45◆ 冬へ歩む
ブロンデルを出発した俺たちは、汽車にていちど帝都を経由し――別に帝都に用があったわけではない。汽車の進行方向上、いったん通らねばならなかっただけだ。だが、高級宿でのんびり出来たのは、嬉しい予定外の出来事だった――、ドゥーツィア辺境伯領に戻った。
諸島に赴き母石を破壊するに当たって、冬を待つ約束だからだ。
ドゥーツィア辺境伯領に戻った俺たちは、適当な駅で汽車を降りた。
降りた駅は領都の手前、駅があるとはいえ大都会といえるような町ではなかった。
汽車で通ってみれば、近くにもっと小さな町や村が点在しており、それらの間には長閑な牧草地が広がっていて、羊の群れがのんびりと草を食んでいるのも見えていたから、駅を有するこの町は、それからの町や村から羊毛を一括で買い上げて、それらを加工して商うことで栄えたのだと分かる。
わざわざドゥーツィア辺境伯領に戻ったのは、辺境伯の後継ぎであるコリウスがいる以上、その領内であれば色々と勝手が利くということがあってのことだった。
そして、その、“色々と勝手が利く”ということには――
「――なあ、マジで正気で言ってる?」
と、汽車を降りた俺は十回くらいコリウスとディセントラを問い詰めたが、どうやら二人は本気だった。
コリウスに至っては、珍しく面白がっているようでもあった。
即ち、この二人の発案によれば、これからドゥーツィア辺境伯お抱えの新聞社に手紙を書いて、アーロ商会あての伝言文を新聞に載せてもらおうと。
ここがコリウスの顔が利く彼の地元であるという強みを生かした作戦ではあったが、待て待て待て。
「あの海賊船――じゃなかったアーロ商会を尋ねる伝言文を載せてもらうわけか?
で、この報せを見たらいついつにどこそこで待っててくれって書いておくわけか?」
「まあ、そうね」
と軽やかに肯定するディセントラは清々しい。
こっちはこっちで面白がっている。
「上手くいくわけないだろ!」
と、俺は頭を抱える。
「第一あいつら、見るからに新聞とか読みそうにねぇし! 字を読める奴が何人いると思う? 絶対に片手に収まるぞ」
「そうかな。船長はなかなか切れ者に見えたよ」
コリウスが真顔で面白がっている。
なんでだ。
「合流だって上手くいくはずねぇだろ! ちゃんとした暦もないのに」
俺の嘆きに、コリウスとディセントラが揃ってきょとんとする。
そうだった、こいつらにももう精緻な暦の概念はないんだった。
「まあ、そう難しく考えなくていいよ」
と、あっけらかんとコリウスが言った。
「難しく考えるに決まってるだろ! 俺が魔王だって、いくら馬鹿でもあいつらでも思い当たってるかも知れないだろ!」
俺の声を抑えた怒鳴り声に、「私もそう思う……」と、結構深刻そうな様子でトゥイーディアが賛同してくれた。
振り返ってみると、彼女はかなり真剣に心配そうな表情をしていて、俺としては彼女を抱き締めたい。
「ルドベキアが真っ黒な髪なのは印象に残ってるだろうし、一度は魔界にまで連れて行ってってお願いもしちゃってるでしょ? だったら、場合によっては怪しまれていてもおかしくないとは思うの……」
「大丈夫だよ」
コリウスが手を振って一蹴し、肩を竦めた。
「諸島まで連れて行ってもらうのに、ちょうどいい知り合いの船があるんだ。それを当たってみるだけだよ。合流が失敗すればそのときはそのときで、並行して他の船も探しておけばいいし――」
「万が一、あの人たちにルドベキアの素性が疑われていたとしても、」
と、ディセントラが言葉を引き取って、極めて彼女らしく強気に微笑んだ。
「たかが一介の船乗りに何が出来るの。
領内にいる限り、コリウスが責任を持ってルドベキアを守るわよ」
「いえ、あの、魔王なのよ? ただの犯罪者とかじゃないのよ?」
トゥイーディアが控えめに、ご注進、という感じでそう言ったが、ディセントラはひらひら手を振ってそれをあしらった。
「大丈夫よ。だって、魔王は首を斬られて死んだんだもの。新聞にもそう載ったでしょ?」
「…………」
自信を持ってそう言い切られ、まだ言いたいことはありそうだったが、トゥイーディアは複雑そうな顔で口を閉ざした。
――そんなわけで俺たちは、不揃いな敷石を踏みながら、飛脚の詰め所に向かって歩くこととなった。
俺はまだ呆れていたし、トゥイーディアは不安そうだったし、アナベルもじゃっかん呆れている様子ではあったが、ディセントラとコリウスは平気そうだった。
いや、まあ、キャプテン・アーロの船もといアーロ商会の連中、そこそこ気のいい連中で、あいつらが諸島まで船を出すことを引き受けてくれるというならば、ぶっちゃけ心強いといえなくもないし、あいつらなら俺たちが諸島に何の用があるのか、ざっくりした説明でも納得してくれそうという下心もあるが……。
深々と溜息を吐く俺に、眠そうにしながら歩くムンドゥスの手を引くルインが、「兄さん?」と、気遣わしそうな眼差しを向けてくれる。
俺は「大丈夫だよ」と首を振りつつも、愚痴の口調で呟いた。
