25◆ あとしまつ――魔力の丈
「――まず、これは前提の整理なんだけど」
トゥイーディアが指を一本立ててそう言った。
「正攻法で、あっちのヘリアンサス――母石を壊しに行こうにも、無理があるよね?」
「無理だな」
俺が即答した。
トゥイーディアが俺の方を見たのが分かったが、俺はヘリアンサスの方を見ていた。
「まず、母石がどこに在るのか分かんねぇし」
円卓の上に、凭れ掛かるようにして浅く腰掛けたままのヘリアンサスが肩を竦めて、含みのある表情でトゥイーディアに視線を送った。
トゥイーディアはその視線を受けて、曖昧に首を傾げた。
「それは――問題ないんじゃないかな」
「は?」
俺は眉を顰めたが、ヘリアンサスは声を上げて笑っていた。
「確かにね。――ご令嬢、僕は賭けに負けたから、確かにきみに協力しないといけない。
僕があそこに戻ると決めれば、僕の半身も当然、あそこに戻るだろうけど――」
あそこ、と彼が言った場所を、この目で見て知っているのは俺だけだ。
諸島の地下神殿だ。
――地下神殿からヘリアンサスが消えると同時に母石も消えた。
ならば、逆もまた然りというのは有り得る話なのかも知れない。
そう納得したのは俺だけだっただろうが、誰も何も言わなかった。
その場の全員が、ヘリアンサスの、狂気的に歪んだ顔を見ていた。
ムンドゥスが躊躇いがちにヘリアンサスの頬に手を伸ばしたが、ヘリアンサスはおざなりにその手を避けた。
そして、自嘲気味に口を開いた。
「――あそこは戻りたい場所ではないかな」
ヘリアンサスがそう言って、トゥイーディアがじっとヘリアンサスを見詰めた。
二人の間で、言葉に依らない、魔法にも依らない、何かの遣り取りがあったように見えた。
トゥイーディアが息を吸い込んだ。
「……ええ、確かに、そうでしょうね」
その口調で、俺は、トゥイーディアが採珠の仕打ちを知っていることを確信した。
そうでなければトゥイーディアがヘリアンサス相手に、これほど慮る声音で話すことなど有り得ない。
ヘリアンサスは瞬きもしなかった。
「分かってくれていて良かった。――後で話をしようか」
カルディオスが、不安そうにヘリアンサスとトゥイーディアを交互に見た。
それに気付いて、トゥイーディアとヘリアンサスが、同時にカルディオスに微笑んだ。
「大丈夫よ、話をするだけ」
トゥイーディアが素早くそう言って、ヘリアンサスに視線を戻した。
表情が冷淡なものに変わった。
「少なくともおまえは賭けに負けているんだから、そこは忘れないようにね」
ヘリアンサスがうんざりしたように頷くのを見ながら、俺はふと嫌な予感を覚えて眉を寄せた。
――仮に、例の地下神殿に母石が戻ったとしよう。
そうすると、まさかとは思うが、外殻と内殻も再形成されるのでは?
ハルティ諸島連合全体を覆って守っていた外殻と、地下神殿のある島を覆って絶対不可侵の防壁となっていた内殻、――あの二つの防御幕。
外殻の仕組みは俺も詳しくは知らないが、内殻は俺の――つまりは、番人の――管轄だった。
母石から直接魔力を吸い上げて、半永久的に展開され続ける鉄壁の防御、あの二つの防御壁の維持そのものに人間の意思が関わっていたのかは疑問視するべきだ。
俺は内殻の管理を任されていたが、内殻の展開そのものは俺の意思には拠らず、謂わば決まり事として定められていた。
もしも外殻と内殻が再形成されてしまえば、どうなる?
