19◆ ささやかな絶体絶命
「ありがとうっ!」
と、トゥイーディアが言った。
「私だけだったら押し問答になってるところだったわ。引き留められるなんてびっくりね。
一緒にいてくれてほんとにありがとうっ!」
弾けるような笑顔が眩しい。
その笑顔を向けられたコリウスとディセントラが羨ましくて、俺は自分が頭脳に恵まれないことを恨んだ。
――宮殿を抜ける間こそ、俺たちを引き連れて澄ましていたトゥイーディアだが、宮殿を抜けると気も抜けたらしい。
ディセントラとコリウスをそれぞれ親しげに引っ張り寄せて、二人の間に挟まって満面の笑顔。
ディセントラは苦笑ぎみだが、コリウスは若干うんざりしたような顔をしている。
俺は落ち着かない気分で宮殿を振り返る。
実をいうと、この人生の中で、トゥイーディアが属する一門が壊滅するところを見るのは二度目だ。
一度目は無論のこと、パルドーラ伯爵領が壊滅し、兄貴に無理を言ってトゥイーディアに会いに行ったときのことだ。
あのときトゥイーディアは、あらゆる債務を整理するための書類に囲まれて憔悴していた。
思い出したくもない記憶だが、どうしてもそれが脳裏に過る。
今回は、ああいう嫌な手続きはないのか。
アナベルが俺の様子に目を留めたらしく、眉を寄せて、「どうしたの?」と尋ねてくる。
俺は首を振りつつ、「いや――」と。
「なんか、あっさりしてんなって。もっと面倒な手続きがあるもんかと思ってた」
トゥイーディアは、コリウスとディセントラの腕を取って俺の前を歩いていたが、俺の言葉を耳に留めてくれたらしく、半ば俺を振り返った。
そして、なんとも言えない顔で微笑む。
「――面倒な手続きをしようにも、リリタリス家にはあんまり財産がないもの。荘園の始末を陛下がお決めになればそれまでになるわ」
俺はなんとか愛想のある返事を捻り出そうとしたが、無駄だった。
俺は完璧な無表情で、「へえ」とだけ応じた。
トゥイーディアがまじまじと俺を見て、それからディセントラを見上げ、コリウスを見上げた。
二人は石のように押し黙っていた。
トゥイーディアは不安そうに眦を下げる。
「――、だが、まあ」
と、コリウスが言葉を絞り出した。
何が「だが」なのか。
こいつもだいぶトゥイーディアを気にしている。
「ベルフォード侯にも越権があったと言及したから、荘園はベルフォード侯領にあっても、そのまま侯の手に渡ることはないんじゃないかな。
――トゥイーディア、さすがにベルフォード侯の手に渡るのは嫌だろう?」
トゥイーディアは顔を顰めて頷いた。
「まあ、それは……そうねえ」
トゥイーディアのお父さんの処刑を仕切ったのはベルフォード侯だ。
それがヘリアンサスの奸計のゆえだとしても、割り切れないものはあるだろう。
そこまで気を回して、コリウスはわざわざベルフォード侯のことに触れていたのか。
すげぇ。
トゥイーディアは慣れた様子で宮殿から少し離れた馬車停めまで歩き、そこに停まっていた馬車数台の御者さんに、順番に何かを訊いて回った。
三台目の御者さんに何かを訊いてぱっと顔を明るくすると、俺たちを振り返って手招きする。
察するに、この王宮の広さゆえ、馬車がなければ移動も儘ならない。
ゆえに恐らくこの馬車たちは、王宮内での辻馬車なのだ。
トゥイーディアは御者さん一人一人に、「誰かを待ってここにいるのか、それとも単純に用命を待っているのか」を訊いていたのだろう。
促されるままに馬車に乗り込む俺たちを後目に、トゥイーディアが御者さんに向かって、「ヒルクリード公爵の町屋敷まで」と言い付けている。
金銭のやり取りは発生しないようだった――まあ多分、この御者さんたちは王宮お抱えで、それこそ国王から給金を貰っているのだろう。
ヒルクリード公爵といえば、トゥイーディアの伯父だ。
つまり、トゥイーディアのお父さんの兄。
まあ、さすがにこの馬車で駅まで行く――というわけにはいかないのだろうから、公爵家から馬車を借りるつもりなんだろうけど。
「――わざわざ公爵にご挨拶?」
アナベルが、意外そうに眉を上げてそう尋ねた。
