41◆ 世界と人と
カルディオスとヘリアンサスが連れ立って――というか、ヘリアンサスがカルディオスを連れて――、ファレノンの領地まで赴いて、印璽を回収して戻って来て、皇帝宛ての書簡をカルディオスが認めた。
ファレノンの領地までの行き来は、コリウスでさえ驚いたほどに僅かな間のことだったし、格式ばった書簡の書き方も、カルディオスにとっては慣れたものである。
欠伸しながら達筆な文字を書状に並べ、カルディオスはそれを飛脚に託した。
飛脚にはコリウスが大量の心づけを渡すことで、大いにやる気を喚起させていた。
俺とアナベルとトゥイーディアは、その金遣いの荒さに若干引いていたものの。
ディセントラはディセントラで、コリウスが買ってきた(俺も同行して買いに行ったが、「おまえには美的感覚がない」と言われて従者の如くに控えているだけになった)便箋に散々文句をつけつつ、ダフレン貿易宛ての書簡を認めた。
これも飛脚に託されたが、ディセントラはこっちには心づけを渡さなかった。
カルディオスは皇帝宛ての書簡の上で、特に返答などは求めず、「これから数日のうちに救世主として伺うのでよろしく」というようなことを、美辞麗句に包んで書き送ったらしい。
飛脚が出発してから三日、俺たちは高級宿で骨休めをし、あるいは港町を散策し、好き放題に過ごした。
ディセントラに至っては、演劇鑑賞までやったらしい。
「ちゃんとした劇場じゃなくて、天幕だったけど」とは本人の言だが、さすがに落ち着き過ぎだろう。
そしてそののちに、俺たちはムンドゥスを連れて、帝都ルフェア方面の汽車に乗った。
北に向かって走る汽車は山間を通り、豊かに白く流れ落ちる滝を望む渓谷の際に引かれた軌道の上を、俺が内心で汽車が崖から落ちるんじゃないかと思っているのを他所に、がたごとと平和に走り抜けた。
コリウスが言っていたように、山間には小さな町があり――山間の、自然の悪戯かそれとも人が長い年月を掛けて切り崩して均したものか、平らかに拓かれた広い土地に、様々な大きさの建物が並んでいた――、町の周りには、山羊の囲いが点在している。
町の傍を通っている間、俺はなんとなく、窓越しにその町を眺めていた。
石畳の通りを子供が元気そうに跳ね回っているのが見え、なんだか平和そうでいいところだな、と思った。
その町を通り過ぎ、汽車は更に渓谷を切り拓いて進み、領都に到着した。
ここが目的地だった人が多く、汽車の中は駅が見えた辺りから、手荷物を揃えて纏め直す、ごそごそとした雑音に包まれた。
コリウスは心底から知り合いに遭遇するのを警戒している顔つきだったが、俺たちもここで汽車を降りた。
この汽車はルフェアへは向かわず、ここで汽車を乗り換える必要があるらしい。
駅は広大な赤煉瓦の造りで、初見であれば俺たちは迷いに迷っていたことだろうが、コリウスが問題なく俺たちを案内してくれた。
汽車から下ろされると同時に目を開けたムンドゥスの手を引くのはルインだったが、ルインもいっぱいに目を見開いて周囲を見渡している。
駅は大雑把にいえば円形に広がり、その外縁それぞれに設けられた乗り場から、複雑な軌道を描いて汽車が方々へと向かっていた。
駅舎の中はあちこちへ向かう人が織り成す雑踏であり、どうやら駅舎の真ん中に、これまた円形に設けられたカウンターがあって、そこで切符を買うらしい(とはいえ、俺たちはそもそもシェルケでルフェアまでの切符を買っているので、ここで切符を買う必要はない)。
駅舎の中には窓から陽光が差し込んでいたが、近くを汽車が走っているのだ、煤汚れで真っ黒になりそうな玻璃が、なお透明さを保っていることが驚きだった。
高所に昇ってあの窓を拭く、専属の人を雇っているのかも知れない。
ルインは途中で、ムンドゥスが誰かに踏まれてしまう危惧を大きくしたらしく、よいしょ、と彼女を抱き上げていた。
ムンドゥスはそれが気に入らない様子で足をばたばたさせ、ヘリアンサスの方へ幼児の仕草で手を伸ばしたが、ヘリアンサスは見事にそれを無視した。
斯くして俺たちは汽車を乗り換え、更に五日ののち、帝都ルフェアに到着した。
以前にここへ来たのは夕刻のことだったが、今度は昼時の到着となった。
大理石が敷き詰められ、切符を売るカウンターですら金細工で飾られている豪勢な駅に、初めてここに来るルインはぽかんとしている(なお、カウンターの金細工は、ちらっと見たカルディオス曰く、「鍍金だよ」とのこと。なんでぱっと見で分かるんだよ)。
そしてこの駅では――駅が、ルフェアの市壁の内側にあるということもあり――出入口で検問を受けねばならない。
滞在目的を訊かれたり、荷物検査を受けたりするわけだ。
――さて、どうしよう。
真面目に答えると、「ここには皇帝に会いに来ました、俺たちは救世主です。皇帝に会いに行くついでに、ちょっと皇宮に忍び込む予定です」となるが、それを答えるのは馬鹿のすることだ。
嘘八百を並べてもいいんだが、俺たちは全く問題なくそれで通ることが出来るにせよ、トゥイーディアが荷物検査で引っ掛かってしまう。
何しろ細剣二振りの持参である。
どこの騎士だ、と問い詰められることになってしまう。
見逃してもらおうにも、少しばかり大き過ぎる荷物だ。
言い訳ならトゥイーディアもいくらでも並べられるだろうが、短い間ではあれ注目を浴びることにはなってしまう。
どうしようか。
どう無難にここを切り抜けるか、駅舎を歩きながらもちょっと考え込む俺たちを後目に、カルディオスは周囲をきょろきょろと窺っている。
ディセントラがそれを呆れたように見遣ったタイミングで、カルディオスが俺の肩を叩いて、「アンスをお願い」と。
は? と呆気に取られる俺を他所に、カルディオスがふらっと俺たちの傍を離れた。
なんとなく歩調を緩め、カルディオスを見守る俺たち。
流れていく雑踏を器用に縫って歩いたカルディオスが、当然のように、数人のお付きを連れてつんと澄まして歩く貴婦人の前に、割り込むようにして入っていった。