「――ほら、おまえも覚えてるだろ。おまえを魔界から引っ張って来たとき……」
「あの、僕が無理にお供したのですが」
「そうだっけ。――まあとにかく、あのときに船を出してくれてた連中だよ。確かにいい奴らではあるけどさ」
「そうですか?」
と、意外にもルインは気難しそうに言った。
俺がびっくりして彼の顔を見ると、ルインはめちゃくちゃ顔を顰めていた。珍しい。
「兄さんの弟分を名乗った不届き者がいましたよね」
俺の視線を受け、柘榴色の目を怒らせたルインがきっぱりとそう言ったので、俺はなんだか脱力しつつ。
「いや……弟と弟分は違うだろ」
と。
カルディオスとヘリアンサスは、俺たちのいちばん後ろをのんびりと歩いていた。
カルディオスが、「これから、手紙を書きに行くみたいだから」と言って、ヘリアンサスが少し考えたあと、ぱちん、と指を鳴らしている。
「覚えてる。逓信所だ」
「あー、一緒に行ったな。でも、今はそんな風には言わないな」
「そうなの?」
「うん。飛脚の詰め所とか、そんな風に言う。国によるけど。以前と違って、空飛ぶ船で手紙を運んだりもしてねーしな」
「ふうん……」
斯くして俺たちが向かった飛脚の詰め所は、石を積んで造られた、建物というよりも小屋といった方が近いような代物で、入口には簡素な木の板戸がついているだけだった。
その板戸を押し開けると、窓もない薄暗い土間があって、そこに無人のカウンターがでんと据えてある。
土間の左手には奥に通じる通路があって、そこからげらげらと複数人の笑い声が聞こえてきていたから、この小屋自体が無人ということはあるまい。
中に入った俺たちは――というか、小屋が狭くて、ムンドゥスを連れたルインとアナベルは、小屋の外に立ったままだったが――、しばらくその場に佇んでいた。
屋内とはいえ、隙間風が絶え間なく吹き込んできていて、南国生まれの俺は寒さに肩を窄めていたが、他のみんなは平気そうだった。
ヘリアンサスは顔を上向かせて、低い天井を支える、がっしりとした木が組まれた梁を黄金の目で辿っている。
分厚く埃の積もった灰色の梁は、俺からすれば陰気に目に映るが、ヘリアンサスからすればそうではないらしい。
一向に奥から人が出て来ないので、そのうちにコリウスが咳払いした。
奥の笑い声がぴたっと止んで、がたがたと慌ただしく何かを整理する音がしたあと、奥から若い男の人がすっ飛んで来た。
短く整えられた茅色の髪に、藁の切れ端がくっ付いている。
想像だが、奥の部屋では一面に厩の如くに藁を敷いて、それで暖を取っているのかも知れない。
「うわぁ――お待たせしちゃったみたいで」
と、彼は困惑気味に言った。
明らかに軍人と分かる出で立ちの俺たちをまじまじと見回し、興味深そうに辺りをゆっくりと見渡しているヘリアンサスに奇異の目を向けたあと、取り敢えず俺たちの代表らしい、と目星をつけたと見えるコリウスに向かって、ぱちぱちと瞬きしながら続けた。
「――え、お手紙です?」
コリウスは無言で、素気なく頷いた。
その隣で、コリウスの無愛想さを補うかのように、ディセントラがにこっと微笑んだ。
途端に飛脚の彼の頬が真っ赤になった。
そわそわと両手の指を組み合わせ、かと思うと鼻の頭を掻き、慌てた様子でカウンターの向こうに回る。
そこの椅子に座ろうとして、彼はいちど見事にその場に引っ繰り返った。
ディセントラの顔ばっかり見ていて、椅子の方を見ていなかったらしい。
「いてっ!」と元気に声を上げた彼が、あたふたと椅子に座り直して、カウンターの上の白紙の山を無意味にぱらぱらと捲る。
ディセントラは、大抵の人間は自分の顔に見蕩れるものだと弁えている節があるので、微笑んでその一連の動作を見守っていた。
「えっと、あの、お手紙。あの、すみません、この町じゃ他所に手紙出そうなんて人、珍しくて……」
上擦った声で言い訳を繰り出す飛脚の彼に、ディセントラは慈愛の笑顔。
「そうみたいね」
「お姉さん、この辺の人じゃないですよね? びっくりした……」
「あの、お手紙、よろしい?」
ディセントラがほっそりした指でカウンターの上を指差し、そのうちに、更に奥の方から数人の若者が顔を出した。
「うわっ、すっげぇ美人……」と呟く声が聞こえてきて、心なしかトゥイーディアが羨ましそうな顔をしている。
トゥイーディアは不思議と昔から、ディセントラの顔面を羨む様子を見せることがあったからね。
俺にも人並みの眼球と脳みそはついているので、ディセントラの顔面が綺麗なことは認めるが、それはそれとしてトゥイーディアだってめちゃくちゃ可愛いのになんでだろうな。
飛脚の彼は、はっとした様子でカウンターの抽斗を開け、そこからペンとインク壺を一式取り出した。
「あっ、そうでしたそうでした」
慌てる彼に、コリウスがめちゃくちゃ冷淡な声でばっさりと告げる。
「代筆は結構なので、紙とペンを」
俺は最後の悪足掻きで、ぼそっと、「ほんとに手紙書くのか……」と呟いたものの、それは黙殺された。