外殻の管理は〝えらいひとたち〟のものだった。
今はもう、あのひとたちはレヴナントになってしまっている。
俺だってもう、番人の血筋ではないのだから内殻には手が出せない。
最悪、諸島が世界から完全に孤立してしまって、俺たちは一歩も中に立ち入れないし、諸島に住む人々は、理不尽にもある日突然、島の中に閉じ込められることになってしまう。
いや――外殻なら、トゥイーディアなら、なんとか破壊できるかも知れない。
だが問題は内殻だ。
肝心の地下神殿がある島を覆う完全防御のあの幕は、外殻以上の強固さを誇る。
通り道を開けることが出来るのは、それこそ番人の資格を持つただ一人。
そして番人は、最初の俺を末代に絶えている。
――これは……拙いのでは。
そう思って俺は息を吸い込んだものの、自分の厭な予測を口に出すことは控えた。
別に隠し立てしたいと思ったわけではなく、まだ諸島に行く必要があるのか否かすら確定していない時点で、新たな問題で他のみんなの注意を引くのを避けたかったのだ。
「――とにかく、あっちのヘリアンサス……母石の在り処は一旦置いておくとして」
トゥイーディアがそう言って、指を鳴らした。
「他に根本的な問題があるのよ。
――母石って、そう簡単に壊れるものじゃないでしょう?」
トゥイーディアが俺を見て、伺うように首を傾げて瞬きした。
俺は息が止まったが、生憎もそれも顔には出なかった。
トゥイーディアが、全幅の信頼を窺わせる声音で、俺に向かって尋ねていた。
「ね? ルドベキア、きみ、世双珠には世界一詳しいんでしょ?」
おう、もう全部任しとけ。
――と、請け合えるようならば苦労はない。
俺は顔を顰めて、椅子の背中に体重を預けた。
「そこに、世双珠本人がいるだろうが」
ヘリアンサスが顔を顰めた。
トゥイーディアががっかりした顔をした。
むっと顔を顰めて、トゥイーディアが拗ねたように言う。
「……きみ、私のこと嫌いなの?」
ディセントラとアナベルが、示し合わせたように同じ動きで、両手で顔を覆った。
カルディオスは俯いてへなへなと円卓の上に崩れ落ち、コリウスでさえも気の毒そうに瞑目した。
俺は無表情だった。
これまでトゥイーディアには何万回も、「きみって私のこと嫌いだよね」と言われたことはあったが、こんな風に言われたのは初めてだ。
拗ねているトゥイーディアも可愛いし、俺は断じてトゥイーディアのことが嫌いではないし、むしろちょっとでも彼女のことを嫌いになれたなら、恐らく俺に掛けられた呪いの対象はヘリアンサスに移ってくれるはずだが、
「――あ?」
不機嫌極まりなく眉間に皺を刻んでそう応じながら、俺はもうなんか泣きそうだった。
なんでだよ、俺が素直になれさえすれば、トゥイーディアが俺の一生を救うに足るようなことを言ってくれるかも知れないのに、なんでだよ。
トゥイーディアはますます拗ねた顔になったが、同時に何かをちょっと考え込んだようだった。
隣のディセントラの方に少し身体を傾けて、小声で何かを尋ねている。
アナベルが掌から顔を上げて気の毒そうにディセントラを眺め遣る一方、ディセントラは呪いに言動を縛られるがゆえに、言いたいことを言うに言えない苦悶を表情に浮かべていた。
カルディオスは円卓の上に潰れんばかりに項垂れている。
コリウスが咳払いした。
恐らく、ディセントラを見るに見かねてのことだと思われた。
彼が、わざとらしいまでに生真面目な顔で、隣から俺を覗き込んできた。
「――ルドベキア、母石というものを壊すのは、簡単じゃないんだな?」
間接的にではあれトゥイーディアからの質問に答えられることに、俺は内心で大いに安堵したが、それも顔には出なかった。
俺は顔を顰めて蟀谷を掻き、ぶっきらぼうに応じていた。
