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17◆ みたびイルスへ

 キルトンで一泊の休憩を挟んだのち、モールフォスから出発して六日目の夜に、俺たちは王都イルスに到着した。


 なお、本来ならば使者連中はトゥイーディアを迎えに来てすぐにトゥイーディアを連れてモールフォスを出発していたはずで、到着は当初の連中の予定よりも一日遅い。

 そんなわけで連中は、キルトンでの一泊の休憩にすら躊躇いを見せていた。


 敏感にその気配を察したコリウスが使者連中に釘を刺したことで、トゥイーディアはキルトンできっちり一泊の休息を取ることが出来たわけだ。

 ついでに俺たちも。


 だが、一泊如きの休息では、ずっと座りっ放しでいた身体の強張りが取れようはずもなく、駅にて汽車を降りた俺たちは、各々身体を伸ばして溜息を吐いていた。

 平気そうだったのはヘリアンサスくらいだが、こいつはまあ、人間ではないからね。



 イルスに到着したのは夜で、深夜というほどの時間でもなかったものの、駅に人は殆どいなかった。


 等間隔に吊るされたカンテラが、弱々しく夜陰を払っている。

 小さな柔らかい明かりの玉が幾つも浮かんでいるようにも見えて、それでいっそうその間の闇が物寂しく感じられた。


 王都の市壁の外に造られた駅は大きいが、夜とあってがらんとしている。


 切符を売るカウンターの向こうで、制帽を被った小柄なおじさんが退屈そうにしていて、こっそりと煙草を吹かしていた。

 そこに、物々しい靴音を幾重にも響かせて、使者連中に引き連れられた俺たちが通ったものだから(使者連中は言わずもがな、他も全員が、きっちりした喪装か軍服という一団だ)、おじさんはびっくりした様子で、慌てて煙草を足許に落とし、踏み潰して素知らぬ顔をしようとしていた。

 とはいえ、煙草の臭いは分かるし、おじさんはびっくりしてぽかんと開けた口から煙を吐き出している状態だった。

 俺は思わず同情の目でおじさんを見て、次に彼が見付ける退屈凌ぎが、煙草と違って証拠が残るものではないことを祈ろうとしたが、寸前で思い留まった。

 俺は平気だが、トゥイーディアは煙草の臭いが嫌いなのだ。

 使者連中はおじさんの勤務態度には見向きもしなかった。



 駅の出口近くでは、汽車を逃し、そのうえ宿に泊まる有り金も尽きたのか何なのか、途方に暮れた様子で大きなトランクの上に座り込み、自分の足許をじっと見詰めている若者がいた。

 彼もまた、こつこつと靴音を響かせて俺たちが後ろから現れると、びっくりした様子で飛び上がり、立ち上がり、トランクをおたおたと引き摺って脇に退きながら、目を見開いていた。


 カルディオスが通り過ぎながら彼をちらっと見て、一瞬俺たちから離れたと思うと、素早く懐から取り出した紙幣を数枚、ささっと彼に握らせて、そのまま素知らぬ顔で俺たちのところに戻ってきた。

 素早く動いたカルディオスに、先を行く使者連中は気付かなかっただろうが、俺たちは当然気付いた。

 俺とアナベルがカルディオスの金遣いの荒さに顔を顰める一方、ディセントラとコリウスは単純に呆れているようだった。


 ヘリアンサスはわざわざ振り返ってカルディオスの挙動を確認していて、トゥイーディアはそれにぎょっとした様子だった。


 突然見知らぬ美青年(しかも軍人)から金を握らされた若者は茫然としたようだったが、すぐに、慌ててカルディオスの方に繰り返し繰り返し頭を下げていた。

 カルディオスは格好よくひらっと手を振ってそれをあしらい、自分の方を振り返っているヘリアンサスに、したり顔で頷いてみせていた。


 ヘリアンサスは真顔で頷いて、正面に向き直っていたが、カルディオスの意図がどう伝わったものか、俺としては気が気でない。



 駅舎を出たところで使者連中は足を止め、きょろきょろと周囲を見渡した。


 イルスの市壁の向こう側に、きらきらと点る街灯と窓の明かりが見えている。

 距離があるためにさすがに王宮までは見えないが、ここからだと上層街のいちばん外側程度の建物ならば市壁越しに遠くに見えており、その窓から漏れ出る明かりが寄り集まって、上空の闇を薄ぼんやりと晴らしているのが見えていた。