ざわ、とどよめくお付きの人たちににっこりと愛想を振り撒いてから、カルディオスが貴婦人の顔を覗き込み、何かを口早に告げている――たぶん、「どこかでお会いしましたよね?」みたいなことを。
あいつは、将軍の息子とはいえ、子供のころ以来ルフェアに来ることはなかったと言っていたから、都合よくこんなところで知り合いを捉まえることが出来るはずはない。
だから、適当な相手に適当なことを言っているんだろう。
駅を出るときに、身分があるだろう貴婦人にくっ付いておくことで、荷物検査を回避しようとしているのだろうが――
ヘリアンサスが相当不機嫌な様子で眉間に皺を寄せ始めたので、俺は慌てて彼の手首を掴み、「落ち着けって!」と、声を低めて囁く。
「見てただろ、あいつから行ったの! 別に無理に連れて行かれたわけじゃねえって!」
言い聞かせても、ヘリアンサスの表情がどんどん剣呑なものになっていく。
俺は肝が冷えた。
カルディオスは暢気にも、レースの手袋を嵌めた貴婦人の手を取って、首を傾げてまだなお何かを言っている。
貴婦人も、一瞬は不躾かつ唐突な接近に眉を寄せていたものの、今やもう満面の笑みだ。
カルディオスのこの天性の愛想の良さ、人好きのする態度、マジで最初の人生でもあいつが持っていれば、随分生きやすかっただろうに。
貴婦人の懐柔がだいたい完了したところで、カルディオスが後ろ手に、目立たないように、手招きした。
誰を、とは言うまでもない。
――この合図を逃すトゥイーディアではなかった。
彼女が小走りにカルディオスに駆け寄っていく。
まるで、逸れていた主人を発見した侍女、みたいな態度だ――トゥイーディアも騎士服なので、ちょっと奇妙に見えたかも知れないけれど、そこは人生経験の為せる技。
カルディオスが笑顔でトゥイーディアを出迎え、更に貴婦人に何かを言う。
たぶん、「せっかくお会い出来たのですから、よろしければお茶でも」とか何とか言っている。
カルディオスの誘いを断る人間など、俺はこの長い人生で数えるほどしか見たことがない。
よって貴婦人も例に漏れず、「ぜひ!」と応じた様子。
カルディオスはにっこりと微笑み、そのついでに、目立たないように俺たちに目配せ。
そっちはそっちで勝手に出ておいて、の意味だ。
まあ、荷物検査で引っ掛かりそうなトゥイーディアがいないなら、あとはどうとでも乗り切れるので、俺たちは嘆息しつつも頷きを返した。
俺たちは駅の出口に向かったが、最も褒め称えられるべきは俺である。
俺は、かなり神経を擦り減らしながらヘリアンサスの手首を確保し、殆ど拝み倒すようにしつつ、駅の出口に向かった。
滞在目的を適当に誤魔化して答え、何もやましいものが入っていない荷物を堂々と見せて、ようやっと駅の外へ。
その頃にはヘリアンサスの堪忍袋の緒が切れかけており、俺ははらはらしながら、彼の黄金の瞳の温度が刻一刻と下がっているのを見守っていた。
が、まだぎりぎりでヘリアンサスの――決して丈夫とはいえない――堪忍袋の緒が耐えている間に、駅からカルディオスとトゥイーディア(と、貴婦人とそのお付き数人)が出て来た。
ここで、カルディオスが気の迷いで彼女たちと茶を喫しようものならば、俺はルフェアが壊滅していく様子を目の当たりにすることになっただろうが、さすがにカルディオスもそこまで暢気ではなかった。
彼が、今度ははっきりとこちらを見て、片手を上げて合図した。
はあ、と溜息を吐いてから、ディセントラが小走りにそちらに向かい、慇懃に貴婦人に頭を下げてから、カルディオスに何かを言う。
カルディオスとディセントラが二言三言交わしている間に、貴婦人は――どういう手品でそういう雰囲気に持っていったのかは知らないが――すっかり怖気づいた様子だった。
レースの手袋に覆われた手を揉み絞り、何かを口早に告げて、貴婦人が足早にそこから離れていく。
ぞろぞろとお付きの人もそれに続き、カルディオスはわざとらしくも残念そうにしつつそれを見送ったものの、彼女たちが十分に離れると、隠すことなく拳を握ってどや顔を見せた。
――そして、慌てた様子のトゥイーディアに背中をつつかれてようやく、俺の危機的状況に気付いてくれたらしい。
やばっ、という顔をして、人波を縫ってこっちにすっ飛んできた。
「――アンス、おまえ、なんて顔してんだ。俺が自分から行ったの見てなかったの?」
ちょっと屈んでヘリアンサスの顔を覗き込み、本気で焦った様子でそう言うカルディオスに、ヘリアンサスは、すっ、と手を伸ばした。
男にしてはほっそりした白い指で、気遣わしそうに暗褐色の髪に触れた。
カルディオスがびっくりした猫のように目を見開いてから、翡翠色のその目を細める。
「――大丈夫?」
ヘリアンサスがそう尋ねた。
カルディオスは明るい調子で噴き出した。
「だいじょーぶ、だいじょーぶだよ。アンス、言っただろ。
俺は嫌なことも悪いことも全部、最初の人生に置いてきたんだって。ほんとにもう大丈夫」
そう言って、カルディオスは背筋を伸ばした。
そのまま、んーっ、と伸びをして、カルディオスが親指で、遠くに見える皇城を指差した。
「――よし、じゃあ、お邪魔しにいこっか」
皇城に入るのは二度目である。
俺たちは、駅から出てすぐの広場で、退屈そうに客を待っていた辻馬車を捉まえて帝都を進んだ。
さすがにこの規模の都を、徒歩で進む気は毛頭なかった。
馬車は無蓋で、石畳に軽快な蹄の音と車輪の音を響かせて走る箱の上にあって風は吹き込み、南国育ちの俺とルインは、肌寒さにちょっと身を縮めていた。
トゥイーディアは、ヘリアンサスを気にしつつも楽しそうだったけど。
カルディオスは真顔でヘリアンサスの袖を掴んでおり、「なんで?」と訊いてみると、これまた真面目に、「初めてこいつと馬車に乗ったとき、こいつ、ふらふらして落ちそうになってた」と回答があった。
