40◆ 名前がつくまで
かつて、魔法を殺して世界を救えとの命を受けたレイモンドたちが、過激派の誹りを受けて世界の終末を牢で見ることとなるのを恐れたことは、最近思い出したばかりなので、俺にとっては記憶に新しい。
そして今度こそ、俺たちは過激派と罵られ、もっと悪くすれば実力行使の妨害を受けることも覚悟の上で、少なくともこの国の皇帝には、今後何かが起こるかを警告しに行かねばならない。
何しろ、ある日突然、全ての世双珠が消え失せるのである。
生活が少しばかり不便になる――どころの騒ぎではない。
これは直截的に人の命に関わる。
目下の大問題が、世双珠を使った船を用いて遠洋に出ている人たちのことだ。
汽車も船と同様に動力を失うが、こっちはまだいい――何しろ陸の上のことだから。
だが船はそうもいかない。
最悪の場合、多くの人たちが漂流してしまうことになるのだ。
望むらくは船乗りの間に不穏な噂が流れて、遠洋に出ることを控える人が増えればいい。
そしてそれを、国家に邪魔されては堪ったものではない。
だからせめて、俺たちは皇帝には仁義を切りに行かねばならない。
少なくとも今現在の情勢の中では、アーヴァンフェルン帝国が世界有数の影響力を持っているのだ。
俺としては、皇帝以外にもう一人、これから起こる事態を警告したい相手がいるが――
「――それなら、海辺の国全部を回るべきなんじゃない?」
眉間に皺を寄せてアナベルが言った。
こいつは多数のために少数を犠牲にすることを良しとはしない信条の持ち主なので、こう言い出すことは目に見えていた。
だが、とはいえ、そんなことをすれば何年も掛かってしまう。
ムンドゥスがあと如何ほどで限界を迎えるのか分からない中で、そんな暢気なことはしていられない。
俺がむやみに口に出すことはないが、ヘリアンサスが俺とカルディオスの記憶を引き剥がしたのは、それそのものはヘリアンサスが『対価』を用いたこととはいえ、いちど『対価』として捧げられたものを剥奪されたことは、ムンドゥスに相当な負担を強いたはずということもある。
――と、俺は思って、思考を同じくしたらしきカルディオスと目を合わせて顔を顰めた。
ついでにトゥイーディアも俺と同意見らしく、アナベルとは違って物事を俯瞰的にみて是非を決める彼女は、アナベルの気持ちも分かるが――といった様子の、困った表情を浮かべている。
俺としてはトゥイーディアとも目を合わせたがったが、それは出来なかった。
俺とカルディオスは、揃ってコリウスとディセントラの方を向いた。
アナベルを説得するならばこの二人に任せようという、これも暗黙の了解あってのことだった。
だが、意外なことに、コリウスもディセントラも、真面目にアナベルの言葉を考える顔を見せていた。
これには俺も面喰らってしまい、「おい?」と声を上げる。
「おい――さすがに、海辺の国全部を回るなんて出来ないだろ? そもそも国が幾つあるのかも分かんねぇし、さすがにそこまで時間はねぇぞ」
大陸の南の方であれば、地図もかなりしっかりしているが、さすがに北の果てになると、海岸線の形すら曖昧だ。
未開の国が幾つあっても俺は驚かない。
ルインが改めて大陸の広さに感じ入ったような顔を見せた。
何しろ俺の弟は魔界の出身なので、大陸の地図すら、こちらに来て初めて目にしたはずなので。
「――時間、ねぇ」
ヘリアンサスが呟いたので、俺はちらっと彼の方を見た。
相も変わらず安楽椅子の肘掛に腰掛けるヘリアンサスは、黄金の瞳を無表情に細めていた。
が、俺の視線に気付くと、まっしろな睫毛を持ち上げて俺を見て、皮肉っぽく微笑んでみせた。
「そこに関しては、きみたちは上手くやったんじゃないの。――おれがサイジュをされ始めてから五百年で、あの子は限界だったわけだろう。それが、きみたちが最初に死んでからこちら、もう二千年以上が経っているわけだけれど、それでもあの子はなんとか永らえている。延命はきっちり出来ていたんだ」