 秋口に差し掛かろうかという季節であり、俺からすれば、気温は既に冷えているものといえた。

 他のみんなは平気そうだったが。


 使者の一人が、駅舎から少し離れたところに停まっている馬車を見付け、そちらに駆け寄って行った。


 俺は冷めた目でそれを見ていたが、トゥイーディアはじゃっかん気に掛かったらしい。

 傍のディセントラにこそこそと、


「――あの馬車、王宮からのものだとすると、ずーっとここに居たのかしら……」


 と、深刻そうに尋ねている。

 ディセントラは溜息を吐いて、


「まあ、私たちの正確な到着の日が分かっていたわけじゃないもの、ここ数日は、きっと一日の最初の汽車が停まってから最後の汽車の時間まで、律儀に待ってたんじゃないかしら。交代しながらだったんでしょうけど」


 と、貴族の貫禄で応じていた。

 トゥイーディアは眉間に皺を寄せていたが、それに気付いたコリウスが素早く、「ディセントラが言ったように、交代しながらだろうから」と宥めていた。


 果たせるかな、使者が駆け寄って行った馬車は王宮からのものだった。


 小声で使者と御者が遣り取りし、御者が軽く鞭を振って馬を歩かせて、こっちに寄って来たわけだが(当然だが、待ちぼうけに巻き込まれた馬たちは不機嫌そうだった。同情する)、黒塗りの車体には、レイヴァス王家の印の小旗が翻っていた。


 馬車は六頭立てで、かなり大きい。


 馬たちが不機嫌そうにぶるると身体を震わせたり、あるいは敷石を蹄で蹴ったりしている横で、使者たちが深刻そうに顔を突き合わせていた。


 つまるところが、トゥイーディアに同行する人数が彼らの予想を上回ったがために、馬車の容量を超えたわけだ。

 いや、重さからいえば、馬六頭で牽く馬車だから、この場の全員を運ぶことも出来るだろうが(実際、道行く乗合馬車は四頭とか六頭の馬で牽くことが多いものなのだ)、問題はどうやら馬車の仕様で、貴人がゆったりと乗ることを想定された馬車は、乗合馬車のようにぎゅうぎゅう詰めで客を乗せることが出来ない。


 アナベルがコリウスをじっと見詰めて、「あなた、先に行けば?」と身も蓋もないことを呟き、それを聞き付けたカルディオスが更に小声で、「こいつが居るんだから、極論、馬車は要らない」とヘリアンサスを指差した。

 ヘリアンサスは肩を竦めてそれを聞き流したようだったが、ふと思い直した様子でカルディオスの顔を覗き込み、「おれとおまえで先に行こうか?」と言い出した。


 俺たちがぞっとする一方、カルディオスは遠慮なくヘリアンサスの顔をまじまじと見たうえで、呆れ返った声音で囁いた。


「相変わらず馬鹿だなあ。冗談だよ、冗談。

 おまえは主賓の一人でしょ。先に行ってどーすんのさ」


 ヘリアンサスがトゥイーディアを見て、トゥイーディアが顔を顰めて頷いた。

 ヘリアンサスは納得した様子で、軽く頷いた。


「そういうものなのか」


 そうこうしている間に、使者連中の中で話が着いたようだった。


 ちなみに御者は、きりっとした顔を保とうとして失敗して、中途半端にぼんやりした顔になっていた。

 まあ、日中からずっとここで、来るとも分からぬトゥイーディアを待っていたのならば無理もない。


 なお、俺が彼の立場であれば、トゥイーディアがいつかは自分のところに来てくれるというだけで、めちゃくちゃに目が冴えるだろうことは言うまでもない。


 使者連中がこっちに、というかトゥイーディアに頭を下げて、恭しく馬車の扉を開けた。



 それを見て俺は、何となく、俺が人生で初めて馬車に乗ったときのことを――雲上船から降りて、いざリーティ王宮からやって来た馬車に乗ろうとしたタイミングでのちょっとした行き違いから、乗るべきではない馬車に乗ってしまい、死ぬような心地を味わったときのことを、なんとなく思い出した。


