43◆ 因果応報
俺が凍り付いている間に、アリーがちょこちょこと俺の前までやって来て、そのままの勢いで、ぴょんっ、と俺に抱き着いてきた。
咄嗟に彼女を受け止めつつ、俺は背中が汗に冷えていくのを感じている。
「ルドベキアさんっ、久し振りね!」
彼女からすれば見知らぬ大人の中に立っているように見えるだろう俺に、物怖じせずに抱き着き、俺を見上げて満面の笑みを見せるアリー。
俺はその顔を見られず、しかも彼女の後ろから、元気よくトムとカイが駆け寄って来るものだから、いよいよこの場から消え去りたくなった。
「あ――ああ、久し振り」
辛うじてそう言って、俺はアリーの肩を掴んで自分から離した。
――みんなが、何事だろうという顔で俺を見ている。
その視線さえ耐え難かった。
――このとき、ようやく、俺はチャールズやみんなの気持ちを、痛いほどに理解した。
あのとき、リーティから島に帰ったあと、懲罰を受けて雲上船に戻った俺が、涙ながらにレイモンドに会いたいと言うのを聞いていた、あのときのみんながどんな気持ちだったか。
どれだけ胸が痛んだか。
彼ら自身の動揺と哀切を押し殺すのが、どれだけ苦痛を伴ったか。
何度も何度も俺がレイモンドの名前を呼ぶのを、どんな気持ちで聞き、宥め、精一杯の嘘を聞かせたか。
アリーの後ろから走って来たトムとカイが、立て続けに俺にぶつかるような勢いで突進して来た。
ルインが、ムンドゥスに危害が及ぶことを恐れた様子で、彼女の手を引いてそっと俺たちから距離を取ってくれている。
目端の効く自慢の弟だ。
俺は、突然の騒々しさにヘリアンサスが機嫌を損ねることを予期して彼を窺ったが、ヘリアンサスはむしろ、ただ困惑しているだけのようだった。
少しばかり足を引いて俺たちから距離を取り、黄金の目で何かを測るようにして、俺と子供たちを見比べている。
アリーたちがさっきまで一緒にいた子供たちが、何事だという風に騒いでこっちを見ている。
子供たちの中に立っている大人が、「急に走らないで!」と、アリーたちに向かって叫んだ。
「ルドベキアさんっ、なんでここにいるの!?」
トムが、きらきらした目で俺を見上げて訊いてきた。
どうやら後ろからの、叱責混じりの声は聞こえていないらしい。
いよいよ俺はその顔を見られなくて、目を逸らした。
「おまらこそ、なんで――、いや……俺は、ここの社長とちょっと……」
「社長さん、えらい人なんだよ。知らないの?」
無邪気にそう言うトムに、カイが「今思い出した」というような調子で、
「でも、ルドベキアさんもえらい人だった!」
と。
そのとき、コリウスがはっとした様子で、手を伸ばして俺の肩に触れた。
顔を上げた俺の表情を見て、そのまま、コリウスが俺の肩を押して、その場から離れさせようとしてくれる。
どうやら、この子たちと俺の接点がどこにあったのかを思い出したらしい。
アリーたちはアリーたちで、彼らも見たことがあるコリウスを見上げて、「あーっ!」と、無遠慮なまでにはしゃいだ声を上げている。
「かっかだ! かっか!」
トゥイーディアたちみんなが、軒並みぽかんとした様子でアリーたちを見下ろし、それから俺を見た。
俺は顔を背けた。
そんな俺の様子を、予期せぬ再会でぶち上がっていたのだろう気分越しにも察知したのか、アリーが目を見開いて、おずおずと俺の手に触れようとしてくる。
「……ルドベキアさん? どうしたの、おなか痛いの?」
「いや……」
俺は呟き、目を逸らしながらも、懸命になっていつも通りの声を出そうとした。
「――おまえら、こんなにうるさかったっけ。びっくりしただけだ」
「ひどーいっ!」
アリーがすかさずそう叫び、トムとカイがけらけらと笑う。
コリウスが、ぐい、と俺を引っ張った。
「――どーした?」
眉を顰めるカルディオスに、コリウスがちらっと子供たちを見下ろして、端的に告げた。
「――相手をしてやれ」
カルディオスが瞬きし、「別にいいけど」と呟いて、素早くアリーの前に膝を突いて、にこっと笑った。
まさに御伽噺の中にでも出てきそうな王子さまの仕草だ。
途端、かああっと頬を赤らめるアリー。
カルディオスは朗らかに言った。
「やあ。――ルドの知り合い? こんなに可愛い知り合いがいるなんて、聞いてないな」
アリーはもじもじした挙句、後ろにいたカイの背中に隠れた。
カイもトムも、ぽかんとした様子でカルディオスを見詰めている。
コリウスが俺を少し離れたところに引っ張って行き、それから気遣わしそうに顔を覗き込んできてくれた。
俺は両手で顔を拭った。
「――大丈夫か?」
俺は頷いた。
「大丈夫――大丈夫だ。悪い。いきなりでびっくりしただけだ」
俺とコリウスに付いて来ていた――あるいは、突然寄って来た子供から逃げてきたのかも知れないが――トゥイーディアとアナベルが、俺よりもコリウスに目を向けて、訝しそうにした。
「――どうしたの? あの子たち、だれ?」
俺が口籠る一方、コリウスが端的に応じた。
「ルドベキアの知り合いだ。以前、〈呪い荒原〉の傍まで行っていただろう――そのときの」
トゥイーディアがますます怪訝そうにするのが分かった。
俺は俯いていた。
「――〈呪い荒原〉の近くに住んでるはずの子が、どうしてここにいるの? きみたちが連れて来たわけじゃないでしょ?」
「詳しくは分からないが、」
と、コリウスが淡々と答えている。
「あのあと、ルドベキアがここの社長に――、」と言いつつ、コリウスは親指でダフレン貿易の社屋を示した、「浮民の救済のために、浮民の雇用を頼んだりもしていたからね。その関係じゃないかな」
トゥイーディアが瞬きして、俺を見た。
そして、素っ頓狂な声を上げた。
「きみ、そんなことしてたの?」
俺は顔を上げていた。
意思によらず、呪いゆえにそうしていた。
顔面は完全に喧嘩腰、口調も相当剣呑なものになった。
「あ? ――文句でもあんのか?」
「違うわよ、もう」
トゥイーディアがそう言って、ちょっと顔を顰めたあと、俺の顔を覗き込んできた。
言葉を選ぶような風情があった。
「――このあいだ、ここの社長にお世話になったって言ってたのは、もしかしてそのことなの?
ほんとにきみ、損なくらいに誠実ね」
「――――」
俺は咄嗟のことに言葉を失ったが、トゥイーディアはちょっと俺から身を引いた上で、迷うようにしながらも言葉を続けていた。
「きみのことだから、何のきっかけもなく、そういうことは頼まないと思うし――、もしかしたらそのきっかけのせいで、きみが何か気に病んでるのかも知れないけど、」
トゥイーディアは首を傾げた。
表情に迷ったように顔を顰めていたが、飴色の目は真剣だった。
「間接的にでも大勢を助ける頼み事をしたなら、きみ、もっと胸を張ってていいんじゃない?