俺は息を吸い込んだ。
「延命でしかなかったから、あとどのくらいあの子に余力があるか分かんねぇだろ。
――それに、おまえが魔界を出てから――世双珠がもういちど使われ始めてから、もう百年以上だ」
ヘリアンサスは肩を竦めた。
カルディオスが軽く咳払いをして、それから言った。
「――まあとにかく、悠長にやってる時間はねーんだろ」
首を傾げたカルディオスが、コリウスとディセントラを窺うようにする。
「だからさすがに、海辺の国を全部回っていくような真似は出来ない――」
「――いや」
考え深げに口許を片掌で覆ったコリウスが短くそう呟いて、濃紫の目をディセントラに向けた。
ディセントラは薔薇色の瞳でその視線を受け止めて、こくりと頷く。
「そうね。――なにも実際に、海辺の国を回ることはないのよ」
「……ん?」
俺はぽかんとしたものの、トゥイーディアとカルディオスが、同時に合点した様子で手を打った。
「ああ――」
納得の声を上げた二人に、というかカルディオスに目を向けて、俺は眉を寄せる。
「どういうこと?」
「ルドベキアが思い付かなくても無理はないんだけど、」
と、これはトゥイーディア。
俺の頭の回転の鈍さを庇ってくれて感無量だ。
とはいえこれがトゥイーディアの本音から出た言葉であった場合、俺はトゥイーディアに、実際よりも頭脳明晰だと見積もられているのかも知れなくて、それはそれで彼女の期待を裏切れないことに冷や汗が滲む心地だが。
「何しろきみ、ずっと魔界にいたんだものね。魔界に世双珠はないし――」
そこまで言われて、俺も閃いた。
「あ」と声を上げて、俺も思わず手を打つ。
それを見たトゥイーディアの顔がぱあっと輝いたので、俺もなんだか嬉しくなった。
とはいえその嬉しさは顔にも口調にも、微塵にも表れなかったが。
「あれか――あれか。
国の元首が持ってるっていう、他の国の元首と遣り取りが出来るっていう装置――」
「そう、それ」
指を鳴らしてそう言って、ディセントラが困ったように微笑んだ。
「つまり、私たち、これから皇帝陛下のところに行って、彼にとんでもない運命を突き付けた挙句に、大事な装置を使わせてくださいってお願いしないといけないみたい」
「――いや、無理だろ」
カルディオスが大きく目を見開いてそう言って、立ち上がった。
上背があるカルディオスが立つと迫力があるが、俺たちからすれば見慣れているのでどうということはない。
「どこのどいつが、いきなり気が触れたようなこと言い出した奴らに、国の大事なものを使わせてくれるんだよ。いくら救世主だって言ってもだ」
「もうすぐ魔王になるのよ」
ディセントラが真顔で言って、華奢な指を組み合わせた。
「だから別に、正攻法でお願いすることはない――」
「おまえ、皇宮を襲おうって言ってる?」
カルディオスが、まじまじとディセントラを眺めながら呟いた。
「正気か。これまで、そりゃ多少ははっちゃけたことはやってきたけど、正面切って権力者に喧嘩売ったことはないだろ」
「それに、」
アナベルが言って、ソファの上で身を乗り出した。
憂慮の色が濃い表情を浮かべている。
「この国の皇帝でしょう。下手に喧嘩を売ると、この二人の立場がなくなるんじゃないかしら」
この二人、と示されたのはカルディオスとコリウスだった。
「これから、少なくとも人並みに長生きするつもりなら、この二人の立場がなくなるのは拙いと思うんだけど」
「まあ、そうね」
ディセントラは認めて、しかし小さく首を傾げると、言葉を続けた。
「でも少なくとも、陛下に話を通してから、お許しを頂いてその装置を使うことはないのよ。私たちのうちの何人かが、正攻法で陛下とお話している間に、残りがこっそりその装置を使ってしまえばいいわけで――それが露見しなければいいわけで」
トゥイーディアが飴色の瞳を瞬かせた。
「……無理があるんじゃない? 私も実物を見たことはないけれど、その装置、きっと皇宮の奥の奥にあるんでしょ?」
