30◆◇あとしまつ――『99』
居間は完全に静まり返っていた。
全員がその場に立ち竦んだまま、茫然とヘリアンサスを見詰めていた。
ヘリアンサスは微笑んでいる。
見事なまでに歪みのない、超然とした微笑を浮かべている。
だがその黄金の双眸の奥に、烈火の如き感情が燃え盛っている。
「ご令嬢、ここまできみの夢物語に付き合ってあげたことに、まずは感謝してほしいな。
――でも、ここまでだ」
トゥイーディアが息を吸い込んだ。
さすがに、まだ事態に理解が追い着いていないようだった。
「ヘリアンサス――」
「助言はしてあげた。知恵も貸してやった。でも、ここまでだ。
――交渉決裂と思ってくれ。僕がきみに力を貸すことはない」
しゃら、と腕輪を鳴らして、ヘリアンサスが左手を持ち上げた。
その親指と人差し指を立てて、ぴんと伸ばした人差し指で、彼は真っ直ぐにトゥイーディアを指した。
「ぬか喜びさせて悪いね。――でも、こうなった以上は仕方ない」
トゥイーディアがもういちど息を吸い込んだ。
その息が震えていた。
「ヘリアンサス」
「きみにはどうしても僕の協力が要るんだろうけど、残念だったね。こればっかりは頷けない」
爛々と輝く黄金の瞳でトゥイーディアを見据えて、ヘリアンサスは笑った。
「――他の誰に分からなくても、きみには分かるはずだ、ご令嬢」
トゥイーディアが、前のめりに身を乗り出した。
彼女が軽く片手を上げていて、それは魔法の合図のための仕草だった。
トゥイーディアが何をしようとしているのか、俺は刹那の間ひやりとして勘繰ったものの、ヘリアンサスは呆れた様子で首を振っていた。
「ご令嬢――無駄なことだ、やめてくれ。
――おれの全生涯がきみに響かなかったんだから、きみの全生涯だっておれには響かない」
トゥイーディアが、力なく手を下ろした。
このとき初めて、トゥイーディアが途方に暮れているように見えた。
ヘリアンサスは愛想よくそれを見守って、それから椅子の背に凭れ掛かって、軽く天井を見上げた。
俺からは、窓から差し込む陽光に、ヘリアンサスの鼻筋が際立って見えていた。
「――いつもこうだ……いつもいつも、おまえたちのためにおれが犠牲になっている」
ヘリアンサスがそう呟いて、うんざりしたように目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。
「おまえたちのためにあの穴ぐらに押し込められて――散々犠牲になってきて――まだこうなるのか。
――もううんざりだ」
目を開けて、ヘリアンサスはトゥイーディアを睨み据えた。
もはや笑みの欠片も表情には残っていなかった。
俺とカルディオスが、無意識のうちに一歩下がっていた。
――あのときと同じ顔だった。
俺たちが初めてヘリアンサスを殺そうとした、あのときと。
いや、いっそ、あのときよりもまだなお苛烈な面差しだったかも知れない。
奥歯を噛み締めて、ヘリアンサスは一言一言を、突き刺すように。
「うんざりだ。ご令嬢、まだ何か言うつもりなら相手になろう。きみのお父さんに免じて、ここは見逃してやる――どこか他のところで、きみはおれを殺しにおいで。相手になるよ。
きみがおれを殺せたら、そのときはおれをもう一度、あの穴ぐらに放り込むなり何なりすればいい」
しんしんと部屋の温度が下がっていた。
大きな円卓の上一面に、ぱきぱきと小さな音を立てながら、六方晶を描く氷が広がりつつあった。
俺たちは息も憚っていた。
慣れ親しんだ恐怖が、足許から俺たち全員を浸しつつあった。
何度も何度も殺されてきた――その恐怖。
「おればかりを搾取して、おればかりから全部奪って、それでも自分たちが正しいっていうなら、その理由をおれに教えてくれ」
ヘリアンサスが、激烈な眼差しでトゥイーディアを睨み据えながら、押し殺した声でそう告げていた。
「おれから全部奪っていい理由、きみたちが幸せになっていい理由、――ちゃんと教えてくれ。おれのどこが悪かったのか教えてくれ。人間じゃないことか? 生き物じゃないことか?
