18◆ 敬意と返上
「お返し申します」
短く、端的に、トゥイーディアはそう告げた。
国王は眉を寄せた。
何を言われたのか、咄嗟には図りかねたかのように。
宰相も、その老獪な見目にそぐわず、ぽかんとしている。
トゥイーディアが息を吸い込む。
「十五にて叙勲いただき、陛下の剣となるようご下命を承り、この剣を頂いてから、わたくしは陛下の騎士でした。一度たりともその役目に背いたことはございません。
――信を頂くには、わたくしは幼きに過ぎましたが、」
ちら、と、トゥイーディアが間違いなく宰相を一瞥した。
宰相が何か言おうとしたが、それを制するように、トゥイーディアは言っていた。
「幼くとも主は誇らしかろうと、そのようなお言葉を頂戴したこともございましたが、――陛下、わたくしを一度でも誇りに思っていただいたのであれば幸甚」
ゆっくりと息を吐いて、それから国王に目を戻して、トゥイーディアが言葉を続ける。
「――ですが、今日までです」
国王が大きく目を見開いている。
トゥイーディアがはっきりと苦笑した。
「この剣と、わたくしの勲功爵の位――騎士の名前、卿の称号――全てお返しいたします。リリタリス家には跡取りがおりません。陛下の手で改易いただきますよう。
それを申し上げるため、陛下の使いに応じました。
――ロベリア卿におかれましては、」
微かにヘリアンサスを振り返って、トゥイーディアはいっそう苦笑する。
「シャーステンにご領地もおありのことです。海に面した豊かな地と聞き及んでおります。我が一門に巻き込んでしまうには心が痛みます――わたくしはこれよりのち、陛下に頂いた地位の全てを失うわけですから、――どうぞ、婚姻の約束はなかったことに」
国王に向き直り、もういちど深く頭を下げて、トゥイーディアが続ける。
「――しかしながら、我が父の功績を今一度正当に評していただけるのであれば、どうぞわたくしの、リリタリスの荘園には寛大なお沙汰を。父母も眠っております。価値のある財もございます」
「――リリタリス」
国王が、呟くようにそう呼んだ。
それからもういちど、口走るように同じ名前を呟き、そして声を大きくした。
王錫を握り締める手指の筋が白くなっている。
「リリタリス――先走ったことを申すでない。余の決めること、そなたが余に従うべきことよ。改易? 何を抜かす。
そなたにも、そなたの父にも、罪はなかったではないか」
「ええ、如何にも」
トゥイーディアが顔を上げた。
微塵も怯まず国王を見上げ、トゥイーディアが叩き付けるように言った。
「そしてその父を、陛下――救ってくださいましたか」
「――――」
トゥイーディアが息を吸い込む。
「あまつさえ糾弾さえした――陛下、情勢もご事情も心得ております。ですからわたくしに、陛下や――宰相閣下、貴方さまを害する気は毛頭ございません。ですが心が理屈で動くものですか。
――わたくしが今日まで陛下を我が君とお呼びし、お仕え申してきたのは、」
ヘリアンサスが、立派な拵えの長椅子から立ち上がった。
それを見て俺はひやりとしたが、トゥイーディアはそれに気付いていなかった。
彼女は激しい語調で言い募っていた。
「――父の背中を見てのことです。
その父を、救いもせずに処刑台へ向かわせた――陛下、如何なるお言葉も無用です。わたくしが陛下から頂いた全てをお返しいたします。
わたくしが陛下に従うべきこと、と仰せられましたが、――陛下、わたくしは救世主です」
息を引き、殆ど静かなまでの口調で、トゥイーディアが言った。
「父が救世主を私物化したと、あれほど罪に仕立て上げたのならば、陛下。
陛下であっても、もはやわたくしを我が物とすることはなりません」
「リリタリス卿、お言葉が過ぎますぞ――」
宰相が素早く言った。
表情は強張っていたが声はしっかりしていた。
俺としてはルインの分もこいつには恨みがあるが、それを言っている場合ではなかった。
立ち上がったヘリアンサスが、ひたと宰相を見据えている。
ディセントラが動いていた。
コリウスと、何かを素早く打ち合わせるような目を見交わして、長椅子の横に回り込んでいる。
トゥイーディアはそれに気付いてはいない様子で、宰相を見据えて、跪いたまま背筋を伸ばしている。
「――故リリタリス卿は一臣下、陛下はレイヴァスの君主。同列に並べて論うのは如何なものかと」
