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31◆ 父母のこと

 カルディオスが、「そうと決まれば弁当を調達できるか確かめて来る」と、意気揚々と居間(パーラー)を出て行こうとしたので、俺も当然ながらそれに続こうとしたが、ぐいっと後ろから襟首を掴まれて、変な声で呻いて後ろによろめくこととなった。


 びっくりして振り返ると、そこにめちゃくちゃ不機嫌な顔のコリウス。


 ――え、なに? なんで?


 混乱してディセントラとアナベルを見ると、二人とも大体コリウスと同じ表情。

 ますます戸惑って、助けを求めてカルディオスを見る。


 カルディオスは扉の手前で足を止めてこっちを振り返っていたが、なぜか俺ではなくてコリウスを見ていて、得たりと頷いて言っていた。


「――あー、分かった、コリウス」


 何が分かったんだ。


 困惑し続ける俺を後目に、カルディオスがヘリアンサスを手招きする。


 ヘリアンサスは首を傾げて、カルディオスの方へゆっくりと歩みを寄せた。

 掌底の部分で目許を拭って、その目を細めて怪訝そうにする。


「……なに?」


「アンス、先に外で出て、玄関で待ってて」


 カルディオスがそう言って、にこっと笑った。


「さすがの俺でも、おまえを連れて厨房に行く勇気はねーし、ここに居たらコリウスたちが気まずいからね。

 ――で、玄関に俺とルドが追い着いたら出発ってことで」


 ヘリアンサスが瞬きして、俺を振り返った。


 俺はそのときにはコリウスの顔を見て、彼がこの後に――理由はともあれ――どういう用事があって俺を引き留めたのかを察していたので、咄嗟にカルディオスとヘリアンサスを呼び留めそうになった。


 が、それに先んじて、カルディオスがヘリアンサスを居間(パーラー)の外に引っ張り出してしまっていた。


 ばたん、と閉まる扉に、俺は半端に手を伸ばし掛けたものの、ぐっとその手を拳にして身体の脇に下ろしつつ。


「……えーっと」


 俺はそろっ、とコリウスの表情を窺い、次いでアナベルとディセントラを窺い、取り敢えずにこっと笑ってみた。


 ムンドゥスは相も変わらずぼんやりしていて、勿論のことだが助けにならない。


「なんだろう……俺、何かしたかな……」


 コリウスの顔が結構ガチに怒っているが、俺には怒られる心当たりが全くない。

 何を言われても「冤罪だ!」と返せる状況であるはずなのに、今まで俺がコリウスに叱られた数ある事例を思い返してみても、冤罪だったことが一度もないために弱気になってしまう。


 コリウスが、ちら、とディセントラとアナベルの方を見た。

 二人が揃って、「どうぞ」みたいな手振りでそれに応じた。


 俺はちょっと下がった。


 コリウスが、すう、と息を吸い込んだ。


「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、あそこまで馬鹿だとは思わなかった」


 厳めしくそう言われて、俺はなおも一歩下がりつつ、無罪の主張のために両手を軽く挙げてみせた。


「なんでだよ? 何がだよ? 俺、何かしたか」


 言った瞬間、俺は殴られるかと思った。

 そのくらいの怒気がコリウスの目に走った。


「おまえは――!」


 思わず俺はたじたじと下がる。

 殴り合いなら俺に軍配が上がるだろうが、口論で俺がコリウスに勝ったことなどない。


 果たせるかな、コリウスはこっちに詰め寄りながら。



「――自分が大事にされていることも少しは自覚しろ!

 自分を犠牲にして万事解決のつもりだったか!?

 残念ながら、おまえには想定外だったようだが、こちらにも友人を犠牲にする心苦しさ程度ならある!」



「……――」


 俺は唖然として、いっそぽかんとした顔でコリウスを眺めてしまったが、それがいっそう彼のお気に召さなかったらしい。


 コリウスの額に青筋が立つのを見て、ついでにディセントラとアナベルの表情も氷点下にまで温度を下げたことを見て取って、俺は迷わずその場に膝を突いて、叱責を頂戴する姿勢を取った。




 そこから優に十五分、俺は頭の上に降り注いでくるコリウスの珍しいくらいに激昂したお叱りと、ディセントラとアナベルが合いの手のように入れてくる追加の叱責を受け続けた。


 とにかく頭を下げて平身低頭、豊富な語彙で繰り出される憤懣の文句の数々に、誰か助けてくれと思わないこともなかったが。



 ――だが、まあ、こういう理由で怒られるのなら、悪くない。













 やっとのことで叱責から解放され、俺はよろよろしつつ居間(パーラー)から出てルインを捜したが、廊下にルインは見当たらなかった。


 部屋に戻って休んでいるのかも知れない、と思いつつも気になって、俺はあちこちを見て回りながら玄関へ向かう。



 そうやって俺が玄関まで辿り着いたときには、既にヘリアンサスもカルディオスもそこにいた。

 そして、俺が捜していたルインもいた。


 ヘリアンサスは玄関から少し離れて、ぼんやりとその先の小川の方を眺めていて(もしかしたら、川の中州にいた大きな鳥を観察していたのかも知れない)、カルディオスは玄関先の(きざはし)に、膝の上に頬杖を突いて腰掛けており、その脇には籐細工の籠がどんと置かれている。