おれの何が悪い。教えてくれ。言ってみてくれ。
――おれにこの世の何一つとして与えられない正当な理由があるんだろう、教えてくれないか。
――それが出来ないなら、おれにはもう何も言わないでくれ。
何か言うなら死ぬ覚悟で言え。幸いにも、きみはきっちり死ねる身体だ」
もはや冷たさだけが要因ではない、刺すような痛みが部屋中の空気に満ちていた。
トゥイーディアが息を止めているのがはっきり分かった。
他のみんなもそうだった――カルディオスでさえ。
――ヘリアンサスをこれほどまでに熾烈に激怒させ、孤独に溺れさせたのは、間違いなく俺だった。
俺たちだった。
俺と、諸島の古老衆――ヘリアンサスを生き物と認めてこなかった俺たちの、脈々と続いてきた罪そのものだった。
息を吸い込むと、喉の奥が刺されたように痛くなった。
俺は苦労してその息を呑み下して、それから必死になって、この場から逃げようと暴れ狂う心臓を宥め賺して、一歩前に出た。
みんなが、ぎょっとして俺を見たのが分かった。
トゥイーディアが、反射のように片手を上げた。
もうみんなの方は見ずに、俺は冷えて氷が張っていく床に、ゆっくりと膝を突いた。
衣服を通して、骨に沁みるような冷たさが這い上がってきて、俺は少しばかり震えた。
俺はごく近くからヘリアンサスを見上げて、震えそうになる声を叱咤して、呼び掛けた。
「――ヘリアンサス」
ヘリアンサスが、黄金の双眸で俺を見下ろした。
昂然とした瞳に剄烈な炎が踊っている。
彼が引き攣れたような笑みを浮かべた。
「なんだろう、ルドベキア。ご高説があるなら聞いてあげるよ。
――それでも空は青い、なるほど、今はもうおれにも分かってる」
「ヘリアンサス」
俺はもういちど呼び掛けて、目を細めた。
寒さのゆえではなく手が震えているのを隠すために、俺はぎゅっと拳を握った。
指先が冷たくなっているのを自覚した。
「――ちゃんと話そう。仲直りしたとき……それをやったとき、言っただろ? ちゃんと話そう。お互いに言いたいことは言おう。
俺とおまえは確かに違うものだけど、でも、幸いちゃんと言葉が通じる」
瑠璃の首飾りを示してそう言って、俺は息を詰めてヘリアンサスの反応を待った。
――ヘリアンサスがぐっと息を詰めたのが分かって、俺はその瞬間、激昂したヘリアンサスに首をへし折られるのではないかと半ば確信する。
だがすぐに、ヘリアンサスは息を吸い込み、ゆっくりと瞬きした。
表情は和らがなかったが、息を吸うごとに喉を刺す、冷たい痛みが和らいだ気がした。
「ヘリアンサス、おまえは――」
声が震えそうになる。
腹の底から震えが這い上がってくるのを、俺は必死になって呑み下す。
「――おまえは、ちゃんと、この世界が好きなんだな」
ヘリアンサスは応じなかった。
彼は無言で俺を見据えていた。
その激烈な表情こそが、何にも勝る肯定だった。
「カルが、ちゃんと教えてくれたんだな。
――俺がするべきだった、ごめん」
ヘリアンサスが口を開いた。
その唇が少しだけ震えたのを、俺は見ていた。
「――こんなに、」
彼が言った。声が掠れた。
「こんなに綺麗なものが他にある?」
「ヘリアンサス、おまえが見た世界が綺麗で良かった」
本心からそう言って、俺は息を吸い込んだ。
錯覚だろうか、微かに花の香りがした。
「――俺たちは、それを、助けたいと思ってるんだけど」
「そのためにおれに犠牲になれって?」
ヘリアンサスが叫んだ。
甲高い音がして、どこかで氷が割れた。
凍った床が軋む音が耳の底を擦った――誰かが氷を踏みしめたように。
「またおれから全部取り上げようって?」
「全部じゃないよ」
俺が応じた。
裂けるほどに胸が痛んだが、それは顔には出なかった。
俺は微笑んだ。
「おまえ、何一つとして自分に与えられないって言ったな? 今度は違う」
ヘリアンサスが眉を寄せた。
心底から怪訝に思ったようだった。
「……は?」
吐く息が白い。
冬を知らないと言っていたのに、こいつの慟哭はこれほど冷たいものらしい。
俺は息を吸い込んだ。
少し躊躇したが、俺はヘリアンサスの手を取った。
彼の手は俺に比べても冷たかった。
ぎゅっとそれを握って、激烈な表情の中ですら僅かばかりに怪訝そうにするヘリアンサスに、俺は告げた。
「――俺がずっと一緒にいる」
ヘリアンサスが、黄金の瞳を見開いた。
――ヘリアンサスは頷いてくれるだろうか。
俺はヘリアンサスに、こいつが好む光も、風も、匂いも、季節も、花の一輪ですらも与えてやれない。