「……まあ、そりゃあ。それが簡単だったらさ、古老長さまが正気でいらしたタイミングで、〝えらいひとたち〟が総出で母石を壊してたんじゃないかな」
――古老長さまも最後には、世界の上に人を置きたいと思った人間の、浅ましくも純粋な夢に走ったとはいえ、そのために亡霊に身を落としたとはいえ、俺にお役目を与えたあのときには、古老長さまはムンドゥスを救う心算だったのだ。
彼らが手塩に掛けて育て上げた魔法という技術と文化を葬り去って、世界を救うつもりがあったのだ。
だからそのとき、仮に母石を壊すに足る方法が彼らの足許に落ちていれば、古老長さまはそれを拾い上げたはずだ。
むしろ、母石を壊すことが出来なかったから、わざわざ番人の俺を守人から引き離してまで、魔法廃絶のお役目に当たらせたのだ。
ヘリアンサスの向こうで、カルディオスが元気よく手を挙げた。
「俺は? 俺でも壊せない?」
「最初のおまえの話だよな? ――無理だったんじゃないか?」
俺は腕を組んだ。
カルディオスが愕然とした顔をした。
「――マジで? あのときの俺だぜ? それでも無理なの?」
「あのときのおまえでもだ」
俺はそう言って、眉間を指で押さえた。
「あのときの俺、かなり目が良くて、魔力が目に見えてたんだ。だから――」
「魔力が――なんて?」
そんなことある? と言わんばかりのどよめきがみんなの間で起こったが、俺は頓着せずに言葉を続けた。
「だから、カルがどんだけ魔力に恵まれてたかは分かる。
――どういう風に法を書き換えるかにもよるけど、無理じゃないか。
少なくとも、真っ向から『母石が壊れる』ように法を書き換えたり、あとは、母石が壊れるだけの、」
俺はムンドゥスの方を見た。
ムンドゥスは無邪気にヘリアンサスに向かって手を伸ばし、彼の手を取ってまじまじとそれを眺めている。
その、傷だらけの肌を見た。
「――あの子が今そうなってるみたいに、大量の魔力で壊すような――それに足るだけの魔力は、おまえにはなかった」
ディセントラに視線を向けて、俺は苦笑する。
「ディセントラがそこに加勢してたら――どうだっただろうな、それでも厳しかったと思う」
「――マジかよ」
カルディオスが慄いた顔で呟いた。
「なんのこと?」と言うように首を傾げて、淡紅色の瞳を瞬かせるディセントラを見て、戦慄した小声で。
「世界最高の二人だったんだぜ……」
俺は肩を竦めて、「まあそうだな」と呟く。
それから、小さく咳払いした。
「魔法の向き不向きもあるとは思う。
――可能性があるとしたら、トゥイーディアだ」
俺が名前を呼んだからか、トゥイーディアが反射みたいな動きで元気よく手を挙げた。
「はいっ」
勢いよくそう答えたあとで、ぽかん、と瞬きするトゥイーディア。
俺が呆れ果てたような目で彼女を見たからか、しおしおとその手が下がっていく。
「……はい、えっと……、私?」
俺は舌打ちしたが、全く本意ではない。
俺は溜息を吐いたが、これも全く本意ではない。
俺が本音で溜息を吐くと逆の意味の溜息になって、トゥイーディアを戦慄させることになってしまう。
「――おまえの、その乱暴極まりない魔法なら、母石も内側から壊せるかも知れないって言ってるんだ、この暴力女」
トゥイーディアは瞬きして、むっと顔を顰めた。
反射的に、いつものように、俺の喧嘩腰の口調に物申そうとしたように見えた。
だがふっと何かに思い当たったような顔をして、トゥイーディアが言葉を呑み込む。
それから何かを言おうとして、彼女は半端に口を開けた。
だが結局はその言葉も呑み込んで、俺の語尾から実に一分の間を置いて、トゥイーディアは言った。
「……――救世主らしい役回りになりそう」