 ルインは玄関扉のすぐ外に立っていて、なんとなく籐の籠を見守っている風情だった。


 玄関扉を引き開けて外に出て、真っ先にルインを見た俺は、思わず声を上げた。


「ルインおまえ、ここにいたのか!」


 ルインが相好を崩して笑ってくれて、ちょっと頭を下げてきた。


「カルディオスさまに、お荷物持ちをご用命いただきまして」


 俺は覚えず、「人の弟に何させてんだ」という目でカルディオスを見てしまった。


 そのときにはカルディオスもこっちを振り返っていて、「冤罪だ」と言わんばかりの大袈裟な表情を浮かべている。


「違ぇよ、暇そうにしてたから、良かったら一緒に散歩しない? って誘っただけ」


 ここまで自分で運んできたことをアピールするように籐の籠の持ち手部分を軽く叩いて、それから改めて俺を観察したカルディオスが、ふっと噴き出した。


「それはそれとして、――やっぱ、怒られた?」


 ルインが訝しそうに俺を見たが、彼は何も言わなかった。

 俺は「気にするな」という意味を籠めてルインに向かって肩を竦めてみせて、それからカルディオスに向き直る。


「怒り心頭だった。三人掛かりで怒られた。

 分かってたんなら残って庇ってくれても良かったじゃねえか」


 恨み言っぽく言ってみると、カルディオスは華麗な笑顔を浮かべた。


「あそこに残ってたら、俺だって便乗して怒ってたよ」


「なんだよ、それ」


 ちょっとわざとらしく、俺はむすっとしてそう応じて、それからカルディオスの脇の籠を指差した。


「弁当、調達できたの?」


「出来た出来た、俺、可愛くおねだりすんの得意だから」


 そう言いながらカルディオスが立ち上がって、伸びをする。

 それからにやっと笑った。


「おまえやアンスと違って、俺はイーディと仲がいいから、ここの人たちの覚えもめでたいしね」


 俺は顔を顰めたが、これは半ばは本心だった。


 そのとき、ヘリアンサスが振り返った。

 こちらを向いて目を細める彼に、俺は「来たよ」という意図で手を振ってみる。


 ヘリアンサスが俺たちを待つ風情を見せたので、カルディオスがよいしょと籠を持ち上げた。


 ルインがそっちに駆け寄って、籠を受け取ろうとする。

 カルディオスはこういうときに遠慮はしないので、頓着なく籠をルインに渡した。


 そのまま一足先に(きざはし)を下りて、明るい陽光に照らされる煉瓦の道をヘリアンサスに向かって歩き始めるカルディオスを追い掛けつつ、今度は俺がルインの手から籠を取り上げる。