元より俺はコリウスたちに、俺の最大の恥をトゥイーディアに黙ってもらっている恩がある。
足掻こうにも限度があるというものだ。
俺の呟きを華麗に無視して、差し出されたペンを受け取り、紙の質にじゃっかん顔を顰めてから、コリウスがさらさらと書簡を認め始めた。
ヘリアンサスは土間の奥の方を見詰めつつ、カルディオスに向かって興味深そうな小声で、「なんで奥に鳥がたくさんいるの」と尋ねている。
俺もカルディオスもびっくりしたが、カルディオスはすぐに、「おまえ、そんなのまで分かるの」と素直に驚嘆の声を漏らしてから、首を傾げて事も無げに応じた。
両手を持ち上げて、一定の大きさを示しながら、
「それ、これくらいの大きさの鳥だろ? ――鳩だよ。伝書鳩」
ヘリアンサスが瞬きして首を傾げたので、カルディオスは苦笑しつつ。
「鳩って、どんだけ離れてても巣に帰って来るだろ。だから、ここを巣にしてる鳩をだな、他の所に連れて行って放すと、ここに戻って来るわけだ。その鳩に手紙をくっ付けとくと、手紙もここに戻ってくるわけだろ? それが伝書鳩」
「なるほど」
納得した様子でヘリアンサスは頷いて、少しだけ遠くを見るような目をした。
「おれ、こうなる前は耳も良かったから、相手が言葉を喋っていなくても、大抵はなに言ってるか分かったんだけどな。今はもう分からないな」
「えっ」
カルディオスはぱあっと目を輝かせてヘリアンサスを見て、声を弾ませた。
「なにそれ、おまえ、犬とか猫が何言ってるか、大体分かってたの?」
声を低めた遣り取りだったものの、奥から顔を出している数名が、怪訝そうにこっちを見てきた。
トゥイーディアがちょっと咳払いをしたが、カルディオスはそれには気付かなかったらしい。
眩しいばかりの笑顔で言い募っていた。
「すげーじゃん。おまえ、何でも出来るんだな」
「おまえに比べれば、大したことじゃない」
ヘリアンサスはあっさりとそう言って、それから少し考えて、呟いた。
「――どのみち、おれは今の方がいい」
コリウスが手紙を書き上げて、ディセントラがさっとそれを一読した。
頬に零れる赤金色の髪を耳に掛けながら、素早く文字を拾っていくディセントラに、飛脚の彼の目が釘付けになっている。
「――まあ、いいんじゃない」
ディセントラがそう言って、手紙をコリウスの手に戻す。
コリウスが肩を竦めて、「どうも」と言うのと同時に、彼女は自分をうっとりと見詰める飛脚の彼に気付いたらしい。
にっこりと、それはそれは美しく微笑んで、ディセントラが首を傾げる。
「このお手紙、特別に速く届けてくださる?」
飛脚の彼がこくこくと頷いた。
「は――はい。そりゃもう、喜んで」
「まあ嬉しい」
わざとらしいまでに嬉しそうに微笑むディセントラの後光を受けて、飛脚の彼がいよいよ、湯気を噴き出しそうなほどに真っ赤になる。
それを見て、奥から顔を出す他の数名が、「ずりーぞ!」と声を上げた。
手紙を几帳面に折り畳みながら、コリウスがうんざりした息を漏らす。
そして、面倒そうに言った。
「――熱意は分かったので、封筒を。宛名を記しますので」
飛脚の彼が、はっとした様子で、わたわたと封筒をコリウスに差し出した。
コリウスが手早くそこに目的の新聞社の社名と、そこの(たぶん一番)偉い人の名前を書き記す。
そうししている間に、飛脚の彼が酒精灯と封蝋、そしてこの町の飛脚を示す印璽をカウンターの抽斗から出してきた。
印璽に埃が溜まっていないかどうか、飛脚の彼はふうっと息を吹き掛けて確かめていた。
熱した封蝋を印璽でぎゅっと押さえ、恙なく手紙に封が施されたことを確認してから、ちらちらとディセントラの方を気にする様子の飛脚の彼と、コリウスが料金の遣り取りをする。
カルディオスほどではないにせよ、コリウスも大概が金銭感覚のぶっ壊れた人間なので、端数を切り上げして、かなり大雑把に料金を手渡したらしい。
飛脚の彼は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。
そうして飛脚の詰め所を出ると、退屈した風情のアナベルが待っている。
彼女が大粒の薄紫の瞳で俺たちを見て、小さく欠伸を漏らしながら、「ああ、終わったの」と呟いた。
さあっと光景を撫でるように冷えた風が吹いて、彼女の薄青い髪が揺れる。
俺は目でルインを捜し、そして、詰め所の傍の、秋から冬へと滑り落ちつつある季節を迎えて萎れつつある雑草をつつくムンドゥスと、彼女をはらはらした様子で見守るルインを発見した。
「――おまえ、ちょっとはルインと一緒にムンドゥスを見ててくれよ」
俺は思わずアナベルに物申したが、アナベルはにべもなかった。
肩を竦めて、無感動に言った。
「あなたの弟がしっかりしてるから、あたしが見てる必要はないんじゃない」
「まあ――ルインはしっかりしてるけど」
認めつつ、俺はなんだか釈然としない。
言い包められた感じがするのはなんでだ。