彼女がちょっと恥ずかしそうにそう言ったので、俺は正直、なんでこんなに可愛らしいトゥイーディアがいる世界が滅び掛けているんだろうと思って腹が立ってきたが、そういう苛立ちも顔に出なかった。
見かねたらしいカルディオスが、常より大きな声で割り込んできた。
「あー、そういや、最初にアンスを殺しに行ったときも、そういう理由で師匠が大本命だったんだよな」
「カルディオス」
ヘリアンサスが穏やかに呼んだ。
「そんな風に言わないで。胸が痛い」
カルディオスが打たれたように反応して、ヘリアンサスの顔を覗き込んだ。
ヘリアンサスが円卓に腰掛けているために、今はヘリアンサスの方が視線の位置が高い。
「――悪かったって、ごめん。――けど、大嘘ついて俺をこてんぱんに傷つけたのはおまえの方だからな?」
ヘリアンサスがまっしろな睫毛を上下させて瞬きした。
そして、ふわっと苦笑した。
「――そうだった。悪かった、カルディオス」
「もういいよ」
衒いなくそう言うカルディオスを他所に、俺はカルディオスの言葉に頷いている。
「――そう、あのときも、とどめの大本命はトゥイーディアだったな」
トゥイーディアはきゅっと唇を結んで俺を見て、それからヘリアンサスを見て、もういちど俺に視線を戻した。
生真面目に彼女が首を傾げた。
「……失敗したみたいね?」
「おまえのせいでな」
俺が素気なくそう言うのを掻き消すようにして、カルディオスが口早に捲し立てた。
「アンスがめちゃくちゃ師匠のことを――イーディのことを警戒してたんだよ。で、まあ、俺も要らんことしたりしたし、最後はアンスが卑怯なことして機会が潰れた、みたいな……」
尻すぼみになるカルディオスの言葉に耳を傾けてから、ヘリアンサスが愛想よく言った。
「それもあって、僕はきみのことが大嫌いなんだよね。
――でもまあ、安心していいよ。本当の意味で最後の最後に、きみたちが僕を壊せそうになったところで、全部を台無しにしたのはルドベキアだから」
軽く円卓を叩いて、トゥイーディアが目を怒らせた。
窓越しの陽光を受けて、飴色の瞳が好戦的なまでに輝いていた。
「ルドベキアがそんなことするわけないでしょう。おまえがどうせ卑怯なことをしたんでしょ」
「――――」
俺は黙っていた。
カルディオスも黙っていた。
俺たちが言い訳の一つも口に出さないことで、コリウスとディセントラには閃くものがあったらしい。
ディセントラが、トゥイーディアに気付かれないようにそうっと彼女を指差して見せて、カルディオスに向かって問い掛ける顔をする。
カルディオスが猛然とそれに対して頷き、ディセントラが完全に得心した表情を浮かべた。
ディセントラとカルディオスの間の無音の遣り取りに気付いたアナベルもはっとした様子で、めちゃくちゃ憐れむような目で俺を見てきた。
俺は無反応を強いられた。
トゥイーディアの棘のある言葉に、ヘリアンサスは肩を竦めてみせた。
そして、さらりと言った。
「自分を守ることのどこが卑怯なの。説明してみてよ」
そして、トゥイーディアの反駁を待たず、彼は俺を見て微笑んだ。
陽光から匿われた明るい影の中で、冴え冴えと光る黄金の瞳が細められる。
手の掛かる子供を見るような眼差しだった。
「――それと、ルドベキア。大前提が抜け落ちてるよ。
あのとき、女伯が僕を消滅させられそうだったのは、あのときの彼女だったからこそだ」
ヘリアンサスがトゥイーディアの方へ視線を翻して、肩を竦めた。
値踏みするように彼女を眺めて、ヘリアンサスが鼻で笑う。
「今のご令嬢では、足りない。
――魔力の丈が、足りるはずがない」
トゥイーディアは瞬きもせず、居間を横切る陽光を右の頬に受けながら、じっとヘリアンサスを見詰めた。