 ルインが若干の抵抗を見せたものの、一回こっちに取り上げてしまえば、あとは上背のある俺が籠を高く持ち上げてしまえばルインには奪い返しようがない。


 おろおろするルインの頭を軽く小突いたところで、俺たちはカルディオスとヘリアンサスに追い着いた。


 ルインの表情が少しばかり不思議そうなものであることに気付いて、俺は思わず、肘でカルディオスを押して、意味もなく声を潜めて訊いてみる。


「――おまえ、ルインにこの状況を何て説明したの」


 カルディオスは悪びれなかった。

 至極当然という顔で応じた。


「え? 別に、なんも説明してねーよ?」


 俺は空いている方の手で顔を押さえて、弟の心中を慮って呻いた。


 ヘリアンサスの方が他人を気にするとは思えないが、ルインの心境や如何に。

 特にこいつは、過去に俺たちがヘリアンサスを本気で殺そうとしているのを(そして、その結果として見事に返り討ちにされたところを)見ているのだ。


 ヘリアンサスが身を翻して、さっさと歩き出す。

 カルディオスがその隣で、「どこ行くの?」と尋ね始めた。


 その二歩ほど後ろを歩き始めつつ、俺は前を行くヘリアンサスの背中を指差して。


「ルイン、めちゃくちゃ不思議に思うだろうけど、あいつは前まで魔王だった奴で――」


「はい」


 従順に頷くルインに、「もうちょっと訊き返したりしていいんだぞ」と言ってから、俺は言葉を続けた。


「こう――俺の――なんだ、人生最初の保護者というかなんというか」


 ヘリアンサスがちらっと俺たちの方を振り向いたので、俺は口早に。


「――ヘリアンサス、多分ちゃんと紹介したことなかったけど、こいつは俺の弟のルイン」


「弟?」


 ヘリアンサスが首を傾げた。

 そのまま、流れるように隣のカルディオスに目を向けた。


 カルディオスは視線を向けられることを分かっていたような顔で、「弟っていうのは、」と。


「歳の近い家族かな。年下の」


 ヘリアンサスは少し考えてから、頷いて、前に向き直った。


 その遣り取りに、多分こうやってヘリアンサスはこの世界のことを色々と知っていったのだ、と思いつつ、俺はルインに視線を戻す。


「――で、おまえもカルからちょっとは聞いてただろうけど、色々あって俺たちは決定的に仲が拗れてて」


 ルインは激しく瞬きしたものの、頷いた。


「はい」


「で、つい最近、なんとかかんとか仲が修復し始めて一緒にいるようになって、」


 ルインは両手で頭を押さえてから、頷いた。


「はい」


「――で、ついさっき、ちゃんと仲が修復したところ」


 ルインはふうっと息を吐いて、頷いた。


「はい」


 俺はぽんぽんとルインの頭を叩いた。


「なんか不思議に思うことあったら訊けよ」


 ルインは俺を見上げて、眩しそうに目を細めた。


「はい――あの、都度、訊かせていただきます」


 よしよし、ともういちどルインの頭を撫でて、その機に乗じてしれっとルインが俺から籠を受け取ろうとしてきたので、俺はやんわりと彼を押し退けることとなった。



 ――ヘリアンサスは、確かにこの荘園についてはトゥイーディアの記憶を丸ごと譲り受けたらしかった。


 橋を渡って道を逸れ、小さな森の中に入ってなお、足取りに一切迷いが見られない。


 ただ、風に揺れてざわざわと鳴る梢を見上げたり、木漏れ日が地面に光溜まりを作っている場所を踏むために変な方向へ足を向けたりと、俺が戸惑うくらいには自由奔放に歩いた。


 半ば以上が下草に埋まった倒木を乗り越えるときには、わざわざ倒木の端から登って、その倒木の上を器用に均衡を保って歩いてから、こっちに飛び降りてきていた。


 俺もルインも面喰らっていたが、カルディオスは含み笑いを漏らしていた。


「大変だったんだぞー、あいつと初めて会ったとき。マジで俺、自分が発狂するんじゃないかと思ったもん」


「ああ……まあ、その……ごめん」


「何か見る度にあれは何だこれは何だって訊いてくるし、挙句に日が暮れたらちょっと悲しそうにして、どこに行けば青い空が見られるのかとか訊いてくるし、お月さま見て愕然としてるし」


 胸が痛んだので、俺は率直に胸を押さえた。


「ご、ごめん」


 カルディオスは軽く笑って、先を歩くヘリアンサスに向かって、少しばかり声を張った。


「アンスー、どこ向かってんの?」


 ヘリアンサスが振り返った。


「この先に――」


 言いながら、彼が左手を持ち上げて行く手を示したので、手首のカライスの腕輪が揺れて、白く木漏れ日を弾いて光った。


「――ご令嬢が以前まで気に入ってた、半分壊れた温室(コンサバトリー)があるんだけど」



 ――確かにあった。



 木立が途切れた広場に、ちょこんと可愛らしい温室が建っている。


 広場には、昔はきっちりと幾何学模様に石畳の小径が敷かれていたのだろうと分かる痕跡があるが、今はもう下草が敷石を突き破って顔を出していた。

 小径の間には黒い石が積まれた花壇が設けられていたが、これももう積極的に管理はされていないのか、好き放題に葉を伸ばす草花が溢れていた。

 だが、ずっと放置されていれば、とうの昔に花壇は崩壊しているだろうから、これは恐らく、トゥイーディアがここの、ちょうどいい塩梅の荒れ方を気に入っていると察したオーディーやケットが、わざと要所要所に手を入れつつ、手を入れていることをトゥイーディアには知られないようにしたものと思われる。


 温室は小さな平屋建て、木と硝子を組み合わせて造られている。

 温室は広場の真ん中に位置していて、四方は全て格子枠に分厚い硝子を嵌め込んだ窓になっていた。

 全体的にずんぐりした形をしていて、屋根が小さな尖り屋根なので、まるで分相応に小さな帽子を被っているように見える。


 ただ、温室は使われなくなって久しいようで、入口とみられる鋲飾りの施された木の扉は固く閉ざされて、大きな錠が掛かっていた。

 扉の下三分の一ほどが積まれた石で塞がれていて、どうにも扉は開きそうにない。


 ヘリアンサスはぐるっと温室を回り込んで、ついて行った俺たちに、風雨に晒されて草臥れた様子の、だが随分とがっしりした造りの梯子を見せた。


「ここを昇ると、」


 と、ヘリアンサスは屋根に指を向けつつ。


「屋根の上に上がれるんだけど、そこにいい具合に穴が開いていて、中に入れる」


「ははあ、それでイーディが遊んでたってわけだ」


 カルディオスが納得したように呟いて、まじまじと温室の硝子窓を観察し始めた。


 磨かれなくなって久しい硝子はすっかり曇って、格子に嵌め込まれた硝子一枚一枚の縁が白く汚れている。

 硝子の真ん中の方でさえ埃を被っていて、中は朧ろにしか見えなかった。


 だがどうやら、カルディオスはその窓が気に入ったらしい。

 埃を拭うように格子に指を這わせたあと、「すっげぇ」と声を出したかと思うと、嬉しそうに顔を上げて俺たちを見た。


「この格子、一本一本全部に、蔓の模様が彫ってある」


 細工物が好きなのはこいつの習性である。


 カルディオスがぐるっと温室を回り込んで格子の細工を観察する一方、俺は少し離れた場所に籠を置いて(置くや否や、番犬のようにルインが走ってきたわけだが)、それからヘリアンサスに見せられた梯子に寄って行って、警戒しながら足を掛けてみた。