 あのときの俺は自分のことで一杯一杯だったが、振り返って考えてみると、レイモンドの方こそ発狂寸前に陥っていたはずだ。

 だがまあ、あの騒動のお蔭で俺はトゥイーディアに会うことが出来たので、その因果を話せばあの兄貴のこと、「やむなし」と判断してくれそうな気がする。


 ――そんなことを考えて、俺は思わず、一人でこっそりと微笑む。

 すぐに俯いてそれを誤魔化したものの、俺の表情の些細な変化に気付いたらしいトゥイーディアが、不思議そうにこっちを見てきた。


 トゥイーディアが俺を見ていることには緊張するが、しかし俺の些細な表情に気付いてくれるとは、トゥイーディア、やっぱり俺に気があるのでは。


 万が一これが勘違いだったときの傷心度合いは、もう自分で考えるのも嫌になるほどのものになっているので、トゥイーディアはもう俺を誤解させるような真似はやめてほしい。

 あるいは誤解させた責任を取ってほしい。

 いや、誤解じゃないのが一番、本当にいちばん、いいことなんだけど。



 この馬車、扉が前後で二つ付いている。

 使者が開けたのは後ろの方の扉だった。


 馬車の中に火の入ったカンテラが吊るされていて、開かれた扉から中の様子が見えた。

 馬車の後ろの方の座席は、ぐるっと馬車の縁に沿う形で設けられた革張りのもので、一人ずつが腰掛けるスペースが窪んでいる。

 天鵞絨のクッションも置いてあって、俺は今や救世主の地位がどれだけ重んじられているものか、おおよそのところで察した。


 一方前の扉からは、正面を向いた座席に乗り込むようだったが、こっちの座席は使者連中が使うのだろう。


 ディセントラがトゥイーディアを促して、いちばん最初に乗り込ませた。

 俺たちは、つまりは一応は護衛の立場としてここに居る三人が、形ばかりに頭を下げる。


 トゥイーディアは、腰掛ける位置に少し迷ったようだったが、すぐ後に続いたディセントラに促されて、馬車のいちばん後部、進行方向に対して正面を向く部分の真ん中に腰掛けた。

 その右隣に素早くディセントラが座り、続いてカルディオスがヘリアンサスを促して、二人揃って馬車の進行方向からみて左側の壁際の席に座る。

 ヘリアンサスが物珍しそうに車内を見渡して、ゆったりと脚を組んだ。


 続いてコリウスが、進行方向からみて右側の壁際の席、扉に近いところに座る。


 アナベルが俺を車内に押し込んで、押し込まれるまでもなく自分から車内に足を掛けようとしていた俺を、じゃっかん前のめりによろめかせた。

 振り返って顔を顰める俺に、しっしっ、と手を振るアナベル。

 ひでぇ。


 軽く首を振りながら車内に入った俺の手を、いったんは座席に腰を落ち着けたディセントラが立ち上がって掴み、そのまま有無を言わせず、俺をトゥイーディアの隣、進行方向に対して正面を向くいちばん後部の座席の、左の端に押し込んだ。


「――――!」


 トゥイーディアがびっくりしたように固まった。


 俺は迷惑そうな顔でディセントラを見て、彼女の手を振り払った。


 そうしているうちにアナベルがコリウスの隣に滑り込むように座って、使者がこちらに頭を下げてから、ばたんと扉を閉めた。


 続いて前の方の扉が開き、使者七人のうち二人が滑り込んで来る。

 どうやら残りの五人は、適当に辻馬車でも捉まえて王宮に戻るらしい。


 トゥイーディアが半ば腰を浮かせて、隣のディセントラを見て、あわあわと何かを訴えようとした。


 しかしながらディセントラがそれを手振りで止めて、無言で馬車前方を指差す。

「使者がいるんだから静かにしろ」との意味なのだろうし、表情は毅然としたものだったが、長年の付き合いだから分かる、ディセントラの唇の端が、微妙に笑いを堪えるように歪んでいる。