そして、事実を認めるように頷いた。
「――整理しましょう」
ぱちん、と指を鳴らして、ディセントラが言った。
みんながディセントラの方を見た。
「母石を壊すのは並大抵のことじゃなくて、真っ向から、私たちが魔法で母石を壊すのはまず不可能。頼みの綱はイーディの魔法だけど、やっぱりイーディも魔力の丈が足りないと、ひとまずそういうことね」
小さく息を吸って、ディセントラが呟く。
殆ど独り言のようだった。
「――破壊の方向で法を超える救世主でも、無理ってことね」
俺は顔を顰めた。
「確かに――あのときのトゥイーディアの魔力量は、今のトゥイーディアの比じゃなかった」
カルディオスが少しだけ何かを考えたあと、くるっとペンを回して、その先でヘリアンサスを指した。
そして、仕草とは裏腹に、神妙な口調で言った。
「――あのさ、みんな訊きにくいと思うから俺から訊くけどさ、アンス、おまえは?」
「……おれ?」
ヘリアンサスが笑い出した。
声を上げて、それこそ腹を抱えて笑った。
カルディオスはきょとんとしたのと怯えたのが半々のような顔でそれを見ていたが、やがて笑いを収めて顔を上げたヘリアンサスは、極めて人間らしく目尻を拭ってから、断言した。
「面白いこと言うね。――絶対に無理だよ。いくらおれに命があるからって、存在を分け合っていることに違いはないんだろう。
おれと、あっちのおれは、同じものなんだ。
まず、おれに自殺の趣味はないし、よしんばあったとして、」
ふう、と息を吐いて、ヘリアンサスは魅惑的とさえ言えるような笑みを浮かべた。
「おまえ、自分の右目で左目を見られる? 同じことだよ。
おれが、もうひとつのおれに手を触れることは、魔法で触れることは、土台から不可能だ」
カルディオスは瞬きし、まじまじとヘリアンサスを見詰めてから、非礼を詫びるかのように軽く頭を下げた。
それから顔を上げて、冗談めかして呟いた。
「――おまえにも出来ないことがあるんだね」
ヘリアンサスは慎み深く微笑んだ。
「おまえに比べれば、おれに出来ないことはずっと多い」
カルディオスは眉を寄せた。
純粋に面喰らった様子だった。
「――なんだそれ」
ディセントラが咳払いした。
カルディオスは即座に書記らしく背筋を正して真面目な顔を作った。
ディセントラは呆れた様子でそれを一瞥してから、「どう思う?」と言わんばかりにコリウスを窺う。
「可否に拘泥しても仕方がない。不可能なものは不可能だ」
コリウスが恬淡と言って、指を鳴らした。
周囲の注意を引きたいときのこいつの癖だ。
「今考えるべきなのは、僕たち自身の魔法と魔力で壊すことの出来ないものを、どうやって壊すべきかということだ」
「――――」
なんとなく、全員が黙り込んだ。
続く言葉を全員が予想していたし、それゆえに口に出すことが憚られていた。
――魔力で足りないならば。
――魔力の丈を補うならば。
ゆっくりと息を吸い込んで、俺が口を開いた。
ちょうど、もう千年以上も前になるあの日に、ムンドゥスを呼んだときのように。
「――『対価』だ。
対価を払って、俺たちの魔力の丈を補う」
◆◆◆
「魔力の代替は、この子が価値を認めるもので出来る」
ムンドゥスを示してそう言う俺に、ムンドゥスがふと顔を向けた。
大きな、鏡のような銀の瞳が俺を見ている。
その視線に居心地の悪さすら感じながら、俺は呟くように続ける。
確認するために。
「――世界にとっての価値は、客観の価値だ。客観は全ての主観で――全ての主観には、俺たちの主観も含まれる」
ムンドゥスが、静かに俺の方へ身体を向けた。
俺は彼女から目を逸らした。
「俺たちにとって価値のあるものは、この子にとって価値のあるものだ。俺たちは、この子が傷つく魔法の行使に価値を置いてる。――だったら、逆も同じだ。