ムンドゥスが、ヘリアンサスに気付いた様子で立ち上がった。
そのまま、ふらっとよろめく彼女を慌てた風情で支え、こっちを振り向いたルインが俺を見付けて、ほっとしたように表情を緩めた。
片手を挙げると、ムンドゥスの手を引いて、こっちに駆け寄って来てくれる。
可愛いやつめ。
「兄さん、ご用事はお済みですか」
「うん。――ムンドゥスを見ててくれて助かった。ありがとな」
面映ゆそうに目を細めるルインの頭をわしわしと掻き回す。
突き抜けるほどに澄んだ秋の空を、高い声の尾を引く鳥が、見事に旋回して飛んでいた。
はばたきもせずに気流に乗り、悠々と空を泳ぐその鳥を見上げて、ヘリアンサスが眩しそうに目を細めている。
そして、直前の話を思い出したのか、ふっと悪戯っぽく微笑んで、囁いた。
「――今でも、あれをこっちに呼べるか、やってみようか」
俺は思わず噴き出して、ヘリアンサスを振り返った。
「おまえ、何でも出来るんだな」
奇しくも先刻のカルディオスと同じことを口走ると、ヘリアンサスは肩を竦めて、事も無げに答えた。
「もちろん、おまえに比べればね」
「――――」
カルディオスに応じたときとの言葉の違いに、俺は思わず渋面になり、カルディオスが声を上げて笑った。
他のみんなは、これがヘリアンサスのことだから、遣り取りを無いものとして扱って、これからどういう経路で港町に出るべきか、それをぼそぼそと話し合っている。
カルディオスが元気よくそちらに口を挟んで、「急いでねーんだから、野宿でもいいじゃん」と言い放つのが聞こえてきた。
これから寒くなる時期に野晒しを選ぼうとするカルディオスに、俺とルインは若干の恨みを覚えたものの。
ヘリアンサスが、ルインの頭の上に掌を乗っけたまま顔を顰める俺に、雪ほどに静かな足取りで近付いてきて、俺の顔を覗き込んだ。
新雪の色の髪を揺らして苦笑し、黄金の瞳を細めた兄ちゃんが、穏やかに呟く。
「――そう拗ねるな、この馬鹿息子」
◆◆◆
旅路についてはカルディオスの案が通った。
この寒空に野宿とは平気か、と俺は目を剥いたものの、これについてはカルディオスの意見というよりも、トゥイーディアの意見の方が重視されたといった方が正しい。
まあ、町を通りたくない気持ちは分かる。
ヘリアンサスを非力な人間の真ん中に置くことに、トゥイーディアは多大な抵抗を覚えているはずだ。
それに、町中には――世双珠があるから――〝えらいひとたち〟が現れてしまう可能性が高い。
ヘリアンサスが居ればなおのことその可能性は高まる。
だからトゥイーディアとしても、出来る限り町を避けたいようだった。
俺も同じ理由で、町を避けられるのは安堵半分のところもあったが、それはそれとして寒いものは寒いのだ。
俺が寒さについて愚痴を零すと、カルディオスはあっけらかんと笑って、「まだ秋だぞ」と言ってきた。
いや、魔界だともうこの気温は冬だよ、と思いつつも俺は黙っていたが、ヘリアンサスは意外なことを聞いたように俺とカルディオスを見比べて、静かに笑っていた。
「――寒いのが嫌いなのは、カルディオスだろう」
そう言っていて、俺としては、それはいつの話だと思ったものの、カルディオスはすぐに合点したようだった。
目を細めて微笑して、ヘリアンサスを軽く小突いていた。
「俺は、今は寒いのも大丈夫なの。――おまえがいるからね」
そう言われて、ヘリアンサスは珍しいことに言葉に詰まった。
それから頷いて、答えた。
「――そうだった。……そう言ってたね」
「だろ?」
首を傾げてカルディオスは笑ったが、少し寂しそうな笑顔だった。
――目指す港町は再びシェルケだったが、そして先日、アーロ商会あてに打った伝言文でも、合流地点としてはシェルケを指定していたが、汽車でシェルケに直行しては冬を迎えることが出来ない。
ただし、徒歩でシェルケに向かえば時間が掛かり過ぎる。
そのために俺たちは、地理に明るいコリウスの指示どおりに、町と町の間を汽車で移動することもあれば、町を出て、徒歩で広大な原野を歩き、幾つかの町を素通りしながら進むこともあった。
もちろん食糧の買い出しは必要になるので、汽車を降りたタイミングである程度のものは買い込んでおく。
そしてその物資も尽きると最寄りの町に立ち寄ることとなるが、ヘリアンサスの動向にはみんなが緊張した。
俺ですら、些細なことで機嫌を損ねるヘリアンサスの感情の機微を拾い損ねて、ぞっと肝を冷やすことがあった。
だが、とはいえ、カルディオスは例外だった。
彼は慣れた様子でヘリアンサスに町を案内し、ヘリアンサスが目を配る幾つかのものを示してその名前を教え――それは例えば、崩れ掛けた石壁に囲まれた空地に群生する秋桜であったり、露店で売られる石ころに等しい価値の色石であったりしたが――、更にはヘリアンサスに金を渡して、露店でお遣いを頼むことまでしていた。
その振る舞いには俺も戸惑い、俺以外のみんなに至っては凍り付いていたが、カルディオスはしれっとして、「だって俺、あいつに金の使い方は教えたことあるもん」と言い放っていた。