トゥイーディアは瞬きもしなかった。
彼女は国王に向かって剣を捧げ持ったまま、平坦な声で尋ね返した。
「父が為せば死罪であっても、陛下が為せば正当な権利と?」
宰相が得たりと頷いた。
「如何にも。それが君主というもの、玉座というものです」
トゥイーディアが硬い微笑を浮かべた。
「ええ、まさに――そうでしょうね。
――わたくしはただ、わたくしに下賜されたものをお取り上げいただきたいと願い出ているのです。それをお許しいただけないということは、畏れながらわたくしども救世主から見れば、それはただの一国家による私欲に他なりません」
「それは、」
宰相が気色ばんだ。
国王も、微かに不快の色を表情に浮かべた。
後ろの衛兵たちにさえ、動揺の色が走ったのが分かった。
俺は覚えず息を詰める。
トゥイーディアが、仮にもまだ君主である男に向かって、あるいは一国家そのものに向かって、不躾に過ぎることを口に出したことは分かっていた。
カルディオスとアナベルも、固唾を呑んでトゥイーディアを見守っており――
「余りに非礼――」
宰相が言い差したまさにそのとき、ヘリアンサスが手を上げた。
カルディオスが息を呑んだ。
何か言おうとした――恐らく状況を忘れて、制止の言葉を吐こうとしたのだ。
だがそれが声にならないうちに、ヘリアンサスが、ぱちん、と、指を鳴らした。
俺に馴染んだ魔法の気配。
――時間が停まった。
光景全てが浅縹の色に染まる。
俺の目には、現実に存在するものの輪郭さえ映らなくなったが、ヘリアンサスには違うはずだ。
あいつがこの魔法を使ったのならば、あいつには全てが明瞭に見えているままであるはずだ。
俺の魔法だ。
俺は咄嗟に隣を見て、カルディオスやアナベルも、突然行使された魔法に仰天したようではあっても、平生と変わらず動いていることを確かめた。
コリウスとディセントラもそれも同じで、だが二人の表情は一気に緊迫していた。
当然だが――この魔法の中にあっては――俺たちは誰も、まともに魔法を使うことも出来ないのだ。
トゥイーディアが、溜息を吐きながら剣を下ろし、立ち上がった。
振り返りながら、うんざりしたようにヘリアンサスを見据える。
「――なに? 邪魔をしろとは言わなかったでしょう」
カルディオスが、一瞬の躊躇ののちに駆け出して、壇の上に飛び乗った。
そのままディセントラを押し退けてヘリアンサスの傍に立ち、軽く、咎めるようにその肩を叩く。
俺とアナベルは顔を見合わせてから、ゆっくりと壇に近付いて行った。
ヘリアンサスは、鬱陶しそうにカルディオスの手を払い除け、トゥイーディアを見て皮肉っぽく唇を曲げた。
「邪魔になったとは心外だな。――ちょっと意向を聞こうと思ったんだよ」
「意向?」
トゥイーディアが、かつん、と、細剣を杖のようにして、鞘の先で床を叩いた。
ディセントラとコリウスが、壇に昇った俺とアナベルを見て、少し顔を顰めて見せた。
こうなった以上はもうどうしようもない、という意味だろう。
アナベルがぼそっと、「まあ、ここであたしたちが皆殺しになる、みたいな結末もあるかもね」と呟き、ディセントラが顔を覆う一方、コリウスは真顔で、「心強いな」と呟いた。
ヘリアンサスにその小声の遣り取りが聞こえていたのかは分からないが、彼は肩を竦めて、恐らく宰相や国王がいるのだろう方向を指差した。
その手首で、しゃらん、とカライスの腕輪が揺れる。
「ご令嬢、話をした通りだ。お互いに責任を取る――僕はきみを誹謗から守るし、きみのお父さんの名誉を守る。きみの流儀に沿うのは別にいいけれど、」
そう言って、手を下ろして、ヘリアンサスが首を傾げた。
考え事をするときには首を傾げるものなのだ、と、俺が教えた仕草そのままに。
「きみの行動の意味が、あんまりよく分からないな。――きみが、きみの……なんだっけ、そう、勲功爵位、そういうものを返上する話をしたんでしょ。きみがきみのお父さんの家を背負って生きていくのは現実的じゃないって、そういう話だったよね。
――それで、あっちは、」
あっち、と言いながら、ヘリアンサスは宰相や国王が居ると思しき方へ細い顎を向けた。
黄金の瞳で冷ややかにトゥイーディアを見て、瞬きする。
「どうやら素直にきみが返すものを受け取るつもりはないらしい。――これ、交渉決裂って言うんじゃないの?
