16◆ 次の冬こそ
使者連中は呆れたことに、やって来たその日のうちにトゥイーディアを王都へ引っ張って行こうとしたらしいが、トゥイーディアの抗戦により、出発は翌日にずれ込んだ。
使者連中はあわあわとティシアハウスとモールフォスを行き来していた。
何の用事でそんなに忙しくしていたのかは、こっちの知ったことではない。
というわけで翌日になって、俺たちは汽車に乗っている。
もちろん、言うまでもないが、ムンドゥスとルインはティシアハウスに置いて行く。
俺としてはルインを一人にするのは不安だったが、王都に連れて行く方が危ないことくらいは分かる。
というわけで出掛けに俺はルインに向かって、「おまえに乱暴したやつ見付けたら、ちゃんとやり返して来るからな」と約束したが、直後にディセントラに頭を叩かれた。
ルインは強張った笑顔で、「無茶はなさらないでください」と言ってきた。
使者連中は呆れたことに、汽車を貸切にするように要求した。
掲げた御旗が王のものだったから、乗員乗客共にそれに従うしかないわけだが、モールフォスで下車を強制された人たちは、相当に不満そうな顔をしていた。
トゥイーディアの表情は強張っていた。
だが、まあ、乗り込んでしまえば快適だ。
使者連中のうち一人はモールフォスに残って、彼らが連れて来た馬を纏めて王都まで走らせる役を担うらしく、俺たちと一緒に汽車に乗り込んだ使者は全部で七人だった。
ところで俺の役どころだが、これはコリウスの護衛ということで決定した。
俺はただ粛々とその役どころを受け容れたが、一応、コリウスとディセントラから、役割が決まった経緯は聞いた。
王宮で演じる役について、トゥイーディアとヘリアンサスは言うまでもないが、他のみんなについてである。
まず、ディセントラは救世主として名乗りを上げているから、これは決定。
仲間の救世主が受けた仕打ちを遺憾に思い、付き添っているという役どころである。
これについては、実際のところディセントラの心情としては、“遺憾に思っている”などという範疇にはない。
続いてカルディオスだが、これはガルシアからやって来た救世主の護衛ということで、前回との整合性をとる。
カルディオスも救世主として改めて名乗りを上げてもいいが、その意味がない。
それに、カルディオスはとにかく目立つから、王宮の人間に既に顔を覚えられている可能性も十分にある。
その上で、今回に限ってカルディオスが名乗りを上げてしまうと、前回どうして名乗りを上げなかったのか、要らぬ詮索を受けることになってしまいかねない。
続いてコリウスとアナベル。
この二人は、俺たちが前回イルスを訪れたときにはいなかった。なのでどうとでも言い訳が利く。
そこで、最近になってようやくレイヴァスに到着したという整理にしておく。
アーヴァンフェルンでの地位もあるコリウスに、取り敢えず救世主であると名乗りを上げてもらって、コリウスは故郷でのトゥイーディアの状況を憂慮して、慌てて駆け付けて来たということにしておくわけだ。
俺とアナベルは、その護衛で付いて来たという立場。
ところで、前回はトゥイーディアにくっ付いていた黒髪の護衛がいないが、これをわざわざ「あいつが魔王でした」というのは愚の骨頂であるから、誰も俺の顔など覚えていないことを祈り、あの護衛はリリタリス卿を巡る混乱の中でトゥイーディアの役に立とうとして怪我を負い、現在はティシアハウスで療養中、とのことにするらしい。
俺もトゥイーディアも、真顔でその説明を聞いていた。
そのあと、トゥイーディアが支度のために席を外した段になって、カルディオスが真顔で、「まあおまえも、イーディのために怪我をしたってことにしとけば本望だろう」と言ってきた。
俺は呪いのために顔を顰めることしか出来なかったが、――まあ、話の上であっても本望であることに違いはない。
トゥイーディアとヘリアンサスは、揃って喪装のままである。
装身具のひとつも身に着けない、服喪の中でも最も礼を尽くした格好だったが、トゥイーディアは帯剣していた。
黒い帯に、彼女が騎士として叙勲された際に下賜された細剣を差している。
救世主の黝い武器は、トゥイーディアがカルディオスに渡していて、今はカルディオスが無骨な指輪の形にして、左手の親指に嵌めているから、トゥイーディアが帯びている武器は、本当にその細剣一振りのみだった。