カルディオスを除く全員が、なんとかヘリアンサスから距離を置こうとしているがために、馬車の中で重心が偏りそうだった。
トゥイーディアが最後に馬車に乗り込み、御者さんが恭しく扉を閉める。
王宮お抱えの御者さんだけあって、顔がいい。
貴人の目に触れることを考慮して人選されていることを感じさせる顔立ちだった。
扉が完全に閉まってから、トゥイーディアは顔を顰めてアナベルと目を合わせた。
「ご挨拶というか――新聞で、リリタリス家取り潰しのことをお知りになったら、きっと山ほど私宛てに使者を送ってくるもの、伯父さまは。早いうちに、私から直接お伝えしないと。
――それと、あわよくば、だけど……新聞に書き立てられて騒ぎになったときに、私をそっとしておいてもらえるように、なんとか防波堤になってくださらないか、お願いしようと思って」
アナベルが納得したように頷いた。
カルディオスが、ぼんやりと窓の外を眺めるヘリアンサスを肘で押して、伺うように言った。
「――ちょっと観光でもしてく?」
ヘリアンサスがカルディオスを振り返り、それからトゥイーディアを見た。
彼が苦笑して、肩を竦めた。
「いや――楽しそうだけど、ここではいいかな」
「そーなの?」
意外そうな顔をするカルディオスに、ヘリアンサスは目を細めて。
「この都市には前科があるからね。何かの弾みに連中が出て来たらどうしようと思うと、おれはとても楽しめない」
連中、というのがレヴナントのことだと分かる。
カルディオスは数秒、まじまじとヘリアンサスを眺めた上で、「そっか」と呟いた。
「そっか、じゃあしょうがないな」
巨大な王宮を抜ける間、俺たちは馬車の中で手持無沙汰である。
ヘリアンサスは飽きもせずに窓の外を眺め、時折小声でカルディオスを呼んで、窓の外の何かを指差したりしているが、俺たちは退屈極まりない。
というわけで、ディセントラが出し抜けに言った。
「――そういえば、イーディ。私たちから逃げてる間、どこにいたの?」
トゥイーディアは目を丸くした。
それから気まずそうに、そわそわと髪を撫でる。
「逃げてるって、――まあ逃げてたけれど」
後ろめたそうにみんなから目を逸らしてから、トゥイーディアは自分の顔を覗き込むアナベルの目に捉まった。
「あたしを連れてたのよね?」
念を押すように訊かれて、トゥイーディアはたじたじと顔を顰めた。
「うん――そうね。
取り敢えず、モールフォスのみんなには適当なことを言っておいて、いったんキルトン方面の汽車に乗って、」
「お蔭で、駅でおまえを見掛けたという人に会って、危うくイルス方面を捜すところだった」
コリウスがぼそっと言って、トゥイーディアは「ごめんごめん」とひらひらと手を振る。
「コリウスなら力技で当たりそうだと思ったんだもの。
――それで、折り返しの汽車に乗ろうかなってところで、たまたまアーバス小父さまに会って」
「なんであの人が出てくるの!?」
ディセントラが小声で責めるように言って、トゥイーディアはぱちくりと瞬き。
俺は背凭れに体重を掛けてぼんやりしていたが、トゥイーディアの表情は視界の端でばっちり見えていた。
「なんで、って――。シャルナの親戚が隣町にいるから、そこまで送って行って、その帰りだったんじゃない?」
切符は持っていらっしゃらなかったけど、と、トゥイーディアは神妙に言った。
つまるところ無賃乗車ね。
トゥイーディアのお父さんの昔馴染み、「泥棒さん」らしいと言えばらしいが――
「私が血塗れだしアナベルは気を失ってるしで、小父さまもびっくりなさって。
訳を訊かれたから、素直に仲間割れですって言ったら、後は任せろってことで、ベイルにいる小父さまのお知り合いのおうちに匿ってもらえることになって――」
そこまで言って、トゥイーディアはちょっと遠い目をする。
「まあ、ほんとにお知り合いだったかどうかは分かんないんだけど。何しろ小父さま、結構乱暴に脅し付けて、私とアナベルを匿ってもらってたから」
コリウスが大きく息を吐いた。
「――盲点だった。くそ、あの人の存在を忘れていた」
ひどい、とトゥイーディアが小さく呟き、ディセントラが身を乗り出す。