正直にいえば、」
皮肉っぽく微笑んで、ヘリアンサスが頭を傾ける。
「僕としては、ここできみが足止めを喰うのは嬉しい。出来るだけ、きみの側の揉め事が長引いてくれればいいとさえ思うけれど――」
「――――」
俺は思わず息を止めた。
ヘリアンサスのその言葉が、トゥイーディアが彼女の身辺を整理してしまえば、そのあとには世界を救おうとするだろうこと――魔法を廃絶しようとするだろうこと――そのためにヘリアンサスが犠牲になるだろうこと、それゆえのものだと分かったから。
トゥイーディアは瞬きもしなければ、表情を動かしもしなかった。
ただヘリアンサスの言葉に耳を傾けている。
そんなトゥイーディアを見詰めたまま、ヘリアンサスはいっそう皮肉を籠めて微笑む。
「きみはきみの責任をちゃんと果たしてくれているから、僕が不義理をするわけにはいかない。僕も出来る限りで責任を取ろう。労は厭わない。
――だから言うんだけど、もういっそ、この連中を片付けて、」
この連中、と言いながら、ヘリアンサスは王宮をぐるりと指差すような仕草をする。
カルディオスが絶句してヘリアンサスを見詰め、さっと顔を強張らせた。
ヘリアンサスはそれに気付いて、瞬きするほどの間、不思議そうにカルディオスを見詰めた。
しかしすぐにトゥイーディアに視線を戻して、彼が首を傾げる。
「色々と無かったことにする方が手っ取り早いんじゃない?
どうせ、きみが今からやろうとしていることを成就させてしまえば、ここの連中だって大混乱だ。何しろこの世界は、この僕の犠牲の上でのものだから。
――今、この連中を片付けたところで、遅いか早いかの差でしかないよ」
穏やかなまでの口調でそう言い切ったヘリアンサスに、トゥイーディアはうんざりした様子で溜息を吐いた。
そして、細剣を持っていない方の、空の手を彼に向けて言った。
「問題が二つあるわ。
――一つ、私がこれから何をしようが、私が賭けに勝ったんだから、おまえはそれに協力するの。それで私がすることで何が起きようが、人間一人一人に可能性があるんだから、それを予め踏み潰す権利なんてあるはずないでしょう。
違うと思うならカルに訊いてみなさい。普段と違うことをするときはカルに訊く、そういう話なんでしょ」
賭け、と言われて、カルディオスが神妙に顔を顰めた。
――賭けはカルディオスに関することだった。
彼がヘリアンサスに対してどう出るか、それをヘリアンサスとトゥイーディアは賭けていたのだ。
その賭けにはトゥイーディアが勝ち、そのためにヘリアンサスは、トゥイーディアが望むように、この世界を救うに足るだけの協力を迫られている。
そしてそれとは別に、ヘリアンサスとトゥイーディアは、互いに責任を取ると言っている――ヘリアンサスにとっては、それはトゥイーディアをあらゆる誹謗から守るということらしい。
その手段の提案が余りにも暴力的であるにせよ。
ヘリアンサスが、首を傾げてカルディオスを見た。
カルディオスが首を振り、息を吸い込んで、力を籠めて言い切った。
「――駄目だ。絶対だめだぞ、アンス」
ヘリアンサスは眉を顰めたものの、反論はしなかった。
ただ肩を竦めてトゥイーディアに顔を向け、「二つめは?」と促すような顔をする。
トゥイーディアが指を二本立てて、面倒そうに告げた。
「二つ、お父さまがそんなことを望まれない。
お父さまはこの国の騎士で、陛下に仕えて名を立てたのよ。
分かったらさっさとこの魔法を終わらせて」
話は終わり、とばかりにトゥイーディアは言い切ったが、ヘリアンサスは戸惑った様子だった。
瞬きして、眉を寄せて、新雪の色の髪を落ち着かない様子で掻き上げる。
それから、こいつにしては信じられないほどに遠慮がちな声を出した。
「――ご令嬢。