一方俺たちは、またもガルシアの制服に似せて創られた衣裳に袖を通している。
いつぞやカルディオスが創ったときのように、変に手を加えられていない、外套の肩章もほぼ実物どおりの代物だったが、これに袖を通すにはなかなか勇気を問われた。
言うまでもないが、創り出したのがカルディオスではなくヘリアンサスだったからである。
みんな、いったん衣裳一式を裏返して引っ繰り返して検める勢いで点検してから袖を通していた。
あっさり着ていたのはカルディオスくらいのものである。
軍帽もきっちり付いてきた。
これは俺には有り難い。
なぜなら、万が一俺の顔を覚えていそうな人に出会ったときに、さり気なく顔を隠すことが出来るから。
――期せずして貸切となった車内はがらんとしている。
各々が背負う設定を考えると、座る位置にも気を配った方がいいのかも知れないが、コリウスもディセントラも、「好きに座れ」と言わんばかりに肩を竦めてくれた。
使者連中は脇目もふらずに二人と二人と二人と一人に分かれて、車両の四隅に陣取った。
トゥイーディアがヘリアンサスに、車両の中央辺りを示した。
ヘリアンサスが頷いて、車両の中央辺りの、進行方向には背中を向ける座席の窓際に腰掛けた。
そのまま流れるように窓枠に頬杖を突いた彼の隣に、驚いたことにトゥイーディアが腰掛けた。
これには、使者の手前ということも忘れて俺たちがどよめきそうになったが、トゥイーディアとしては、何をするものか分からないヘリアンサスを放置するのは不安だったのかも知れない。
カルディオスが足早に通路を進んで、ヘリアンサスの正面に腰掛けた。
そのまま、傍を通り過ぎようとした俺の手首を掴んで引き摺り込むようにして、自分の隣、つまりはトゥイーディアの正面に座らせる。
俺は掴まれた手首を押さえてわざとらしく顔を顰めてみせたが、内心では喝采していた。
ヘリアンサスの傍にいるのは落ち着かないが、それはそれとてトゥイーディアの傍に居られるのは嬉しい。
俺たちから見て、進行方向に斜め前の座席に、ディセントラとコリウスとアナベルが座った。
みんな、心配そうにこちらをちらちらと見ている。
カルディオスが若干俺の方に身を乗り出して、そっちに向かって陽気に手を振った。
汽笛の音が轟いて、がたん、と汽車が動き始めた。
それぞれの窓の上に引っ掛けられた、今は火の入っていないカンテラが、かしゃんかしゃん、と、調子外れな音を立てる。
カルディオスが、玻璃の入った窓板を押し上げて、窓を開けた。
渦を巻くようにして、外気が中に押し寄せてくる。
窓枠に頬杖を突いていたヘリアンサスの額髪が巻き上げられるようにして翻って、彼が黄金の目を細めた。
駅舎を出た汽車の窓の外に、山から一望するモールフォスの町の景色が映った。
雲の影が落ちる地面の上に拡がる小さな町並み、その向こうに見える木綿畑。
北国レイヴァスに気の早い秋が訪れようとする、涼やかな匂い。
「――汽車は初めてか」
カルディオスが、ヘリアンサスににやっと笑い掛けながら、囁くように悪戯っぽくそう尋ねた。
ヘリアンサスは目を見開いて、眼前に広がる景色を眺めていた。
ヘリアンサスがカルディオスに視線を移して、目を細めた。
その頬に、山の木々に切り取られた複雑な形の陽光が柔らかく当たっている。
「ああ――」
ヘリアンサスが呟いて、もういちど窓の外に目を向けた。
がしゃがしゃと回転する汽車の車輪が速度を上げていく。
汽笛が山間に響く。
「――うん、初めてだ」
カルディオスが、面喰らった様子で瞬きした。
それもそうだ、ヘリアンサスはこれまでにも汽車に乗ったことがある。
トゥイーディアがちらりとヘリアンサスを一瞥した。
それから彼女は、通路側の肘掛に頬杖を突くようにして、通路を挟んで反対側にある、間近に迫る山の景色を映す向こう側の窓の外の景色を見ていたようだった。
カルディオスはしばらくぽかんとしていたが、すぐににっこりと笑って、手を伸ばしてヘリアンサスの肩を小突いた。
「――おまえ、いつまで経っても手が掛かるな」
嬉しそうにそう言って、カルディオスが窓の外を示す。
「あの辺に生えてるのが、たぶん針エニシダ。あの辺、なんか狐とか居そうじゃない?