「場所ならおおよそ僕が分かる」
コリウスが真面目な顔で言って、そこにディセントラが言葉を重ねた。
「それに、イーディがいれば大体の無茶は通るわ」
潜入にかけても無類の強さを発揮するのがトゥイーディアの固有の力だ。
だが、その能力を自ら蛇蝎の如くに嫌うトゥイーディアは、当然のように顔を顰めた。
そして、気乗りしない様子でぼやいた。
「――どうかしら。大体、皇宮ともなればたくさん人がいるでしょう。出会う人たち全員を、私の魔法でどうこうすることはあんまり現実的じゃないわ」
カルディオスがソファに座り直しながら、くるっとヘリアンサスの方を向いた。
ヘリアンサスは退屈そうに左手首のカライスの腕輪を弄っている。
そんなヘリアンサスに、カルディオスが当たり前のように声を掛けた。
「アンス、おまえは?」
ヘリアンサスが顔を上げ、カルディオスを見て、微笑んだ。
そうして首を傾げたので、新雪の色の額髪が、さらっと彼の目許を流れた。
「なんだろう、カルディオス」
カルディオスは肩透かしを喰らったような顔をして、「あ、聞いてなかったんだ」と口の中で呟くと、噛んで含めるような口調で説明した。
「だからさ、この国の皇宮まで行って、そこにいる人を誤魔化して、奥の方まで行って、帰って来るっていう。おまえなら簡単でしょ?」
ヘリアンサスはいっそう深く微笑した。
「そうだね。おれにとっては、難しいことの方が少ない」
「心強いよ」
衒いなくそう言って、カルディオスは首を傾げた。
「俺たちの中の何人かを連れて、皇宮の奥まで行ける?」
ヘリアンサスが小さく笑った。
「カル――」
トゥイーディアが、何かに気付いてはっとしたように小声で呼んだが、カルディオスがそれに反応するよりも早く、悠然と脚を組んだヘリアンサスが応じていた。
「ああ、もちろん。任せてくれていい。
皇宮にいる人間をぜんぶ殺すのに、多分おれなら十秒も掛からないよ」
カルディオスの顔が凍った。
それをいっそ不思議そうに見るヘリアンサスに、慌てて俺が言い募る。
「兄ちゃん、駄目だ。このあいだカルにも言われただろ――それは悪いことだ」
「線引きがよく分からないな」
恐ろしいことに、本気の声音でそう言い放つヘリアンサスに、俺は思わず両手で顔を押さえた。
だがすぐに顔を上げて、怖くてとてもトゥイーディアの方は見られなかったが、重ねて言った。
「ヘリアンサス、おまえが殺す人も、誰かにとっては大事な人だ」
「おれには関係がない」
素気無くそう言って、ヘリアンサスは肩を竦めた。
「別に、きみたちが皇宮に行きたいなら、手伝ってやってもいい。あんまり意義は感じないけれど。
でも、明らかに楽な手段があるのに、他の手段をわざわざ採ってやる意味が、おれにはない」
「――アンス」
カルディオスが強い口調で呼んだ。
「アンス、そういうことをするなら、さすがに俺もおまえの友達じゃいられなくなるぞ」
ヘリアンサスが眉を寄せて、カルディオスの方へ視線を向け――
「――――」
――その視線を、ふっ、と、トゥイーディアの方へ向けた。
トゥイーディアが立ち上がっていた。
俺は息を止め、殆ど無意識のうちに隣のルインを手で庇いながらも、内心で、もういちどトゥイーディアと殺し合うことになるかと思って絶望した。
カルディオスが危機感の募った表情で立ち上がり、二人の間に割って入るかどうか、間合いを計るような目で二人を見ている。
コリウスは、たぶん咄嗟のことだろうが、身構える一歩手前の様子で片手を軽く上げていた。
アナベルがぎょっとした様子で半ば腰を浮かせる一方、ディセントラは既に、慌てた様子でトゥイーディアの方へ手を伸ばしている。
だが、予想に反して、トゥイーディアに激昂した様子はなかった。
彼女はまじまじとヘリアンサスを眺めていた。
数秒、飴色の瞳と黄金の瞳が見合った。
それからゆっくりと息を吸い込んで、トゥイーディアが呟いた。