念のために言っておくけど、……お父さんは、もういないよ」
トゥイーディアが、むしろぽかんとした様子でヘリアンサスを見詰めた。
飴色の瞳が大きく見開かれている。
カルディオスが、ぎょっとしたようにヘリアンサスを見て、「黙れ」と合図するようにヘリアンサスの腕を引いた。
ヘリアンサスは不可解そうにそれを見て、カルディオスの手をそっと振り払う。
「……は?」
トゥイーディアが、唖然としたような声を零した。
ヘリアンサスはまっしろな睫毛を上下させ、両手の指先をそれぞれ合わせて、そのうちの人差し指だけを、互いにくるっと回した。そして、小さな声で呟く。
「申し訳ないと思うけれど、きみのお父さんはもういない。
――きみがお父さんに遠慮したり……義理立てしないといけないことは、もう一切ないはずだ。
――違う?」
トゥイーディアが瞬きして、それから口を開いた。
顔が強張って、彼女は一瞬、そのままヘリアンサスに向かって怒声を上げようとしたかに見えた。
――だが、トゥイーディアは口を閉じた。
細剣を片手に持ったまま、彼女がヘリアンサスとの、数歩分の距離を詰めた。
ディセントラとコリウスが危ぶむように彼女を見たが、トゥイーディアに暴力的な気配はなかった。
「――違う」
呟いて、トゥイーディアは――いっそ不思議そうな目でヘリアンサスを見た。
二人の距離はもう一歩分しかなかった。
俺は息を止めていたし、恐らくアナベルもそうだった。
しかしトゥイーディアの様子に、敵愾心はともかく警戒心は欠片もなかった。
「おまえがどうしてそんなことを言うのか分からない。
おまえにとってはどういうものなのか分からないけれど、――私にとっては、違う」
少し考えるように間を置いて。
「お父さまはもういないけれど、最初からいなかったわけではないの。
おまえは目に見える事実しか見ないから、なかなか分からないでしょうけれど――」
口を噤んで、まじまじとヘリアンサスを見て、トゥイーディアは呟くように。
「おまえにも分かっているでしょうけれど、私はお父さまが大好きなの。
私にとっては、それは――敬意を払うということなの」
ヘリアンサスが首を傾げる。
その仕草に頷いて、トゥイーディアは重ねて言う。
「お父さまの善意と献身に、敬意を払うということなの」
トゥイーディアがヘリアンサスから視線を外した。
まるで彼の後ろにいる誰かを見ているようだった。
「お父さまはもういないけれど、お父さまの善意と献身までがなかったことになるわけではないの。
――おまえだってそうでしょう」
唐突にヘリアンサスに指を向けて、トゥイーディアは言い切った。
「おまえだって、本心では、刃物ひとつで人間が完璧に死ぬだなんてことを、欠片も信じてはいない」
ヘリアンサスが苦笑した。
彼がカルディオスを見て、それから俺を見た。
俺の強張った顔を見て、宥めるように彼が微笑んだ。
それからトゥイーディアに視線を戻し、ヘリアンサスは穏やかに。
「――まあ、そうだね。どのみち、また生まれてくるのは決まっているから」
「違う」
トゥイーディアはそう言って、少し迷うように目を伏せて。
「……そうじゃない――『特別』というのは」
俺には、その言葉の意味は分からなかった。
カルディオスすらも訝しそうにしていた。
だが、ヘリアンサスにとっては、意味は明瞭な言葉のようだった。
ヘリアンサスの顔が変わった。
警戒するような、気色ばんだ表情が浮かんだ。
周囲の空間全部が軋むような音がした。
俺たちは殆ど反射的に身構えたが、トゥイーディアは違った。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ俺を見て、それからヘリアンサスに視線を戻して、囁いた。