「それで、アーバスさんはどちらにいらっしゃったのよ。見付けていれば、それこそ脅し付けてでもイーディを捜し当てられたのに」
トゥイーディアはむっとしたようだったが、やや自慢げに応じた。
「ベイルにいらしたはずだけど。きみたちからは上手く隠れていらしたんじゃない」
コリウスが、腹立たしげに座席の背凭れに体重を掛けた。
よほど悔しいとみえる。
「おまえがアナベルを連れて、そう長距離を移動できたはずがないんだ。協力者の存在は考えるべきだった」
「そんな悔しそうにしなくても」
ディセントラが苦笑しながら言って、赤金色の髪を掻き上げた。
「ちゃんとイーディは戻って来てるんだから」
「まあ、こいつが素顔じゃこの辺を出歩けなくなってるけどな」
カルディオスがそう言って俺を指差し、俺は顔を顰める。
馬車が王宮を出て、ヒルクリード公の町屋敷へ向かって、がらがらと大通りを下り始めていた。
◆◆◆
ヒルクリード公も、公の二人の子息も、町屋敷にいた。
さすがにこの状況で、領地に帰っているなんてことはなかった。
トゥイーディアの突然の来訪に、広間で対応してくれた使用人さんは仰天した様子で、俺たちを広間のソファやら長椅子やらに案内し、慌てて家令を呼びに走った。
トゥイーディアはソファに腰掛け、その隣にアナベルが座って、彼女にとっては初めての場所であるヒルクリード公の町屋敷の広間を、興味深そうに見回している。
王宮にいたときよりも興味津々に見えるが、これは仕方のないことだった。
毎回毎回、生まれる度に王宮に召喚されて魔王討伐の勅命を貰っているから、どこの国のものであっても王宮は、なんというか雰囲気として見慣れた感じがある。
一方貴族の屋敷となると、俺と同様平民の生まれを引き当てやすいアナベルからすると、王宮よりも物珍しい場所なのである。
気持ちは分かる。
コリウスとディセントラが、調度品というより装飾品のような長椅子に腰掛けて退屈そうにしている。
この二人からすると、王宮も貴族の屋敷も、親の顔より見た光景だ。物珍しさの欠片もあるまい。
そのうちに、どちらからともなく暇潰しのように、「こことここにこういう駒がある場合、どう指す?」みたいなことを小声で遣り取りし始めた。
俺からすれば理解不能なことに、どうやら実物の盤もなく、二人して脳裏で盤上遊戯を指しているらしい。
記憶力の箍が外れてるんじゃないか。
俺は長椅子の傍で壁に凭れてぼうっとしており、カルディオスは、俺をはじめとしてほぼ全員が、ヘリアンサスが傍にいるとびびり上がることに考慮してか、入口寄りの場所でヘリアンサスを引き留めて、壁に掛かった抽象画を示して何やら訳知り顔で語っていた。
ヘリアンサスが珍しく退屈そうにして、「絵は好きじゃないんだけど」と言った途端に何やら火が点いたのか、その絵を描いたらしき画家について熱く語っている。
こいつはこいつで身分のある生まればっかり引き当てるから、実は芸術についても造詣が深かったりする。
何回か前、裕福な画商の家に生まれついていたこともあったっけ。
そうしているうちに、家令が駆け付けてきた。
かなり慌てていただろうに、そこは大貴族の家を預かる家令。
見事なまでに沈着な様子で、「主人がお待ち申しております」と、あたかもトゥイーディアの来訪がその日のヒルクリード公の予定に組み込まれていたかの如くに頭を下げ、俺たちを螺旋階段に誘導する。
ヘリアンサスが素早くカルディオスの傍を離れて、立ち上がったトゥイーディアの傍に歩み寄った。
トゥイーディアも当然の顔でそれを待ってから、家令に促されるままに螺旋階段に向かった。
ヒルクリード公は、応接間ではなく居間でトゥイーディアを待っていた。
先触れ無しの来訪だったから、これを私的なものとして取り扱うことの意思表示だろう。
俺が内心で顔を顰めたことに、ヒルクリード公の両隣に、彼の嫡子であるアルフォンスとハンスが居た。
ヒルクリード夫人は領地に留まっているのだろうから、ここにはいない。
ヒルクリード公一家が、最後にトゥイーディアを見たのは、リリタリス卿の葬儀でのことのはずだ。