だがそれでも――南の魔界で、あらゆる綺麗なものに囲まれていたはずのヘリアンサスが、それでもなお――俺の記憶を求めたのだから、まだヘリアンサスは俺に価値を置いてくれていると思っていいだろうか。
俺が彼を慰めるに足る、僅かばかりの温度を齎すことは出来るだろうか。
――ヘリアンサスが茫然としている。
どよめきが聞こえていた。
みんなの声だった。
みんなの、俺の真意を疑う声が一斉に上がっていたが、俺はそちらには応えなかった。
俺はヘリアンサスの、衝撃をいっぱいに湛えたような表情を見詰めていた。
「あのとき――最初に俺たちがおまえを殺そうとしたとき、同じことを言ったよな。ごめん、あれは――おまえが頷かないだろうって分かってて言ったんだ。
でも、今度は違うよ」
寒さが和らぎ始めていた。
床や円卓に張っていた氷が、白い霞になって消えていくのが視界の端に映った。
ヘリアンサスの黄金の瞳に映る自分の顔を見ながら、俺はいっそう深く微笑む。
「ヘリアンサス、おまえが欲しがる綺麗なものは、俺にはあげられない。けど、俺がずっと傍にいる。
おまえのために生きて死んでやる。おまえのための俺でいてやる。
おまえを一人にはしない」
平気だ。
俺の、最も大きな未練は顔に出ない。
そういう呪いが掛かっている。
だから俺は、ここでヘリアンサスを選ぶことが出来るから、最も彼女のためになる選択をすることが出来る。
トゥイーディアが生きていってくれるなら、あの暗い地下神殿で一生を過ごすことになろうが、俺はちっとも構わない。
「ムンドゥスには、俺の寿命を延ばすっていうんで無茶をしてもらうことになるかも知れないし――魔王の頭数も、ちょっと足りなくなるかも知れないけど、それはちゃんと考えるよ。
――ヘリアンサス、俺をおまえにやる。何一つとして与えられないなんて、そんなことはない。
俺がいる」
ヘリアンサスが瞬きする。
俺は苦笑した。
「カルと比べて、俺はおまえにとってつまらないかも知れないけど――それでも、いないよりマシだろ。俺がずっと一緒にいるよ。
最初に死んだときは――死ぬ寸前に、ひどいこと言ったけどさ。撤回するよ、もう他人だなんて言わない。
俺はおまえのための番人だ。これからもずっと番人でいる。
――だから、おまえの好きな世界を助けさせてくれ」
ヘリアンサスが息を吸い込む。
「――待って……」
声がした。
トゥイーディアの声だった。
「駄目よ、それはだめ、話が違うわ、それなら――それなら何もしない方がいい!!」
トゥイーディアの混乱した悲鳴が聞こえてきた。
カルディオスが何か叫んだ。
多分、「俺が一緒にいるよ」というようなことを。
椅子が引っ繰り返るような騒音が耳を衝いた。
悪態や制止の言葉を作る、高い声が聞こえている。
後ろから誰かが俺の肩を掴んだ。それでも俺は振り返らなかった。
耳許で誰かが何か怒鳴った。
恐らくコリウスの声だった。
他にもたくさん、たくさんの声が、頭を揺らさんばかりに聞こえてきていた。
だが上手くその意味を拾えない。
俺は肩を掴んだ誰かの手を振り解き、ヘリアンサスの顔を見ていた。
不意を打たれて驚いたような表情が――変わっていく様子を。
底抜けに明るく、無邪気な喜びが、ぱあっとヘリアンサスの表情を照らしていた。
◆◇◆
そのときのおれの気持ちを、何と言おう――
――かつて同じことを言われて、そのときは拒否した。
覚えている。
あのときのおれにとっては、頭上の空を奪われるほど恐ろしいことはなかったのだ。
けれどそのあと、千年以上を青い空の下で過ごして、間違いなく望むものの中にいて満たされていたそのときですら、ずっと満たされなかった心の最後の一欠片があるのだ。
そうでなければおれは、条理を踏んでまで、こうして記憶を乞いはしなかった。
――そして今、それを満たすに足る、おれに空の色を教えた――おれにとっての、ずっとおれにとっては変わらない空だった、可愛い息子の双眸を目の前にして、あのときと同じ言葉を聞いた、おれの気持ちを。
◆◇◆
もはや寒さは残っていなかった。
窓から差し込む陽光が、今はもう俺にも届いていた。
陽光に目を眇めながらも、陽光を受けてほの白く際立つヘリアンサスの頬の輪郭、光を弾いて煌めく新雪の色の睫毛、そして何より、望外の喜びを語るように純真に輝く瞳を、俺は一心に見詰めていた。
「……いいの?」
ヘリアンサスが、俺の手を握り返した。
両手で俺の手を握って、ヘリアンサスが俺に向き直って、こちらに身を屈めてきた。
「いいの? 本当に?