「――愛情が途切れることすら信じてないくせに……」
ヘリアンサスが瞬きする。
不承不承ながら納得したような、そんな顔の顰め方をしている。
トゥイーディアがそれを認めて、肩を竦めた。
「それと同じよ。――私は、お父さまが尽くした善意に敬意を払う。お父さまが尊重したものを足蹴にすることはしない。お父さまが望まれないことはしない。
お父さまがいらっしゃらないにせよ、お父さまのお心の一部は、私が引き受けてここにいるの」
細剣を右手に持ち替えて、トゥイーディアが噛んで含めるようにして言う。
「私はそう考えているし、そう行動する。
――話をしたでしょう、ヘリアンサス。この場においては、おまえもそう振る舞うのよ」
ヘリアンサスが、じっとトゥイーディアを見詰めた。
二人が少しの間目を合わせていた。
そうして、ヘリアンサスが頷いた。
「――分かった、そうしよう」
トゥイーディアが頷く。
ヘリアンサスが片手を上げた。
俺たちは殆ど手探りで下がり、元いた場所に戻ろうとする。
トゥイーディアも同様に、歩いただけの数歩を戻り、探り探りといった様子でその場で膝を突いた。
ヘリアンサスが手を振り下ろす。
がちん、と、重々しい、音にもならない轟音が響き渡り、時間の拘束が解かれた。
「――ではありませんか、リリタリス卿」
宰相がそう言い切る間に、俺とアナベルとカルディオスは、どうにか元いたのと同じ立ち位置に戻った。
ディセントラとコリウスも、密やかに動いて違和感を持たせていない。
トゥイーディアも、なんとか同じ位置で跪き、細剣を捧げ持つことに成功していたらしかった。
ほんの僅かに、トゥイーディアが自分の跪いた位置を修正するのが俺からも見えた。
まあ、俺たちはなんとでも誤魔化せるような立ち位置にいたが、トゥイーディアはまさに国王の目の前。
肝を冷やしたことだろう。
ヘリアンサスが悠然と長椅子に腰を下ろしている。
トゥイーディアは見事だった。
何の違和感も持たせず、切り返すように即座に応じた。
「わたくしから勲功爵の位をお取り上げになるのが、それほど難しいこととは思われませんが。それこそ陛下の一存でございましょう。
――陛下から頂戴したものを、全てお返しするために今日は参りました」
「リリタリス、それは余の決めることだと、先ほども」
国王が呟くようにそう言った。
コリウスとディセントラが、さっと目を合わせたのが見えた。
コリウスが手でディセントラを促した。
ディセントラが頷き、そして軽やかに口を開いた。
「――陛下、僭越ながら」
国王と宰相が、揃ってぎょっとしたようにディセントラを見た。
今の今まで、救世主の存在を忘れていたのではないかと思えるような反応だった。
ディセントラが婉然と微笑む。
トゥイーディアは口を噤んでいた。
ディセントラが、議論の硬直化を嫌って口を挟んだことが分かっていて、全幅の信頼を彼女に寄せていることが、ありありと分かる沈黙だった。
「救世主どの――」
国王が呟くようにそう呼んで、ディセントラがいっそう微笑む。
音をさせずに両掌を合わせて、ディセントラが言った。
「ええ、ご無沙汰しております。
実をいいますと、わたくしはトゥイーディアと――」
わざとらしく親しげにトゥイーディアの名前を呼んでから、ディセントラは一拍の間を置いて、微笑と共に言い換える。
「失敬、リリタリス卿と、少し違う用件で参りましたの。
リリタリス卿のお話が、如何せん少し長くなりそうですし、たいへん失礼ではありますけれど、先によろしい?」
軽やかに、一国の君主に対するには砕けた物言いで言葉を重ねて、言外に救世主が国王に対して敬意を払う義務はないのだと印象づけながら、ディセントラは是非の応答を待たずに言葉を続けた。
「お耳に入っていることかとは存じますが、このトゥイーディアが、先日魔王を討ちました」