 トゥイーディアは、半ば茫然とした様子で革張りの座席の上に腰を落ち着けて、膝の上にクッションを抱えて俯いた。


 出来る限り小さくなって俺から距離を取ろうとしているようにも思えて、俺としては気が気ではない。


 とはいえそんな態度は欠片も表には出せず、俺は自分の頭のすぐ傍にある小さな窓を覗き込むわけだが。


 ――外の暗さが車内の光を弾いて、窓に嵌め込まれた玻璃が鏡のようになっていた。

 見慣れない金髪の俺がそこにいる。


 俺は大急ぎで、こんなときにレイモンドならどう助言をくれるかを考えてみたが、俺の頭の中のレイモンドは、「脈があるのでは?」としか言わなかった。

 もしそうだったら苦労しないんだけど。



 使者の一人が、御者台に通じる小窓を開けて小声で指示を出した。

 数秒して、馬車がゆっくりと動き出した。



 馬車ががたごとと揺れながらイルスの市街に入る。


 俺は小さな窓から、イルスの街灯が後ろへ流れていく様を見ていた。





◆◆◆





 その翌日に、トゥイーディアは国王との謁見を命じられていた。



 朝に顔を合わせたとき、どうやら夜の間に湯殿を使ったらしく、トゥイーディアはこの数日の旅の埃をすっかり洗い流していた。


 眩しさ三割増しである。

 というわけで俺は目を逸らしていた。



 客室については大急ぎで見繕われ(何しろ、トゥイーディアがこれほどの大所帯で王宮に乗り込んで来るとは、王宮側の誰も想像していなかったのである)、トゥイーディアとヘリアンサス、ディセントラ、コリウスのそれぞれが一部屋ずつを割り当てられた。


 トゥイーディアとヘリアンサスの部屋は元々整えられていたようだが、あとの二部屋についてはばたばたと整えられることになっていた。


 他の俺たちは、それぞれ護衛としてついているという設定なので、もちろんのこと一部屋を貰うなんてことはせず、主寝室についている従者のための小部屋で一晩を過ごしたわけだが、その際にディセントラとカルディオスが執拗なまでに俺をトゥイーディアの護衛の役割につけたがり、トゥイーディアが小声ながらも猛然とそれに抵抗したがために、俺の心にざっくりと深い傷を残していた。


 結局のところ、アナベルが半ば呆れたように、「イーディを寝不足にしてどうするのよ」と言ったことで、俺は卒なくコリウスの部屋に放り込まれることになったが、トゥイーディアに対して言い訳はしそびれた。

 つまり、「許しがない状態では絶対に手を出したりしない」と言いそびれた。


 アナベルはディセントラの部屋に入ったらしく、カルディオスは勿論のことヘリアンサスと一緒にいた。


 コリウスは、顔にも態度にも一切傷心を出せない俺をさすがに憐れに思ったのか、二人になるや否や、「別に、トゥイーディアも嫌がったわけではないと思うよ」と言ってくれたが、その優しさが逆に傷口に擦り込まれる塩となった。

 だってこいつ、普段こんなこと言うやつじゃねえもん……。



 案の定、俺は寝不足甚だしい状態のまま、恭しく運ばれて来た朝食を摂り、眠い目を擦ってコリウスに続いて部屋から出ることになったが、謁見の間に続く控えの間でトゥイーディアを一目見た瞬間にばっちり目は覚めた。