ヘリアンサスがそんな風にふらふらしているところなど、俺には想像がつかない。
実際、ヘリアンサスは掴まれた自分の袖を見て、じゃっかん苦笑していた。
ディセントラとコリウスはぎゅっと目を瞑り、見ざる聞かざるを貫いている。
ムンドゥスが馬車の外に手を伸ばしては身を乗り出そうとするのを、ルインが甲斐甲斐しく止めてくれていた。
出来のいい弟に感謝が尽きない。
馬車の上から見ていると、ルフェアは相変わらず活気に満ちていた。
大通り沿いには宝飾品や仕立屋などの高級店が立ち並び、よく晴れた秋空の下を、レースの日傘を差して澄まして行き来する女性が目立つ。
お付きを連れて買い物に勤しむ女性も多かったが、父や夫、婚約者とみられる男性に連れられた女性も多かった。
女性をエスコートする男性は、多くが黒い軽めの外套を着て、山高帽を被り、ステッキを手にしていた。
街区を進むと食事処が多くなり、閑静に立ち並ぶ高級食堂の外に停めた馬車の御者台で、退屈そうに主人の食事が終わるのを待っている御者さんたちが大勢いた。
そう、今は昼時なのである。
中には、近くに停まった他の馬車の御者さんと、何かを盛んに喋ったり愚痴ったり、あるいはコインを投げたりして、何かのゲームに励んでいる人もいる。
御者台で顔の上に帽子を乗っけて、堂々と居眠りしている人もいたが、ああいう人たちは主人が戻ると同時に、俺には計り知れない第六感で目を覚ますものなのだろうか。
整備された大通りを、馬車は順調にがたごとと進んだ。
居眠りしたアナベルが寄り掛かって来るのを押し戻すこと六回、遂には諦めて肩を貸してやりつつ、俺がぼんやりと町並みを眺め始めて一時間程度。
コリウスが御者さんに声を掛けて、馬車が停まった。
――皇城が間近に見える、整然とした広場でのことだった。
広場の真ん中では噴水が高く噴き上がり、居心地は良さそうだったが、皇城の間近ということもあり、ここを待ち合わせに使う猛者はいないようだった。
広場をそぞろ歩く人はいるが、結構身形のいい人たちばっかりだった。
広場にはちらほらと衛兵の姿も見られている。
俺がアナベルを揺り起こすと、アナベルは眠たそうに目を開けて、ぼんやりと目を擦ってから欠伸を漏らし、それから瞬きして俺を見た。
俺が、肩を貸してやったことに対する礼を待ち構えていると、アナベルはふっと俺から目を逸らしてトゥイーディアを見て、真顔で言った。
「ごめんなさい、ルドベキアを借りちゃった」
トゥイーディアはきょとんとしたあと、意味を取りかねたのを誤魔化すようにして苦笑していた。
一方の俺は思いっ切り顔を顰めていたが、その実、身悶えするほど嬉しかった。
なんだそれ、その言い方、俺がちゃんとトゥイーディアとお付き合いしてるみたいじゃないか。
馬車を降りた俺たちは、迷ったものの、そこにルインとムンドゥスを残して行くことにした。
ここをずっとうろうろする人はいないようだから、目立ってしまうかも知れないが、ルインなら上手く振る舞ってくれるだろう。
取り敢えず、俺たちの方で揉め事を呼び込んでしまうことも十分に考えられるので、何か異変を感じたらムンドゥスを連れてどこかに逃げておいてくれ、と頼み、俺たちは皇城に向かった。
何かあったら逃げてくれ、とは言ったものの、本気で事態を危ぶんで緊張している人間はいなかった。
俺たち六人だけでも、途中で何度か荒っぽい手段を採れば、問題なく達成できるだろう目的である。
そして今回はヘリアンサスがいるわけで――ある意味ではこいつが一番の懸念だが、トゥイーディアがかなり入念に、ヘリアンサスと認識を共有していたようだから――、俺かカルディオスが相当なドジを踏んで、ヘリアンサスの頭から全ての理性を吹っ飛ばしてしまわない限り、まあ大丈夫だろう。
間近に迫った皇城を見上げて、俺は思わず、隣のカルディオスに囁く。
「――なあ、レンリティスの王城の方がでかかったよな」
この皇城も馬鹿でかいことは馬鹿でかいが、かつて俺が生活したリーティ王宮の方が、規模としては大きかった気がする。
そもそも都の規模が、リーティの方が明らかに大きかった。
あそこは、雲上船を降りてから王宮に到着するまでに、馬車で四時間かかる狂気のような広大さを誇っていたのだ。
最初にあそこで迷子になった俺の心細さたるや、推して知るべし。
そして俺が迷子になったことに気付いたレイモンドたちの絶望、察するに余りある。
――世双珠があって、大魔術師たちがいて、魔法も今より栄えていた。
だからこそ、町もあそこまで大きく広がることが出来ていたのだ。
カルディオスは首を傾げて、皇城を矯めつ眇めつしてから、「そうだな」と。
「俺もそんな気がする」
「やっぱりそうだよな。俺、初めてあの城に入ったとき、あの城が人間じゃなくてもっとでかい何かのために造られたんだと思ったくらいだった」
俺が本音で呟くと、カルディオスは噴き出した。
皇城とはいえ、端っこくらいまでは、相当に怪しい人間でない限りは入れる。
そもそも皇城の端には、市民が不服申し立てをしたり、あるいは市民が揉め事の解決のために裁判を起こしたり、そういう役所も入っているのだ。
そんなわけで、俺たちはあっさり皇城の最初の区画の中へ。
一応は皇城の門をくぐったものの、ここはそれほど帝都の景色から唐突に切り替わるわけではない。
いちおう、城門の番をする衛兵さんたちが睨みを利かせていたものの、何かの度胸試しか、こっそり門をくぐろうとしたそこそこ身形のいい悪ガキをとっ捕まえていたのと、腰の曲がった浮浪者のおじいさんを、やんわりとだが断固として、門の中に入れなかったくらいだった。
明らかに軍人っぽい格好をしている俺たちは、奇妙に思われこそしただろうが、逆に言うとだからこそ声を掛けられなかった。
多分、衛兵さんの方でも、正式に王宮に招待された軍人なのかそうでないのか、判断がつかなかったのだ。
拙ければこの先で誰かが俺たちを止めてくれるだろうという、他力本願の無難な判断である。