ほんとに、自分がしてあげたことには無頓着な人ね、――ばかもの」
「――――」
俺はいっそう言葉を失くして瞬きを繰り返した。
トゥイーディアが俺の耳ではなくて頭の中に直接声を掛けたのではないかと思うほどに――鮮烈なほどに、その言葉に救われる気がしていたが、そのせいで余計に声が出なくなっていた。
そんな俺をちらっと見て、それからアリーたちの方を振り返り(アリーは今や、いつもの元気はどこへやったのか、カルディオス相手にはにかみ続けている。トムとカイは、すっかりディセントラに目が釘付けになっているようだ)、アナベルが真面目な口調で言った。
「……ルドベキア、すごいわね。あたしなら、一年近く前に会っただけの子供なんて、声を掛けられても絶対に気が付かないわ」
「おまえはもうちょっと人に関心を持て」
俺は思わずそう突っ込み、それを聞いたアナベルがこくりと頷いて、
「元気が出たみたいで、良かった」
と。
俺は複雑な顔で黙り込んだが、そんな俺の肘をそっと押して、コリウスが声をひそめた。
「――あまり気に病むな。知らせない方がいいことも、世の中にはある」
俺は息を引いた。
コリウスの濃紫の瞳を間近に見て、その中にある、恐らくずっと癒えるまい、彼自身の恋人のことを知ったときの傷を見た。
――俺は頷いた。
そうだ、あの事実は、俺たちは終生コリウスには隠し通すべきことだったのだ。
誠実さの有無ではなく――行為の正しさ如何に拠らず。
そうすれば、コリウスはこれほど傷付かなかったのに。
コリウスは小さく微笑んで、俺から一歩離れた。
それからアナベルを見て、いつも通りの淡々とした語調で告げる。
「――アナベル、作戦変更だ。カルディオスとディセントラが子供を引き付けている間に、僕たちが社長に会って来ようか」
「え、あたしも?」
途端にアナベルが嫌そうな顔をしたが、コリウスは肩を竦めた。
「別に、僕が一人で行っても構わないよ。ただ、あの子たちの無遠慮さからするに、おまえにも関心を向けないとは限らないけれど」
「分かった、行くわ」
即座に変説するアナベルに、俺とトゥイーディアはぽかん。
「ええっと、私たちは……」
トゥイーディアが呟くと、コリウスはにべもなく。
「おまえとルドベキアは、そもそも最初に社長に会いに行く人選には含まなかっただろう。この近くで待っていてくれ」
はあ、とトゥイーディアが頷く。
コリウスはアナベルを促して、実際にダフレン貿易の社屋の方へ向かってしまった。
門の前では、アリーたちが列から外れてしまったことに右往左往する一団がまだいて、その一団を越えて、コリウスが門衛さんに何かを告げている。
門衛さんが慌てて、コリウスとアナベルを門の中に招じ入れたのが見えた。
気を揉んだ様子でアリーたちの方を見ていた一団が、それを見ていっそうぽかんとしている。
「……行っちゃった……」
トゥイーディアが呟き、彼女自身は決して子供好きというわけではないので、どうしよう、と悩む眼差しでアリーたちの方を見た。
俺は息を吸い込む。
――ここで、勝手な罪悪感に浸って、アリーたちを困惑させたままでいることもあるまい。
俺は、トゥイーディアに向かって、ムンドゥスを庇うように少し離れた場所に立っているルインを顎で示して見せた。
「――おまえ、あっちに行っていれば?」
トゥイーディアは首を傾げた。
顔の横に垂らされている、蜂蜜色の髪が揺れた。
飴色の瞳が、懸念するように俺を見ていた。
「きみ、大丈夫?」
「うるせぇな」
と、俺は応じた。
トゥイーディアはしばらく、俺の真意を測るような目で俺を見ていたが、そのうちに諦めたように首を振って、実際にルインの方へ歩いていった。
穏やかに微笑んで、ムンドゥスの安全を確保してくれたことに礼を言っている様子だ。
俺はそれを見届けてから、もういちど息を吸い込んだ。
ちょっと頬の内側を噛んでから、俺はゆっくりと、天使のような二人に挟まれてそわそわしているアリーたちの傍に戻った。
「――あっ、ルドベキアさんっ」
目敏く気付いて、アリーが俺の方に飛び付いて来る。
今度は俺もちゃんとそれを受け止めて、膝を突いて、彼女と視線を合わせた。
カルディオスが、気遣うように俺に視線を向けてくれたので、俺は小さく頷いた。
それから、アリーに目を戻して苦笑する。
「おう。――おまえら、なんでここにいるんだ?」
「勉強をしてるのよ!」
誇らしげにアリーが応じてくれて、俺は眉を寄せる。
「ん? ここで?」
「そうだよ!」
と、今度はアリーの背中に飛び付くようにして寄って来たトム。
「なんかね、いっぱい人が来て、」
俺は首を傾げた。
「どこに?」
「住んでたとこ!」
「あの集落のこと言ってんの?」
「他にどこがあるのさ。――それで、僕たちは、ここの人たちのおかげで勉強できるよってことになって、汽車で、」
「汽車、すごかった!」
「ぽぉ――って、あんな音するのね! お母さんもびっくりしてたわ!」
三者三様めちゃくちゃに喋る三人を、どうどうと掌で抑えつつ、俺はいっそう首を傾げる。
「あれ? 待てよ、もう一人、おまえらと仲のいい子がいなかったっけ。――ジェーンだ」
彼女の名前を出すと、カイがあからさまに寂しそうな顔をした。
ちぇ、と舌打ちして地面を蹴って、むすっと膨れっ面をする。
「ジェーンは他のとこに行った」
「へえ?」
ちょっと目を瞠ってみせると、三人がまたわっとばかりに喋り出し、俺は目が回りそうになった。
そうだ、忘れていた、こいつら、曲がりなりにも救世主である俺の寝込みを襲って腹の上に飛び乗ってくるくらいには、遠慮がないんだった。
取り留めもない三人の話を纏めると、どうやらこういうことらしい。
――あれからしばらく経った頃、ダフレン貿易の人間がどやどやと〈呪い荒原〉の傍の集落を訪れた。
そして、希望する者にはダフレン貿易が資金を貸し付ける形で、教育の機会を与えると宣言。
借金は働けるようになってから、少々の利息をつけてダフレン貿易に返済する、というわけだ。
アリーたちはお祭りを見物するような気持ちでそれを見ていたが、あそこの領主の私軍にいた、ケイリー――シャロンさんがいなくなってから、積極的にこいつらの面倒を見てくれていた若い軍人だ。よく覚えている――から強く勧められて、アリーのお母さんも一緒に、ダフレン貿易からの話に乗ったという。
俺は思わず、「そりゃ、ケイリーにお礼を言いに行かないと」と口走り、アリーたちにきょとんとされて苦笑した。
――この子たちにはまだ、教育の価値が分かっていない。
アリーたちは、汽車でここまで連れて来られる間に、簡単な口頭試問のようなものを受け――聞くに、時間がなくて汽車の中で試問されたらしい。浮民の人たちでごった返した汽車内は、さぞ騒々しかったことだろう――、ダフレン貿易で勉強する組に割り振られた、とのこと。
聞いているとどうやら、地図の読み方や帳簿の付け方を習っているらしい。
そしてジェーンは別の組に割り振られ、俺も驚いたが、帝都ルフェアの商人組合で奉公することになったという。
どうやら口頭試問で、彼女が算術に秀でていると判断されたらしい。
カイはちょっと悔しそうに、「サイコロの目を数えるのが早かっただけだよ」と言っていたが、どうやらジェーンは、簡単な足し引きの計算が、実は結構上手かったようだ。
きっちり仕込めばものになると見込まれて、商人組合が手を挙げたのだろう。