 さすがに脆くなっているかと思いきや、意外にも梯子はしっかり俺の体重に耐えた。

 大丈夫そうだと判断して、梯子を昇って屋根の上を覗き込んでみる。


 ヘリアンサスが言ったように、温室の天井に大穴が開いていた。

 昔は細長い硝子を嵌め込んだ格子屋根だったと分かるが、その格子の一部が盛大に折れて、硝子も割れているのだ。

 雨の直撃を受けるだけあって、窓の硝子とは比較にならないほど灰色に汚れている硝子からは、中の様子は一切見えない。


 ちょっと身を乗り出して穴から中が覗き込めるか試したあと、俺は思い切って梯子を昇り切って、穴の縁に手を置いて、ちらっと中を覗いたあと、興味本位で中に飛び降りてみた。


 直前に、「兄さん!」と咎めるように俺を呼ぶルインの声が聞こえた気もしたが、中に何があろうと別に壊したりしないし、逆に怪我をしないかという心配なら、俺はまず大丈夫なので。

 それに、トゥイーディアが遊んでいた場所なら俺も入ってみたい。


 飛び降りて、膝を曲げて難なく着地。

 直後に巻き上がった濛々たる埃に咳き込む。


 中は薄暗いが、汚れた硝子がなおも黄色っぽく陽光を通して、影も落ちないほどに弱い独特の明るさが差している。


 げほげほと咳き込む俺の声は外にも届いたのか、窓の向こうに薄ら影になって見えるカルディオスが大笑いしている様子。


 目に埃が入ってきて、俺は涙ぐみつつ顔の前でぱたぱたと手を振った。


 窓から差し込む黄色い光の中で、夥しい埃が渦を巻いて舞い上がっている様子が見える。

 袖で鼻と口を覆ったが、籠もったような独特な匂いが鼻を衝いて伝わってきた。


 しばしばと瞬きをしながら足許に目を向けると、古びた丸椅子と、逆さまに伏せられたブリキのバケツと、頑丈そうな、両手で抱えられるほどの大きさの木箱が乱雑に積んであるのが見えた。


 なるほど、幼少期のトゥイーディアはこれを足場にして、ここから屋根の穴に手を伸ばしていたらしい。


 ぐるりと回りを見渡してみる。

 壁際――つまりは窓際には、木造の段が造られていて、そこに多種多様な大きさの植木鉢が置かれていた。

 中には割れているものもあって、段の上に黒い土が零れたりもしていた。

 植木鉢の植物は、当然ながら全て萎れて乾涸びている。


 だが一方、足許の踏み固められた土からは、根気強く植物が頭を出したりもしていた。

 雨が吹き込んだ名残か、段の下の地面が少し濡れたままになっている。


 温室の中央部には、昔は使われていたのだろう古いテーブルと椅子が置かれていて、その傍には園芸用具が仕舞ってあったのだろう棚。

 椅子はとうの昔に脚が折れていて、無頓着に横倒しにされていた。


 テーブルの上には、くしゃくしゃになって埃が積もった毛布が置かれていて、恐らく幼少期のトゥイーディアが、この場所が気に入ったものの寒さに難儀して、防寒のために持ち込んだものだろうと思われた。