「――ヘリアンサス、おまえはもう少し、人間の尺度を学んだ方がいい」
ヘリアンサスが眉を顰めた。
トゥイーディアの言葉の意味を取りかねたように怪訝そうだった。
しかしそんな彼の表情には頓着せず、トゥイーディアは小さく息を吐くと、指を一本立てて首を傾げた。
「ヘリアンサス、確かにおまえにとっては難しいことの方が少ないんでしょうけれど、」
ヘリアンサスが黄金の双眸を瞬かせた。
そして、取って付けたように微笑んだ。
「――まあ、そうだね。
だから別にきみたちを手伝ってあげてもいいけど、僕のやり方でのことになるよ」
トゥイーディアが溜息を吐いた。
指を下ろして、彼女が腕を組んだ。
ヘリアンサスが瞬きして、安楽椅子の肘掛から立ち上がった。
談話室は静まり返っていた。
息を吸い込んで、トゥイーディアが口を開いた。
苦虫を噛み潰したような表情ではあったが、その表情の起因たる感情の向きは、どちらかというと彼女自身に向いている様子だった。
「ヘリアンサス、もしおまえが、私の流儀で私たちに手を貸してくれるなら、」
ヘリアンサスが、意外そうに目を瞠った。
どことなく面白がっている様子でもあった。
「――へえ?」
「本当なら、皇宮を出てすぐ――諸島の方に向かってもいいんだけれど」
トゥイーディアはゆっくりとそう言って、少し唇を噛んでから、言った。
「おまえが私の流儀に譲るなら、おまえの寒い季節に名前がつくまで待ってもいい」
「――――」
ヘリアンサスが、不意を突かれた様子で目を見開き、瞬きした。
彼の眼差しが、すうっと逸れて、トゥイーディアの後ろの窓の外を見た。
しばらくそうして窓越しに空を見てから、ヘリアンサスはカルディオスを振り返った。
カルディオスは息を呑んでヘリアンサスを見詰めていた。
ヘリアンサスが息を吸い込んで、トゥイーディアに視線を戻した。
目を伏せて、はあ、と小さく息を吐き、その息の分だけ肩を落とし、それから彼は肩を竦めた。
顔を上げてトゥイーディアと目を合わせ、ヘリアンサスが応じた。
「――妥当な対価だ、ご令嬢」
◆◆◆
「――それで、実際に皇宮に乗り込むとなれば、だけど」
トゥイーディアとヘリアンサスが睨み合っていた数秒のうちに、寿命の三分の一くらいが縮んだような表情ながらも、ディセントラがそう言った。
ちなみに俺も同じような心地で、俺は胃の腑の辺りを無意識に押さえていて、ルインから心配そうな眼差しを注がれていた。
「段取りばっかり話しているわね。
誰がどういう役回りにいるべきか――」
少し黙って腕を組み、ディセントラはコリウスを見た。
「私が陛下の方、あんたが装置の方ね」
コリウスが無表情に頷いたので、「えっ」とカルディオスが声を上げる。
「コリウスも皇帝に会いに行く方がいいんじゃねーの? 辺境伯の跡取りだろ。皇帝とも会いやすいんじゃねーの」
「残念ながら、カルディオス」
コリウスが冷徹な声で言った。
「例の装置のおおよその位置が分かるのは僕だ」
俺は思わずカルディオスを窺ったが、カルディオスはぶんぶんと首を振ってみせた。
こいつも地位のある生まれだが、例の装置の場所までは知らないらしい。
そこは将軍の息子の生まれと、一応は皇帝と血縁もあるらしき辺境伯家の生まれの違いということか。
「だから、僕が例の装置の方へ向かわざるを得ないし、そうなるとディセントラは陛下との謁見に臨まざるを得ない」
「おまえらがいないと、俺らが何するか、分かったもんじゃねーもんな」
真顔でカルディオスがそう言ったので、コリウスは一瞬、カルディオスを張り倒しそうな顔をした。
とはいえすぐに息を吐いて、うんざりしたように手を振って言葉を続ける。
「――そうだ。
だからカルディオス、消去法で、おまえがディセントラと一緒に陛下との謁見――」
「おまえが行かないなら、そうだよな」
と、これは納得した様子でカルディオスも頷く。
アーヴァンフェルンで貴族の地位にあるのは、コリウスとカルディオスの二人なのだ。