討たれたはずの俺は、こっそり俯く。
国王と宰相の顔が、俄かに明るくなった。
「おお、如何にも。そうとも、我が国で、魔王が遂に」
「ええ、本当にめでたいことですけれど――」
困ったように微笑んで、ディセントラが首を傾げる。
「そのことで、少しお伺いいたしたく。
――わたくしの聞いた話では、どうも魔王の縁者はイルス近郊で捕らえられたとのお話。捕縛に当たった方はどなたかしら、義勇の心には敬意を払いますわ。
――けれど、まあ、どうして」
言葉を切って、悲しげに溜息を吐く。
「すぐにわたくしども――救世主に知らせが来なかったのでしょう。モールフォスに使いでも出してくだされば、トゥイーディアの父君のご葬儀もあり、わたくしどもは居りましたものを。知らせがなかったがために、魔王を討つのに時間も要しました。
魔王の縁者を捕えた方はどなたです? 救世主の領分を侵した行動だったかと存じます――お話をしたく」
宰相が、さっと蒼褪めた。
他の連中なら気付かなかったかも知れないが、俺たちは気付いた。伊達に長生きはしていない。
俺は胸のすく気分である。
ディセントラがそこで言葉を切り、そしてすぐに、コリウスが言葉を引き継いだ。
「それだけではなく――ベルフォード侯爵、でしたか、彼も功を焦られたのか――魔王を刑場に引き出したようですね。なぜ、救世主に何の知らせもなかったのか――理解に苦しみます。
わたくしは――恥ずかしながら、参じるに時間を要しましたが、このディセントラとトゥイーディアは、ずっとこの国に居りましたものを」
いったん言葉を切ってから、コリウスは真顔で言った。
「幸いにもトゥイーディアが駆け付けましたが、それが遅れていたとすれば――魔王によってどれだけの無辜の方々が犠牲になったか。想像するだに恐ろしい」
宰相が、何か言おうとした。
その政治的な反射神経だけは評価に値する。
だがその機先を制して、ディセントラが再度口を開いていた。
先ほどまでの軽やかな口調とは一変、見事なまでに厳格な声だった。
「――救世主への知らせを怠り無辜の民を危険に晒すなど、もはや逆賊と言って過言ではありますまい。
――陛下、お許しを頂けましたら、わたくしが直截、その者を追及したく存じます。陛下の王宮でのことになりますから、そのお許しを得るために、失礼ながらトゥイーディアと共に参りましたの。
幸いにも、と言ってはなんですが――」
愛情を籠めた目でトゥイーディアを見てから、ディセントラは一転して冷淡な瞳で国王と宰相を見比べる。
「リリタリス卿の今後の身の振り方が決まるまで、少しお時間が掛かるようです。
トゥイーディアは救世主ですもの、――ようやく魔王がいなくなったとはいえ、影響は残っておりますから――、」
アナベルがちらっと俺を見た。
俺は、次から次へと真実味満点の言葉を繰り出すディセントラを、顔には出さないものの呆気に取られて眺めていた。
ヘリアンサスも、まじまじとディセントラを見ていた。
どうやらこいつは本当に、最初のディセントラの印象を強く残しているらしい。
俺と違って、呆気に取られているというよりは、さもありなんと言わんばかりの眼差し。
その眼差しも歯牙に掛けず、ディセントラは堅苦しいまでの口調で続けている。
「本来ならば、救世主として早急に当たらねばならぬ事もございますが、トゥイーディアにとっては大切な祖国であり一門。尊重いたします。
その間に、是非ともわたくしどもに、救世主の分を侵した不敬者の追及のお許しを」
ディセントラがそう言い切って、宰相を見て微笑んだ。
それから国王に視線を向けて、微笑んだままに首を傾げる。
宰相が目を閉じて、閉じた瞼を手で覆った。