これから山を抜けるから、町が見えるぞ。途中ででかい農地も通る気がするけど、この時期じゃあんまり壮観とはいえない」
「うん」
「もうすぐ秋だから――」
カルディオスが息を吸い込んで、壁に頭を凭せ掛けて、苦笑した。
「その次は冬だ。――今度の冬は一緒にいられるんじゃないかな、アンス」
ヘリアンサスは窓の外から、またカルディオスに視線を向けた。
それからちらりとトゥイーディアを見て、諦念を籠めて苦笑する。
目を伏せて、彼は呟いた。
「どうだろう――そうだったらいいんだけど」
視線を上げて、流れていく車窓の外の景色を、もはや焦げ付くようなあこがれの籠もった眼差しで見詰めて、ヘリアンサスは小声で。
「おれ、まだ冬は知らないから」
俺は一種の居心地の悪さすら覚えてそこに座っていたが、カルディオスが(使者連中に奇妙に思われないためにだろうが)小声で、窓の外のものについてあれこれとヘリアンサスに説明を始め、ヘリアンサスが生真面目な顔でそれに頷き始めてしばらくして、その居心地の悪さにも慣れてきた。
俺は脚を組んで、少々行儀悪く通路側の肘掛に肘を置き、そこに半ば体重を掛けるような姿勢になっていた。
目の前にはトゥイーディアがいて、彼女は断固としてヘリアンサスの方も俺の方も見ず、通路を挟んだ向こう側にある座席側の窓から、一心に外の様子を眺めているようだった。
飴色の瞳を瞬かせる他には一切身動きをしておらず、俺は彼女の身体がすっかり強張ってしまうのではないかと心配する。
俺はがたごとと揺れる汽車の中で天井を見上げて、昨日のトゥイーディアについて反芻していた。
有り難いことに俺には呪いが掛かっているので、いくらトゥイーディアのことを考えようが、ぴくりとも表情は動かないし顔色も変わらない。
昨日の――俺が治療のために会いに行ったときの――トゥイーディアはぶかぶかのシャツを着ていたので、いつもよりいっそう華奢に見えた。
後から耳に入ったところによると、あのシャツはケットのものだったらしい。へえ、ふうん、そう。
真っ赤になってそわそわしている彼女は可愛かったが、ショックだったのは、俺が隣に座った途端に、じりじりと俺から離れられたことだ。
やっぱりトゥイーディア、俺のことが怖くなってしまったんだろうか。
アナベルの憐憫の視線も痛かった。
何というか、頭の中を占めていたお気楽な予想が彼方に遠のいて、俺は失恋の恐怖にびびり上がっていた。
いちど期待してしまったので、もう全然覚悟が定まらない。
俺は悪い予感からは目を逸らして、ここまで俺を誤解させたトゥイーディアに責任を取ってもらう方法を、あれこれ頭の中で模索していた。
昨夜の俺は呪いのせいで、大変不躾にもトゥイーディアの髪に触れたりもしたが、呪いがなければ危うくその場に心臓を吐き出す羽目になって、今頃は埋葬されているところだった。
俺がトゥイーディアの素晴らしさに思いを馳せている間、トゥイーディアは完全に凍り付いていたわけだが。
とはいえ、トゥイーディアの傷の深さは、俺の罪悪感を抉るに十分なものだった。
特に鳩尾の傷は酷かった。
痣のようにしか見えなかったが、恐らく奥の方の内臓まで何かの悪影響を受けているだろうことは分かった。
トゥイーディアがここのところ小食だったのは、単純に傷が重くて食べ物を受け容れられていなかったということらしい。
俺としては首を吊りたいような事態だが、綺麗に傷が治ったはずの昨夜の食事は、トゥイーディアは俺たちとは一緒に摂ってくれなかった。