 ――謁見は、芙蓉の間と呼ばれる謁見の間で行われる。

 この王宮で国王が使う三つの謁見の間のうち一つだ。


 俺は入ったことがなかったため、控えの間に足を踏み入れたその一瞬は、ぐるりと周囲を見渡してしまった。


 ――以前に入った藍玉の間の控室は、風変わりな五角形をしていた。

 一方この、芙蓉の間の手前にある控えの間は、やはり風変わりなことに、まるで塔の中にあるが如き円形の部屋だった。

 全体的に象牙色。

 壁も床も象牙色に塗り込められており、足許には毛足の短い、白の濃淡で複雑な模様を編み込まれた絨毯。

 鏡や生け花やタペストリーで飾り立てられている点は藍玉の間の控室と同じだ。


 壁際には衛兵が並んでいるが、謂わばそれよりも一回り円周の小さな円を描くようにして、飾り鋲のついた深緑色の椅子がぐるりと並べられている。

 トゥイーディアは何も言われずともそのうち一つに腰掛けて、国王から呼ばれるのを待っていた。

 護衛の立場である俺たちは腰掛けるのも不自然であるため、その傍に立つこととなる。


 視線を走らせた場所にあった、縦長の形の金縁の大きな鏡に、みんなに混じって立つ、やはり見慣れない金髪の俺が映っていた。

 俺はなんとなく鏡から目を逸らし、軍帽の小さな鍔に手を遣って、少し俯く。



 壁を飾るタペストリーは、藍玉の間のものと同じく、衛兵や使用人のための扉を隠す意味もあるものだろう。

 壁際にぴしりと姿勢を正して立ち、槍を手にトゥイーディアに頭を下げている衛兵が、ざっと数えただけでも十はいたが、部屋の外にはもっといるんだろうな。


 トゥイーディアは曲がりなりにも救世主だが、同時に国王に恨みがあってもおかしくない立場である。

 国王としても、一国の元首である以上、警戒しないわけにはいかないだろう。


 トゥイーディアは恐らく、自分に対して、少なからぬ警戒心が割かれていることは察知していただろうが、それに拘泥する様子はなかった。

 ただ何かを考え込んでいる様子で、俺の方はちらりとも見てくれなかったが、これは無理もない。

 彼女にとっては主君との謁見直前なわけで、他に頭を割けるはずがないから。


 ただ驚いたことに、カルディオスと一緒にいたはずのヘリアンサスが、無言でその隣の椅子に腰掛けていた。

 端から見れば、二人だけが喪装を纏っていることも相俟って、紛うかたなき婚約者といった立ち位置だ。


 カルディオスは息を呑んで二人を見ており、内心の気が気ではない様子が顔に出ていたが、それに気付いたヘリアンサスが、「大丈夫だよ」と伝えるような身振りをした。

 トゥイーディアも特段、ヘリアンサスの立ち位置に思うところがある様子はない。


 むしろ、これが予定通りのはずだ。

 彼女は()()()()()()()()()()()と、再三言っていたのだから。



 俺は、トゥイーディアとヘリアンサスが何を話したのかを知らない。

 トゥイーディアが、断じて言葉で許し得ないものを、何を以て言葉の上で許そうとしているのか、それを朧気にしか知らない。


 彼女が国王と謁見して、恐らくはその場で下されるだろう一門の沙汰について、どんな反応を示すのかも分からない。



 壁際の衛兵は、姿勢こそ正しており表情も取り繕ってはいたが、それでも隠しようもなく、落ち着きなく瞳が揺れている者が殆どだった。


 そうして待つこと十数分。


 音もなく滑らかに、謁見の間に通ずる重々しい扉が開いた。


 両開きの扉が大きく開け放たれ、その向こうに頭を下げる四人の衛兵が見える。


 中の一人、制服の肩章からして彼が四人の中で最も階級が高いのだろうが、その一人が頭を上げて、朗々と告げた。



「トゥイーディア・シンシア・リリタリス卿――並びにヘリアンサス・ロベリア卿――救世主の皆さま。どうぞ中へ!」














 驚いたことに、というのも権力者は虚勢を張らねばならないときに限って勿体を付けるのが好きなことが多いからだが、ともかくも意外なことに、国王は既に玉座の上にいた。


 俺はてっきり、呼ばれたはいいものの、更にここで待たされるものと思っていた。



 芙蓉の間は、藍玉の間よりも一回りほど小さかった。

 まあ、藍玉の間は、国葬に使われることもある場所だから、他の謁見の間よりも大きいのだろう。


 藍玉の間は円形をしていたが、芙蓉の間は測ったかのように正確な正方形の形をしている。

 水晶と橄欖石で飾られた小さなシャンデリアが、縦横に三つずつ、計九つ、等間隔に高い天井から吊るされて、部屋の端までを照らしている。

 窓はなく、ゆえにシャンデリアには既に灯が入れられていた。


 ちらりと天井を見上げると、精緻な天井画が描かれているのが分かった。

 描かれているのは、明確には分からないがたぶん、太陽を背に立つ初代国王、ってとこかな。


 そして目を下げてみれば、芙蓉の間が普段は使われていないことが一目瞭然となる。

 埃が積もっているとかではない、逆だ。


 謁見の間の中央が、一フィートほど高くなっている。

 そこに絢爛豪華な玉座があり、国王が腰掛けているわけだが、驚いたことにその正面に、謁見者側が腰掛けると思しき、やや質素ながらも十分に立派な長椅子が置かれているのだ。