本当に一緒にいてくれるの?」
俺は笑顔で頷いた。
「もちろん。ずっとだ」
ヘリアンサスの表情が、俺が見たこともないほど嬉しげな、無邪気な、輝くばかりの歓喜に輝いた。
「本当? それなら――それならおれは――」
ヘリアンサスが声を弾ませた。
「おまえが一緒なら、おれは――……」
――そこまで言って、しかしそのとき、ヘリアンサスの表情が変わった。
◆◇◆
ご報告です、と、その声が言う。
ヘリアンサス、おめでとうを言ってください、と――あのときと変わらず――変わるはずもなく――
――おれを見ている。
◆◇◆
「……ヘリアンサス?」
背後から誰かに殴られたかのようだった。
はっと息を呑んだヘリアンサスの瞳の焦点が、ひゅっと俺からずれた。
――だが、だからといって、今この場にいる他の誰かを見たわけではなかった。
俺の後ろにいる、あるいは俺の中にいる、ここにいるはずのない誰かを、ヘリアンサスが直視していた。
――こんなことは初めてだった。
ヘリアンサスの唇が震えた。
表情が捩れるように変わった。
顔が強張り、目許が引き攣り、――ヘリアンサスが、俺から手を離した。
「――……駄目だ」
俺は目を見開いた。
何を言われたのか、理解できなかった。
「ヘリアンサス? なに言ってる――一緒にいてやるよ。大丈夫なんだよ」
「駄目だ」
震える声でそう言って、ヘリアンサスが両手で顔を覆った。
彼の背中が震えた。
俺は咄嗟に、その背中に手を当てていた。
「――ヘリアンサス?」
「駄目だ――駄目なんだ」
ヘリアンサスがそう言って、掌から顔を上げた。
今から処刑台に歩いていく人間であっても、これほどの表情は浮かぶまいと思える――壮絶な表情だった。
唇が戦慄いている。
黄金の瞳が震えている。
今にも彼が泣きそうに見えて、俺はいっそう動揺する。
ヘリアンサスのこの表情、俺やカルディオス以外には見せたことがないだろうこの表情に、他のみんながどんな顔をしたのか――それは俺には分からなかった。
俺は茫然と、ただヘリアンサスを見上げていた。
「ヘリアンサス? どうした――何があった」
「駄目なんだ」
頑是なくそう繰り返して、ヘリアンサスが唇を噛んだ。
いちど、彼がぎゅっと目を瞑った。
薄緑の静脈が、瞼を透かして見えていた。
それから目を開けて、俺を見て、ヘリアンサスが囁いた。
ひどく震える声だった。
「――ルシアナが、それを望まない」
「――――」
一呼吸のあいだ戸惑って、それから「ルシアナ」が俺の母親の名前だと思い当たって、俺は絶句した。
ヘリアンサスの瞳が震えて、その双眸に薄く涙の膜が張った。
どうして今この瞬間にその名前が出てくるのか分からず、俺は間抜けにも、ただその顔を見詰めている。
「おれは……」
ヘリアンサスが呟いて、両手で眉間から口許を覆った。
今にも涙が零れそうだった。
声がくぐもった。
「おれは、ルシアナを、好きだから」
ヘリアンサスの視線が、初めて俺から逸れた。
彼がトゥイーディアを見た。
トゥイーディアは茫然と立ち竦み、色を失って俺たちを見詰めている。
今にも倒れそうだった。
トゥイーディアから俺へ視線を戻して、ヘリアンサスが、血を吐くようにして呟いた。
「おれはルシアナを好きだから――死んだくらいで、ルシアナが完全にいなくなっているわけじゃないから――おれは、ルシアナの善意と献身に、敬意を払わなきゃいけない」
ヘリアンサスが、ちょっと首を傾げて、俺に手を伸ばした。
指先が少し震えていて、俺はどうすればいいのか分からず、盛んに瞬きを繰り返す。
「ルシアナが……」
ヘリアンサスが呟いた。
何かとても大切な記憶をなぞるように。
「――おまえに会うのを楽しみにしていたんだ。
おまえにしてやりたいことを、たくさん話してくれたんだ。
ルシアナはおまえのことが好きで……」
「……え――?」
俺が漏らした微かな声に、ヘリアンサスは気付かなかったらしい。
彼の視線は俺の上にあったが、彼は俺を見ていなかった。
俺の中にいる、俺の母親を見ていた。
しゃくり上げるように、ヘリアンサスが息を吸った。