とはいえ、最初のこの区画はそれほど広くない。
コリウス曰く、この区画は、皇城をぐるりと取り囲む形で円環状に広がっているらしい。
言うまでもないが、戦となれば籠城の前に最初に切り捨てられる区画だ。
その区画の先こそが本当の皇城であって、近付いてきた白亜の高い城壁を前にして、俺たちはカルディオスとディセントラ、それからアナベルを見送った。
カルディオスは心配そうにヘリアンサスを見て、「変なことするなよ」と言い聞かせてうるさそうな顔をされていた。
が、カルディオスの気持ちは痛いほど分かる。
一方のディセントラとアナベルは、やっとヘリアンサスから離れられることにほっとした様子だった。
むしろ、早く皇宮の中に入りたいという本音が見えている。
最後には、アナベルは無遠慮にカルディオスの衣服を引っ張って急かしていた。
立ち止まって見ていると、堂々と二番目の城門に向かっていくカルディオスたちを、一旦は衛兵さんたちが引き留めたようだった。
ここから先に入ることが出来るのは、その資格がある者だけなのだ。
衛兵さんたちが三人を誰何し、そしてそれに応じたカルディオスの態度に――十中八九、「救世主だけど、なに?」とでも言ったのだろうが――あっと言う間に右往左往し始めた。
城門は分厚く、高々と空にアーチを描く城門からは、落とし格子が牙を剥いて見える。
その下でしばらく引き留められていたカルディオスたちだったが、すぐに話が着いたのか、それとも取り敢えずは中に通そうということになったのか、慌ただしく数人の衛兵さんに連れられていく。
「……揉め事にならなくて良かった」
と、トゥイーディアが呟いた。
いや、結構注目は集めてたけどね? と思いつつ、トゥイーディアが安堵しているならば万事それでよし。
――はい、こっちも行動開始。
「カルたちが皇帝陛下に会ってる間に、例の――その装置を使い終わってしまわないと」
と、トゥイーディアが言って、コリウスは淡白に頷いてから、
「まあ、皇帝も暇ではないと思うから、カルディオスたちの謁見開始までに時間が掛かるだろう。ゆっくりで大丈夫だよ」
と、人生経験を窺わせる余裕を見せていた。
俺たちは、誰からともなく辺りを見回した。
こういうときは、人目につかない場所で目くらましの魔法を掛けて、こっそり忍び込むに限る。
だが、そのとき、ここまでぼんやりと俺たちについて来ていたヘリアンサスが、ふらっと城門の方に歩き出した。
「――――!」
俺は驚いたし、コリウスも言わずもがなでぎょっとした様子だった。
トゥイーディアですら仰天していた。
トゥイーディアが半歩踏み出し、口を開いた。
飴色の瞳が大きく瞠られている。
咄嗟に、ヘリアンサスを呼び止めようとしたのだと分かった。
だがそれより早く、こつ、と、ヘリアンサスが城門にまで足を踏み入れていた。
一瞬、その一瞬だけ、辺り一帯が静まり返ったように、俺には感じられた。
――門の下に立ち、辺りを睥睨する衛兵が、しかし振り向かない。
城門前の通りを歩く誰一人、ヘリアンサスを見ない。
まるでそこに誰もいないかのように――あるいは誰かいたとして、そこにいることが極めて自然な誰かであるかのように。
「――――」
息を呑む俺たちを、そそり立つ城門の真下に立ったヘリアンサスが振り返った。
雪が降るよりも静かに身を翻して俺たちを見て、小馬鹿にするように微笑んだ彼が、ひらひらと手招きする。
「……ほら、中に用があるんでしょ」
最初に息を吸い込んで駆け出したのはトゥイーディアで、それに俺とコリウスが続いた。
トゥイーディアは滅多にないほど険しい顔をして、俺たちに対しても一切振り向かない衛兵たちをちらりと見るや、激昂寸前の、必死に落ち着きを保とうとしている声でヘリアンサスに詰め寄った。
――こんなことが出来るのはトゥイーディアの固有の力だけだ。
そして使い方によっては、その魔法がどれだけの害になるものなのか、トゥイーディアは熟知している。
「――何をしたの、おまえ」
ヘリアンサスは瞬きした。
悪びれた様子は欠片もなかった。
目の前に垂れた新雪の色の髪の一筋をふっと吹いて、彼は肩を竦める。
「別に。見られたくないときは誰からも見られないよ、僕は」
事も無げにそう言って、ヘリアンサスはにっこり笑って俺を見た。
「言ったでしょ。おれには、難しいことの方が少ないんだよ」
トゥイーディアは、嫌悪と義憤を合わせて呑み下すような顔をしていた。
「――おまえなら、私たちを連れて皇宮の中にでも瞬間移動できるでしょう」
ヘリアンサスは瞬きして、トゥイーディアに視線を戻した。
そして、皮肉たっぷりに微笑んだ。
「もちろん、そうしてあげても構わない。でも不意打ちできみたちを見た連中が騒ぐのを止めたいなら、僕はそいつらの息の根から止めるけど、いいの?」
トゥイーディアの表情を見て、ヘリアンサスはいっそう深く微笑する。
「駄目なんでしょ。じゃあ、四の五の言ってないで、中に入りなよ」
◆◆◆
トゥイーディアは、自分の魔法がむやみに使われることの危険性をよくよく知っている人なので、怒髪天を衝く寸前で必死に踏み留まっていることがありありと分かる様子ではあったが、ここで堪える理性はあった。
コリウスが素早く、「早く済ませてしまった方が影響も小さいだろう」と言ってくれたことも、多分に彼女の理性に働き掛けたらしい。
平然と歩を進めるヘリアンサスと一緒になって、俺たちもそうして皇城の奥へ向かったが、ヘリアンサスには危機感も焦燥も欠片もなかった。
庭園で咲き零れる花や、幾何学的に流れるよう設計された人工の小川の畔に集まった小鳥、そういったものを目にしては立ち止まり、じっとそれらを眺めるほどだった。
そのために俺は何度か、ヘリアンサスに殴り掛かりそうなトゥイーディアを止めねばならなかった。
とはいえ俺がトゥイーディアを止めると、俺に掛けられた呪いゆえに彼女との喧嘩に発展しかねないので、結局はコリウスがその仲裁に入っていた。