そのときのトゥイーディアは憔悴していたはずで、居間に足を踏み入れたトゥイーディアがそのときに比べてしっかりした顔をしていたからか、二人の子息だけでなくヒルクリード公でさえ、幾許かほっとした顔をした。
ヒルクリード公が、予想を上回るトゥイーディアの大所帯に怪訝そうな顔をしつつ、自分たちの対面に当たる椅子を勧める手振りをする一方、アルフォンスが小さく微笑んで、隣の父を憚るような目立たない仕草で、トゥイーディアに向かって手を振った。
ハンスはもっと大胆で、立ち上がるとテーブルを回り込んでトゥイーディアに歩み寄り、彼女をぎゅうっと抱き締めた。
俺の表情は、全くこれっぽっちも動かなかったが、その実、腹の中では相当いらっとした。
なんだこいつ。
なんでトゥイーディアの顔を見る度に、いちいちトゥイーディアに触らないと気が済まないんだよ。
トゥイーディアが苦笑して、そっとハンスを抱き締め返してから(ハンスは本当に、俺に掛けられている呪いに感謝した方がいい)、控えめな身振りでハンスから一歩分の距離を置いた。
家令が粛々と頭を下げて室外に下がる。
それと入れ替わるように、ワゴンを押した侍女さんが入ってきて、俺たちのお茶の支度をし始めた。
誰が来客で、誰がその護衛なのか、正確なところを推し量りかねたとみえ、人数分のお茶の支度が整っているようだった。
トゥイーディアが俺たちに目配せしてから、ヒルクリード公の正面に当たる椅子に腰掛けた。
侍女さんが慌てた様子で椅子を引こうとしていたが、手を振ってそれを押し留めている。
当然のように、トゥイーディアの右側にヘリアンサスが腰掛けた。
こいつが血肉を獲得したがゆえの生理現象なのかそれとも退屈さゆえなのか、小さく欠伸など漏らしている。
トゥイーディアの左隣にディセントラが腰掛けて、ヘリアンサスの隣にはカルディオスが座る。
ヒルクリード公は、カルディオスが救世主であるということも知っているためだ。
代わりとばかりに、コリウスが無言のうちに、俺とアナベルと並んで、トゥイーディアたちの背後に立つ役に回った。
ハンスが自分の席に戻り、トゥイーディアに親しげな目配せを寄越しながら、腰を下ろした。
俺は、その無駄に親密そうな仕草ひとつひとつに苛立っていたが、内心で深呼吸して落ち着きを取り戻した。
大丈夫、大丈夫、あれだけ可愛い顔を見せてくれたんだから、トゥイーディアが好きなのはこいつじゃなくて俺。俺のはず。
そう考えるとちょっと優越感すら覚える。
侍女さんが、トゥイーディアたちの分のお茶を整え、頭を下げて居間の外に下がる。
それを見守ってから、ヒルクリード公が口火を切った。
「――トゥイーディア、登城を要請されたということは知っていたが、今日だったか。
私が息子をそちらに遣わすよりも、陛下の方が早かったな」
トゥイーディアは頷いた。
彼女が魔王を斃したことの労いは、葬儀のときに既に貰っていたとみえる。
「ええ、伯父さま。その足で参りました。
――ご予定もおありのところ、申し訳ありません」
ヒルクリード公はおざなりに手を振った。
その指で、太い金色の指輪がきらっと光った。
「構わん。――救世主の皆さまも……」
そこまで言ってヒルクリード公が怪訝そうな顔をする。
視線は俺を向いていた。
俺は人生経験に賭けてしれっとした顔を保ったが、内心で冷や汗。
やべぇ、この人には間近で顔を見られたことがあるんだった。
アルフォンスとハンスは騙せたが、さすがに人生経験も積んで目端の利くこの人を、髪色が違うだけでは騙し果せなかった。
しまった。
ヒルクリード公がトゥイーディアに目を戻し、目を細めた。
「……救世主さまを立たせておくとは、如何なものかな」
トゥイーディアは一瞬、惚け抜くか開き直るか、迷うような沈黙を挟んだ。
だが、その沈黙のお蔭で、俺は完全に平静を取り戻した。
――魔王の遺体は荒地に埋められたと聞いたが、それがイルスに遺体(と見せかけてのカルディオスが創り出した幻影)が運ばれてからか、あるいはベイルでのことだったのか、俺は知らなかった。