今度こそ双眸から涙が零れ落ちた。
「おまえに、友達が出来るのか心配していた。おれがおまえの友達になってやれるんじゃないかって言っていた。
おまえがどんな人を好きになるのか、ルシアナは楽しみにしてたんだ」
ヘリアンサスの指先が俺の頬に触れた。
「――ルシアナが楽しみにしてたおまえの人生は、あの穴ぐらにはない」
「――――」
俺は言葉を失っている。
何を言えばいいのか、本当に分からなくなっていた。
ただ、俺に、間違いなくこの俺に、今なお莫大な愛情が注がれていて、その愛情が、この土壇場で俺の人生を救済しようとしていることを、切実なまでに感じ取っていた。
「おれは、」
ヘリアンサスが、涙と一緒に呟いた。
「おれは、心が下手くそだから、――だから本当は、もっと早くに、おまえが生まれてすぐに、こう思っているべきだったのに、思えなかった――我侭を言って困らせた――悪かった、ルドベキア」
俺は首を振る。
どうすればいいのか分からず、頭の中が真っ白になっていた。
「――ルシアナが、この世界が何のためにあるのか、ずいぶん昔におれに教えてくれたんだけど、……今の今まで、おれがそれを忘れてた。
ルシアナのことは、何一つ忘れたことなんてないと思ってたのに」
囁くようにそう言って、ヘリアンサスが目を閉じた。
浅い呼吸に胸が震えていた。
嗚咽に揺れる肩を、俺は反射のように撫でていた。
ヘリアンサスが目を開いた。
澄んだ黄金の瞳に、俺の困惑した表情が映っている。
ヘリアンサスは笑ったが、どうしても表情が歪んでしまうようだった。
彼の両目からぽろぽろと涙が落ちるので、俺はひたすらに茫然としている。
「ルドベキア、おまえは、幸せになっていい」
俺は言葉が出ない。
戸惑うばかりの俺に、ヘリアンサスの微笑がますます歪む。
「他の連中のことは、もう知らない。どうでもいい。人間がおれにしたことは不当で、許せるわけがないけど、――それとこれとは別だったんだな。ルシアナは特別なんだ。
――ルシアナが、おまえの人生を楽しみにしていたなら――おれはそれを叶えるべきだったんだ」
息を吸って、ヘリアンサスが俺の手を握った。
俺は茫然と、握られた自分の手を見詰めて、それからヘリアンサスの黄金の双眸を――初めて見る種類の眼差しで俺を見詰めている父さんの目を、言葉もなく見上げた。
「ルドベキア、おまえは、幸せになっていい。
――好きな人と生きていって。
それでいい。もういい」
俺は口を開いた。
何か言うべきだと思った。
だがそれを制するように首を振って、ヘリアンサスが目を閉じた。
俺の手を握る指に、ぎゅっと力が籠もった。
「――ルドベキア、おれが後悔する前に、おれに敬意を払わせてくれ」
「――――」
息を吸い込み、言葉を探して、それから俺は、ようやく言った。
「……会いに行くよ」
ヘリアンサスが目を開けて、震える唇に苦笑を浮かべた。
「昔みたいに?」
「昔みたいに。
――ヘリアンサス、おまえは知らないだろうけど」
そう言って、俺はヘリアンサスの手を握り返して、呟いた。
「番人が守人に会いに行くのは、二日に一度のお役目だったんだ。――俺は毎日おまえに会ってた。
二日に一度は――俺は、ただのルドベキアが、ただのヘリアンサスに会いに行ってたんだ」
ヘリアンサスは笑った。
ぼろ、と双眸から涙が零れたので、俺は思わず、袖口でその涙を拭った。
目許を拭われたヘリアンサスが猫みたいに微笑んだその瞬間、俺の中に根付いていた、ヘリアンサスに対する全ての恐怖が、その最後の一片まで消え失せた。
「――ルドベキア、その事実だけで、おれにはもう十分だ」
顔を上げて、俺から目を逸らせてムンドゥスを見て、ヘリアンサスは呟いた。
「――おれがあの穴ぐらにいれば、おれはルシアナを……ルドベキアの人生を守れるわけだね?」
ムンドゥスは無感動に頷いた。
「ええ、そうね」
ヘリアンサスは苦笑した。
引き攣れるような憫笑だった。
「おれは運がない。いつもどこかに閉じ込められてる」
「ヘリアンサス――」
躊躇ったものの、俺は言った。