一人で自室で済ませたらしく、俺は無関心な態度の裏で、頭に雷が落ちたかのような衝撃を受けていた。
――トゥイーディア、やっぱり、治療のときの俺の些細な態度から、俺に拒否感を持ってしまったのでは。
そんなことを考えていたせいで、昨夜は全く寝付けなかった。
一人になってしまえば、俺に掛けられた呪いは俺に感情の発露を許す。
そんなわけで俺は昨夜、一人で枕に顔を埋めて呻き続ける変人となった。
――そういう経緯で、今はめちゃくちゃ眠い。
だが、目の前にヘリアンサスがいる状況で眠れようはずもない。
と、考えているうちに、汽車は隣町に到着した。
だが、この汽車は貸切だ。
乗員が駅に出て、汽車に乗り込もうとした人たちに事情を説明し、うんざりした様子で「この汽車には乗れない」と案内している。
汽車を待ちくたびれていたのだろう人たちはがっかりした顔をしたし、トゥイーディアの表情も悲しそうだった。
だが、ともかくも、汽車は僅かの停車ののち、汽笛の音を響かせて走り出した。
カルディオスが欠伸を漏らして、トゥイーディアに「席を替わって」と合図した。
トゥイーディアが一瞬、掠めるようにヘリアンサスを見てから、訝しそうに腰を浮かせて、いったん通路に出る。
カルディオスがトゥイーディアの席に座って、そのあとでトゥイーディアが、カルディオスの席――つまるところは俺の隣、ヘリアンサスの正面の席に座った。
俺の前を通るとき、トゥイーディアは汽車の揺れで俺に軽くぶつかって、小さく頭を下げてきた。
俺はそれを無視したが、そのときに跳ね上がった鼓動を宥めるのに、優に五分は掛かっていた。
トゥイーディアは席に落ち着くと喪装の裾を整えて、そのまま壁に凭れ掛かった。
半ばを綺麗に結い上げた――結い上げてやっていたのはディセントラだったと思うが――髪を崩さないように、注意を払っていることが分かる動作だった。
視線は窓の上の方を向いていた。
カルディオスの方は、もぞもぞと身体を動かしたあと(その際に、ちょっと俺を蹴りそうになって視線で謝ってきた。俺は顔を顰めた)、当然のように、隣のヘリアンサスの肩に頭を凭せ掛けて目を閉じた。
俺は驚きの余りに息を止めたし、さすがにトゥイーディアも唖然とした様子でカルディオスとヘリアンサスを凝視した。
ヘリアンサス自身も少し驚いた様子で、目を見開いてカルディオスを覗き込もうとしたあと、身体の力を抜いていた。
「……仲がいいんだな」
驚いた末に、俺は小さくそう言った。
ヘリアンサスがちらりと俺を見て、唇を曲げた。
「――まあね」
言葉を吟味するような顔をしたあとそう言って、ヘリアンサスはごく自然に、カルディオスを庇うように彼の目許に自分の手で目庇を作ってやった。
カルディオスは呆れたことに、もう穏やかな寝息を立てている。
うたた寝程度のものであって、少し揺らしてやれば跳ね起きるだろうとは分かったが、それにしても唖然とするばかりの警戒心の無さだ。
「昔から、こいつ、おれのことは大丈夫なんだ。おれが人間じゃないから」
低い声でそう言ったヘリアンサスに、トゥイーディアが目を向けた。
彼女が何か言おうとして、しかし口を噤み、目を閉じて背凭れに頭の後ろを凭せ掛けた。
がたごとと揺れる汽車に合わせて、トゥイーディアも揺れている。
彼女は軽く指を組んだ手を、自分のお腹の上に載せていた。
ほっそりとした指が、車窓から差し込む弱い陽光に薄く影を落としている。
ヘリアンサスは穏やかに、カルディオスの瞼を光から庇い続けていた。
食事は使者連中が手配した。