が、仮に魔王の遺体がイルスへ運ばれていたならば、それをヒルクリード公が目にしていた可能性もある。
さすがにそうなれば、ヒルクリード公は「救世主の一人と聞いていた男が魔王だった」と気付いたはずだ。
延いてはトゥイーディアも今この瞬間、相当に焦っていたはずだ。
何しろ死んだはずの魔王が、髪色だけ変えてヒルクリード公の目の前にいるわけだから。
つまり、トゥイーディアに焦った様子がなく、しかも開き直るかどうか迷っているということは、魔王の遺体はベイル近郊で葬られたのだ。
ヒルクリード公は魔王を見てはいない。
助かった。
トゥイーディアは瞬時の逡巡ののち、開き直ることに決めたらしい。
にこっと微笑んだ。
「さすが伯父さま。変装程度は見抜いてしまわれるんですね」
「トゥイーディア?」
ヒルクリード公が語尾を上げて呼ばわった。
眉間に皺が寄っている。
彼の目がもういちど俺を見て、それからまたトゥイーディアに戻った。
「なぜわざわざ、あの方は変装などしている?
――聞いた話によれば、魔王は黒髪だったということだが、」
あ、やべ。
助かったと思ったけど、変装してたから余計な疑いを持たれた。
ハンスとアルフォンスが、怪訝そうな、警戒するような顔で父公爵を見て、それからトゥイーディアを、そして俺を見た。
俺は平然とした顔を保ったが、内心では相当焦った。
「あるはずがないが――まさか魔王が救世主さまを騙ったなどと――おまえがそれを庇ったなどということは――」
ヒルクリード公がそう言い差すに至って、ヘリアンサスがくるっと俺を振り返った。
片手の人差し指を俺に向けている。
俺は恐怖に腹の底に氷が張ったかと思った。
――こいつ、ここで俺が魔王とバレて騒ぎになれば、今度こそ俺が殺されると思っている。
だからそれより先に、確実に俺を殺す気でいる。
アナベルが、ぎょっとしたように身を引いた。
ディセントラは前を向いたままだったが、一気にその頬が緊張したのが分かる。
コリウスが俺から目を逸らした。
ヘリアンサスが本気で俺を殺そうとすれば、俺たちには打つ手がない。
そのため目を逸らすことしか出来なかったのだろうが、――ここまできて死んでいられない。
俺が、じりっと一歩下がる。
カルディオスがヘリアンサスの挙動に気付いて、「待て」と言うように彼の肩に手を置いたが、ヘリアンサスは今度ばかりはそれに頓着しなかった。
歪んだ鏡面のような、人外の黄金の瞳でまじまじと俺を見ている。
公爵家の誰も気付かなかっただろうが、急転直下の俺の命の危機に、トゥイーディアはちゃんと気付いてくれていたようだった。
ちらっ、と横目でヘリアンサスを見るや、ヒルクリード公に視線を戻して、朗らかな笑い声を上げた。
「――伯父さまは可笑しなことを仰る。
まさかそんなはずが――」
笑ったがゆえに声が詰まったように言葉を途切れさせ、トゥイーディアは上品に片手で口許を覆った。
一分の隙もなく完璧な笑顔だった。
「それに何より、私がこの手で魔王の首を落としたのですけれど、お疑いですか? 伯父さまといえども、それはさすがに私も不愉快です」
ちょっと顔を顰めて見せてから、トゥイーディアが俺を振り返った。
親しげな仕草で俺を示して、にっこり笑ってくれる。
俺は危うく、ヘリアンサスに命を持っていかれるより先に、トゥイーディアの笑顔に魂を持っていかれて絶命するところだった。
「この人は――」
殆ど(俺の希望的観測で)愛情すら感じさせる声音でそう言って、トゥイーディアはヒルクリード公に向き直った。
「――ご記憶のとおり、見事な黒髪ですから。伯父さまも御髪は黒うございますが、ご覧になったでしょう、滅多にないほど黒い髪です。
魔王が黒髪だったという噂が出回って以降、外を歩く度に不躾に見られて、ほとほと辟易している様子でしたので、」
トゥイーディアは人差し指を一本立てた。
表情は大真面目だったが、仕草と声が可愛すぎた。
「ちょちょっ、と、魔法で、」
俺は無表情だった。
助かった。
呪いがなかったら、盛大に鼻血を出していたところだった。
醜態を晒さずに済んで本当に助かった。
てかなんでみんな平然としてるの?