 つまり芙蓉の間は、国王がわざわざ相手と視座を合わせて謁見するときに使う、それこそ他国の王族とかが来訪したときに使う部屋であるらしい。

 そこを、救世主であるトゥイーディアのために開けたのだ。


 玉座の斜め後ろには、場合によってはそこに王妃や王子が座るのかも知れないが、やや小ぶりな椅子が三脚ほど設けられている。

 今、そこに緊張した様子で腰掛けているのは、いつか見た老獪な宰相だった。

 彼はトゥイーディアが芙蓉の間に足を踏み入れるなり立ち上がり、深く頭を下げている。


 俺は思わず、現在国を真っ二つにする勢いで現王と争っているらしき王弟の姿を捜したが、ここにはなかった。

 どうやら救世主に面と向かう勇気はなかったらしい。


 一フィートの高さの壇の下、玉座の背後に当たる位置には、衛兵がずらりと並んでいる。

 これはまあ当然のことで、壁を背にして玉座を設けるならばいざ知らず、玉座の背後ががら空きであれば、その分後ろから狙われる危険は大きいのだ。

 一時期暗殺を仕掛けられまくった経験があるから、俺にはよく分かる。


 謁見の間の入口から、その壇に至るまでの間にも、衛兵がさながら通路を象るかの如くに並んでいて、槍を片手に一斉に跪き、頭を下げている。


 トゥイーディアの到着を告げる声が高らかに響く。


 王錫を手にした国王が、顔を上げてトゥイーディアを見た。

 国王は礼装だったが、明らかに黒を基調とした衣裳、リリタリス卿の逝去を偲ぶ意図が見える。


 宰相すらも、黒を基調とした礼装に身を包んでいた。



 トゥイーディアは促されるまでもなく、衛兵に挟まれた通路をすたすたと歩いて壇に近付き、その下で丁寧に膝を折り、腰を屈めて一礼した。

 ヘリアンサスもそれに続いてはいたが、顔を顰めて天井画を見上げる彼は頭を下げなかった。


 更にその後ろにコリウスとディセントラが続いたが、二人の表情に憂慮の色が濃い余りに、俺まで胃の腑が痛くなってきた。


 トゥイーディアが頭を下げたまま、儀礼通りの挨拶を述べ始めた。

 ――拝謁をお許しいただき光栄に存ずる――


 その挨拶が終わってから、国王が口を開いた。

 老いた低い声が、囁くように言った。


「――リリタリス卿、よう参った。ちこう」


 トゥイーディアが顔を上げて、静かに喪服の裾を捌いて、一フィートの壇の上に昇った。


 当然のようにヘリアンサスがそれに続き、同時にコリウスがさり気なく俺たちを振り返って、掌を見せてきた。「下で待て」と、そういうことだ。


 応じて俺とアナベル、カルディオスが壇の下で足を止める一方、ディセントラとコリウスは壇の上に昇って、さながら、それこそ護衛の如く、長椅子の後ろに立って文字通りトゥイーディアの後ろ盾となった。