とはいえ、トゥイーディアに同行する人間の頭数が連中の予想を上回っていたのか、食事を割り振る前に、車両の片隅に集合した七人は若干悩んでいる様子だったが。
俺たちはそれを素知らぬ顔で眺めていた。
何もわざわざこの中に、食事を必要としない人外がいるのだと教えてやることはない。
食事の際には、ヘリアンサスが、おずおずとカルディオスの肩を揺らして彼を起こした。
カルディオスはしばらく寝惚けているようだったが、簡単な食事を終える頃にはしっかりきっぱりと目を覚まし、「おっと護衛らしくしなきゃ」と呟いて、髪を掻き上げて姿勢を正していた。
とはいえトゥイーディアは、「もう手遅れじゃないかなあ」と独り言ちていたが。
俺もトゥイーディアに全面的に賛成。
夜になって、トゥイーディアも少し眠ったようだった。
俺はひたすら、汽車が揺れて彼女がこっちに凭れてきてくれはしないかと期待し、汽車の軌道に原因不明の歪みが生じることを祈っていたが、そんな都合のいいことがあるはずはなかった。
トゥイーディアは遠征に臨む騎士の如く、姿勢正しく仮眠をとり、その姿勢のまま目を覚ましていた。
俺は逆に、窓の外が薄らと明るくなる頃にうたた寝に入り、その日の昼頃に目を覚ました。
俺もトゥイーディア同様、姿勢正しく眠ることには成功していたようだったが、目を覚ますや否や真顔になって姿勢を正さざるを得なかった。
カルディオスも俺の正面でこてんと居眠りしており、四人席の中で覚醒に取り残された形になったトゥイーディアとヘリアンサスが、いつ殺し合ってもおかしくないような冷淡な眼差しで睨み合っていた。
窓の外はどんよりと曇っており、低く垂れ込めた雲は今にも雨に変わりそうだった。
窓の外には、背の低い建物が軒を連ねる小さな町が見えている。
汽車は煙を振り撒きながらその町を抜けつつあった。
町の子供たちが、ふざけ合いながら汽車を追い掛けて走っているのが見える。
数人が縺れ合うように転んで、大笑いしているようだった。
その笑い声が聞こえたわけではないだろうが――何しろ汽車の中には、車輪が回転する騒々しい音が満ちていたから――、ぴくっと身動ぎしたカルディオスが目を覚まし、それから慌てたように目を擦って、「イーディ、なんかあったの」と声を低めてお伺いを立てていた。
トゥイーディアは首を振って目を閉じ、カルディオスは更に小さな声で、「おまえ何かした?」と、ヘリアンサスを問い詰めていた。
ヘリアンサスはうるさそうな顔をした。
雨が降りそうで降り出さないまま、時刻は昼下がりを示した。
ヘリアンサスがふと身動ぎして、座席の上で軽く身を乗り出した。
驚いたことに、そのまま手を伸ばして、トゥイーディアの膝を揺らした。
「――ご令嬢」
トゥイーディアはちょうどそのとき、意識の半ば以上を汽車の外に放り出していたらしいが、ヘリアンサスに呼び掛けられて、はっとした様子で我に返った。
すぐさま背凭れから身体を離し、窓の外に視線を走らせる。
意外にも、ヘリアンサスに触れられたことへの嫌悪は欠片も示さなかった。
ただ表情に、湧き上がるように警戒が表れた。
「――どこ?」
ヘリアンサスが瞬きした。
黄金の瞳に翳が差して濁って見えた。
彼は答えなかったが、そのとき劈くような音を車輪が立てて、汽車が緩やかに停まった。
駅ではない。
使者連中が訝しげな声を上げた。
――どこからか、神経を逆撫でするような叫び声が響いてくる。
トゥイーディアの動きは素早かった。
立ち上がり、細剣を腰から外して座席に置く。