ジェーンはダフレン貿易から借り入れた資金を以て、商人組合で衣食住を手配され、奉公するというわけ。
商人組合といえば、全ての商人を束ねて価格の相場を決め、市場を監督する役割もある大規模な組合だ。
そこで奉公するとなれば、決して楽ではないだろうが、頑張れば将来の大出世も見えてくる。
すげぇ。
アリーのお母さんは、この近くの紡績工場で働いているらしい。
少なくとも落ち着き先が見つかったようで、俺はほっとした。
俺がその話を聞き終える頃には、アリーたちが一向に動かないことに痺れを切らした人たち(つまり、ダフレン貿易でのアリーたちの教育係だ)が、憤然とこちらに来ていた。
そしてそれを笑顔のカルディオスとディセントラが出迎えて、「久し振りの再会だったようで」と取り成す。
顔を顰めた教育係の人たちに誰何されて、カルディオスは爽やか極まりなく、「俺たちですか? 救世主です」と言い放って、相手を絶句させていた。
だが、とはいえ、長くアリーたちを引き留めておくのも良くない。
恐らく彼女たちには、これから一日の予定がみっちり詰まっているはずで、俺の我侭でそれを狂わせるのは悪いだろう。
一頻り話を聞いたところで、よっこらせと俺が立ち上がると、アリーが俺の手を握って引っ張った。
「ルドベキアさん、一緒に行く?」
トムとカイが、「行こう行こう!」と大騒ぎし始める。
もう片方の手まで掴まれそうになって、俺は慌てて片手を肩の位置まで上げた。
「なんでだよ」
俺は笑ってしまった。
随分と自然に笑いが出てきて、自分でもほっとした。
「俺には別の用事があるの」
「ふうん……」
と、俺を矯めつ眇めつして、アリーが口を尖らせる。
「またすぐ会える?」
「どうだろうな」
俺は苦笑した。
「世の中って広いんだよ。ここでばったり会って、俺もびっくりしてるくらいだから」
アリーの顔が曇った。
顔の前に垂れた栗色の髪を噛んで、彼女がぼそっと呟いた。
「そうみたいね……。兵隊さんにもぜんぜん会えないの……」
「――――」
誓って、俺は表情を変えなかった。
だがそれでも、錆びた釘で心臓を刺されたような痛みを覚えた。
――俺は微笑んだ。
「シャロンさんだって忙しいんだから」
「たまには会いに来てくれたっていいと思うわ!」
憤然と足を踏み鳴らしてそう言うアリーに、俺は目を細めた。
「――そうだな」
呟いて、手を伸ばして、アリーの髪をくしゃっと撫でた。
「そうだな、会いに来てくれてもいいのにな」
そのとき、背後に足音を聞いて、俺は振り返った。
ヘリアンサスがそこに立っていた。
俺たちから少しの距離を置いていたものを、何を思ったか近寄ってきたらしい。
驚いたことに、お喋りなアリーたちが、ぴたりと押し黙ってヘリアンサスを見上げた。
少し怯えたようですらあった。
三人が、身を寄せ合うようにするのが分かった。
「――おまえ、子供は嫌いなの?」
俺が苦笑すると、ヘリアンサスは意外そうに目を瞠ってみせて、微笑んだ。
「おれが子供を嫌うなら、おまえ、自分がとっくに死んでたと思わない?」
俺は面喰らい、それから得心して頷いた。
――生まれたばかりの俺を助けたのはこいつだ。
「けどそれは、俺の母親が特別だからだろ?」
言い返してみると、ヘリアンサスはちょっと考え込むような間を取って、それから軽く肯った。
「そうだね。――特別っていうのは、ルシアナのことだから」
つんつん、と袖を引かれて、俺は目の前に視線を戻した。
トムが、怯えた様子で俺の袖を引いていた。
「ルドベキアさん、これ、だれ……」
ちらっ、とヘリアンサスを振り返り、俺は肩を竦めた。
「俺の兄ちゃんだよ。――そんなに怖がらなくて大丈夫だって。怒るとめちゃくちゃ怖いけど、今は怒ってないから」
俺がそう言うと、カイがちょっと身を乗り出すようにして、ヘリアンサスを窺った。
ヘリアンサスは透明な無表情でそれを観察していた。
いっそ、蟻の行列を眺める幼児のようでさえある眼差しだった。
「……似てない」
ぼそっ、と呟いたカイに、俺には苦笑い。
「まあ、親が違うからな」
疑問符を飛ばすカイたちを後目に、ヘリアンサスが俺を見て、目を細めた。
こいつに親はいないから、それを思って皮肉に感じたのかも知れない。
俺は肩を竦めておいた。
――アリーたちの気分がじゃっかん鎮まったことを見て取って、俺は顎で、カルディオスとすっかり雑談してしまっている、彼らの教育係を示した。
「――ってか、ほら、戻らないと駄目だろ」
むぅ、と膨れる三人組。
それを見たから、というわけでもないだろうが、トゥイーディアがルインから離れて、ゆっくりとこちらに向かって来た。
――あ、やばい。
俺がダフレン貿易の人の仕事を妨害しているなんて思われたら、トゥイーディアが俺を嫌ってしまうかも知れない。
そう思って俄かに焦った俺は、おざなりに手を振った。
「ほら、勉強するんだろ」
なおも膨れっ面で動かない三人組に、手を焼く気持ちで俺は顔を顰めた。
――その傍に、歩み寄ってきたトゥイーディアが、ふわっと膝を突いた。
まるで磁石の同じ極のように、ヘリアンサスがふいっとその場から離れたが、トゥイーディアはそれには一瞥もくれず、微笑んでアリーたちの顔を覗き込んだ。
「――ルドベキアの相手をしてくれてありがとう」
彼女がそう言った。
俺は思わず顔を顰めた。
アリーたちは、唐突に声を掛けられてきょとんとしている。
トゥイーディアは困ったように微笑した。
「でも、そろそろ行かなきゃ駄目よ。みんなお待ちかねだわ」
そう言ってトゥイーディアは、なおもダフレン貿易の社屋の前で待機させられている、他の子供たちを示した。
「あっ」と呟き、ばつが悪そうにする三人組に、トゥイーディアは殆ど切なそうでさえある笑みを向ける。
そして、小声で尋ねた。
「……ちゃんと食べられてる?」
早速、他の子供たちの方へ戻ろうとしていたアリーが、尋ねられて振り返った。
その背中にカイがぶつかって、「うわっ」と小声を上げて、鼻を押さえる。
アリーが首を傾げた。
彼女が利発そうに胸を張った。
「食べてるわ!」
トゥイーディアはいっそう微笑んだ。
俺の尊敬する、救世主としての慈愛がいっぱいに満ちた笑顔だった。
「ちゃんと眠れてる?」
「もちろんよ。そろそろ背が伸びると思うわ」
誇らしげにアリーが応じて、「ね?」と他の二人を得意げに振り返る。
俺は心からほっとした。
トゥイーディアは嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。
――ルドベキアが、あそこの社長さんにお話を通してくれて、きみたちをここに連れて来たのよ」
出し抜けに彼女がそう言ったので、俺は思わず、「おい?」と声を上げる。
――なんで、わざわざそんなことを。
アリーが俺を見上げた。
びっくりしたように目を丸くして、それからアリーがぱあっと笑った。
「そうだったの?」
跳ねた声でそう言って、アリーが俺に抱き着いてきた。
トムとカイも、きょとんとして俺を見上げて、ぽかんと口を開けている。
アリーがぴょんっと俺から離れて、栗色の髪を揺らして、満面に笑みを浮かべた。
「ほんとに救世主さまだったのねぇ。
――ありがとう、ルドベキアさんっ!」
「――――」
俺は間抜けにも、茫然としていた。
どう応じていいものか、このときばかりは分からなかった。