コリウスが謁見に臨まないならば、カルディオスがそちらに向かうことになるのはある意味当然だった。
カルディオスは頷いてから、ちらっと悪戯っぽくヘリアンサスを窺う。
「だいじょーぶ、アンス? 俺がいなくて寂しくない?」
ヘリアンサスは皮肉っぽく微笑んだ。
「心配をどうも、カルディオス。残念ながら、二千年くらいで慣れている」
カルディオスは肩を竦めた。
その様子を黙殺しながら、ディセントラが指揮を執るようにして俺を指差す。
「ルドベキア、あんたもコリウスと一緒に装置の方」
俺は頷いた。
言うまでもないが、俺がのこのこ国の最高権力者の前に出て行くのは褒められた話ではない。
レイヴァスほどの大騒ぎにはなっていないとはいえ、こちらの国でも、一応は魔王の特徴として、漆黒の髪というのは伝わっているだろう。
僅かとはいえ危険のある方へ、自ら進んで向かうことはない。
トゥイーディアが軽く手を挙げた。
「じゃあ、私は陛下との謁見の方?
ヘリアンサスがいるなら、皇宮の奥へ向かうのに私は要らないよね?」
トゥイーディアが、ヘリアンサスへの一種の信頼すら示したことに、俺は驚倒する思いで目を見開いた。
恐らくその場の全員がそうだったが、全員が揃って、その驚きを呑み下した。
まあ、トゥイーディアもレイヴァスの名門の娘だから、地位はあるのだ。
国王との謁見向きの人材といえばそうだが――
「――いいえ、イーディ」
ディセントラが息を吸い込み、柔らかくそう言って、にこっと微笑んだ。
「イーディは装置の方。――私たちは全員、一応は、救世主として陛下に顔も知っていただいているでしょう。だから無理に地位のある人間を謁見の方に集める必要はないの。
イーディには装置の方へ行ってもらって、他の国の元首がたと話してもらわないと」
「――えっ?」
トゥイーディアが瞬きした。
鳩が豆鉄砲を喰らった感じで、たいへん可愛い。
「私が? ――コリウスじゃなくて?」
「コリウスに、台本を書いてもらうならそれでもいいとは思うけれど」
ディセントラが軽く笑ってそう言って、苦笑した。
「実際に魔王の首を落とした救世主は、イーディ、あなたなの。
それがどこまで他の国にも知れ渡っているかは分からないけれど、少なくとも他の救世主が言うよりは、魔王の首を落とした救世主が言う方が、どんな言葉でも重みがあるわ」
トゥイーディアが俺を見て、少し気まずそうにしたあと、ディセントラに視線を戻してこくりと頷いた。
ディセントラは応じるように頷いて、流れるようにアナベルに視線を移す。
「――そんなわけでアナベル。こっちの頭数が寂しいから、アナベルは謁見の方に来てちょうだい」
「了解」
アナベルが彼女らしい無愛想さで頷く一方、俺は隣のルインの肩を、ぐいっと掴んで引っ張り寄せた。
「こいつは俺と一緒に来るけど、いいよな?」
みんながルインを見た。
ディセントラが眉を寄せた。
「その子なら変なドジも踏まないでしょうし、別にそれでもいいけれど――ムンドゥスのことを誰が見ておくのよ?」
ぐ、と俺が言葉に詰まった。
ルインが、ちょんちょん、と俺の肩をつついて、「兄さん、僕が……」と。
「僕があの子を見ておきますから」
俺は項垂れた。
「いつも悪いな……」
「滅相もない」
真顔でそう言うルインを後目に、コリウスがカルディオスに声を掛けている。
「――陛下に謁見の申し入れをしなければ。
表向きには僕が会いに行くわけではないから、おまえの名前を使うのがいいかと思うが――」
カルディオスが困惑したように前髪を弄る。
眉を顰めて、彼は危ぶむように。
「別にいいけど、俺、ファレノンの名前の印璽は屋敷に置いてんだよ。仮にも皇帝宛ての書簡だろ。印璽なしで通るか?」
コリウスが眉を寄せる。
「――僕が取って来ようか」
「あー、いや、それより――」
カルディオスが言い淀んでから、衒いなくヘリアンサスを振り返った。
「アンス、俺と一緒に俺ん家の領地まで行かない?
