛ばした不届き者としてトゥイーディアのことを認識しているゆえなのかは、俺にもよく分からない。
ともかくも、アナベルの張った氷を辿り、最後の浅瀬は冷たい海水を蹴立てて、岩場に手を突いて掴まるようにしながら島に上がった俺たちを、眼もない巨きな顔貌で見て、〝えらいひとたち〟もまた、のろのろとこちらへ向かってきた。
海上を滑る船ではなく、島に上がった俺たちをこそ目標として、大きな肢を動かし始めたのだ。
「――狙い通りといえば、狙い通りよ」
海水に濡れた足許を素早く乾かしながらそう言ったディセントラは、岩場を渡り歩くのにじゃっかん息を上げている。
この島は、海岸沿いがごつごつした岩場になっているようだった。
先刻、トゥイーディアが外殻を破る際にその基点とした島よりは随分大きい島で、海岸からなだらかな上向きの斜面が続き、振り仰いでみれば、斜面の上は鬱蒼とした森になっているようだった。
夕闇が忍び寄る中でも、ざわざわと揺れている梢が影として見えている。
岩場になっている足許が不安定で、嫌がるムンドゥスを宥めながらその手を引くトゥイーディアは危なげなく足を運んでいるものの、ディセントラが若干よろめいていた。
波に濡れた岩は滑るし、視界も徐々に暗くなっているから、それも無理なかった。
俺も、竦んだ足を動かすのは容易なことではなく、その俺を、カルディオスがさり気なく手助けしてくれている。
ようやく足を止めたディセントラが、傍のコリウスを肘で押した。
「コリウス、試してみて」
コリウスが、最後に俺を見た。
俺は〝えらいひとたち〟の方に目が釘付けになっていて、それに応じることが出来なかった。
ふう、と息を吐いたコリウスが、その場で軽く踵を上下させた。
じゃり、と、彼の足許で岩と岩の間を埋める砂利が擦れる音がする。
そして、いつもの通りに、コリウスが指を鳴らした。
直後に彼の姿が消えることを、俺たちは疑いなく予測しており、
しかし、
――ばんッ!
銅板を硬いもので思い切り叩いたときのような、凄まじい音が耳許で響いた。
――聞こえたのはその轟音。
そしてコリウスの、珍しい狼狽の声。
耳許の空気が変な具合に捩れるような、名状し難い不快な音。
そして、視界の異変。
強制的に、瞬きを――それも連続して、させられたかのような視界の明滅。
目の前の景色が歪む。
腹の中から臓物一切を抜き取られて、そしてまたそれを乱暴に詰め込まれたかのような、そんな感覚。
足許の地面が崩れ去るような心許なさ。
そして、
「――うおっ!」
「うわっ!」
叫び声と共に、俺はその場に倒れ込んだ。
俯せで倒れた頬に、下草が刺さって痛い。
慌てて身を起こす。
周囲が徐々に、夕方の暗さに転じている。
だがその場の光景が、海辺の景色ではないことは呑み込めた。
荒れた原野に放り出されたようだった。
正面に九十フィートほど行ったところには、鬱蒼とした森の入口。
波の音が遠くに聞こえる。
それよりも近くで、ざわざわと梢が揺れて擦れる音がする。
「――は……?」
一瞬にして眼前の光景が激変し、理解が付いて行かない。
背後からさらさらと水の流れる音がして、ばっ、と振り返った俺は、そこで俺同様に目を白黒させている、尻餅をついた姿勢のカルディオスを発見した。
俺は瞬きした。
カルディオスはいる、ここにいる。
だが、他の三人が見当たらない。
トゥイーディアがいない。
ディセントラも、コリウスも――ムンドゥスも見当たらない。
よろめきながら、俺は立ち上がった。
カルディオスも同様にしている。
期せずしてお互いに手を伸ばし、支え合いながら立ち上がるような格好になった。
カルディオスの後ろには原野が続いている。
三十フィートほど行ったところで、小川がさらさらと流れて原野を横断しているようだった。
原野の端は分からなかったが、それは距離のゆえではなかった。
確かにかなりの距離はあったが、それよりも、どうやらしばらく行った先が、切り立った崖か急な斜面になっているようで、視界が途切れているのだ。