みんな、今だけトゥイーディアに無関心になる呪いでも掛けられた?
「しばらくの間、髪を隠して彼を不愉快な視線から庇ってあげようとしているんです」
トゥイーディアは言い切って、にこっと笑って首を傾げた。
「困惑させてしまったようで、重ねてお詫びを」
ヒルクリード公は俺を見て、どうやらトゥイーディアの説明で納得したようだった。
まあ、救世主と魔王が敵対関係にあるというのは、この大陸に住む人たちの、それこそ骨に刻まれた常識だ。
それに反する推論を押し進めるよりも、トゥイーディアの説明に合理性を見出すのは無理もないことだ。
ヘリアンサスが、ようやく俺から視線を外した。
俺はこっそりと、だが大きく安堵の息を吐いた。
トゥイーディアはまた親しげに俺を振り返って、可愛らしく首を傾げている。
「――ルドベキア、ばれちゃったし、座る?」
俺は無言で首を振り、肩を竦めた。
トゥイーディアは残念そうな顔をして、再びヒルクリード公に向き直った。
「参じて早々、騒がしくして申し訳ありません。
――お話があって参ったのですけれど」
ヒルクリード公は、気を取り直した様子で襟を正した。
実弟の逝去直後とあって、彼もまた喪装だ。
アルフォンスが、ほっとした様子で椅子の背凭れに身を預けたのに対して、ハンスが父の仕草を真似ぶようにして喪装の襟を正したのか、どことなく面白い。
「ああ――ああ、そうか。いや、そうだな。
――ロベリアどのと一緒にいるということは、リリタリス卿を襲名するのだろう?」
そう言って、襲名の準備の話か、と言わんばかりにトゥイーディアとヘリアンサスを見るヒルクリード公。
アルフォンスが柔和な喜びを表情に昇らせる一方、ハンスが少し悲しそうな顔をした。
――それを見て、全くそんな場合ではないと理解はしていても、俺は警戒心を掻き立てられた。
これ、トゥイーディアの方にその気は無くても、ハンスの方がトゥイーディアに気があるなんてことは……。
が、トゥイーディアの方はハンスに一瞥もくれていなかった。
ヒルクリード公を見て、困ったように微笑んでいた。
「いえ、実を申しますと……」
ヘリアンサスの方を見て、彼と目を合わせてから、トゥイーディアはヒルクリード公に目を戻して、居住まいを正した。
「――陛下のお許しを得て、私の勲功爵位をお返し申し上げてきたところです」
「……なんだと?」
ヒルクリード公が、思い切り眉を寄せた。
二人の子息はぽかんとしている。
アルフォンスはまだ口許を掌で覆う機転を見せたが、ハンスは完全に、ぽっかりと開いた口を俺たちに見せていた。
トゥイーディアは落ち着き払った声音で、辛抱強く続ける。
「騎士の位を返上してまいりましたと、そう申し上げました。
あわせてロベリアさんとの結婚の約束も正式に解消――リリタリス家は今日を以て幕を閉じます。今は荘園がどなたの手に渡るものか、その沙汰をお待ち申し上げているところ。
ついては、」
絶句したヒルクリード公をテーブル越しに覗き込んで、トゥイーディアは微笑んだ。
「これから私の周囲も騒がしくなることでしょう。
――守ってくださいますか、伯父さま?」