俺の印璽が要るんだけど、おまえなら一瞬でしょ。俺を連れてってよ」
ヘリアンサスは戸惑ったようだった。
「別に構わないけど……」
「帝都までは普通に汽車で行くわよね?」
ディセントラが焦った口調で確認した。
頑としてヘリアンサスの方は見ていなかったが、彼を意識していることは明白だった。
――まあさすがに、一応は和解に等しい状況にあるとはいえ、長年に亘って自分を殺し続けてきた相手に自分の命を預け、瞬間移動に巻き込まれたくはないだろう。
「それはもちろん」
と、これはトゥイーディア。
「ムンドゥスもいるもの――」
「そうよね」
あからさまにほっとした顔をするディセントラ。
そのタイミングで、俺はそうっと腰を上げ、怪訝そうにするルインに掌を向けて合図してから、短い距離を歩いてコリウスの傍に腰を下ろした。
コリウスが訝しそうに俺を見る。
とはいえ、俺がこれから言い出すことの動機の全部を知っているのはこいつだけなので、援護射撃を期待するとすればこいつしかいないわけで――
「…………?」
目が合って数秒、コリウスが怪訝そうに眉間に皺を寄せつつ、ちょっと思考を巡らせるような間を取った。
俺は口を開いたが、何を言うよりも先に、俺がコリウスを見る目付きから察したのか、彼が呆れたように息を吸い込んだ。
「おまえ――」
じゃっかん声を低めてそう言って、コリウスが端正な仕草で、片手で額を押さえる。
俺は少しばかり哀願の気分になった。
「いやだって、世話になったし……」
「おまえが一方的に世話になったわけではないだろうに……」
心底疲れた様子でそう言ったものの、コリウスが明確に反対する様子はなかった。
俺はほっとして、改めてみんなを見渡した。
アナベルがディセントラの方に身体を傾けて、「謁見って言っても、あたしは置物よろしくじっとしていればいいんでしょう?」と臆面もなく確認しており、トゥイーディアとカルディオスが肩を震わせて笑っている。
「――あのさ、」
俺が口を開いたので、みんながこっちを見た。
ディセントラが、俺の傍のコリウスの仏頂面から何かを察したのか、花貌を少し顰めてみせる。
「……ルドベキア? 面倒ごと?」
「いや、面倒事というか」
俺は言い差して、もういちど、伺いを立てるようにしてコリウスを見た。
コリウスは諦めたのか、「言っていいよ」とばかりに顎で俺に合図する。
ほっとして、俺はみんなの方に向き直り、続けた。
「――出来ればブロンデルに寄って、ダフレン社長にも一言いっておきたいんだけど」
みんなが一斉に瞬きしたので、なんだか音が鳴りそうだった。
一拍の沈黙ののち、アナベルが首を傾げ、呟いた。
「……誰だっけ、それ」
「おい」
俺は思わず突っ込んだが、そちらに拘泥してもいられず、一気に不機嫌そうに眉を顰めたディセントラの方に注意を持っていかれた。
アナベルには、コリウスがじゃっかん投げ遣りに、「世双珠の運送会社の社長だよ。税金絡みで揉めていただろう」と、記憶を想起させてやっている。
アナベルは手を打って、「ああ」と。
「密輸団絡みで大迷惑したところね」
「ええ、ほんとに大迷惑だったわね」
と、あの件の立役者でもあるディセントラが苦々しげに言って、俺を半ば睨むようにした。
「なんでわざわざ、あの会社にも断りを入れたいのよ。面倒なことになるって分かるでしょ」
「会社に――っつうか、社長に」
俺は言って、ちらっとカルディオスを見た。
カルディオスも思いっ切り顔を顰めていた。