国王も大きく息を吸い込み、玉座の背にどっかりと体重を掛けるように凭れ掛かる。
――とどのつまり、今、国王と宰相がトゥイーディアを手許に置いておきたがるのは――彼女から爵位を奪わずにおこうと考えているのは、十割が「救世主を手許に確保しておきたい」という動機のゆえだ。
何しろトゥイーディアは、魔王を討った救世主だ。
今やその価値は計り知れない。
一方ディセントラとコリウスが突き付けたのは、「救世主の権を侵した人間を追及したい」という要求だ。
以前までは使えなかった手だが――救世主よりも、さすがに一国の君主が重く見られるから――、今や違う。
「魔王を討った」と冠がつく救世主の言うことは絶対だ。
俺たちがそう決めたのだから。
そして、ディセントラとコリウスの要求を呑んでしまえば、追及されるのは宰相だ。
さすがに敵対派閥にいるとはいえ、魔王の縁者を捕えるという重大事を、宰相が一存で押し進めたとは考えられない。
国王も知っていたはずだ。
そして、トゥイーディアと違って、コリウスもディセントラも他国の人間だ。
どう足掻いても、国王が強気に出られる要素は、今や、無い。
――救世主を手許に置いておく利点と、政治の要である宰相を失い――国王からすれば敵対派閥に属すとはいえ、政を最前線で担う宰相の後継が育っていないならば、彼が欠ける影響は大きいはずだ――延いては自分の権力も揺らぐことになる脅威。
天秤に掛けて、どちらを取るか。
もう明らかだ。
トゥイーディアの背中に安堵がある。
それでも最後の一押しのために、彼女が口を開いた。
「お引き留めいただくことは結構ですが、わたくしがここで剣を抜かないのは、ひとえに父がそれを望まぬがゆえ、――また父の愛した荘園に、寛大なお沙汰を頂きたいがため」
苦笑して、トゥイーディアが言葉を続ける。
「ディセントラは、どうも――わたくしが魔王を討ったのですから、それでいいと言い聞かせても、無辜の民が危険に晒されたことが許せぬ様子。ゆえに、わたくしの陛下への奏上は、長引けば長引くほど、ディセントラにとっては嬉しい一面もあるのやも存じません。
ですが、ディセントラの言うように、救世主として早急に当たらねばならぬ事もございますので、」
軽く頭を下げて、トゥイーディアは穏やかに。
「なおわたくしをお引き留めいただこうというのならば、已むを得ますまい、わたくしも剣を抜かざるを得ないこともございましょう。
――ですが、斯様な暴挙に及ぶのは本意ではありません」
再び、押し戴くように細剣を――彼女が叙勲されたときに下賜された、まさにその細剣を国王に差し出して、トゥイーディアがきっぱりと言った。
「お返し申します。
――お受け取りください、陛下」
宰相が、じゃっかん身を乗り出した。
恐らく彼の頭の中では、この状況を打破するに足る論理が組み上がっていたのだ。
――だがそれを、手を振って国王が諫めた。
宰相が目を剥いて国王を見た。
身分を忘れて、「正気か?」と問い詰めるような、そんな色が表情に昇った。
軽く溜息を吐いて、国王が玉座の上で身を屈め、トゥイーディアが差し出す細剣を受け取った。
ずっしりとした重みがトゥイーディアの手を離れ、国王の手に移った。
彼はそれを膝の上に載せて、鞘の見事な細工を撫でた。
「――あい分かった」
国王がそう言った。
宰相がいっそう目を見開き、もはや憎悪すら感じさせる凄まじい目で国王を見ている。
彼の頭の中には国益を優先する考えがあるのだろうが、俺からすれば知ったことではない。
トゥイーディアの望む方向を阻むなら、俺の中で彼は悪人だ。
宰相の眼差しは国王も感じているだろうに、国王は穏やかにトゥイーディアを見下ろして、訥々と言葉を続けた。
「これまでの忠義に礼を言おう、騎士トゥイーディア。