カルディオスがヘリアンサスの傍に屈み込んで、ぎゅっと彼の肩を抱いた。
ヘリアンサスの頭がぐらっと揺れて、彼はカルディオスの肩に凭れ掛かった。
「南の島をやっただろ? 景色も良くて気候もいい、あの島。
――気に入らなかったか」
ヘリアンサスは鼻を啜って、笑った。
泣き止もうとするように、彼が目許を手で覆った。
その手首でカライスの腕輪が揺れる。
「ああ――あれね。如何にも温情って感じだった」
俺は、まだどうにも現実味が湧かなくて、胸の中にいっそ穴が開いたようですらあって、そういうふわふわした気分のまま、呟く。
「……なんだよ」
「ただ――」
ヘリアンサスが顔を上げた。
彼が窓を見上げたので、俺も釣られてそちらを見た。
窓の向こうの空に、弧を描いて飛ぶ鳥が見えた。
「綺麗な世界だと改めて思った。カルディオス、おまえがいなかったから、あんまり何もかもが感動的ってわけにはいかなかったけど――でも本当に綺麗だった。
……でも、そういう全部を、おれはやっぱり諦めないといけないらしい」
胸が詰まって、俺は突発的に声を出した。
まだ何か出来るはずだと思った。
「――そんなことない。そんなことさせない。
今度こそちゃんと、おまえが――」
「いや、いいんだ」
軽く首を振ってそう言って、窓を見上げるヘリアンサスが目を細める。
あこがれを籠めて呟く。
陽光が涙の筋を光らせている。
「――おれが欲しいのは、あの窓一枚分の空。――それから、」
俺に目を戻して、それからカルディオスを見て、ヘリアンサスが微笑んだ。
あるいは、微笑もうとしてやはり泣いた。
「おれのことをずっと覚えていて」
ヘリアンサスが、絞り出すようにそう言った。
「いいやつだったと記憶されたい。
友達としておまえたちに思い出されたい。
――それだけでいい」
俺は頷いた。
言葉が出なかった。
カルディオスが、躊躇いがちに呟いた。
「……俺も会いに行くよ。
おまえが喜ぶものを持って行ったっていい――」
「ありがとう、カルディオス」
礼儀正しくそう言って、まだ何か言いたげにするカルディオスを振り切るようにして、ヘリアンサスが顔を上げた。
背筋を伸ばして、彼は救世主たちを見渡した。
トゥイーディアたちは愕然としている。
信じられないものを見たかのような、いっそヘリアンサスの正気を疑うような、凝然とした表情でヘリアンサスを見ている。
トゥイーディアが座っていたはずの椅子が引っ繰り返っていて、俺はようやく、先ほど椅子が倒れる音がしたのはこのせいだったのか、と気付く。
アナベルはいつの間にかトゥイーディアにぴったりと寄り添って立っていて、ディセントラはディセントラで、トゥイーディアの方を向いていたらしい――そのまま、今は半端にこちらを振り向いて、驚きというよりも猜疑に近い色の瞳で俺たちを見ている。
カルディオスが、片方の掌をコリウスに見せて、何か合図したのが視界の端に見えた。
俺はしゃがみ込んだまま、ちらりとコリウスを見上げる。
コリウスは疑念と猜疑と驚愕のありったけを籠めてヘリアンサスを凝視していて、カルディオスはそんな彼に、「大丈夫」と合図したようだった。
一様に息を呑む救世主たちを見渡して、ヘリアンサスが少しばかりの皮肉を籠めて微笑む。
「――おればかりに同情を貰っているけれど、でも、きみたちだって犠牲がないわけじゃない」
人間みたいに鼻を啜って声を整えて、ヘリアンサスは幾分か滑らかに続ける。
「魔王として生まれたいなら、その最初の一人は、これからしばらくは死ねない。
魔王がいない時代を作らずにおくなら、今生きているきみたちのうちの誰かが、次の誰かが生まれてくるまでの間、魔王として、ずっと一人で生きていくことが必要になる。
――女王、きみは分かっていたみたいだけど」
ディセントラがはっとしたように息を呑み、そうして頷くのを見てから、俺は言った。
「……それは俺がやる」
みんなが、弾かれたように俺の方を見た。
トゥイーディアが勢い込んで何か言おうとするのを手で遮って、ディセントラが、躊躇いがちに小さな声を出した。
「ルドベキア――私がやってもいいわ。