ヘリアンサスはヘリアンサスで、注意深くお遣いをこなして、「昔もこういうことがあったね」と言っていた。
カルディオスは懐かしそうにしつつ、ちょうどそのとき寄って来た野良猫を屈んで撫でてやり、喉をごろごろ言わせるその猫の首筋を掻いてやりつつ、ヘリアンサスに合図して、彼にも同じように猫を触らせていた。
恐る恐る、といった様子で猫に軽く触れるヘリアンサスに、カルディオスは元より俺まで笑ってしまった。
アーヴァンフェルンの南部とはいえ、季節はすっかり秋の底だった。
常緑の木の他は悉く木の葉は紅や黄色に染まり、それを見るヘリアンサスは嬉しそうだった。
「――前も言ったと思うけど、」
ヘリアンサスがそう言うと、カルディオスはにやっと笑って、「秋にはあったかさもある」と、歌うように言葉を引き取った。
「覚えてるよ、おまえは相変わらず面白いな」
ヘリアンサスは黄金の双眸を細めて微笑み、「そういえば」と、俺を振り向いた。
そのときはちょうど夕暮れで、燃え立つような紅と黄金に染まる空を背負って、蜜色の逆光を背負ったヘリアンサスの姿が、俺からは眩しく見えていた。
「ん?」
応じると、ヘリアンサスは苦笑した――いや、苦笑だっただろうか、逆光だったので俺には表情の機微は分からない。
「おれ、おまえを見付けたら、カルディオスに会わせてやろうと思ってた」
俺は瞬きして、眩しさに目を細めた。
「え? なんで?」
ちらりと見遣ると、カルディオスもびっくりしたような顔をしている。
ヘリアンサスは小声で静かに笑った。
「おまえが、おれを外に連れ出してくれなかったのも、外に出たら駄目だって言ったのも、――おまえが、」
しゃらん、と腕輪を鳴らして俺を指差して、ヘリアンサスは穏やかに続けた。
「おまえが、あの穴ぐらの外が嫌いだったからだと思ったんだ。
――カルディオスと話せば、おまえも外のことが好きになるかと思った」
俺は息を止め、それから息を吸い込んで、なんとか微笑んだ。
砕いた硝子で心臓を擦られたかのように胸が痛んだ。
「そっか。ありがとう。――俺にはレイがいたからな」
「うん」
ヘリアンサスは呟いて、俺から視線を外して夕陽を振り返ろうとして、眩しさにぎゅっと目を瞑った。
「おまえが楽しく過ごせたなら、それはいいことだったんだな」
ヘリアンサスが余りに秋を喜ぶので、カルディオスはとうとう、どこからか拾ってきた綺麗な栃の実で、器用に首飾りを作ってやっていた。
とはいえ鎖を通したわけでもなく、その辺りの草を縒って紐状にねじったものを使っていたが、それにしてもよく出来ていた。
ヘリアンサスは無邪気に感動し、長いことその首飾りを矯めつ眇めつしていたが、カルディオスはそれを見かねて、
「それ、ずっと長持ちするもんじゃねーからな、適当にその辺に捨てとけよ」
と言い出した。
ヘリアンサスが黄金の目を丸くすると、カルディオスはじゃっかん気まずげに。
「また幾らでも作ってやるから」
「――分かった」
ヘリアンサスはそう言って、いっそ不思議そうに呟いた。
「おまえは昔から、器用だな」
「まあ、こーいうのは、」
カルディオスが肩を竦める。
「俺の数ある特技の中の一つだから」
◆◆◆
大陸南方にあっても、遂に秋が冬に対して諸手を挙げた。
気温は日に日に下がり、ある朝とうとう、薄らと霜が降りた。
常緑の下草の表面の所々を、薄い化粧のようにひんやりと白い霜が覆っているのを見て、俺はいよいよ冬がきたぞと、寒さに竦むような思いを味わった。
雪が降るような気温ではないにせよ、俺とルインは凍えに凍えて朝を迎えることが多く、本人は寒さの中でもけろっとしているトゥイーディアは俺たち二人を気遣ってくれたが、ディセントラが冗談混じりに、「そんなに心配なら、くっ付いて暖を取ってあげれば?」と言い放ったのに対しては、顔を真っ赤にして憤慨していた。
トゥイーディアに慎みがあって助かった。
じゃなきゃ俺の心臓が限界を迎えて死ぬところだった。
そして仮にトゥイーディアがルインにくっ付いてしまうと、弟といえどさすがに許せん。
北国育ちのトゥイーディアと、人外のヘリアンサス、それから勿論、世界そのものであるムンドゥスはけろっとしていたが、さすがに他のみんなも、この寒さの中にあって平気というわけではなかった。
寒くなってきた時点で、町で毛布は買い込んでいたものの、分厚い上等な毛布を抱えて動けるはずもなく、買い込んでいたのは薄手の毛布数枚で、夜にはみんなして震えながら一緒の毛布に包まって、体温を分け合うこととなった。
雨が降れば、さすがに命に関わりかねないので、慌ててどこか屋根を探すことにもなる。
小さな集落の納屋を貸してもらったり、閉門ぎりぎりの市門を滑り込んで、近くの町で宿を取ったり。
しかしながら、如何に俺が寒さを訴えたとはいえ、安全第一の考えに変化はなく、雨が降らない限りは野宿の選択を採ることの方が多かった。