 毛布の上には、これも埃まみれになった本が一冊――トゥイーディアが、持ち込んだものの忘れ去ったものと思われる。


 慎重に足を動かしてテーブルに寄って見てみると、本はどうやら盤上遊戯の差し方を指南するものであるらしい。


 意外だ。

 トゥイーディアはこういう趣味本とか実用書よりも、詩集なんかの方が好きなのに。


 更に本の近くで毛布に埋もれるようにして、小さな携帯用の遊戯盤も埃を被っていた。

 真ん中に蝶番がついていて、折り畳めるようになっている盤だ。


 それを見て、俺は内心がもやっと曇るのを感じていた。



 ――誰だよここでトゥイーディアと遊んでたやつ。



 俺がそう思ってむっと顔を顰めたところで、背後でとんっ、と軽い足音がした。


 振り返り、その動きでまた盛大に巻き上がった埃に咳き込み、涙ぐみながらそちらを見ると、ヘリアンサスがそこに立っている。


 深青色のガウンのポケットに両手を突っ込んで、興味深そうに周囲を見回しているこいつは、ここが埃まみれの温室であることは感じさせない。


 咳き込んでいる俺を面白そうに見てから、ヘリアンサスがすっ、と俺に近寄ってきて、それからテーブルの上の本と遊戯盤に気付いた様子で、まじまじとそれを見た。


 それから、とんとん、と俺の肩を叩いて、頭上の一点を指差した。

 ようやっとのことで咳を収めつつ、俺もそちらの方を見上げる。


 ――天井を支える梁の隅に、古い鳥の巣が見えた。

 今はもう永らく使われていないのか、乾いた残骸といったところだったが。


「――あれに気付いて、ご令嬢はここで遊ぶのをやめたみたい」


 ヘリアンサスがそう言って、呆れた風に微笑んだ。


「鳥が巣立つ頃にはまた来ようと思ってこれを置いたままにして、結局そのまま忘れてた、ってとこかな」


 なるほど、と思いはしたが、俺は応答できる状態ではなかった。

 数年間積もりに積もった埃が舞い上がって、喋るとそのまま咳き込みそうだった。


 ヘリアンサスには、俺がどういう状況にあるのか分からないらしかった。

 むしろ不思議そうに俺を見ている。


 なんでだ。

 こいつにも今は血肉があるなら呼吸しているはずなのに、無意識に自分が吸う空気を綺麗にしているとか、そういうことか。


 俺が――埃を立てるのを恐れつつ――、手振りで自分の状況を伝えようとしていると、数秒してやっと思い当たったらしい。


 ふっと軽く噴き出すと、俺の手首を握って、それからもう片方の手指を、ぱちん、と鳴らした。



 ――突然外に連れ出されて、俺は深呼吸して軽く咳き込んだ。



 だが、かつて――もう千年以上前になるが――コリウスに連れられて瞬間移動したときとは違って、内臓が引っ繰り返るような感覚はなかった。


 陽光に目を細めながら顔を上げると、ヘリアンサスが面白そうに俺を覗き込んでいる。


 ルインが俺に駆け寄ってきて、ぱたぱたと背中と肩を叩いて埃を払ってくれる一方、カルディオスは温室の傍でしゃがみ込んで爆笑している。


「――ですからお止めしたのに」


 ルインが若干ご機嫌斜めにそう言うのが聞こえてきて、俺は息を吸い込んで、そっちを振り返った。


「ごめんごめん、中に入れそうと思って、つい」


「子供じゃないんですから」


 窘められて、すみませんと俺が頭を下げていると、カルディオスが必死に笑いを堪えながら立ち上がり、こっちに歩いて来た。


「おい、遥か年下になんで叱られてんだよ、ルド。

 ――まあいいや」


 そう言って、カルディオスがにこっと笑う。


 ちょうど風が吹いて、ざああっと周囲の木立の梢が鳴った。


 花壇の植物が一斉にそよいで、カルディオスが風に目を細める。


「なあ、メシにしよーよ。俺、腹減った」









 突然、「昼食を詰めてください」と言い出したとは思えないほど、ジョーは気前よく食事を分けてくれていた。


 俺もルインもかなり感じ入ったが、元より他人への遠慮をあんまり持ち合わせていないカルディオスは、「もうすぐ屋敷を空けなきゃいけないから、残ってる食材は使っちゃわないと(まず)いんでしょ」と、臆面もなく言い放っていた。


 俺はカルディオスの頭を軽く叩いたが、カルディオスであっても実際に籠を渡されたときには、ジョーに丁重に礼を述べただろうことは疑いがない。

 遠慮がないことと誠意に欠けることは違う。


 とはいえ、カルディオスの言ったことは事実だ。


 なまじ世双珠があり、ある程度の保存が利くということがあって、屋敷には貯蔵されていた食材があったらしい。

 それを使い切らねばならないことは当然だった。



 籠の中にはまず、丁寧に布で包まれたミルクの瓶が入っていた。

 木のコップも幾つか入っていて、それも布で包まれている。

 清潔な布巾で包まれた丸いパンが幾つも入っていて、そのパンには切れ込みが入れられて、中にバターが塗られて、薄く切って炙った肉やら香草やらが詰め込まれている。

 円筒形の錫の容器が三つ、これも布に包まれて入れられていて――容器の形としては、汽車の中でスープが配られるときなんかに見掛けるものに似ている。円筒形で、輪っかの形の持ち手と蓋が付いている――、中に細かく刻んで煮込んだ野菜のスープが入っていた。


 俺はしばらく、よくこんな携行に都合のいい容器があったものだ、と考えていたが、数秒してはっと思い当たった。

 ――リリタリス家は騎士の家系だ。

 つまりこれは、遠征のときに携行する容器なのだ。



 ヘリアンサスが当然のように地面に座って食事をする様子は、俺にはやや違和感のあるものだったが、カルディオスは懐かしそうだった。


「だって俺ら、ずーっと野宿で旅してたし。町に入っても店とかで食うんじゃなくて、結構露店で買い食いとかで済ませてたし」


 と、俺の指摘に対してカルディオスは言って、「な?」とヘリアンサスに同意を求めていた。


 ヘリアンサスは胡散臭そうにパンに挟まれた肉を見ていたが、カルディオスがそれに気付いて、「それ、羊肉じゃないよ」と保証するに至ってやっと顔を上げ、「そうだね」と。


「そうだね――あんまり町中でものを食べることはなかったね」


 ルインは不自然なまでにきっちり背筋を伸ばしていた。


 こいつからすれば、ヘリアンサスは戦争並みに火力がある俺たちの猛攻を、あっさり全部捌いてのけたとんでもない化け物でしかないだろうから、気持ちは分かる。


 そんなわけで俺はルインとヘリアンサスの間にいて、ヘリアンサスとカルディオスの遣り取りに、思わず突っ込んでいた。


「待って、ヘリアンサスおまえ――羊肉だめなの?」


 そういえば、ちょっと前にトゥイーディアが「羊肉の美味しい店を教えてほしい」と彼女の従兄に言って、カルディオスが慌ててそれを撤回させようとしていたことがあったが――まさかヘリアンサスに好き嫌いがあったとは。