 俺からはトゥイーディアの後ろ姿が見える。

 彼女は壇の上でまた軽く頭を下げてから、長椅子に腰掛けた。


 ヘリアンサスが当然のようにその隣に腰を下ろして脚を組んだので、俺は思わずカルディオスをちらっと見ていた。

 カルディオスは「まずったな」という顔をしていて、「しおらしくしとけって言えば良かった」と思っていることがありありと分かる。


 トゥイーディアが座った長椅子と玉座までは、さすがに距離がある。

 十フィートばかりの空間を挟んで、トゥイーディアと国王が向き合っていた。


 壇は傷ひとつなく磨き上げられた大理石で出来ていて、恐らくその床にはトゥイーディアの姿が映り込んでいたことだろう。


「――よう参った」


 国王が、再度そう言った。

 王錫を左手に持ち替えて、彼が少し身を乗り出した。


「リリタリス卿――此度のこと、余も残念に思う――騎士オルトムントは、何にも代え難い忠節を以て余に仕えてくれた――」


「ええ、本当に優れた騎士でした」


 トゥイーディアが静かにそう応じて、国王の背後に座る宰相に目を移した。

 責める語調ではなかったが、国王が僅かに身を引いたのが分かった。


 それを後目に、トゥイーディアが少し首を傾げた。


「どうして、罪を量る天秤に載せられるのが罪人だけであるとお思いになるのか、わたくしはお尋ねしたと記憶しておりますけれど、」


 宰相が、さすがに返す言葉が咄嗟に見付からなかったのか、半端に口を開いたまま、一秒、固まった。

 何しろ奴には、リリタリス卿の無実を証明する書状の存在を黙殺していたという、大き過ぎる弱味がある。


 しかしトゥイーディアはそれには頓着せず、いっそ穏やかなまでの口調で言葉を締め括っていた。


「しかしながら、わたくしも強くは申せません」


 ちら、とトゥイーディアがヘリアンサスを見る。


 ヘリアンサスは得たりとばかりに、にっこりと微笑んでそれを受けた。

 いつも、救世主として自分の前に現れる俺たちを見ていたときと同じ――訳知り顔の澄ました微笑。


 彼が組んでいた脚を解いて、膝の上に肘を突いて身を乗り出す。


「――そうだね、本当に残念ながら、」


 と、ヘリアンサスはいけしゃあしゃあとそう言った。

 さらさらと言葉を紡ぐ声は少しも残念そうではなかったが、異様なまでに真に迫っていた。


「僕も、一度は魔王に騙された身の上だから。ロベリア卿が――ああ、僕の前のロベリア卿、ってことになるのかな――リリタリス卿について話していたことを、ちゃんと信じていれば良かったんだけど。

 僕の所為で、ご令嬢の名前には要らぬ傷がつくところだった。彼女は寛大にも理解を示してくれたから、感謝しないと」


 にこ、といっそう微笑むヘリアンサスを、国王はしばらく眺めていた。

 非礼を咎めるには十分だろう彼の言動に、不快感は一切ないようだった――以前と同じだ。


 ヘリアンサスにはそういう雰囲気――あるいは気迫がある。


 国王が口を開いた。

 彼の視線がトゥイーディアへ移った。


「――以前はどうなることかと気を揉んだが……和解したようで何より」


 トゥイーディアとヘリアンサスが、同時に微笑した。

 奇妙に思えるほど、本質の似通った笑顔だった。


 ヘリアンサスが、左の肘を背凭れに預けるような砕けた姿勢を取った。


 宰相がさすがに眉を顰める一方、それをちらりと見たトゥイーディアは何も言わない。


 王錫をまた右手に持ち替えて、国王が、かつん、とそれで床を突いた。

 国王がヘリアンサスの態度に拘泥する様子はなかった。


「リリタリス卿――呼び立てて済まなんだ。

 他でもない――そなたのリリタリス一門について話したいがゆえに、こうして足労願ったのだが」


 トゥイーディアが、無言で小さく頭を下げた。


 俺はシャンデリアの明かりを弾いて小さな光輪を作る、彼女の蜂蜜色の髪を眺めていた。


 国王は、いっそ(いたわ)しげでさえある眼差しで彼女を見ていた。

 煌めく王冠の下の、老いて疲れた表情が、シャンデリアの光に際立っていた。


「リリタリス家は始まって以来、女系の一門。代々、息女の夫が当主を務めてきたが、おお――余も不明を恥じよう――こうして一粒種に背の君(おっと)のないまま、当主が逝去することなどなかった」


「ええ、然様です。

 ――今の我が一門に、当主を任じるべき人間はおりません」


 トゥイーディアがそう言った。

 低く抑えた語調だった。



 ――俺は胸が痛むのを感じた。


 トゥイーディアが、リリタリス家の今後をどう望んでいるのかは分からない。


 だが、無理に存続を望むことはないだろうと思った――これまでもトゥイーディアは、リリタリス家が取り潰しとなることを前提に振る舞っていたから。


 それに何より、彼女が本気で世界を救おうと考えているのならば、そのために魔法を廃するのならば、下手をすればトゥイーディアは――というか、俺たちは――世界を大混乱に陥れた超一級の犯罪者になってしまう。