俺たちが腰を抜かしたことに、カルディオスは当然のようにヘリアンサスと一緒になって毛布を被り込み、彼に凭れ掛かって眠り込んだために、とうとうアナベルから正気を疑われていた。
が、彼は朗らかに笑っていた。
「いや、冬になったらくっ付いて寝たら寒くねーなって、前から話してたから」
あっけらかんとそう応じられて、アナベルは鼻白んでいた。
夜はそうして重宝される毛布であっても、昼日中にあっては荷物でしかなく、ルインも交えた男手四人で毎朝コイン投げの勝負をして、負けた二人が分担して毛布を担いで移動していた。
俺が負けると、決まってルインが申し訳なさそうな顔をする。
忠実な弟に、俺としては苦笑を禁じ得ない。
だが、昼になれば気温は上がった。
陽光はまだ十分に暖かく、足を止めて昼寝をするときなんかは、日向ぼっこの気分で目を閉じると、風が強くない限りは気持ちが良かった。
下草の繁ったちょうどいい斜面で寝転んで、耳許で冬枯れに萎れる下草が風を受けてかさかさと鳴っているのを聞いていると、なんだかこれから先の全てが上手くいきそうな気もしてくる。
トゥイーディアもどうやら、ヘリアンサスを視界から追い出して目を閉じておく時間に心の安寧を見出したらしく、足を止めて休憩するときには、俺同様に昼寝の選択を採ることが多かった。
俺としてはそんなトゥイーディアに毛布を掛けに行きたいのだが、それが出来るなら苦労はない。
そんなわけで、気を利かせた他の誰かが彼女に毛布を掛けてやることが多く(ついでに俺にも)、いちど、ルインに毛布を掛けてもらったトゥイーディアがふっと目を開けて、それはそれは眩しい笑顔で、「ありがと」とルインに言っているところを見てしまい、俺は弟にすら嫉妬した。
――本当に、一度だけでいいから、今のトゥイーディアの記憶に残る形で気持ちを伝えられれば、それ以上のことはないんだけど。
小川の傍で足を止めたときには、カルディオスは元気に川を覗き込み、「おお、魚がいる」と言ってヘリアンサスを手招いた。
ヘリアンサスがのこのこそっちに近付くと、満を持して、カルディオスが川面から水を跳ね上げ、ばっしゃあ、とヘリアンサスにぶっ掛けた。
頭から水を被ったヘリアンサスがぱちくりと瞬きする一方、ディセントラとコリウス、それからアナベルは、素早くその場を離れていた。
トゥイーディアですら唖然として凍り付いていた。
カルディオスは声を上げて笑い、ヘリアンサスは手の甲でごしごしと顔を擦ったあと、「濡れた。冷たい」と現状を訴えていた。
「前に、おまえに同じことされたときより冷たいんだけど」
と訴えており、俺としては、この暴挙はこれが最初ではないのか、ということに内心でこっそり息を呑んだものの。
「そりゃ冷たいよ。だって、あのときは夏だったじゃん。
今は冬」
カルディオスがそう応じて、新雪の色の髪の先からぽたぽたと水滴を落としながら、ヘリアンサスは黄金の瞳を瞬かせた。
「――冬か」
髪を掻き上げて、ヘリアンサスは息を吸い込んだ。
カルディオスは慈しむようにそれを見て、「そうだよ」と、軽やかに噛み締めるように認めている。
「冬。冬の入口。これからどんどん寒くなるよ。霜が降りたり、雪が降ったり、息が白くなったり、その辺で虫が冬眠したり――そういうのが、冬。
冬はちゃんと見せてやる。そのうち雪だって降る」
「そうか」
ヘリアンサスは繰り返し、目を閉じた。
なんとなく、冬の陽光の香りを確かめているようだった。
「これが冬なのか」
目蓋を上げて、ヘリアンサスは首を傾げた。
「冬のあとには春がくるの?」
「そうだよ」
「春は知ってる。――天使が喇叭を吹くんでしょ?」
確認するようにそう尋ねるヘリアンサスに、カルディオスは切なそうに眉間に皺を寄せて、苦笑した。
「――よく覚えてるね、そんなことまで」
「おれにとっては大事なことだから」
そう言って、ヘリアンサスはまた目を閉じた。
カルディオスは川辺にしゃがみ込んで頭を抱え、大きく息を吐いた。
その溜息を受けたかのように、川面で控えめに魚が跳ねて、陽光にきらきらする波紋が拡がった。
カルディオスが顔を上げた。
刺されたような痛みの昇る表情だった。
「――喇叭を聞かせてやれなくて、悪いな」
ヘリアンサスが目を開けた。
ちょっとびっくりしたようにカルディオスを見て、それから彼は微笑んだ。
風が吹いて、新雪の色の、濡れた額髪が揺れた。
水滴が頬に落ちて、ヘリアンサスが少しばかり顔を顰める。
そうして彼は、穏やかに応じた。
「おれが、ルシアナを、好きだから」
時折汽車を乗り継ぎつつも、俺たちはシェルケに向かって南下していた。
汽車に乗っていると、人々の旅装が一気に冬めいてきたのがよく分かる。
羊毛の外套の襟を立て、あるいはストールをしっかりと首に巻き付けて、寒そうに身を縮める人が多かった。
口を開けば体内に溜まった熱が逃げてしまうと言わんばかりに、汽車の中でも唇を引き結んでいる人が多く、汽車は迫る冬に向かって無言で抗議しているかのような、むっつりとした沈黙に包まれてがちだった。