俺たちが傷つくことはこの子が傷つくことで――魔力がこの子を傷つけるのと同じように、俺たちにとって価値のある『対価』を捧げることで俺たち自身が傷つくことは、この子を傷つけることになって魔力と同じ働きをする。
――まさに魔力と同じ味だ、……そうだね?」
最後の一言でムンドゥスと目を合わせ、念を押す俺に、ムンドゥスが頷いた。
「みとめる。『対価』をみとめる。
――わたしは、『対価』に応ずる報答をする」
「ありがとう」
座ったままムンドゥスに向かって軽く頭を下げて、俺はみんなを見渡した。
「問題は、それだけ価値のある『対価』があるかどうかってことだ」
――そのとき、俺はふと、俺たちが自分たちの記憶を『対価』に捧げたあの日、脳裏を過った考えを思い出した。
あのとき、俺は「価値のあるもの」として真っ先にトゥイーディアを思い浮かべていて、トゥイーディアの魂を――その人生を――これから未来永劫、転生の果てまで縛ること――そういう、俺にとってこの上ない価値のある彼女の自由を束縛するようなことならば、『対価』として成立するかも知れないと、そう考えたのだ。
――だが、俺にはトゥイーディアを犠牲にすることなど出来ないし、そしてそもそも、その対価はもう成立しようがない。
トゥイーディアは救世主として、既に転生の決まり事に縛られてしまっているから。
ヘリアンサスが、自然な仕草でムンドゥスの頭を撫でながら、軽く肩を竦めた。
その手首で、しゃらしゃらとカライスの腕輪が揺れている。
「ないんじゃない? さっきも言ったけど、僕が捧げた『対価』が、恐らくいちばん価値のあるものだったんだ」
「アンス」
カルディオスが窘めるようにそう呼んで、それから、もの思わしげに言葉を続けた。
「――まあ、間違いなく価値があるものといえば、前と同じだ。俺たち自身の思い出だ。
これなら、千年前に捧げたときよりは価値がある」
俺は度肝を抜かれた。
まさかその言葉が、カルディオスから出てくるとは思わなかった。
ヘリアンサスが、弾かれたようにカルディオスを振り返った。
信じられないというような、衝撃をいっぱいに湛えた顔をしていた。
「――は?」
茫然と声を零して、ヘリアンサスがカルディオスに手を伸ばした。
――気のせいか、居間の中の空気が、底冷えするように冷たくなり始めていた。
窓越しの陽光すらも、まるで薄い雲に太陽が覆われたかのように翳った。
空気が張り詰めた。
まるで、目には見えない糸があちこちに張り巡らされていて、そのそれぞれが今にも切れそうなほどにぴんと張っているかのように。
俺は身動きが出来なかった。
みんなも、トゥイーディアでさえも、それは同じであるようだった。
息すら憚って、俺はヘリアンサスの、透き通るほどに白い頬を見ていた。
ムンドゥスが、きょろきょろと周囲を見渡し始めた。
頻りに首を傾げている。
少し前屈みになってカルディオスの肩を掴んで、ヘリアンサスが、低く押し殺した声で詰め寄っていた。
「――冗談だな? 冗談と言え。本当なら、冗談でもそんなことを言うのは許せないけど、おまえは特別だから、冗談なら許してやる。
――もう一度おれを忘れるなんて、そんなこと、おれが許すと思う?」
カルディオスは面倒そうにヘリアンサスの手を肩から振り払って、毛ほども動揺せず、ヘリアンサスの人外の黄金の瞳を見据えた。
周囲の異様な雰囲気は察しているだろうに、それを歯牙にも掛けなかった。
「それか、俺たちのうちの誰かの命だ。俺たちは、そりゃもうお互いが大好きだからね。もう転生もしないくらいに、誰か一人が徹底的に消滅すれば、それも『対価』にはなるんじゃない?