幸か不幸か、私、みんなが目の前で死んでいくのを見るのには慣れてるから」
俺は微笑んだが、口角が震えるのは避けられなかった。
――これまでずっと、俺が避けてきたことがある。
身勝手な俺が恐れ続けたそれは、トゥイーディアのいない世界に放り出されることだ。
俺はずっと、トゥイーディアのいない世界の空気なんて、一度たりとも吸い込みたくはないと――トゥイーディアのいない世界の空ならば一秒たりとも見上げたくはないと、そう思って生きてきたのだ。
そのために一度は、ヘリアンサスを殺す機会を棒に振ることまでしたのだ。
――だが、ヘリアンサスが俺の母親が俺に注いだ愛情に免じて、彼の最も大切なものを譲るならば、俺も応じて、最も大切なものを譲らなければならない。
「いや、いい――俺がいい。俺なら、そもそも魔王だ。
ムンドゥスの負担も少ないはずだ」
だろ? と、公平な意見を期待して、俺はコリウスを窺った。
だが、コリウスはなぜか怒った顔をしていて、その尋常でなく不機嫌な顔に、俺はコリウスを窺ったことを後悔した。
ともあれ、コリウスは嘆息したあとに頷いてくれた。
ヘリアンサスが、俺を覗き込んできた。涙の痕の残る両目が瞬いた。
「いいの? ルドベキア」
「良くなかったら最初から言わないよ」
そう言って、しかし胸に迫るものがあって、俺は声が震えるのを自覚した。
「ただ――出来れば、死なないっていっても、歳は取りたい」
そう言って、俺は笑おうとしたが、上手く笑えなかった。
「みんなと一緒に、歳を取っていきたい」
ヘリアンサスが息を吸い込んだ。
椅子から滑り降りるようにして俺の傍に膝を突いて、ヘリアンサスが俺の肩を抱き締めた。
深青色のガウンが椅子に掛かって、綺麗な曲線を作った。
「大丈夫だ。――兄ちゃんがなんとかしてやるからな」
力強くそう言って、ヘリアンサスがムンドゥスを見た。
しばらくの間、彼は黄金の重さを量るような眼差しで、世界そのものを見詰めていた。
それから、唐突に微笑んだ。
「親愛なるおれの姉上。きみを助けられそうだよ」
ムンドゥスは首を傾げて、それから小さく言った。
如何にも情動のない世界そのものらしく、己の延命を何ら気に掛けた様子はなかった。
「――ヘリアンサスが、魂を見るやくわりをもつなら、そのやくわりをこえたら、わたしもヘリアンサスに命をゆるせなくなるかもしれないわ」
ヘリアンサスは声を上げて笑った。
「構わないよ。おれは元々、死ぬために命を貰ったようなものだから」
それから彼は立ち上がって、トゥイーディアを真っ直ぐに見た。
寄り添って立つアナベルが、恐らく直前の二人の遣り取りを思い出してのことか、少しばかり身構える姿勢を取ったが、トゥイーディアはまるで無防備だった。
ヘリアンサスは数秒、じっとトゥイーディアを見詰めた。
それから、礼儀正しく頭を下げた。
「リリタリス嬢、出来れば細部の話は後日としたい。
おれとしては、少し疲れた」
トゥイーディアが息を吸い込んだ。
目まぐるしく彼女の表情の上で感情が動いた。
彼女が何か言おうとして言葉を呑み込み、小さく首を振り、それからヘリアンサスにしっかりと向き合って立った。
彼女が一歩下がり、礼儀正しく両掌をヘリアンサスに見せた。
そして口を開いて――その声音は抑えられた無感動なものだったが、眼差しはそうではなかった――いっそ混乱しているようでさえあった。
彼女は低い声で言っていた。
「――どれだけ大きなものを譲ってもらったのかは分かっているわ。自由に休んで」
そうして、少し躊躇う風情を見せてから、トゥイーディアが小走りで円卓を回り込んできた。
俺はてっきり、トゥイーディアがヘリアンサスに何か用があるものと思って、覚えず一歩下がったが、違った。
素早い兎のような動きで、トゥイーディアは俺に駆け寄ってきていた。
ぱっと靡いた蜂蜜色の髪が、陽光を受けて煌めくのがはっきりと見えた。
何か用か、と尋ねる暇もなかった――とん、と軽い衝撃が胸にあって、避ける間もなく、トゥイーディアが俺の胸に抱き着いていた。
――――はい?