その向こうに、斜陽に白く煌めく海が小さく見えている。
「は――?」
茫然と声を零したのは二人同時。
「どういう……?」
唖然として俺が呟くと、はっとした様子のカルディオスが、「待て!」と声を上げたので、俺はびくっとした。
「待て! 待て待て、落ち着け」
「え? ――うん」
頷いた俺は、気持ちの悪さに腹を押さえた。
さっきの、腹の中の内臓を引き摺り出された上に乱暴に元に戻されたような、その気分の悪さが残っている。
カルディオスもそれは同じであるらしく、彼も整った顔を歪めて腹を押さえていた。
そして、ぼそりと呟いた。
「――これ、あれだな。コリウスの瞬間移動に、俺らも巻き込まれたかな」
俺は咳払いし、声が出ることを確認してから、低く応じた。
「コリウスがそんなことするかよ」
カルディオスが顔を顰める。
「じゃあ、なに」
「分かんねぇけど――」
と、俺は身体を伸ばして、出来る限りで遠くを窺いつつ。
「――やっぱり、内殻が瞬間移動も防ぐんだ。
それで、瞬間移動の魔法が、あいつの思った通りの働きをしなくて、ものの弾みで全員がどこかに飛ばされた――って、そんなとこじゃないのか」
遠くを見ても、奇跡的にトゥイーディアの姿が見えるなんてことはなかった。
髪のひとすじでも見えれば、俺はそれがトゥイーディアだと分かるのに。
カルディオスが、両手で顔を拭った。
彼はげっそりして見えた。
「……ものの弾み、ね。ものの弾みでばらばらになったわけね。
ここ、どこだよ。諸島だろうな――大陸まで送還されてねーだろうな」
「島じゃねえかな」
と、自信はないながらも俺は言った。
「海も見えるし、そんな――事故みたいな魔法で、そこまで遠距離には飛ばされねぇだろ」
「だといいけど」
と、カルディオスは憂慮の表情を見せる。
「コリウスの魔法だろ? 暴発したらどこまで飛ばされるか――。
まあいいや、取り敢えず、みんなが陸地にいれば」
カルディオスが軽やかにそう言ったので、俺はトゥイーディアが海の中に唐突に放り出されたかも知れないことを思って、吐き気を催した。
例によってその感情は顔には出なかったが、カルディオスは横目でちらっと俺を見て、素早く言い足していた。
「まあ、だいじょーぶだろ。それに、事によると、俺たち以外にはみんな一緒にいるかも知れねーし。俺とおまえは、何なんだろね、縁かな」
「……かもな」
と、俺も力なく笑った。
二人して千年前の記憶を取り戻しているので、確かに縁じみたものは感じる。
カルディオスが軽く首を振って、そして、左手をぱっと広げた。
そこに、意味もなく火花が散る。
――軽い魔法を使って、魔力の気配からみんなが俺たちの居場所を割り出してくれることを期待しているのだ。
――どこかで、〝えらいひとたち〟の叫び声がした。
俺はぐっと奥歯を喰いしばった。
カルディオスが、宥めるように俺の腕を叩き――、
そして唐突に、ぐいっと俺を後ろに押し遣った。
「――――?」
カルディオスが、俺の前に――俺を庇うように――立って、身構える。
俺は一瞬、本当に一瞬だけぽかんとし、
「――――」
そして、絶句した。
確かに、ついさっきまでは誰も居なかった。
それなのに。
それなのに、いつの間にか――小川の向こうに、古老長さまが立っていた。
――古老長さまが、かくん、と首を傾げる。
人には有り得ない角度で。
濁った金の眼が、炯々と輝いて俺を見ている。
――俺の喉が干上がった。
臓腑の全てが、この場から逃げ出すことを望むように、腹の中で暴れ出した――それほどの恐怖。
息が上がる。
そして同時に息を詰めようとしたものだから、頭がくらくらした。
『――あ、あああ、ああ、……バンニン』
古老長さまが、俺を呼んだ。
明らかに、俺を咎めて呼んでいた。
俺はその場に膝を突いた。
立っていられなかった。
そもそも俺は、古老長さまを前にして、立っていることのお許しを貰ったことなどないのだ。
カルディオスは俺の前に立ち、身構えて、――しかし、小さく息を吐いた。
「――これは、……どうしたもんかね」