――俺がダフレン社長に浮民の救済を頼んだのは、ただただ自己満足のためだったのに。
それをどう言い訳したものか、俺がまごまごしているうちに、小さい子供らしい無頓着さで身を翻し、三人組がぱたぱたと集団の方へ戻って行く。
俺は半端に「あっ」と声を上げたが、それはどうやら三人には聞こえなかったらしい。
三人がいるべき場所に戻ったことに気付いたカルディオスとディセントラが、教育係さんをやんわりと促した。
教育係さんもはっとした様子で、「あらっ」と声を上げると、道を横断して集団の方へ戻って行く。
それを見送り、騎士服の裾を払って立ち上がったトゥイーディアが、ぼそっと呟く。
俺に向かって言ったのだと思うが、それにしては小さな声だった。
「――きみのそういう真面目なところ、良いとは思うけど損だとも思うわ。もっと自分に優しくすればいいのに」
「――――」
俺は何も言えなかった。
ただ、なんとなく、トゥイーディアが俺を元気づけようとしてくれたことは感じていた。
――トゥイーディアは何も言わず、いわんや恩着せがましいところなど欠片もなく、もう俺から離れようとしていたけれど。
蜂蜜色の髪を翻してディセントラに駆け寄って行くトゥイーディアを横目で見送って、俺は大きく息を吐いた。
――トゥイーディ、イーディ、ディア。
おまえはただ存在してくれているだけで、いつも俺の心を励ましてくれるのに、おまえはなお行いによってまで、俺を元気づけようとしてくれる。
それをどれだけ俺が眩しく感じ、おまえが何度俺を救ってきたのか、おまえは知らないだろうけれど。
コリウスとアナベルを、俺たちは運河の畔で待つことにした。
これは単純に、続々とダフレン貿易に人が入って行き、ただ突っ立っているだけの俺たちが悪目立ちしそうになったからだ。
運河には、無論、転落防止の柵が設けられているところもあるが、そういったものもなく、緩やかに傾斜する地面がそのまま、ひたひたと流れる運河に沈んでいっている箇所もある。
俺たちはそういった場所の一つで、のんびりとコリウスとアナベルを待つことにした。
ディセントラがそれでいいと言ったのだから、ちゃんと合流できると思っていいんだろう。
トゥイーディアとディセントラ、それからルインは、地面に座ってぼーっとしていた。
ムンドゥスは、疲れてしまったのか、ルインに寄り掛かってすやすやと眠っている。
俺としては、世界そのものが眠りに就くなどという異常事態、顔も強張る気持ちで見ていたわけだが、ヘリアンサスはそれをちらっと見て、「前もあの子が眠るのは見たことがある」と言っていた。
決して明るい顔ではなかったから、ムンドゥスはやはり、もう相当に末期の域に達しているようだった。
だが、少なくとも、最初の人生であの子を見たときは、顔貌の判別すらつかないほどに、全身が罅割れて欠けていた。
予後を年数に直して見積もることなど俺にはとても出来ないが、あのときに比べれば、まだ余裕はあるはずだ。
俺とカルディオスは、ヘリアンサスと並んで、その辺から拾い上げた平べったい石を河面に投げて暇潰ししていた。
俺たちが投げた石が河面を跳ねていくのを、ヘリアンサスが面白そうに眺めている。
そのうちにカルディオスに嗾けられて、ヘリアンサスも石を河面に投げたが、投げた石は一度も河面で跳ねることなく、ぼちゃん、と沈んでいった。
俺は唇を噛んで堪えたが、カルディオスは遠慮なく腹を抱えて笑った。
「アンス、相変わらずおまえ、不器用だなあ」
ヘリアンサスはむっとしたようだった。
別の石を足許から拾い上げて、それを掌の上で軽く弾ませて、むすっとした表情を見せている。
「教えただろ、平たい石じゃないと駄目だって」
にやにや笑いながら言われて、ヘリアンサスはますますむっとした様子だった。
そして、手に持った石を、ぽーん、と河面に向かって放り投げた。
投げ方が投げ方だし、そもそも丸い石だったので、まあその石も河底に沈んでいくことになるだろう、と思って、俺とカルディオスは、放物線を描く石を微笑ましく目で追った。
――が、河面に触れた石が、元気よく跳ねた。
ぱちくりと瞬きする俺とカルディオス。
跳ねた石はそのまま、ぽーん、ぽーん、と、軽快な動きで飛沫を散らし、運河を横切っていく。
途中、ゆっくりと動く外輪船にぶつかったにも関わらず、見事に針路変更までして見せて、躍る小石が俺たちの視界から消えていった。
恐らく――河幅が広いので視認できなかったわけだが――対岸にまで辿り着いたものと思われる。
しらっとした沈黙が流れて、一秒。
「――おい」
カルディオスが、横目でヘリアンサスを睨んだ。
「おまえ、ズルしただろ。魔法使っただろ。無粋だぞ」
ヘリアンサスは澄ました微笑を浮かべてみせる。
「なんのことだろう」
カルディオスは、彼もまた手に小石を握っていたわけだが、それをわざとらしく振り被って見せた。
「このやろうっ」
ヘリアンサスが両手を軽く上げ、罪のない風を装って、「心当たりがないな」と嘯く。
それにカルディオスが笑い出したところで、「あっ」とトゥイーディアが声を上げた。
俺たちは、揃ってトゥイーディアの方を見た。
座っていたトゥイーディアが膝立ちになって、背後を振り返って手を振っていた。
見ると、コリウスとアナベルが、足早にこちらに向かって来ている。
俺も手に持っていた小石を足許に落とし、手を払って、傾斜を昇るべく一歩踏み出した。
コリウスもアナベルも、平生変わらぬ無表情なので、社長との面会の約束を上手く取り付けられたものかどうか、すぐには分からない。
俺たちが各々、立ち上がったり傾斜を昇ったりして、いそいそと二人を出迎え、「どうだった?」と尋ねると、コリウスは軽く肩を竦めた。
「――社長はひどくお怒りで」
えっ、と、素で驚きの声を上げる俺たち。
マジかよ、曲がりなりにも俺たちは、社長に恩を売ったはずなのに。
アナベルが咳払いして、そっと肘でコリウスを押した。
コリウスは真顔のまま続けた。
「ディセントラを外で待たせることなど有り得ないと仰っている。早く行こうか、お待ちかねだ」
「そっちかよ」
カルディオスがぼそっと呟き、ディセントラは赤金色の髪を掻き上げて、「懐かれたものねぇ」と、他人事のように独り言ちた。
そして俺たちを見渡して、「全員で行くの?」と首を傾げる。
「――別に、ずらずら全員で会いに行かなくても、私と……そうねぇ、救世主代表でイーディが居れば、お話くらいは出来ると思うけれど」
代表――確かに。
魔王の首を落としたのはトゥイーディアだからね。
なるほど、他の奴とトゥイーディアでは、言葉の重みも違うというもの。
ディセントラの言葉からは、少しの間ではあれヘリアンサスと距離を置きたいという算段も、ありありと透けてみえる。
トゥイーディアが飴色の瞳を瞬かせ、口を開いた。
「私は――」
彼女が、ヘリアンサスを振り返った。
ヘリアンサスは――いつもの、あの訳知り顔の――微笑を浮かべて、トゥイーディアの視線を受け止めた。
トゥイーディアが、迷うように眉を寄せた。
「――おまえは……」
数秒、トゥイーディアは、逡巡で口籠っていた。
それから小さく息を吐くと、彼女は言った。
「――いいえ、みんなで行きましょう」
それが、トゥイーディアがこの町において――他よりも、〝えらいひとたち〟が現れる可能性の高いこの町において――ヘリアンサスと離れることを避けたがゆえの言葉だと分かった。
律儀な人だ。