そして、この頃になって、じわじわと不穏な空気が人々の間に広まりつつあった。
何も、俺たちが魔法そのものを殺そうとしていることが表沙汰になったわけではなかったが、どうやら俺たちの悪い予想が当たったらしかった。
――諸島に、内殻と外殻が戻ったのだ。
唐突に、原因不明の現象によって諸島が孤立したことを新聞が報じた。
その新聞を、買い出しのために寄った町で見付けたときに、俺は思わず呻いた。
――悪い予想が当たり、母石を破壊するに当たって大きな障害があるのだということを突き付けられたということが一つ、そしてもう一つが、俺が内殻の復元を一切感知できなかったことによる危機感ゆえの呻きだった。
内殻と外殻が戻ったということは、世双珠の母石、ヘリアンサスの半身もあの島に戻ったということだ。
そして内殻の復元を俺が察知できなかったということは、俺が真に番人の血筋と資格を失っていて、内殻への干渉が不可能事になっているということの証左だった。
このままでは俺たちは、あの地下神殿のある島の土を踏むことすら出来ない。
――頑張れ、とヘリアンサスは言ったが、何をどうすればいいのか、それすら俺には分からない。
俺が落ち込んだことはみんなにも伝わったのか、気楽な気休めもおいそれと口に出せないみんなは、しばらく俺に掛ける言葉に困っていたようだった。
特にトゥイーディアは、俺の好きな、そして俺が常々心配している、彼女らしい責任感の強さで、トゥイーディア自身の魔力の不足に責任を見出してしまったらしく、みんなに輪を掛けて悄然としていた。
そんなトゥイーディアの顔を見て、俺の胸はいっそう痛んだ。
カルディオスもどうやら、肩を落とすトゥイーディアの姿には胸が疼いたらしく、俺にこっそりと、「嘘でもいいから元気出せよ」と耳打ちしてきた。
その言葉通りにしたというよりは、その言葉の裏の意味を拾って、俺はちょっと元気を取り戻した――俺が元気にしていればトゥイーディアも元気になると言わんばかりのカルディオスのこの言葉、信じていいなら俺の恋路は、思っているよりもちょっとは明るいかも知れない。
内殻と外殻の復活が報じられたことを目の当たりにして、なお平然としていたのはヘリアンサスくらいなもので、彼からすればこの流れは予定調和、何も驚くことはないらしかった。
内殻と外殻のことを理解しているのは俺と、そして辛うじてヘリアンサスだけではあったが、諸島の外界からの隔絶と孤立は、徐々に徐々に世間に暗い影を投げ掛けていた。
諸島は大陸に比して田舎で、住んでいる人もそう多くはない。
それゆえ、殆どの人が新聞のその記事を流し読みする一方、多少なりとも魔法を齧ったことがある人間で、かつそれに付随する教育も受けた人間は、暗澹たる顔を見せることが多かった。
――当然だ。
世双珠は諸島のどこかで採れるものと、そう認識されているのだから。
諸島からの世双珠の輸出に支障があるとあれば、生活の基盤として息づいている魔法にも差し障りが及ぶ。
そう判断した商人たちが手を打って、みるみるうちに世双珠の価格は高騰し、それに伴い、幾つかの生活必需品の値段も上がったようだった。
汽車に乗っている、商人と思しき人たちは、そういった世相も受けて不機嫌に黙り込んでいることが多かった。
そんな中にあって、窓の外を見てはあれこれと言葉を交わすヘリアンサスとカルディオスは、悪い意味でよく目立つ。
とはいえ、これに関してはトゥイーディアも制止しようとはせず、ただ頑として他人の顔を貫くことに決めたようだった。
俺は大抵、ヘリアンサスとカルディオスの傍にはいたが、それはそれとて寒さを訴えることすら諦めて、弟と身を寄せ合っていることが多かった。
寒さがルインから律儀さの一部を剥ぎ取ったらしく、彼はムンドゥスを人目から庇うのに、毛布を彼女に掛けておくことが多くなっていた。
とはいえ、ムンドゥスを気に掛けてくれるだけで俺としては感謝である。
罅割れに覆われたムンドゥスは、奇妙な形の衣桁のように扱われても特段の反応を示すこともなく、汽車の中では相も変わらず昏倒したままだった。
町を出て、原野の光景の中を歩けば、寒さはいっそう顕著だった。
早朝の空気は氷を飲むほどに冷たく、俺は震えながら目を覚ますことも多かった。
この寒さの中でさえ平然としているトゥイーディアはしばしば、「きみ、凍っちゃわない?」と冗談めかして俺の顔を覗き込み、その度に寒さのゆえではなしに俺を殺し掛けていたが、それはそれとて確かに寒い。
とはいえ、「肺腑が凍りそう」と零した俺に対しては、「まだそれほどじゃない」「寒がりにも程がある」と、みんなから大いに突っ込みが入ったが。
木立の端で野宿をして、今夜こそ俺は凍り付くかも知れない、と思うほどに寒かった夜を越えた朝、俺は感情の底を浚うような感嘆の声で目を覚ました。
幸いにも俺の五体は凍り付いてはおらず、瞼も問題なく開いた。