 万が一にでも、お父さんが守ってきた家名を、そんな危険に晒したくはあるまい。



 国王が目を細める。

 そして、トゥイーディアと、その隣にいるヘリアンサスに目を遣った。



 ――嫌な予感がして、俺はちらっとアナベルとカルディオスを見た。

 二人とも俺と全く同じ顔で、俺を見返してきた。



 国王が、老いてしわがれた声で、言った。



「いや、いや――()ろう、()()()()()()()()()

 一度はロベリアも魔王の奸計からそなたと袂を分かったが、それも誤りであったもの。そも、余は一度たりともそなたらの婚姻の約束の解消を認めてはおらぬ。

 ――今日はそのため、改めてリリタリス卿の号の承継のためにもそなたらをこうして招いたのだ」



「――――」


 ――正直に言えば、盲点だった。


 確かに常識的に考えれば、名のある一門を途絶させるよりは――しかも救世主を擁する一門を途絶させ、延いては救世主を国の手許から離してしまうよりは、今いる婚約者とそのまま結婚させてしまって、一門を継続させる方が、国王からすれば利が大きい。


 それでも俺が、一度たりともその可能性を考慮しなかったのは、ヘリアンサスが人外であり、トゥイーディアの仇敵であるという認識が、余りにも濃かったがためだ。


 ――これは(まず)い。


 トゥイーディアが望むなら、一門の存続のために、彼女がどこぞの馬の骨と夫婦になることも、万歩譲って許せるが――もちろん俺は、その運命の日の三日前には海に身を投げるが――、ヘリアンサスだけは駄目だ。


 トゥイーディアのお父さんを殺したのは、他ならぬヘリアンサスなのだ。

 それだけは絶対に許されない。



 ディセントラが、反射のように動いた。

 一歩横に動いて、長椅子の前に進み出ようとしたのが分かる。


 それをコリウスが彼女の手首を掴んで引き留めている。


 壇の下にいる俺たちも、すんでのところで声を出すのを堪えているような有様だった。

 いちばん反応を殺すのに苦労しなかったのは俺だろう。



 背後が一斉に殺気立ったのはトゥイーディアにも伝わっていただろうが、彼女は微塵も振り返りはしなかった。


 ヘリアンサスがトゥイーディアの方を向いて、片頬だけで苦笑して眉を上げた。

 彼が上品に指を一本だけ立てて、国王の方を小さく指差して、首を傾げた。

「どうする?」と訊いているようでもあったが、トゥイーディアはヘリアンサスの方を一瞥もしなかった。


 ――彼女が立ち上がった。


 許しを得ずに主君の前で立ち上がるのは、本来ならば禁忌だ。

 国王の背後、壇の下にいる衛兵たちが、少しの間ざわめいた。


 宰相も、さすがに咎め立てしようとしたのか、椅子の上で僅かに腰を浮かせる。


 それを、おざなりに手を振った国王が宥めた。



 トゥイーディアが、ずっと腰に帯びていた剣を抜いた。



 俺は一瞬、彼女が絶対にそんなことはしないと分かっていてなお、彼女が無表情のままに国王に斬り掛かるのではないかと思った。


 そのくらい――トゥイーディアが今、どういう気持ちでここに立っているのかが分からなくなるくらいには――俺にとって、俺たちにとって、()()()()というものは未知だ。



 だが、違った――トゥイーディアはただ、鞘ごと、剣帯から細剣を引き抜いたのみだった。



 剣を右手に、トゥイーディアがすぐに跪いた。


 長椅子には戻らず、大理石の床の上に膝を突いて喪服の裾を広げて、そのまま膝で前に進み、彼女の主君の目の前へ。

 そして、細剣を両手に持ち直した。



 その柄を国王の右側に向けた状態で、トゥイーディアが、細剣を彼女の主君に捧げるようにして、深々と頭を下げて押し戴いた。



「――畏れながら、我が君」


 トゥイーディアがそう言った。


 よく透る声だった。

 穏やかで慎み深い、俺の好きな声だった。



 トゥイーディアが顔を上げた。


 彼女は国王の顔を覗き込むようにしていて、そして恐らくは、微笑んでいた。

 そういう声音だった。



「お返し申します」



 短く、端的に、トゥイーディアはそう告げた。




























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