仇であるヘリアンサスとの間のことであっても、交わした約束は遵守する人だ。
しかしそれでも、トゥイーディアが即答ではなく、数秒の逡巡を挟んでから応じた理由に考えを巡らせ、思い当たって、俺は短く息を引いた。
――世双珠の利用を、延いてはヘリアンサスの犠牲の産物の利用を、当然にヘリアンサスは忌避し、軽蔑し、恨んでいる。
ダフレン貿易は、まさに世双珠で栄えた会社だ。ヘリアンサスが快く思うはずもない。
俺が今の今までそれに思い当たらなかったのは、偏にヘリアンサスへの警戒が緩んでいたからこそだが、トゥイーディアは誰より正確に、ヘリアンサスの憤恨を見積もったようだった。
トゥイーディアが、飴色の瞳をヘリアンサスに向けた。
彼は完璧な、作り物の笑顔をにっこりと浮かべていた。
それを見て、トゥイーディアは断固とした声を出していた。
「――ヘリアンサス、分かってるから。絶対に何もしないで」
◆◆◆
ダフレン貿易は、相変わらず、忙しない活気に満ちていた。
この中のどこかに、勉強中のアリーたちもいるはずだったが、わざわざ顔を見に行くのも迷惑だろう。
トゥイーディアは、不自然なまでにぴったりとヘリアンサスの傍についている。
それがヘリアンサスへの警戒心ゆえのことだとは分かったが、俺の目から見れば、ヘリアンサスはまだ、普段通りの平静さを保っているように思われた。
社屋の中に通されて、忙しく立ち働いたり指示を出したりする人たちを、殆ど興味深そうでさえある目で見てはいたものの、特に暴力的な気配は今のところはなかった。
俺たちはすぐに応接室に通された。
以前にここを訪れたときには、ソファの大きさや数が足らずに、俺たちのうちの半分は立ちっ放しになっていたことが思い出されるが、今回はそうではなかった。
案内された応接室には、三人掛けの大きなソファが、お互いに斜めを向いて二つ置かれており、その後ろに背凭れの高い椅子が三脚、二つのソファの向かいに、また別の三人掛けのソファが置かれている格好に模様替えされていた。
その模様替えが慌てて行われたのは明らかで、応接室の毛足の長い絨毯には、ソファの脚の痕がくっきりと残っていて、その痕は今のソファの配置とはずれていた。
俺たちの来訪を聞いて、社長が――あるいは社長の側近のファーストンさんかも知れないが――応接室の急遽の模様替えを指示してくれたようだった。
三脚目のソファも三脚の椅子も、他所の部屋から運ばれてきたものに違いない。
応接室に通され、みんなの視線に促されたディセントラが、対面に座るだろう社長の正面といえる位置に腰掛け、その両隣にカルディオスとコリウスが座った。
俺は後ろに居る気満々だったが、コリウスに顎で合図されて、渋々ながら前に出た。
カルディオスたちが座るソファと、斜めに寄せ合うようにして置かれているソファの方だ。
アナベルが窺うようにトゥイーディアを見て、トゥイーディアが断固として首を振ったことから察して、ルインの手を取って俺の隣に来てくれた。
ルインは、「え、僕?」みたいな顔をしていたので、軽く拝んでおく。
――ヘリアンサスを前に出すわけにはいかず、延いてはトゥイーディアが前に出るわけにもいかないのだ。
そしてムンドゥスについては、言うに及ばず。
俺たちが落ち着いてほんの数分で、緊張で蒼褪めた若い女の子が、ぎこちなくワゴンを押しながら部屋に入ってきて、少しばかり震えながらお茶の支度をしてくれた。
彼女がお茶を零すんじゃないかと思って俺ははらはらしたが、幸いにも恙なくお茶の配膳を終え、傍目にもほっとした顔を見せて、女の子はワゴンを押して静かに部屋を出て行った。
それを見守り、思わず俺たちもほっと息を吐く。
ヘリアンサスがまじまじと陶磁の茶器を覗き込んでいるので、俺は、彼が唐突にその茶器をどこかに投げ付けるのではないかと思ってひやりとしたが、ヘリアンサスは動かなかった。
そして更に数分後、威勢よく扉が開いた。
足音も高らかに、ダフレン貿易を一代で築き上げた稀代の経営者、アルフレッド・ダフレン氏が、応接室に足を踏み入れてきた。
その後ろに、ひょろりとした痩身の、社長の右腕であるファーストン氏が付き従っている。
俺たちは礼儀正しく立ち上がって彼らを出迎えたが、ヘリアンサスもムンドゥスも、椅子の上から動かなかった。
それは織り込み済みなので、すぐにディセントラが笑顔になって、社長に握手を求めて一歩前に出る。
「――ご無沙汰しております、社長」
ダフレン社長は、それこそ笑み崩れんばかりの歓迎の表情。
相変わらず、年齢の割にふさふさと蓄えられた黒い髪にたっぷりした髭。
鋭い眼光を笑みの奥に押し込めて、ディセントラに両手を差し出し、大事そうに彼女の手を握って、控えめに上下に振った。
「お久しゅう! これはこれは、お久しゅう!
こちらから挨拶に参らねばならぬところを、とんだ失礼を申し上げた。お待たせしてしまって、申し訳もない」
そう言って、ローテーブルを挟んだ対面のソファの前に回り込みつつ、ダフレン社長が、「どうぞどうぞ、お掛けくだされ」と手で促してくれた。
それに従って腰を下ろしつつ、ディセントラも輝くばかりの笑顔。
「お元気そうで何よりです。こちらこそ、こんな格好で失礼いたしました。どうしてもお会いしたかったもので」
お元気そうで、とディセントラは言ったが、実際、ダフレン社長は、少なくとも俺が最後に会ったときと同じ程度には、元気そうに見えた。
カルディオスがぼそっと、「身内から盗人を出してへこんでたんじゃねーのかよ」と呟いており、ディセントラが笑顔のまま、そっと彼の足を蹴っていた。
幸いにも、カルディオスの失礼極まりない台詞は、社長の耳には入らなかったらしい。
社長はディセントラから視線を外して、コリウスと俺を見て、これも大きく笑みを浮かべた。
「コリウスどの、ルドベキアどのも、お久しゅう」
コリウスが真顔のまま会釈した。
俺は精一杯の笑顔。
軽く頭を下げて、口を開く。
「お久し振りです。――先般は俺の不躾な頼みを聞いてくださって、ありがとうございました」
「なにを仰いますやら!」
豪快な笑い声を響かせる社長。
その影で、ファーストン氏が控えめに微笑んでいる。
「――当社の新たな事業ですから……良い契機でした」
「それは良かった」
と、俺は本音で呟いた。
ダフレン社長は笑顔で俺たちを見渡し、そしてまずはルインを、それからヘリアンサスを見て、少しばかり訝しげに眉を寄せてみせた。
「……初めてお目に掛かる方もいらっしゃるようで」
ルインが頭を下げた。
彼を示して、俺が言った。
「彼は俺の弟です――」
「おお、ルドベキアどのの!」
社長が大喜びで声を大きくし、ルインは控えめな愛想笑いを浮かべる。
失礼でもないし、印象に残るほどでもない、そういうぎりぎりのところの笑顔だ。
俺は弟の優秀さにまたも満足した。
社長の視線がヘリアンサスに翻る。
その瞬間、トゥイーディアが素早く言っていた。
「私の婚約者です、社長」
さしものディセントラの笑顔も凍った。
カルディオスとアナベルに至っては、勢いよくトゥイーディアを振り返っていた。
俺もちらりと彼女を振り返り、トゥイーディアの、精巧に作られた飴細工のような笑顔を見た。
ヘリアンサスがトゥイーディアを一瞥して、あからさまな冷笑を唇の端に浮かべている。
ダフレン社長が瞬きした。
彼の黒い目が、すうっと動いてヘリアンサスを見た。