が、それはそれとて寒い。
毛布に縋りつき、せめて毛布の中の僅かなりとも温まった空気は逃すまいとしつつも、俺は目を開けて、のっそりと辺りを窺った。
みんなはまだ眠っている。
トゥイーディアの肩が毛布から出ていて、寒そうだった。
――木立の中はまだ暗かったが、既に空は明るくなっていた。
曙光に照らされて青さを思い出した空は深いほどに高く、まるで頭上に透明な水が張っているようだった。
全天にはもう星の煌めきは欠片もない。
ただ輝きを失った月だけが、白くぽっかりと浮かんでいる。
夜を忘れ去ったかのように明るい空の下で、しかしまだ日は低く、地上は影に覆われていた。
だがまさに、俺たちの眼前、木立が切れた先の草原に、燦々と陽光が降り注ぎ始めていた。
撫でるように柔らかく、白々とした曙光が草原に降り注いでいる。
そして、草原を覆う一面の霜がその光を受けて、あえかに燦然と煌めいて見えていた。
まるで無数の水晶を砕いて草原の上にばら撒いたかのようだった。
常緑の緑の絨毯の上に、薄らと白い結晶が積もり、光を受けてきらきらと瞬いている。
冬への讃歌の如くに荘厳なその光景を前にして、臆面もなく感嘆の声を上げ、ヘリアンサスがうっとりと目を奪われていた。
寒さに震え、鼻を啜りながらも、俺は毛布の下から這い出した。
「――兄ちゃん」
ヘリアンサスは俺を振り返らなかった。
目の前の光景を見詰めることに夢中なようだった。
ただ、いくぶんか上の空に返答を寄越した。
「なに?」
俺はまた鼻を啜った。吐く息はすっかり白かった。
「気に入ったか」
「うん」
即答で応じて、ヘリアンサスはますます黄金の瞳を瞠る。
感嘆に目を細めることすら惜しいと思っているようだった。
「さっきまで暗かった。見てると明るくなって――」
もぞ、とカルディオスが身動きして、寝惚け眼で身を起こした。
寝癖がついたままの頭を掻いて、「おお」と声を上げる。
「こりゃ綺麗だ」
カルディオスの声に、ん、と呻いて、トゥイーディアが目を覚ましたようだった。
とはいえすぐに身を起こすことはなく、「何かあった……?」と、半ば寝惚けたような声を出しつつ、ぐずぐずと毛布の下に収まっている。
カルディオスがそちらをちらっと見て苦笑すると同時に、コリウスが、こちらはすっと目を覚ました。
身を起こして、彼が警戒ぎみに目を細める。
俺はちょっと顔を顰めて、コリウスに「大丈夫」と合図した。
ヘリアンサスは一面の霜を見詰めている。
食い入るように、息も憚ってその光景を見詰めている。
その様子ににっこり笑って、カルディオスが軽やかに言った。
「――霜だよ、アンス。昨日も見ただろ」
ヘリアンサスは、やはりカルディオスの方も振り返らなかったが、それでも俺に応じるよりはややはっきりとした声音で、無邪気に言った。
「こんなにきらきらしてなかった」
「ああ、うん、これは綺麗だ。――一面に霜が降りて、で、いい感じに朝日が射してる。もうちょっと日が昇ってあったかくなったら、すぐに溶けちゃうからな。いい時間に起きたよ、おまえ」
カルディオスが歌うように応じて、ヘリアンサスは小さく息を吐いた。
その息がきちんと白く流れていった。
「――霜」
ヘリアンサスが呟いて、息を吸い込む。
「さっきまで暗かったんだ。ちょっときらきらしてるものがあるな、とは思ってたんだけど。陽が射してきて、それで、急にこんなにきらきらして――」
もういちど息を吸い込み、ヘリアンサスが首を傾げた。
剥き出しのあこがれの滲む声音で、彼が言った。
「――光がないと目が見えないっていうのは、こんなに素敵なことだったんだな」
カルディオスは面喰らったようだった。
ヘリアンサスが、ようやく眼前の光景から視線を外して、きょとんとしたカルディオスを振り返り、微笑んだ。
その横顔が見えた。
「……冬もいいな。おれ、冬も好きになった。
冬の朝はいいな。氷が割れるみたいに、明るさと温かさが入ってくる」
カルディオスは翡翠の瞳を瞬かせた。
「うん。――でも寒いだろ」
「寒くないよ」
打てば響くようにそう応じて、ヘリアンサスは黄金の瞳でカルディオスを覗き込んだ。
彼が右手を伸ばしたので、カルディオスも釣られたように右手を出して、二人が軽く拳をぶつけ合った。
そして、どちらからともなく掌を開いて手を握り合う。
「今のおれは、確かに寒さも感じるけど。――おまえがいるから温かい。約束どおりだ」
「――――」
カルディオスは口籠った。
彼がヘリアンサスの手を離して、それから、遠慮がちに呟いた。
「……もっと北の方だと、川の表面が凍ったり、でかい氷が海を流れてたり――そういうのも、見せてやれたんだけど」
「面白そうだね」
ヘリアンサスは認めて、しかしすぐに言った。
「でも十分に綺麗だ。おまえが見る冬は綺麗だ。
冬は――」
空気の温度を確かめるようにちょっと顔を上向けて、ヘリアンサスは喜ばしげに呟いた。
「――冬は、宝石みたいに、硬くてつめたい」