「こういうのはディセントラの役回りだろう……」
と、うんざりしたようにコリウスは呟いていて、俺もとうとう、「そういうの見るのは今度にしない?」とヘリアンサスに提案することになった。
「ほら、今はカルもいないだろ……」
と、我ながら弱々しく言ってみたものの、この一言は効いたとみえる。
「それもそうか」
と、素直に頷いたヘリアンサスが、ようやくちゃんと目的地を目指し始めて、俺は大いにほっとした。
こいつは人間としての価値観とか常識が欠落しているせいで――欠落というか、こいつは人間ではないので、そもそもそれを備えている必要もないわけだが――、俺たちとは状況理解に大きな齟齬が生じ得る。
必要に迫られて、人間としての常識に沿って振る舞わねばならないときには――それこそレイヴァスでこなしたように――苦も無くこなすのだろうが、今はそういう判断を下していないということか。
皇城の中枢までは、それこそ救世主として魔界へ赴くよう勅命を受けたときに通されたことがあるので、道は分かる。
あのときはもちろん、仰々しい馬車に乗せられて中枢に通されたわけだが。
俺がかつて滞在したリーティの王城よりは広さに劣るとはいえ、この皇城も十分以上に広い。
どこかで馬車にでもこっそり忍び込まねば、俺たちが皇宮に辿り着く前にカルディオスたちの謁見が終わってしまう。
そして、下手すれば皇帝の執務室で皇帝に出くわすことになってしまう。
それは避けねばならない。
というわけで俺たちは、皇城内の馬車道を、人と擦れ違おうとも見咎められないままに進み、やがて後ろから走って来た黒塗りの馬車を、平然とヘリアンサスが止めるのを見ていた。
後ろから馬車が来るのを見ると、ヘリアンサスはまるで自分のために走って来た辻馬車を見付けたかのように片手を挙げ、そしてそれに応じて、当然のように御者が手綱を絞って馬車を停めた。
俺は御者の顔を見上げたが、彼はどことなくぼんやりとした、どこを見ているのか分からないような、奇妙な無表情になっていた。
その面差しに、どことなく俺はぞっとするものを感じて目を逸らした。
トゥイーディアが唇を噛んで手を握ったり開いたりして、懸念と嫌悪感をやり過ごしている間に、ヘリアンサスは平然と馬車の扉を開けていた。
そして俺たちを手招きするので、歩み寄って中を覗くと、馬車の中にいた二人の男性は、ぐったりして眠り込んでいる様子だった。
とはいえトゥイーディアはすぐさま中に乗り込んで、二人の呼吸を確認しており、その気持ちは俺としても――そして多分、コリウスとしても――よく分かった。
ヘリアンサスが欠伸しながら馬車に乗り込み、俺とコリウスも、ちょっと躊躇ったもののそれに続く。
コリウスがばたりと扉を閉めた。
ヘリアンサスがぱちんと指を鳴らすと同時に、がたん、と馬車が動き始めた。
馬車に乗っていたのは、きっちりした官服を着た初老の男性と、まだ若い男性だった。
皇城の中に居宅を構えるほど身分は高くない官吏で、登城の最中だったのだろう。
彼らの呼吸を頻りに確認しつつ、トゥイーディアは抑えた声で、「ちゃんとお目覚めになるんでしょうね?」とヘリアンサスに確認していた。
「うるさいな」
と、ヘリアンサスは、馬車の空いている座席に傲然と腰掛け、脚を組みながら、トゥイーディアの憂慮を一蹴した。
「僕が最大限に譲歩して協力してやってるのに、その言いようはなんなの」
トゥイーディアは相当癇に障ったようで、眉間に皺を寄せた。
「おまえが冬を待たなくていいなら、こんなことに協力はしなくてもいいのよ」
ヘリアンサスは鼻を鳴らしたが、それきり反論はしなかった。
――馬車は皇城を貫く大通りを進み、三番目の城門も、呆気ないほど簡単に通り抜けた。
窓際に頬杖を突き、流れていく景色をぼんやりと見詰めているヘリアンサスをちらりと見て、俺は、かつて俺たちが挑んでいた相手との、これほどの無理をあっさりと通してのけたことからも分かる彼我の差を思う。
馬車は皇宮の正面でぴたりと止まった。
正面から見ると、皇宮は夥しい数の硝子窓が煌めく白亜の建物だ。
レイヴァスの王宮が備えていたような尖塔は備えず、無骨に聳え立つ無機質な宮殿。
壮麗な入口には大理石の柱が並び、アーヴァンフェルンの旗と皇帝の旗がはたはたと翻っている。
外から馬車の扉を開けた轡持ちの青年は、官吏ではない人間(つまり、俺たち)が中にいたことに驚き、叫び声を上げそうになっていた。
だがそれも、ふい、とヘリアンサスがそちらに視線を向けるや黙り込み、まるで当然の人物を迎えたかのように、頭を下げて俺たちが馬車から降りるのを待っていた。
皇宮の前は、当然ながら人の出入りが激しい。
官吏と貴族が、ひっきりなしに出たり入ったりしている。
しかし、俺が恐れたように見咎められることはなかった。
どうやら、ヘリアンサスが認識している人間からは、俺たちがここにいることへの違和感が強制的に拭い去られている様子だった。
轡持ちの彼が一瞬ではあれ驚きを見せたのは、馬車の扉が開くまで、ヘリアンサスが彼のことを認識していなかったがゆえだろう。
同じ原理で、彼がここまで瞬間移動してきた場合、俺たちの出現と同時に俺たちを見ることになる人たちからは、違和感を拭い去ることが出来ない――ゆえに、ここまで瞬間移動で一気に距離を詰めることは避けたというわけだ。
この魔法の生みの親はトゥイーディアだが、その彼女でもここまでのことは出来るまい。
無制限に魔力が注ぎ込まれているがゆえの、圧倒的に奔放な魔法だった。
馬車から降りて、大理石の階段を昇って皇宮に入ろうとするタイミングで、トゥイーディアは少し足を止めて振り返り、俺たちが許可なく便乗させてもらっていた馬車から、二人の官吏がきちんと出て来ることを見届けていた。