「トゥイーディアどのの――リリタリスどのの……」
トゥイーディアが笑顔の裏で緊張しているのが、俺には分かった。
物柔らかに微笑んでいるように見えて、彼女が唇を噛んでいるのが分かっていた。
社長が唐突に立ち上がったので、トゥイーディアの笑顔が揺らいだ。
だがすぐに、社長が頭を下げたことで、ふっとその警戒が消えた。
――社長が静かな口調で言っていた。
「――お父上のことをお聞きしました。お悔やみを」
トゥイーディアも立ち上がって、頭を下げた。
そしてそのとき、この社屋に入ってから初めて、ヘリアンサスが遠慮がちに目を伏せた。
「恐縮です、社長」
トゥイーディアと社長が腰を下ろしたタイミングで、控えめにディセントラが咳払いした。
社長の視線が、すうっとディセントラに移る。
そしてこのとき、社長の黒い両目から、初めて歓迎の色合いが薄れた。
――相手に探りを入れる、商人としての眼差しが顔を出した。
「――先日は、お手紙を頂戴いたしましたが」
社長がそう言って、ディセントラをまじまじと見据えた。
とはいえディセントラは、たかが六十数年しか生きていない人間に、腹の底を見せるような女ではない。
彼女がにっこりと微笑んだ。
「ええ、不躾なお手紙を差し上げてしまって、大変失礼いたしました」
俺は、ディセントラが認めた書簡の中身を知らないので、ただ澄まして座っていた。
社長はぎゅっと目を細めた。
針の穴の向こうを凝視しているような顔つきだった。
「重要な――当社にとっては悪い報せをお持ちになる、とのことでしたな」
「申し上げ難いのですが、その通りです」
ディセントラが肯って、ちら、とコリウスを見た。
コリウスが彼女と視線を合わせて、頷いた。
ディセントラが社長に目を戻し、首を傾げる。
「――社長、この近くに、聞き耳を立てている不届き者はおりませんね?」
ダフレン社長の鼻の穴が膨らんだ。
ふうっと息を吸い込んで、彼が襟を寛げる。
「無論。――あの一件よりこちら、わしとて何も学ばなかったわけではござらん」
「結構」
短く言って、ディセントラがすっと息を吸った。
さしもの彼女も、ここまで相手に衝撃を与える言葉を、直截に口に出した経験は滅多にあるまい。
少し悩んだように一瞬息を止めて、それからディセントラは、背筋を正し、僅かに体重を前に掛けるようにして、真っ直ぐに社長の目の奥を見据えた。
薔薇色の瞳が、透き通るほどの誠実さで目の前の相手を見詰めている。
「――前置きは幾らでも長く出来ますが、どうお伝えしようと変わりますまい、単刀直入に申し上げます――」
ディセントラが、もういちど息を吸った。
柔らかい象牙のような頬が緊張しているのが俺から見ても分かった。
「――わたくしどもが社長の力を必要とすることがあれば、可能な限りで力になって下さると、そう仰いましたね? そのお心があったからこそ、こうして参りました。
――社長、……直に――この冬にでも――、世双珠が絶えます。世双珠の産出が止まると申しているのではございません。
――世双珠が消滅します」
ファーストン氏が瞬きした。
老いてしょぼついた瞼が、妙にゆっくり上下した。
彼が子供のような仕草で首を傾げた。
ダフレン社長は身動ぎもしなかった。
真っ黒な目は瞬きも挟まなかった。
一瞬、本当に一瞬、彼が言葉の意味を取りかねたのがよく分かった。
それから一秒、すうっと大きく息を吸って、社長の唇が苦笑に綻ぶ。
「……遠路はるばるお越しいただき、冗談までお聞かせ願えるとは。
このダフレン、救世主さまに斯様なまでに気に入っていただいていたとは」
「社長」
ディセントラが静かに呼んだ。
カルディオスが僅かに身構えていた。
どうやら、事態を悟った社長が暴れ出すことを警戒しているようだった。
――そして、その警戒は、あながち無駄でもない。
俺も、いつでも立ち上がることが出来るよう、座りながらも足に体重を掛けていた。
アナベルも同じく、彼女はすぐに立ち上がって、ムンドゥスを庇いに動けるように身構えている。
社長が口を噤み、ディセントラを真っ直ぐに見た。
首筋から連動するように、彼の顔が強張った。
瞼が痙攣した。
「……何と仰った。世双珠が――なんと?」
「消滅する、と申し上げました」
ディセントラが端然と言って、背筋を伸ばした。
「無くなります。御社の手にも渡らなくなります。
今、こうして、生活の基盤として使われているものが、全て失せます」
念を押すようにディセントラが言葉を重ね、そして言葉を重ねられるごとに、ダフレン社長の顔色がどす黒くなっていった。
彼の目が、一瞬、瞼の奥で引っ繰り返ったようにも見えた。
社長が息を吸い込み、懸命に自分を抑え込んだのが分かった。
「……ディセントラどの、お人が悪い。冗談でしょう――冗談に決まっとる」
ディセントラは目を逸らさなかった。
瞬きもせずに社長を見据えて、彼女が言い切った。
「――洒落や冗談であなたの心を害すようなものが、救世主を名乗ると思われますか」
「――冗談と、」
喉が破裂したような声で、社長が喚いた――いや、というよりも、喚こうとしたその数秒前に、声が喉を突破したようだった。
怒鳴るというには声量がなく、しかし勢いは十分にあった。
――俺の胸が、殆ど刺されたように痛んだ。
「冗談と言ってくだされと、このわしが頭を下げれば満足なさるか!」
「あなたが頭を下げようが、」
小動もせず、ディセントラが静かに言った。
いっそ呟くような声だったがよく透った。
「事実は変わりません」
ダフレン社長が息を吸い込んだ。
彼の身体が、呑み込んだ息で一回り大きくなったようにさえ感じた。
世双珠の所以を知らず、そしてその世双珠のために数多の従業者の生活を支えている経営者の反応としては、それでも十分以上に理性的だった。
ここで目の前にいるディセントラの首を絞めようとしても不思議はない、それほどの衝撃のはずなのだ。
社長の顔色が、一気に灰色に近いものになっている。
その社長の隣でぱちくりと瞬きをして、ファーストン氏が小声を発した。
「……失礼」
きょろきょろと俺たちを見渡し、ファーストン氏がぱちぱちと瞬きを速くする。
「失礼――今、なんと。なんと仰いましたか」
ディセントラが、ファーストン氏に視線を移した。
遥かに年下である相手を慮って、得も言われぬほどの憐憫を湛えた薔薇色の瞳が彼を映した。
その目を直視して、ファーストン氏の顔から音を立てて血の気が引き始めた。
どっと彼が冷や汗を掻き始めたのが、目で見てすら分かった。
「どういうことなのでしょう? まさか――そんな――ねぇ?」
同意を求めるように、ファーストン氏が隣の社長を見上げる。
ソファに腰掛けていてなお、彼の膝が笑っている。
額の汗を拭おうとして持ち上げられた手も、痙攣するように震えていた。
「……そうなると、我々は――どうすれば良いのか……ねぇ?」
社長の顔が、一気に真っ赤になった。
もしかしたら、ファーストン氏の反応こそが、社長にディセントラの言葉を呑み込ませたのかも知れない。
「何の――何のつもりでそのようなことを――!」
殆ど無意識にだろうが、彼の拳がローテーブルを叩いた。
かしゃん、と、ローテーブルの上の茶器が跳ねて、あえかな音を立てた。
中身が残っていたカップから紅茶が零れて、ソーサーに赤みを帯びた褐色の液体が跳ねる。
「うちの従業者どもが路頭に迷うことになる!