叙勲前のことにはなるが、フレイリー戦役でのそなたの傍若無人な功については、オルトムントからも聞き及んでおったところ」
トゥイーディアは顔を伏せた。
「お恥ずかしい限り」
「何を申す。――それよりのちも、我が国の宝たるフレイリーの傍をよう守ってくれた。
だが、それも今日まで」
す、と細剣を持ち上げて、着座のまま、国王が細剣の柄を握って、鞘に収まったままの刀身をトゥイーディアに向けた。
トゥイーディアが頭を下げて、その肩に、とん、と細剣の鞘が触れる。
「そなたの勲功爵位を除す。
騎士に非ずばロベリアと家格は釣り合わぬゆえ、当然に婚姻の約束も解消――已む無し。
ゆえにリリタリス一門は、長く続いた家柄ゆえに惜しいが、次代の当主なく廃絶となろうな。
荘園も取り上げよう――新たな持ち主については、おって沙汰する。それまで荘園にて待つように。使いを遣るゆえな。
悪いようにはせぬ。オルトムントはよう尽くしてくれた」
トゥイーディアは頭を下げていた。
細剣が彼女の肩から離れて、ようやく彼女は顔を上げた。
膝の上に細剣を乗せた国王と目を合わせて、トゥイーディアが呟くように言う。
「――感謝申します、陛下」
少し躊躇ったあと、トゥイーディアは跪いたまま、小さな声で続けた。
「……ここへは父が望むことだろうと思って参りました。出奔は父の望むことではなかろうと――」
国王が目を細めた。
「出奔を考えたか。なんと。それを先に申せば、すぐさま爵位など剥いでやったものを」
トゥイーディアが苦笑した。
つい先程まで主君であった男の声音に、冗談の気配を感じ取ったらしかった。
それからふと表情を改めて、真摯に、真剣に、言った。
「父が忠義を尽くし、剣としてお仕え申した陛下にこそ申し上げます。
――内憂は程々になさいませ。揶揄で申し上げるのではございません。玉座の重みはこれよりいっそうのものになりましょう」
国王が、少しだけトゥイーディアの方に頭を傾けた。
瞬きして、まじまじと目の前の少女を見ていた。
「……ほう?」
トゥイーディアはいっそう小声になった。
宰相には聞こえないのではないかというほどの、小さな囁き声。
「祖国への情のために申します」
迷うような間を置いて、しかしそれでも、断固とした小声で続ける。
「わたくしが為すべきことを為せば、これより陛下の国が傷つきます。わたくしは救世主ですから――この世界を救うに足ることをいたします。ですがわたくしでは、とても及ばぬ領分もございますゆえ――陛下は人をお守りくださいませ。
わたくしから申し上げるのも僭越ながら、陛下、――どうぞ民を守っていただきたい」
国王はしばらく、真意を測るようにトゥイーディアの目を見詰めていた。
そしてトゥイーディアの瞳に何を見たものか、ひとつ頷いた。
手を伸ばして、トゥイーディアの肩を叩いた。
「我が国に救世主が生まれ落ちたことを誇ろう」
彼はそう言って、老いた顔を大仰に顰めた。
「救世主の務めがあるならば果たすよう。
――同じ救世主のお立場の御仁には、どうぞ我が国に拘泥なさらぬようと伝えよ。救世主の領分を侵した者が居れば、余が手ずから処分するゆえ、どうぞお気に召さるなと」
トゥイーディアが微笑んで、頭を下げた。
「承知いたしました、陛下。
――父の荘園で使いの方をお待ち申しております。どうぞお早めに。長く掛かりますと、仲間がやはり、無辜の方々が危うく犠牲になろうとしたあの状況を憂えて、陛下のお許しを得ずにまた王宮に参じるやも知れませぬ」
国王が苦笑した。
宰相の、憤懣に満ちた顔をちらりと振り返った。
それからトゥイーディアに向き直って、彼は言った。
「あい分かった。早急に沙汰を定めて使いを送ろう。
――トゥイーディア・シンシア、今日までご苦労であった。
――退出を許す」