彼らが自然な動作で馬車から降りて、互いに、馬車の中で眠り込んでしまったことを不思議に思うように首を傾げつつ、何か言い交わしてから、御者さんに馬車を馬車置きにまで回すよう指示している――その様子を階段の半ばから見守って、トゥイーディアは安堵の溜息を漏らしていた。
皇宮の入口にずらりと並ぶ衛兵たちの誰も、俺たちに目を留めなかった。
俺は、なんだか自分が透明になったかのような錯覚を生じつつあった。
天鵞絨の絨毯を踏み、大理石と黄金で飾り立てられた皇宮の中に入る。
入ってすぐの広間も、忙しなく行き来する官吏で混み合っていた。
ここからはコリウスが先頭に立って案内してくれるが、彼もまた、行き交う人の誰もが自分たちに目を留めないことに、いっそ戸惑っているようでもあった。
当のヘリアンサスは、無関心そうに周囲を見回していたが、ふと思い立ったように俺を見て、
「――カルディオスは、今どこにいるかな」
と訊いてきた。
カルディオスたちも既に皇宮に通されているか、あるいはそこに至るまでのどこかで足止めを喰らっているか、分かりかねる俺は曖昧に肩を竦めた。
大理石の柱が立ち並ぶ壮麗な広間を過ぎ、天鵞絨の絨毯が敷かれた鏡張りの長い廊下を進み、侍女さんたちが忙しなく上り下りする広い階段を昇り、俺たちはどんどん皇宮の奥に入って行った。
来た道を戻れと言われれば出来るだろうが、自分が皇宮のどの辺にいるのかは、ちょっとよく分からなくなってきた。
そう思いつつ、俺は、初めての人生でこんなところを歩かされていたら、茫然とするばかりで来た道すら戻ることが出来なかっただろうな、と考えて、内心でしたり顔。
兄貴、弟は成長するものだよ。
コリウスは一切迷わず、皇宮の奥の渡り廊へ進み――もちろん、ここにもずらりと衛兵さんたちが並んでいたが、彼らはあっさりと俺たちに道を開けた――皇宮の後ろの、一回り小さい宮殿へと足を進めた。
察するにこっちが内宮だな。
正面からは見えていなかったけど。
救世主として勅命を受けたときも、俺たちは外宮のだだっ広い謁見の間に呼ばれたから、内宮に入るのは、俺は初めてだ。
外宮は官吏や貴族の出入りも激しかったが、内宮はさすがにしんとしていた。
外宮はとにかく煌びやかで、鏡張りになっている壁も多かったが――これは言わずもがな、暗殺に備えて死角を出来る限り無くすためだ――、皇族の私的な領域となる内宮は、それよりも落ち着いた内装になっている。
だが、とはいえ、どっちを見ても目が回るような高級品が並んでいることに違いはない。
俺もトゥイーディアも、ついつい足音を忍ばせるようにしたが、コリウスは頓着しなかった。
まあ、こいつがここまで迷いなく俺たちを案内したということは、コリウスは内宮にまで入ったことがあるということだ。
将軍の息子であるカルディオスも、ここまで入ったことはあるまい。
内宮に招かれる貴族はほんの一部なのだ。
つまりコリウスにとっては、ここも外宮も特段変わらない場所というわけだ。
そしてヘリアンサスについては、言うに及ばず。
何度か、足音も立てずに軽やかに滑らかに歩く侍女さんや侍従の人たちと擦れ違ったが、彼らはやっぱり俺たちに目を向けなかった。
内宮ともなると、ここに仕える使用人さんたちも、狭き門をくぐって登用されているわけだから、物腰は言うまでもなく、外見までもが整っている人が多い。
更に進むと、ぽろんぽろん、と、竪琴を奏でる音が聞こえてきた。
どうやらこの先のどこかで、皇女の一人が音曲の練習をしているらしい。
そちらの方向から人声も疎らに聞こえてきたが、コリウスはその手前で角を折れて、広い階段を昇り始めた。
――そうしてようやく、俺たちは、皇帝の内宮における執務室に到着した。
麻栗樹材の扉は衛兵にがっちり守られてはいたが、彼らはヘリアンサスを見ると、当然のように構えた槍を下ろして扉を開けてくれた。
だが、ここが緊張の一瞬であることに違いはない。
俺たちの目論見が外れて、この中に人がいたら――最悪の場合、皇帝本人がいたら――さすがに困る。
音も無く滑らかに蝶番が回転して扉が開くその一秒、俺は覚えず息を詰めていたが、俺の心配は杞憂に終わった。
広い執務室はがらんとしていた。
ほう、と息を吐いたのはコリウスも同様で、こいつの緊張は俺以上のものだっただろう。
何しろ俺より遥かに皇帝に顔を覚えられているのみならず、下手をすれば今の実家も巻き込んでの大騒動に発展してしまう危険もあったわけだから。
表情を取り繕ってはいるものの、濃紫の瞳にありありと安堵がある。
そして一方のトゥイーディアである。
彼女はさすがだった。
部屋の中に誰もいないと見るや、お父さん譲りの猪突猛進ぶりを遺憾なく発揮して、てきぱきと部屋の中に踏み込んだ。
執務室の奥には大きな窓が開いており、分厚い硝子越しの陽光が、淡く部屋全体を照らしている。
言わずもがな広い部屋で、手前には賓客と面談するためのものだろう桃花心木材のローテーブルとつやつやした革張りのソファが置かれており、足許は濃紺の絨毯が敷かれている。
部屋の両脇の壁には風景画。
そして奥、大きな窓を背にした位置に、巨大な執務机があった。
「――ここに、例の装置があるのね?」
部屋の中でコリウスを振り返り、念押しするトゥイーディア。
コリウスは、眼差しひとつを配ることで執務室の扉を閉めつつ、首を傾げた。
「いや。言っただろう、僕も大体の位置しか知らない。ここになければ別の心当たりがある。まずは探してくれ」
「ええ……」
と、困惑した声を出したのは俺。
扉が閉まり、とにもかくにも人目が絶えたことで、ちょっと心に余裕が出来た。
「俺、その装置の見た目も知らないんだけど」
最初の俺であれば、世双珠の気配を察知していとも容易くその装置とやらを発見できただろうが、今の俺にあの特殊な感覚は備わっていない。
俺の言葉にコリウスは渋面を作ったが、トゥイーディアはにこっと笑ってくれた。
「無理もないわ。――まあ、私も見たことはないんだけど……」