彼女が何か囁いたようだったが、俺には聞こえなかった。
その瞬間、俺の心臓が有り得ない勢いで跳ね上がっていた。
俺には、耳鳴りのような自分の心臓の音だけが聞こえていた。
トゥイーディアの両手が遠慮がちに俺の背中に回されて、彼女の額が俺の肩口に当たった。
頬が俺の胸に当たって、髪がふわっと俺の顎をくすぐった。
いい匂いがして、俺は眩暈を覚えた。
――だが、それも一秒だった。
すぐに、俺は不機嫌極まりない態度で、トゥイーディアの肩を掴んで自分から引き剥がしていた。
トゥイーディアは抵抗せずに離されるがままになって、しかし俺が――自分の意思とは無関係に――怒鳴ろうと口を開いたところで、するりと俺の手から逃げ出した。
ガウンの袖と裾を靡かせて二歩ほど軽やかに俺から離れて、それから振り返った彼女が、蟀谷を擦るような独特の仕草をする。
ぱっ、と白い光の鱗片が散って、ヘリアンサスが黄金の目を軽く見開いたのが分かった。
そのまま、トゥイーディアは素早く居間から駆け出して行った。
俺には、顔もよく見えなかった。
半端に口を開けたままになった俺は、「なんだあいつ」と不機嫌極まりなく呟いたものの。
――トゥイーディアは、絶対に、好悪に関係なく、不躾に他人に抱き着くような人ではない。
ようやく――じわじわと、俺の胸の中に、たった今ヘリアンサスから許されたものの大きさが降ってきた。
幸せになっていい、と告げられた。
それはつまり、この一生の間を、俺がみんなと過ごしていけるということだ。
トゥイーディアが望んでくれれば、彼女の気持ちを乞うていいということだ。
この一生――この一生においては。
もしもトゥイーディアと一緒に居られることになったとすれば、彼女の顔を見ていられるのがたった一生――数十年の間のこととなって、短いと感じないと言えば嘘になる。
――だが、それでいいのだ。
俺は、一度でも彼女が俺を望んでくれれば、そのあとの人生が千年続いたところで苦ではない。
トゥイーディアに会えない人生は、きっと筆舌に尽くし難いほどに寂しいものだろうが、彼女の記憶は俺にとって、万能の妙薬に勝る護符になる。
それに俺は、トゥイーディアが俺を望んでくれたとしても、それで彼女の人生を永久に縛りたいとは思わない。
俺がいない人生で、トゥイーディアが他の誰かと幸せになったとしても――そいつのことは心の底から憎んで恨んで呪うだろうが――それが彼女が選んだことなら、俺は尊重してみせる。
――だが、この一生においては、俺はトゥイーディアの手を握るために足掻くことが許される。
そして、もしも彼女が俺の手を取ってくれれば、俺は彼女と一緒に生きられる。
今度こそ、一緒に幸せになることが出来る。
俺の、俺にとっての、朝のいちばん眩しいところと。
――心臓に火が点いたように、一気に全身が温かくなった。
燃えた心臓が浮力を得たらしく、俺は身体が中の方から浮かぶような心地を覚える。
無言のまま、そして無表情のまま、頭の中に大砲の直撃を受けている俺を他所に、ヘリアンサスが目を擦った。
本当に疲れているように見えた。
「――アンス?」
カルディオスが、遠慮がちにヘリアンサスの顔を覗き込んだ。
その声で、俺もはっとしてヘリアンサスを窺った。
「大丈夫か?」
「大丈夫――」
呟くようにそう答えて、しかし顔を上げたヘリアンサスは、眩しげに顔を顰めて、言った。
「疲れたんだ」
カルディオスは控えめに微笑んだ。
「庭に行って、昼寝でもする?」
ヘリアンサスが、閃くように微笑んだ。
「いいね」
刹那、俺は、ヘリアンサスが自由にこの荘園を散策することについて、トゥイーディアがどう思うか――延いてはみんながどう思うかを危ぶんだが、ヘリアンサスは俺の思考を、正確に推し量ったらしかった。
彼が俺を見て、少しばかりゆっくりとした口調で言った。
「――たった今、おれはご令嬢と同じ程度にここの庭園には詳しくなったから、ご令嬢も嫌な顔はしないんじゃないかな」
カルディオスは面喰らったようだったが、すぐに、直前のトゥイーディアの挙動を思い出したらしい。
「ああ」と呟いて、微笑む。
「おー、じゃあついでに、この辺の探検もしよーぜ。
ジョーさんだっけ、厨房の彼に、残り物がもしあったら、それでお弁当作ってもらおっか」
ヘリアンサスが首を傾げて、瞬きした。
「お弁当?」
「外で食うメシ」
カルディオスがそう答えるのを聞いてから、俺は軽くヘリアンサスの袖を引いた。
「俺も行く」
意識せずに俺はそう言っていて、それを聞いたヘリアンサスがにっこりと笑ったので、何とはなしに嬉しくなる。
トゥイーディアが出て行って、開いたままになっている扉から、食堂の柱時計が時を打つ十二度の音が聞こえてきた。
ヘリアンサスの名前の由来は《ひまわり》。
『99』は、「99本のひまわり」の意味。
「99本のひまわり」の花言葉は、
「ずっと一緒にいよう」、「永遠の愛」。
ルドベキアの、「ずっと一緒にいよう」という言葉に、
ヘリアンサスはルシアナの永遠の愛で応じる。