 ヘリアンサスは顔を顰めた。


「あの、口の中に残る感じが、嫌だ」


「初めて食わせたとき、『なんだこれは』みたいな顔してたもん」


 カルディオスがけらけら笑ってそう言って、ヘリアンサスは眉を寄せる。


 俺はなんだか感心してしまって、「へえ」と。


「おまえにも駄目なもんってあるんだな。

 ――俺の母親は?」


 ヘリアンサスが、目を見開いて俺を振り返った。


 あんまり急に俺を見たので、彼がパンを手から取り落としそうになった。


 カルディオスが横から手を伸ばしてそれを防ぐ一方、ヘリアンサスはぽかんと俺を眺めて、小声で尋ね返してきた。


「――なんて?」


 俺は居心地が悪くなったが、素直に繰り返した。


「いやだから、俺の母親はそういうのあったのかって。

 ――怒るなよ、おまえが結構脈絡なく話すから、これまでずっと聞き流してきたんだよ」


 聞き流していたと言ってしまったので、多少なりとも怒られるかと俺は少しばかり身構えたが、ヘリアンサスは意外にも何も言わなかった。


 まっしろな睫毛を上下させて瞬きして、ヘリアンサスがしばらく黙ったのちに、呟く。


「ルシアナは……」


 風が吹いて、ヘリアンサスの額髪が揺れた。

 さわさわと草が騒いだ。


「……エルドラドの淹れた薬草茶が好き」


 俺は瞬きした。


「――俺の父親の名前知ってたのか」


「それはもちろん……」


 ヘリアンサスが呟いて、パンをカルディオスに押し付けた。


 受け取ったカルディオスが戸惑った顔をしたが、彼は拒否せずにそのままパンを受け取った。


「ルシアナはエルドラドが好きだから……」


「そうなの?」


 俺は思わず素っ頓狂な声を出して、ヘリアンサスが胡乱に目を細めるのを見て声を引っ込めた。


「なんだと思ってるの、おまえは」


 ヘリアンサスが不機嫌そうにそう言うので、俺は若干びびった様子で身体を強張らせたルインをさり気なくヘリアンサスから隠して、軽く両手を上げた。


「だっておまえ、一回も俺の父親のこと喋ったことねえじゃん。俺、父親の名前も知らなくて笑われた」


 それからルインを振り返って、「俺の最初の人生の話な」と付け加える。


 困惑していた様子のルインの表情が、その一言で腑に落ちたものに変わったので、俺はほっとした。


 ヘリアンサスは眉を寄せていた。


「――エルドラドに会ったことはないから」


 呟いたヘリアンサスに、俺は頷く。


「番人以外はおまえに会えないからな」


 ヘリアンサスが微笑した。

 刃物のような笑顔だった。


「――本当にそうだったら良かったんだけど」


 俺は息を呑んだ。

 ヘリアンサスが採珠のことを言っているのだと分かった。


 ――だがすぐに、ヘリアンサスは息を吸い込んで、緩く首を振った。


「ルシアナはおまえに、エルドラドのことを話してやりたいって言ってたんだけど、おれはエルドラドのことはよく知らないから。

 ――ルシアナのことは話してやったのに、この不孝者め、いつも上の空だった」


 俺は気まずさから自分の額髪を触った。


「だっておまえ、いっつもなんか支離滅裂なことしか言わねぇから……」


「おれに言葉を教えなかったおまえが悪い」


「いや、そりゃそうだけど、俺だってレイにちゃんと教えてもらうまでは、そこまでちゃんと話せてたわけじゃねえから」


 言い訳の口調でそう言ってから、俺はなんとなく両手を合わせた。


「――てっきり俺の両親は仕方なしに結婚したクチかと思ってた。番人はそういうの多いらしいし」


 バーシルから聞いた話であって定かではないが。


 カルディオスが、「そうなの?」みたいな顔をする一方――こいつは貴族の生まれが多いから、感情の伴わない政略結婚について思うところはないはずだ――、ヘリアンサスが声を上げて笑った。