それを分かって言っておいでか!!」
目の前で怒鳴られても、ディセントラは瞬きもしなかった。
コリウスが少し顔を顰めて、息を吐いた。
「我々が何を言おうが、あなたがどう叫ぼうが、」
コリウスがやや辛辣な声で言った。
「何も変わりません、社長――」
「救世主だというのに!」
社長が吠えた。
その声の大きさに、俺は壁に掛けられた絵画が傾くのではないかと思った。
「救世主だというのに、どうしてここにおいでになる!
もし仰ることが本当であるならば、その事態を止めることこそ、救世主のお役目でありましょうに!!」
「救世主の役割を決めるのはあなたではありませんよ」
ディセントラが、初めて少し微笑を浮かべてそう言った。
彼女が小さく首を傾げた。
薔薇色の瞳が冴え冴えと相手を見詰めて、冷笑に近い表情で唇が歪む。
「あなたがわたくしどもに礼を尽くしてくださった。だからこそわたくしどもはここへ参り、他に先んじて、あなたに警告申し上げた。
――社長、あなたが為さるべきは、ここでわたくしどもに責を擦り付けて叫ぶことではなく、あなたの大切な従業者の皆さまを守るために何が出来るか、一秒でも早くお考えになることでしょう」
「ここで起たずに何が救世か!!」
社長が衝動的に叫んだ。
「うちの者だけではない――我が社だけではない――全世界だ! どうなると思われておいでか!
明日から世双珠が失せますと――そう言われて誰が頷くと思うてか!」
もういちど、社長の拳がローテーブルを叩いた。
鈍い音がして、ティーカップの位置が僅かにずれる。
俺は耳鳴りがし始めるのを感じていた。
――俺がダフレン社長に、世双珠の消滅について警告したいと言った。
だが、実際に目の前で喚く社長を見るのは、その行動の裏にある感情を察するのは、想像以上に胸が塞いだ。
社長の声は、もはや震えて罅割れていた。
「筋が違う――あなた方が間違っとる!!」
――そのとき、全く無意識に、俺はヘリアンサスを振り返っていた。
項の毛が逆立つような、そんな厭な予感がしたがために。
――ヘリアンサスが立ち上がっていた。
冴えた黄金の双眸で、真っ直ぐにダフレン社長を――彼への迫害の象徴で富を得た一人の人間を見据えて、音も無くその場に立っていた。
彼は微笑んでいるように見えた。
だが俺には自信がなかった。
その表情を笑みと呼んでいいものかどうか、俺には分からなかったのだ。
そして、ヘリアンサスが――まるで罪人の生殺与奪の権利を握る判事が、罪の決定を待つ人間を指差すような手付きで、無造作に――どことなく優雅な身振りで、真っ直ぐにダフレン社長を指差し、
「――間違っている?」
そのとき唐突に、トゥイーディアが、まるで気の利いた冗談を聞いたかのように声を上げ、ヘリアンサスの視線がそちらへ移った。
黄金の瞳が、不意を打たれたように瞬いた。
俺もトゥイーディアを見た。
俺だけではなくて、その部屋にいた全員が。
「間違っている?」
トゥイーディアは笑っていた。
彼女が浮かべることは殆どない、皮肉に満ちた笑顔だった。
彼女が立ち上がった。
まるで、ヘリアンサスを庇ってその前に出たようですらあった。
「社長――お言葉にはどうぞお気を付けて。
何が間違っていて何が正しいか、失礼ながらあなたは一切ご存知でない」
言い切り、彼女に視線を向けたダフレン社長には、反駁のための一言も許さず、笑いを堪えるような口調で――ただし苛烈なまでの眼差しで彼を見据えて、トゥイーディアが続ける。
いっそ弾劾するような語調でさえあった。
「世双珠は、あなたにとって極めて幸いであることに、あなたのものではない」
ディセントラが、ほんの一瞬、トゥイーディアを制止するかどうか悩んだようだった。
だがトゥイーディアは、端からディセントラを見てはいなかった。
彼女の飴色の瞳は、激烈なまでの真っ直ぐさで、ダフレン社長を睨み据えていた。
――なぜ、そうまで彼女が激したのか、俺にもそれは分からなかった。
「何か勘違いなさっているようですね。
私どもは決して、あなたの許しを得るために参ったのでも、あなたに謝罪するために参ったのでも、いわんやあなたに尻を叩いてもらいに参ったのでもない。
――あなたが、」
息を吸い込み、トゥイーディアが口調をごく僅かに穏やかにする。
瞬きして、瞳の色も少し和らいだ。
「――私たちのうち一人の頼みを聞いてくださったことがある、その恩に免じて、こうして、他より早くあなたにこの事態を知らせに参ったのです」
トゥイーディアが首を傾げて、皮肉っぽく微笑んだ。
「先程からディセントラが申しているように、コリウスも申しましたように、あなたがここで何を喚こうが、この未来は変わりません。私どもがあなたのために動くことはない。
今のうちに、社長、打てる手を打つことを強くお勧めいたします。
――何しろこの会社を築かれた商人であらせられる。社長には、私どもには見えない商機も見えておりましょう」
トゥイーディアの飴色の瞳が、す、と俺を見た。
彼女が小さく微笑んで、社長に目を戻した。
「幸いにも、御社には、他にも事業の当てがあると聞き及んでおります」
ダフレン社長が息を吸い込んだ。
目が回った様子で、彼が片手で顔を覆った。
「……浮民どもへの金貸しか。――お嬢さん、ご存知ないようならばお教えしよう、その商売には元手が要る」
「あるだろ」
カルディオスが素早く言った。
「社長、蓄えはあるはずだ。
――それに、あんたも分かるだろ。世双珠が消えるとなりゃ、大量に失業者が出る。失業者に別の職を充てるために、あんたの会社がやってることは、これから国が金を出してでもすべきことだ。上手くすればあんたの事業のために国庫が開く。
それを利用できない商人なら、こうまで会社をでかくしてないだろ」
俺は思わず、まじまじとカルディオスを眺めてしまった。
――俺の知る限り、カルディオスは、ダフレン貿易が始めた新しい事業について、詳しくは知らなかったはずだ。
とはいえあの事業については新聞に載ったから、カルディオスもそれを見ていたのか――あるいは先刻の、アリーたちの拙いにも程がある話を小耳に挟んで、それから事業の全体像を把握したのか。
商人の家に生まれたことも多かっただけあって、いちばんダフレン社長に近い視点で物事を見ているのは、案外カルディオスなのかも知れない。
社長もまた、顔を上げてしげしげとカルディオスを眺め、茫然としている。
そんな社長をしばらく見詰めてから、トゥイーディアが無言で俺たちに合図した。
――「もう行こう」という意味だ。
確かに、言うだけのことは言った。
長居すれば、逆に社長に淡い望みを抱かせてしまうことになりかねない。
それに――これ以上ここにいれば、さすがにヘリアンサスが暴挙に出ない保証はない。
トゥイーディアの合図を受け取って、ディセントラが素早く立ち上がった。
「社長、わたくしから申し上げたかったことはこれだけです。
――こんな形であのお言葉に報いることになってしまって、申し訳ないこととは存じております」
コリウスも、カルディオスも立ち上がった。
アナベルも席を立って、トゥイーディアがヘリアンサスを促して部屋を出ようとしているのを見守っている。
俺は息を吸い込んだ。
打ち拉がれたように見える社長が気の毒で、申し訳なくてならなかった。
――俺が最初の人生でお役目を全うしていれば、こうしてこの人を打ち萎れさせることにもならなかったものを。
「――社長」