――で、もしそうなら、俺がその一人に立候補するけど」
ぱきん、と、どこかで何かが割れるような甲高い音が響いた。
今や誤魔化しようもなく、室内の空気は冷え切っていた。
ぱきぱきと小さな音を立てながら、居間の大きな窓が、桟の縁から白く凍り付いていく。
浅く吸い込む息が喉を冷たく通るのが分かるほどに。
「――カルディオス」
ヘリアンサスが呼ばわった。
激怒していることに間違いはなかったが、それでも声音には懇願の色があった。
「カルディオス、冗談でもそんなことは言うな」
「冗談なんかじゃないよ。――あのね、」
カルディオスが言って、ヘリアンサスの顔を覗き込んだ。
「おまえがルドと俺のためにイーディのお父さんを巻き込んだから、俺はイーディにその分の償いをしなきゃ気が済まない。おまえ、それだけのことをやったんだよ。
俺はイーディのことが大好きだけど、おまえが俺のためにしたことは、イーディをめちゃくちゃ傷つけてるんだ。
おまえはイーディのことなんてどうでもいいんだろうけど、俺は違う。
おまえ、そこまで考えるべきだったね」
突き放すようにそう言って、カルディオスは皮肉っぽく首を傾げた。
「言っただろ。俺、おまえのことは好きだけど、おまえのしてきたことは全然好きじゃない。そういうことだよ。
――ルドはおまえに引け目があるから何も言わないけど、俺は違う。
おまえはおまえの物差しで、人間がおまえにしたことを測ってきたんだろうけど、逆もそうだってことに気が付いてるべきだったね。
俺だって、おまえのしてきたことを俺の物差しで測るんだから」
ヘリアンサスは、じっとカルディオスの翡翠色の瞳を見ていた。
ややあって、彼が小声で呟いた。
「――カルディオス、おれはおまえたちとは違う」
「そうだろうね。――けど、いいか」
カルディオスが、例の手付きでヘリアンサスを指差した。
今や、窓に張った氷は天井にまで広がっていた。
瀟洒な天井を、薄い氷がぱきぱきと音を立てながら覆っていく。
ムンドゥスがそれを見上げて、大きな銀色の瞳を見開いている。
「――おまえが人間じゃなかろうが、生き物じゃなかろうが、おまえはこうやって俺の目の前に立ってんだから、俺は俺の価値観でおまえを判断するんだ。
おまえが人間じゃないから、大抵のことには目を瞑ってやる。
けど、おまえのやったことはその範疇じゃない」
「――――」
ヘリアンサスは、無言で、冴え冴えと光る黄金の双眸でカルディオスを見詰めている。
「――カル」
とうとう、堪りかねた様子で、トゥイーディアがそう呼んだ。
「カル、私のことを論うのはやめて。もう言ってあるでしょ。私はきみには怒ってないし、きみのこととお父さまのことを分けて考えるくらいの分別はあるの。きみも納得してくれたんじゃなかった?」
カルディオスが、ちらりとトゥイーディアを見て苦笑した。
「……俺にその分別がないんだよね」
「カルディオス、煽るな」
コリウスが、呟くように言った。
「さすがに分かっているはずだ――おまえが言った『対価』だけは有り得ない」
ヘリアンサスが、すうっと目を上げてコリウスを見た。
コリウスは言葉を呑んだようだったが、その言葉を引き取るようにして、ディセントラが小声で言っていた。
「……そもそも記憶がないせいで、ここまで事態が拗れたのだもの。
歴史は踏まえて行動しなければ意味がないわ。
もういちど記憶を『対価』にすることなんて有り得ない」
「誰か一人の命にしても、」
アナベルが、窺うようにディセントラを見てから、幾分かしっかりした声で言った。