コリウスは顎に手を宛がい、「そうか、場所を知らないなら、おまえも見たことはないのか」と、今さらながらに呟いた。
「あのとき――ほら、僕たちが魔界から戻ったタイミングで、おまえだけ帝都に来ていただろう。あのとき、レイヴァスの側の情勢を尋ねるのに、その装置でレイヴァスの陛下とお話したりはしなかったのか」
トゥイーディアはぱたぱたと手を振った。
「ないない、救世主とはいっても他国の人間だもの。単にこっちの陛下から、レイヴァスの陛下から聞いたお話として、レイヴァスは無事だと聞かせていただいただけよ」
ふうん、と声を零して、コリウスが執務机の方へ回り込もうとする。
ヘリアンサスは革張りのソファに軽い動作で腰掛けており、退屈そうに脚を組んでいたが、ふと顔を上げると、あっさりと言った。
「――その机の上にあるんじゃないの? きみたちの探し物」
それを聞いたトゥイーディアが小走りでコリウスを追い抜き、ぐるっと執務机を回り込んで、ざっとその上を見渡して(というのも、机の上には変な小箱だとか、大仰な羽ペンを立てたペン立てだとか、分厚い本だとかが、ずらりと並べられていたのだ)、首を傾げた。
逆光になっている彼女の姿が硝子越しの陽光を切り取って、蜂蜜色の後れ毛が光に透けて綺麗だった。
「――これかな?」
「トゥイーディア、動かすなよ。少しでも動かすと使えなくなるんだから」
コリウスがやきもきした調子でそう言って、大股にトゥイーディアに歩み寄った。
――距離を書き換えることの出来る世双珠において、他国の元首と繋がることの出来るこの装置だが、どれだけの距離を書き換えるのかをしっかり定めておかねば、当て処なく海の上に声を届けてしまうことになりかねない。
あるいは何でもない民家のおばさんが、他国の国家元首の声を聞くことになるかも知れない。
というわけでこの装置、厳密に、他国の装置の位置を記憶して、どれだけの距離を書き換えるものかを定めて、世界の法を変更するのだ。
つまり、装置が一インチでも動いてしまえば、装置が使うべき全ての魔法が無に帰してしまうというわけ。
トゥイーディアは無実を主張するように両手を挙げ、むぅ、とコリウスを睨んだ。
正直かわいい。
人前に出したくないくらいには可愛い。
「もう、分かってるわよ。失礼ね」
「最近のおまえの傍若無人ぶりが酷いからだ」
コリウスもそう言い返していて、トゥイーディアが目を見開き、「そんなことないのに」とわざとらしく嘆いている。
仲の良さそうなそんな遣り取りを後目に、俺はヘリアンサスの傍に立って腰を屈め、彼の顔を覗き込んだ。
「――どこにあるか、よく分かったな」
ヘリアンサスは幾分か冷ややかに微笑んだ。
「もちろん分かる。おれの子供だ」
「――――」
俺はちょっと黙って、それから呟いた。
「俺も最初の人生では、もうちょっと目も良かったし、世双珠がどこにあるかとか、そういうのも大体分かったんだけど」
「それは、」
ヘリアンサスが微笑んだ。
さっきとは打って変わって嬉しそうな笑顔だった。
「あのときは、おまえがちゃんとルシアナから生まれてきたから」
俺は瞬きした。
「いや、それはそうだけど、原因としてはおまえじゃないの? 俺がおまえの近くで育ったから」
ヘリアンサスは不意を打たれたように口籠り、それからふっと俺から視線を外した。
「そうかも知れない――でも、あそこにはルシアナもいたから」
「…………?」
脈絡なく聞こえるヘリアンサスの言葉に、俺は眉を顰めた。
が、ヘリアンサスの言葉に拘泥もしていられなかった。
はたと思い付いたことがあったのだ。
「――そういえば、それ、使い方分かるのか?」
顔を上げた俺がそう言ったので、執務机の向こうで並んでいるトゥイーディアとコリウスが、揃ってこっちを見た。
コリウスが苦笑する一方、トゥイーディアが胸を張る。
彼女が、背負っていた麻袋(言うまでもないが、細剣が包まっているやつ)を下ろしながら、にこっと笑って、皇帝の執務椅子を我が物顔で引いて、傍目にもどっしりした造りのそれに、悠然と座った。
「任せて。私、これでも長いこと魔法使いやってるから」
トゥイーディアが歌うようにそう言うので、まあ確かに、俺たちは人より長生きしている分、大抵の魔法の構造は分かる――と納得しつつ、俺は内心で大きく息を呑んでいた。
――「私、魔法使いなんです」と、お道化たように言っていたトゥイーディア、俺が最初に会った頃のトゥイーディアと、同じ口調だった。
ぎゅっと締め付けられたように胸が苦しくなったが、俺は何も言えなかった。
冷めた目でトゥイーディアを見ていることしか出来なかった。
トゥイーディアはそんな俺の機嫌を測るような目で俺を見て、控えめに俺を手招きする。
「でも一応、こっちに来てきみも見てよ」
俺は思いっ切り溜息を吐いた。
自分でも驚くくらい嫌そうな溜息が出た。
トゥイーディアの斜め後ろに立つコリウスが、何というか、堪え難い憐憫を籠めた眼差しで俺を見てくるので、俺はいっそう惨めな気分になった。
俺はのろのろと執務机の方へ足を向けつつ、顔を顰めて言っている。
「――なんでだよ、そういう魔法はおまえらの専門だろ」
トゥイーディアが瞬きして、首を傾げた。
蜂蜜色の髪がさらっと肩を滑る。
彼女の大きな飴色の瞳がコリウスを振り仰いだあと、俺を見て、いっそう不思議そうに瞬いた。
「……うん? おまえ『ら』? コリウスだけじゃなくて、私も?」
俺は再び溜息を吐いて、がしがしと頭を掻いた。
「おまえのその魔法、そもそもはコリウスの魔法の亜種だろ……」
トゥイーディアはますます大きく目を見開いた。
コリウスも驚いた様子だった。
二人が顔を見合わせてから、俺を見た。
――一国の最奥に不法侵入している最中とは思えない暢気さだが、緊張するだけ損ということもあるので、まあこれは仕方ない。
「そうなの?」
俺は顔を顰めた。
「――あー、忘れてるのか……」
俺のその口調が相当不機嫌そうだったからか(全く理不尽なことだ)、トゥイーディアは素早く俺から視線を逸らしてしまった。