呟くように俺が呼んで、社長が俺を見た。
彼の両目が充血しているのを見て、俺はいっそう胸が塞いだ。
応接室の入口に、もうみんなが立っている。
俺を見て、急かすように視線を注いでいるのが背中で分かる。
俺の隣のルインも、心配そうに俺を見ていた。
「――本当に申し訳ない――俺の頼みを聞いてくださったあなたに、こんな報せを持って来てしまった」
社長が瞬きした。
彼は一気に十ほども歳を重ねたように見えた。
「心から申し訳ないと思ってる。俺じゃ力になれることも限られるけど、あなたは俺に良くしてくれた。何かあったら言ってくれ」
息を吸い込んで、俺は頭を下げた。
「せめてあなたには先に伝えたかった。――申し訳ない」
そう言って、俺も立ち上がった。
それを追うように視線を上げた社長が、俺の言葉の中から何かを拾い上げてくれたのか、少し目を細めて、それから億劫そうに立ち上がった。
ファーストン氏はソファの上で茫然としている。
社長が深々と溜息を吐いた。
両手で顔を拭って、彼が俺を見た。
そして、疲れた様子で呟いた。
「――これが誠意……ということでしょうな?」
俺は頷いた。
俺が生み出した災厄から浮民を守ろうとしてくれた人を前にして、心臓が誰かに握られたように痛んだ。
息を吐いて、俺は短く応じた。
「――そうです」
◆◆◆
時刻はまだ午前だった。
ダフレン貿易の社屋を出た俺たちは、誰からともなく深く溜息を吐く。
俺は片手で顔を拭って、主にディセントラに向かって、声を出した。
「――悪かった。俺から言い出したのに、殆ど喋ってもらって」
ディセントラが、「構わない」というように手を振って、小さく息を吸った。
「大丈夫よ、もともと期待してないわ」
コリウスとカルディオスが軽く笑ったが、俺は笑い損ねた。
むすっと顔を顰める俺を見て、ムンドゥスの手を引くルインがおろおろしている。
トゥイーディアがちらっと俺を見て、遠慮がちにちょこちょこ傍まで寄って来たと思うと、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「――きみ、あんまり思い詰めないでね。
少なくともこの会社、」
この会社、と言いつつ、彼女は俺たちの後ろに遠ざかっていくダフレン貿易の社屋を示した。
「きみのお蔭もあって生き延びるんじゃないかしら。
きみが新しい事業を持ち掛けたんでしょ?」
歩きながら、こと、と首を傾げるトゥイーディア。
俺は、本音を言うならば、俺の心を慮ってそんなことを言ってくれるトゥイーディアの手を握って、お礼の三つや四つは言いたかったのだが、実際のところは無愛想極まりなく彼女から顔を逸らせ、わざと歩調を遅らせてトゥイーディアから距離を置いていた。
トゥイーディアがしゅんとしてしまったので、俺の胸がまた痛んだ。
カルディオスが俺を見て、がくっと項垂れたあと、諦めたようにヘリアンサスの横に並んで、「何もしなかったな、偉いぞ」と、彼の忍耐を犒い始めた。
ヘリアンサスは曖昧に肩を竦めている。
犒いを受けている意味が、いまいちよく分かっていないようだった。
俺たちは社屋から遠ざかり、運河沿いの大通りに出た。
街路樹が点々と並ぶ広い道は、片側を運河に、もう片側を印刷会社や金貸しが棟を並べる場所に面し、この時間には殆ど人通りが少ない。
通る人間は、いかにも職人といった様子の汚れた作業着の人だったり、あるいはこれ見よがしに良い服を身に着けた成金だったりする。
一本隣の道には人通りが多いのか、空気の底がざわめくように、雑踏の気配が漂ってはいた。
運河をゆっくりと航行する蒸気船の汽笛の音が響いて、その汽笛に驚いた鳥の鳴き声がする。
大通りに出た理由は、馬車を捉まえるためだ。
とはいえ、すぐに乗合馬車を拾って駅に向かうかは考えものだった。
何しろ、実際に諸島に向かって母石を壊しに掛かるのは、冬を迎えてからなのだ。
つまり、急いでこの町を出る必要は――表面上は――ないわけで。
「――まあ、諸島まで行く船を探す必要があるから、そうのんびりはしていられないが……」
と、コリウス。
ちらっと俺を見て、銀髪を揺らして首を傾げている。
「――船乗りの知り合いがいたな?」
「…………?」
一瞬ぽかんとして、それから俺は思わず咽た。
魔界から脱出するときに密航して以来、妙に縁があったキャプテン・アーロ――もといアーロ商会の船のことだろうが、
「いやいやいや――俺が魔王だってバレてたらどうすんだよ」
声を抑えて力説する。
何しろあいつらからしてみれば、俺はどことも知れない場所から密航していた男だ。
漆黒の髪ということも覚えていれば、件の魔王の噂を聞いて、なるほどあいつかと腑に落ちていてもおかしくない。
俺の至極真っ当なはずの指摘に、コリウスは肩を竦めてみせた。
そして、あっさりと話題を元に戻す。
「ブロンデルで何日か泊まってもいいが――」
言い差す彼に、「それはちょっと」とトゥイーディア。
「出来ればここは早く出たいかな」
遠慮がちにそう言って顔を顰めるトゥイーディアに、その言葉の裏を正しく受け取って、コリウスが頷いた。
俺も内心で安堵した。
「なら――」
コリウスが言い差したそのとき、ぴた、とヘリアンサスが足を止めた。
カルディオスが釣られて足を止め、眉を寄せて振り返る。
「――アンス?」
ヘリアンサスは動かない。
唐突に、彼が陶器の人形に変じてしまったようだった――表情もなく、声もなく、ただヘリアンサスがその場所に突っ立っている。
風が吹いて、ヘリアンサスの新雪の色の髪が揺れて、陽光を弾いた。
街路樹の、すっかり色づいた葉がざわめいた。
その風に背中を押されたように、唐突に、トゥイーディアが短い距離を走って、ヘリアンサスの前に立った。
彼女が自分の首許を指先で辿り、そこに掛かる象牙色の鎖を引く――
俺は瞬きした。
昼前の陽光が妙に目を刺した。
トゥイーディアが睨むように眼差しを注ぐ場所に、殆ど反射的に、俺も視線を翻した。
「――――」
――ちょうど街路樹の影になっている場所だった。
燦々と降る秋の陽光が遮られ、木漏れ日が煌めく地面の上に、
「――――」
たなびくように淡く揺蕩う、薄墨色の陽炎が漂っていた。
「――っ」
急に息が出来なくなった。
視界がぐんにゃりと曲がって見えて、俺は瞬きしようとして、しかしその瞼さえもが唐突に凍り付いたように動かない。
陽光から、突然、温かみという温かみが失せたようだった。
カルディオスが俺の手首を掴んで、ぐい、と、俺を後ろに押し遣る。
――その動作ですら、俺にとっては恐怖だった。
カルディオスが怖いのではなくて――カルディオスのその動作が気に障るのではないかと――
「――――」
トゥイーディアの手の中で、象牙色の首飾りが、瞬時に象牙色の長剣に変化した。
陽光を弾いて小さな光輪を作る長剣が、敷石の上に影を作った。
「――――」
陽炎がふわふわと閃き、あえかな炎のような形をとる。
そして刹那、火勢を増したその異形の炎が、直後に一点に固定されかのようになってふわりと風を孕み――
「――――」
俺の息が詰まった。
耳が聞こえなくなった。
手足が一気に冷えたのが分かった――血の気が引いた。
たなびく異形の炎が膨らみ、その中からぎょろりと濁った金の眼が開いて、
「――――」
もう人ではなくなった、しかし人とそう変わらぬ造形を持つ薄墨色の、
「――――」
古老長さまがそこに立っていた。