「有り得ないわ。きっと『対価』としては成立しない。
もしそれが成立するなら、ヘリアンサス、あなたがあたしたちを殺したときに、それを『対価』にしているはずだもの」
ヘリアンサスは黙っていた。
視線を翻して、彼はディセントラとアナベルを見ていた。
だが、天井を侵食する氷結は、一旦その進行を止めていた。
――いつの間にか、吐く息が白くなっている。
カルディオスが立ち上がった。
ばつが悪そうな顔をして、彼がヘリアンサスの肩を叩いた。
「――まあ、そうだな。
……アンス、煽って悪かったよ。
けど、ちょっとは反省してくれよ」
ヘリアンサスがカルディオスを振り返って、無表情のまま首を傾げた。
カルディオスは少し迷う様子を見せてから、しかし思い切ったらしく、ぎゅっとヘリアンサスの小柄な身体を抱き締めた。
ヘリアンサスが黄金の瞳を見開いた。
すぐに、ぱっと軽やかな動きでヘリアンサスから離れて、カルディオスが顔を顰めた。
「そんなに怒るな。機嫌直して。
――だいじょーぶだって、今もトリーが言ったろ? もうおまえのこと忘れないよ」
ヘリアンサスがゆっくりと瞬きして、それから目を閉じた。
両手で顔を覆って、大きく息を吐く。
不自然なまでに人間らしいその仕草のあと、ヘリアンサスは顔を上げた。
そして、念を押すように言った。
「――もう二度とあんなこと言わないで」
「出来る限りね」
軽やかにそう言ってから、カルディオスはにこっと笑った。
白い息を吐いて、彼が物柔らかに言った。
「アンス、寒いよ。さっさとその辺を元に戻してくれ」
ヘリアンサスが特段の合図をした様子はなかったが、目に見えて室内の気温が上がった。
窓や壁、天井を覆っていた薄氷が、素早く溶けて消え去った。
トゥイーディアが立ち上がって、素早く居間を見て回り始めた。
暖炉の上に掛けられた二本の細剣の無事を確認して、その他の調度品を手早く点検する。
それから、渋面で元の席に戻った。
「――もう一度でもあんなことをしたら、おまえを叩き出すわよ」
ヘリアンサスは冷ややかにトゥイーディアを見て、呟いた。
「そのときは、きみのお父さんに免じて従おう」
カルディオスが椅子に座り直しながら、軽く両手を上げた。
「アンス、やめて。
――で、これは俺の意見なんだけど、」
ぐるっ、と俺たちを見回して、カルディオスは彼にしか出来ない軽やかな仕草で円卓に肘を突いて、首を傾げた。
「『対価』を何にするかは後から考えよーぜ。
――金貸しに金を借りるときの考え方なんだけどさ、まず何をしたいのか決めて、それからどのくらいの金が要りようになるのか考えるもんなんだ。
それと同じで、まず俺たちがこれから何をするのか決めて、それから要りようになる『対価』を考えようぜ。
――『対価』が寸足らずになるのが怖いけどさ」
一理ある、と頷きながらも、アナベルが眉を寄せてカルディオスを見遣った。
「あなた、お金を借りたことなんてあるの?」
「あれ、知らなかったっけ?」
カルディオスはあっけらかんと言って、微笑んだ。
「俺、商売人の家に生まれることも多いじゃん。商いやってりゃ、先立つものが必要になるときくらいあるよ」
これに頷いたのはディセントラとコリウスで、俺はいつもながらに生まれの格差をひしひしと感じつつ、「じゃあ」と声を出した。
「これから俺たちが何をすればいいのか、考えよう」
母石が地下神殿に戻る条件については6章3話で、
母石を壊すためにどれだけの魔力が必要かということについては5章43話と6章61話に、それぞれ軽く触れた箇所があります。