 俺がきょとんとすること数秒、笑い声を収めたヘリアンサスが、目尻の涙を拭いながら、心底可笑しそうに呟いた。


「好きでもない人のために、火事に飛び込むわけがないだろう」


「――――」


 俺は瞬きした。



 ――そうだった。



 ヘリアンサスが唯一話した俺の父親の情報が、俺が生まれる前に火事で死んだということだった。



 顔も知らない自分の父親のことを、急に強く意識した。

 心臓が引き絞られたように痛んで、喉元が少し熱くなった。


 ――どんな気持ちで火の中に飛び込んだのか。


 ヘリアンサスの今の口振りからすると、どうやらそれは俺の母親のためだったらしい――そして多分、生まれる前の俺のためだったらしい。



 ――どんな気持ちで。



 俺がしばし言葉を失っていると、当初の質問に立ち戻ったらしいヘリアンサスが、ゆっくりした口調で言った。


「――ルシアナは、嫌いなものの話はしたことがない。

 いつも元気で……好き放題に自分のことを話してたから」


 俺は頷いた。


 そんな俺をまじまじと見詰めて、ヘリアンサスが微笑んだ。

 今度は刃物のようではない――あけすけに嬉しそうな笑顔だった。


「おまえからルシアナのことを訊いてくるのは初めてだね」


 俺は曖昧に笑った。


 ルインの方に籐の籠を押し遣って、「食ってる?」と確認して、ルインがもうひとつパンを手に取るのを見守ってから、俺はヘリアンサスの方に目を戻した。


 そして、躊躇いがちに言ってみた。


「黒髪だったことは話してくれたな」


「うん、そこは、おまえはルシアナに似た」


 ヘリアンサスが言って、無頓着に俺の髪に手を伸ばした。


 ちょっと頭を傾けて、ヘリアンサスが俺の髪を触るのに任せながら、俺はぼそっと呟く。


「なんでこんなに真っ黒な髪なのかと思ってたら、母親の血か」


「そうだね。――目の色は違う」


 ヘリアンサスはきっぱりと言った。


「ルシアナと似ていなくても、おれはおまえの目の色は好きだけど、ルシアナの目は――」


 首を傾げて少し考えてから、ヘリアンサスは呟くように。


「灰色で、なんていうのかな、時々、光の加減で緑色にも見えるような」


「へえ」


 素直に感嘆の声を漏らして、俺は自分の目許に触れた。


「じゃあ、こっちの色は父親の血かな」


「そうかもね」


 軽やかに認めて、ヘリアンサスはまじまじと俺の顔を眺めた。


「おまえの方が背丈はある。ルシアナは、そうだな、立ったときのおまえのここくらいまでの背丈だった」


 ヘリアンサスが俺の顎の少し上を示して、俺は「へえ」と。


「それでも女の人にしたら背が高い方じゃないか?」


 ヘリアンサスは首を傾げた。


「そうなの?

 ――声も似てない。ルシアナの方がおまえより、ずっと綺麗に軽い感じで話すから」


 そりゃあ、男と女だから――という反論を、俺はぐっと堪えた。


 カルディオスは声を出さず、肩を震わせて笑っていた。

 とはいえ馬鹿にしたような笑いではなくて、単純に俺が品評されているのが面白かったらしい。


「顔も似てない。――いや、目許と……鼻の辺りがちょっと似てるかな。

 でも表情も全然違う」


 ヘリアンサスは正確に、目の前にある俺の顔と、俺の母親の顔を見比べているのだと分かる目付きをしていた。


 ――千年の月日もその間にあった出来事も、その全部がヘリアンサスの中から俺の母親を薄れさせる理由にはならないのだと、明確に分かる表情だった。


「ルシアナはいつも、とにかく表情がくるくる変わって大変だった。疲れないのかいつも気になってた。

 何も訊かなくてもどんどん喋ってて、――言葉遣いも違ったな」


「それは覚えてる」


 俺は咄嗟にそう言って、ヘリアンサスを指差した。


「俺がおまえと話すようになったときは、おまえ、今と全然違う喋り方してただろ。俺の母親の影響だろ?」


 ヘリアンサスが目を細めた。


「そうだよ。――ただ、おれは……」


 両手の指をそれぞれ合わせて、そのうちの人差し指だけをくるっと回して、ヘリアンサスは俯いた。



「……おれは男の子みたいに見えるから、自分のことは『私』って言うより『おれ』って言った方がいいって、ルシアナがそう言ったから、ずっと自分のことを『おれ』って呼んでるんだけど」