ヘリアンサスがそんなカルディオスを、注意深く見守るような眼差しで見詰めている。
「どっちでも同じでしょ」
ディセントラがぴしゃりと言ったが、俺は負けじと言葉を続けた。
「違う。俺が――個人的に――あの社長に世話になってる」
――俺がコリウスと一緒に、〈呪い荒原〉の近くにまで派遣されたとき、俺は、俺のせいで一人の兵士を死なせている。
シャロンさんだ。
俺が守れなかったばかりに、〝えらいひとたち〟が彼を殺した。
だからその罪滅ぼしという名の自己満足のために、俺は無茶を言って、ダフレン社長に浮民の救済を依頼したのだ。
〈呪い荒原〉が拡がるがために発生する浮民の救済――こうして振り返ってみれば、〈呪い荒原〉そのものを生み出したのが俺なのだから、あれはまさしく自己満足、俺の責任をダフレン社長に押し付ける行為に他ならなかった。
それを知っているのはコリウスだけだ。
あのとき、俺は相当に落ち込んでいたから、それを蒸し返すようなことを、こいつはみんなにも言わなかった。
「……個人的なことでもないだろう」
コリウスがぼそりとそう言った。
俺は胸が痛んだ。
ディセントラは眉を顰めたままだった。
そうしていると、地が美人なだけあって、こいつは相当に迫力のある顔になる。
「お世話になった? 聞いてないけど――」
「ルドベキアが、」
トゥイーディアが、ディセントラを遮るようにして口を開いた。
ディセントラが肩を竦めて、話をトゥイーディアに譲る様子をみせる。
そんな彼女に閃くような微笑みを見せてから、トゥイーディアは生真面目な表情で俺を見た。
「ルドベキアがお世話になったっていうなら、もちろん、一言くらいは警告に行ってもいいと思うわ。
ただ――」
少し言い淀み、トゥイーディアが目を伏せる。
彼女を困らせていることを察して、俺は苦い後悔に奥歯を噛み締めたが、彼女はすぐに顔を上げた。
トゥイーディアはヘリアンサスを見ていた。
ヘリアンサスは話を聞いているのかいないのか、無言で窓の外を眺めている。
窓から斜めに差し込む陽光が床に落ちて、細長い光溜まりを作っていた。
トゥイーディアはしばらく、ヘリアンサスの白い横顔を眺めていた。
それから小さく息を吐いて、彼女が俺に目を戻して、微笑んだ。
「――そうね、ルドベキアがそう言うなら、帝都のあとにでも伺いましょう」
「――――」
お礼を言おうと思って、言えなかった。
言葉と声が喉に痞えて、俺は不機嫌な無表情で彼女から顔を逸らしていた。
トゥイーディアは少し悲しそうな顔をした。
それに気付いたのか、コリウスが軽く指を鳴らして、彼女の視線を自分に向けさせる。
「では、ブロンデルにも、面会を求める手紙でも出しておこうか」
彼はそう言って、極めて真面目に続けた。
「あの社長はディセントラがお気に入りだから、ここはディセントラの名前で出すのが賢明だろう」
「ああもうっ」
ディセントラが不機嫌にそう言って、脚を組んだ。
自分は反対していたところ、堂々と面会者の筆頭にされそうなのだから、不機嫌になる権利はあるというものだろう。
すみません、と俺は頭を下げる。
それを見て、ディセントラは深々と溜息を吐いた。
「結構よ。お手紙くらい書きますとも。
――コリウス、上等な便箋と封筒を買って来てくれる」
コリウスは肩を竦めた。
真面目腐って彼は言った。
「分かった。
――この町に、おまえのお眼鏡に適うものがあればいいんだけれどね」
(注釈)
・「例の装置」についてですが、こちらについては2章5話をご参照ください。