俺は仏頂面で執務机の傍に立ったが、そのときにはもう、コリウスとトゥイーディアが卓上の装置の使い方を、大体把握してしまっていた。
例の装置は、ぱっと見には小さな銀の箱に見える。
装置と言いつつも、実際には機能の殆どは世双珠が担うわけだから、外筐に大きな特徴は要らないのだろう。
小箱は執務机にしっかりと固定されて、万が一にも動くことのないようにされていた。
銀の箱の表面には、アーヴァンフェルンの皇族の紋章が小さく浮彫にされていて、真ん中に大きな薄紫色の世双珠が嵌め込まれている。
箱の上側に、俺たちでは意味の分からない記号が彫り込まれていた。
トゥイーディアとコリウスもその記号を見て、少しばかり悩んでいるようだった。
とはいっても、トゥイーディアが「この記号は何だろう」と悩んだ様子なのに比べ、コリウスはもう一歩進んでいた。
彼が言った。
「――これは恐らく、各国の元首に魔法を繋ぐときの魔法の使い方の――例えば、レイヴァスに繋ぐときはこうしろ、というような――指示書きなんだろうが、」
そうなのか、みたいな顔をする俺とトゥイーディア。
大きな椅子に座っているせいで、背凭れのてっぺんがトゥイーディアの頭の上にあり、トゥイーディアがいつもよりも小柄に見える。かわいい。
「さすがに初見では暗号に等しい。拘泥している暇はない。
勘で使うぞ」
こくり、と頷くトゥイーディア。
まあ、距離だとか移動だとか自我の転写だとか、そういう魔法の専門家が二人ここにいるわけなので、現代の魔術師でも扱えるような魔法の装置の一つや二つ、扱えない方がおかしい。
俺ですら、ぱっと見で大体の扱い方は分かる代物だ。
それに、万が一にも本格的に困ったときには、なんとかして頼み込めば、ヘリアンサスが手を貸してくれるかも知れない。
コリウスが、小声でトゥイーディアに、これから距離を跨いだ先にいる他国の元首と会話が成立したときには話すべきことを、手短に確認した。
――いつかティシアハウスで話していた内容を、ここで流用して話す予定だった。
つまり、魔法はそもそも魔王の賜物であり、濫用し過ぎると魔王が復活すると。
そして世双珠はその最たるものであり、魔王がいなくなったことにより、これから世双珠が失せると――
真面目な顔でそれを聞いて頷き、すう、と小さく息を吸うトゥイーディア。
さすがに彼女も緊張が湧き上がってきたと見える。
背筋を伸ばして小さく咳払いするトゥイーディアは、つい先程とは一転して真剣な表情になっていた。
俺としては、許されるなら彼女を応援したいところだが、それも出来ない身の上だ。
――他国の元首と会話が成立するかどうかは賭けだ。
何しろ、約束なしに、他国にあるこれと同じ装置を当たるわけだから、相手方の元首がたまたまその装置の前に居ればいいが、居なければそれまでだ。
さすがに、同じ国に何度も何度も会話を試みるほどの時間的な余裕はない。
コリウスが、俺に下がるよう目で合図した。
――この装置は、姿と声を他国に届けるものだ。
万が一にでも、漆黒の髪の俺が映り込んでしまうのは拙い。
頷き返して俺が一歩下がるのを見届けてから、コリウスが手を伸ばして、とんとん、と、銀の箱を叩いた。
こぉ、と、強く、世双珠が光り始めた。
硬質な光が世双珠の中心に宿って、きらきらと白い粒子にも見える強い光を発し、放射状の薄い光を差し始める。
しばらく、注意深くそれを見守ったトゥイーディアが、不意に微笑んだ。
急に緊張が和らいだようでもあった。
同時に、銀の箱の上に、俺も見たことのある初老の男性の姿が小さく浮かんで、映った。
――なるほど、初手でこの国に繋がったわけか。幸先がいい。
そう思いつつも、俺は更に一歩下がった。
何しろ繋がった先は、黒髪の魔王が処刑された、まさにその国の元首。
ちらちらと光り、時折揺らめきながら映った、以前までは自分の主君であったレイヴァス国王に、トゥイーディアは明るく会釈した。
「――お久しぶりです、陛下。
わたくしのことをご記憶であればいいのですが」
唐突にアーヴァンフェルンから会話を投げ掛けられ、しかも相手が皇帝ではなく、先だってまでは自分の臣下であった救世主とあって、レイヴァス国王は戸惑ったようだった。
彼の困惑した声が、隧道の中で発せられたように木霊しながら聞こえてきた。
『……リリタリス?』
「然様でございます」
朗らかに肯定し、トゥイーディアは微笑んだ。
「陛下、御多用のこととは存じますが、しばしお時間を頂戴いたします。
お傍にどなたかいらっしゃいますか。いらっしゃるならば、たいへん恐縮ではございますが、何卒お人払いを」
向こう側で、国王がいよいよ困惑するのが分かった。
『いや――居らぬ。居らぬが、リリタリス、これは――』
「――魔王と世双珠の因果関係について、お話し出来ておりませんでした」
国王の言葉を遮ってトゥイーディアが言う。
明らかに時間を気にし始めている。
『魔王と……世双珠? 世双珠だと?』
国王がいっそう戸惑ったような声を上げるのを黙殺して、トゥイーディアは言葉を重ねる。
「めでたくもわたくしが魔王を討ち果たしましたから、間もなく世双珠はこの世から失せるものと思われませ。
――どうぞ勘違いなされますな、これは、」
疑念と衝撃に、何か言おうとした国王を掌で制して、トゥイーディアがきっぱりと申し渡す。
「罷り間違ってもご相談事ではございません。あくまでも警告申し上げているのみ」
厳しいまでの口調でそう言ってから、トゥイーディアは一転、語調を和らげた。
首を傾げて、彼女が飴色の瞳を細めた。
それこそ遥か年下の相手を犒うように。
「――ついては陛下、お尋ね申したいのですが、」
真剣な瞳で遥か彼方にいる相手の目を覗き込んで、トゥイーディアが告げた。
「――わたくしどもは世界を救います。
陛下に、人を救うお気持ちはおありですか」
 