 俺は思わず目を見開いた。


 カルディオスも同じような顔をしていたが、彼はふと思い立ったようにヘリアンサスの肩を叩いて、言った。


「うん、俺も、おまえはそうやって自分のことを『おれ』って言ってる方が似合うとは思うよ。

 あと、あのくそ忌々しい愛想笑いもやめた方がいいって。俺、あれには千年くらい腹を立ててた」


 ヘリアンサスはカルディオスを振り向いて、困惑したように瞬きした。


 そして、戸惑ったような小声で呟いた。


「でも、おまえが――」


「え、俺?」


 きょとん、と目を丸くするカルディオスに頷いて、ヘリアンサスが首を傾げる。



「――()()()()()()()()()()()って、そう言ったのはおまえでしょ?」



 カルディオスは目を瞠った。


 それから息を吸って、本音から驚いたように呟いた。



「……おまえ、そんな――そんなこともずっと覚えて生きてたの」





◆◆◆





 結局、籠に詰めてあった昼食を全員で分けて食べたあと、実際にヘリアンサスはその場に身体を伸ばして寝転がってうたた寝した。


 ヘリアンサスが実際に寝息を立て始めるに至って、まさかこいつが寝るとは思わず、俺は驚愕していたが、カルディオスは俺以上にびっくりしたらしく、


「こいつが寝るところ初めて見た……」


 と、むしろ感動したように呟いていた。



 そこで、ひたすら怪訝そうにしているルインに、あれこれと追加の説明をする。


 俺が言葉を濁して迷っているうちに、魔力の何たるかもカルディオスがぶっちゃけてしまった。

 俺はルインが失神しないか真剣にはらはらしたが、さすがにすぐには信じなかったものの、ルインは(過去の俺に比べれば遥かに)滑らかに事実を呑み込んだ。


 そして、この後に俺たちがこなすべき大仕事のことも、少なくとも大騒ぎはせずに聞き、零れんばかりに目を見開いて俺を見たかと思うと、


「――とすると、兄さんは、ずっとご存命でいてくださる?」


 と言い出して、俺を唖然とさせてカルディオスを爆笑させた。


 ヘリアンサスを起こさないように声を殺しながらではあったものの、息も絶え絶えになり、地面を叩いて笑うカルディオスに、ルインはむしろびっくりしたようだった。


 俺はもう何と言えばいいものか分からず、


「まあ、少なくとも、おまえが死ぬまで面倒は見てやるよ」


 と。



 そうして、なんとかかんとか彼に事情を説明し終えた頃には、太陽は中天を過ぎて、時刻は昼下がりになっていた。


 俺とカルディオスも半ば以上姿勢を崩してだらだらしていると、ぱちっと目を開けたヘリアンサスが起き上がって伸びをしたので、取り敢えず俺は「おはよう」と言ってみる。


 カルディオスがヘリアンサスにひらひら手を振って、「眠れた?」と尋ねて、ヘリアンサスはもの柔らかに頷いた。


「ああ、うん」


「そりゃ良かった」


 カルディオスが微笑んで、「お屋敷の方に戻ろっか」と提案した。


 まあ、ここでごろごろしたまま夜になれば、カルディオスとヘリアンサスは平気であるにせよ、南国育ちの俺とルインが寒さに凍えることは間違いない。



 手早く食事の後片付けをして――今度はルインがしっかりと籠を握って離さなかった――、俺たちは主館(おもや)の方へ引き返した。


 少し雲が出てきて、太陽がその影に隠れた。

 黄金の縁取りを纏った雲を見上げたヘリアンサスが足を止めたので、俺たちも付き合って、しばらくその場に立ち止まっていた。



 ――そうして主館に戻った俺たちだったが、戻ってみれば何やら様子がおかしい。


 広間(サルーン)に入った辺りには何の異常もなかったが、籠を厨房に返しに行ってみれば、何かが起こっていることは明白だった。


 何しろジョーの動揺の具合が半端ではない。


 俺たちはうっかりヘリアンサスも厨房に連れて行ったというのに、完全に上の空でこちらから何を言っても生返事で、ヘリアンサスのことにも気付かなかったくらいである。



 ――何が起こったんだ?



 怪訝に思って首を捻りつつ、俺たちは二階へ上がって居間(パーラー)へ。

 そこに仲間がいれば、この事態の説明もあるものかと思ってのことである。


 果たせるかな、そこには顰めっ面のアナベルがいた。


 円卓の上に小振りの本が置いてあって、どうやら彼女は蔵書室から持ち出してきた本を読んでいたらしい。


 もっと言えば、窓際に座り込んだムンドゥスが、何か一人遊びめいたことをしているようではあったが、彼女は人間ではないので勘定には入らない。

 無事で何よりだが。


 他には誰もいない。


 太陽が動いて、朝方とは反対側が明るく照らされている居間(パーラー)にいるのはアナベルだけだ。



 ――あれ、コリウスとディセントラは?



 俺たちが戻って来て、なおかつきょとんとした顔をしていることに気付いたらしい。


 円卓に肘を突き、苛々した様子で顔を顰めていたアナベルが、こっちを見て「ああ」と声を出した。

 意識的にヘリアンサスからは視線を外したようだった。


「おかえりなさい――」


 そのとき、後ろから足早な靴音が聞こえてきた。


 俺が振り返るよりも先に、素早くヘリアンサスが俺たちから離れて、少し離れたところで壁に凭れ掛かるようにする。

 カルディオスも俺もびっくりしたが、振り返った先にいたのがディセントラだったので、なんとなく納得するような心地も覚えた。


 ディセントラはディセントラで、なんだか不機嫌そうだった。


 俺たちが居間(パーラー)の入口で屯しているのを見て、「邪魔なんだけど」と表情で遠慮なく語りつつ、口では別のことを言う。


「――あら、戻ってたの。おかえりなさい」


「あっ、はい」


 カルディオスがそう言って、瞬きしてアナベルに視線を戻した。


 他の奴がやれば顰蹙ものの可愛らしい仕草で首を傾げて、しかしながら見目の良さゆえにそれをなよなよした仕草には見せず、カルディオスが不思議そうに呟く。


「……なんかあったの?」


 アナベルは応じず、立ち上がりながらいったん視線をディセントラに向けた。


「――あなた、コリウスに全部押し付けてきたの?」


 ディセントラが肩を竦めた。


「だって、めそめそしてる()()()に言いたいことも言えなくて苛々するんだもの」


 俺たちはディセントラとアナベルの間で視線を往復させ、ますます訳が分からなくなっている。


 俺は眉を顰めた。


「……で、何かあったのか?」


 ディセントラが俺に視線を向けて、柳眉を寄せた。

 ちょっと困ったような顔で、もういちど、ちらっとアナベルと目を合わせてから、肩を竦めた。


「――あー、なんて言うか、あんたがどういう気持ちになるものか分からないから、ちょっと言いづらいんだけど」


「は?」


 いっそう眉間に皺を寄せる俺に、ディセントラが特大の爆弾を落とした。



「――イーディが熱を出しちゃって」



 俺の耳から、この世の一切の音が消え去った。



 ――なんだって。























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