カルディオスの肩を叩いて、「絶対にここにいて」と言い渡す。
カルディオスが怪訝そうな顔をするのに気も留めず、トゥイーディアが声を上げた。
「コリウス!」
コリウスが立ち上がった。
使者連中はぽかんと口を開けて、車両の四方からトゥイーディアとコリウスを見比べていた。
コリウスも、トゥイーディアも、そちらは一瞥もしなかった。
「なんだ?」
「窓から外を見てて。万が一私が落っこちそうになってたら、助けて」
そうとだけ言って、トゥイーディアは俺が目を疑うことをした。
つまるところ、喪装の裾を捌いて、車窓の枠に足を掛けたのだ。
蜂蜜色の髪と、喪装の裾が風に翻る。
俺は、目を逸らせばいいのか彼女を引き留めればいいのか、よく分からずにぽかんと口を開けた。
使者連中がどよめいたが、カルディオスも泡を喰った。
「なにしてんの!」
トゥイーディアは頓着せず、そのまま見事に汽車の外に出た。
すなわち、窓を乗り越え、そのまま器用に汽車の筐体を攀じ登っていく。
「――――」
さすがに言葉を失ったようだが、コリウスは冷静に、彼自身も窓から身を乗り出すようにして、窓の外の見物を始めた。
トゥイーディアが汽車の上から転がり落ちるようなことがあれば、すぐにでも助けられる姿勢ではある。姿勢ではあるが――
「あの子、なに考えてるの?」
アナベルが唖然とした声で呟いて、そしてそれに、コリウスが端的に応じた。
「――レヴナントだ」
俺は、胃の腑の中にごつごつした大きな石を入れられたようにも感じて、座り込んだまま凍り付いた。
――もうあるはずがないのに、櫃の中を思い出した。
病的な水の冷たさ、息苦しさ、目の前が見えないほどの暗闇。
口の中に入ってくる水の、苦い味――
カルディオスが俺を見て、低い声で、「大丈夫だから」と言った。
ヘリアンサスが目を閉じている。
両手を膝の上で組んで、ぴくりとも動かない。
その様子は、彼が陶器の人形に変化してしまったかのようだった。
伏せた目蓋に青白い血管が走っているのが見えて、どこまでも見目は人間に近かった。
どういう理屈かは知らないが、彼にはある程度近付けばレヴナントの気配が分かるのかも知れない。
それで“あのひとたち”のことを察知して、トゥイーディアに知らせたのだろうが――
――レヴナントはどうやら、汽車の進行方向にいくらか離れた町中で、身の丈三十ヤード程度で立ち上がったところだったらしい。
汽車の運転士が慌てて汽車を停めたことも頷ける。
一時間ほどして、トゥイーディアが戻ってきた。
そのときにはぽつぽつと雨が降り出していた。
俺もヘリアンサスも、ぴくりとも動けないままだった。
トゥイーディアは汽車の上からレヴナントを狙い撃ちにし、更に丁寧にも、わざわざ被害状況を見に行っていたらしい。
汽車に戻って来たときは窓からではなく、軌道上を歩いて戻って来て、ノックで乗員に知らせてドアを開けてもらっていた。
面喰らった乗員の手を借りて汽車の中に這い登り、トゥイーディアは喪装から埃を払う仕草をする。
肩と髪にきらきらする雨粒をくっつけて戻ってきたトゥイーディアは、平然と元いた座席に戻り、すとん、とそこに腰を下ろして細剣を膝の上に抱えると、誰にともなく言い放った。
「ただいま。――雑魚だったわ、心配いらない」
俺は、隣にいるトゥイーディアには悟られないようにしながらも、ゆっくりと大きく息を吐き出した。
ややあって、汽笛の音を轟かせた汽車が、ゆっくりと動き出し始めた。
ヘリアンサスがようやく目を開けて、トゥイーディアを見た。
暗い黄金色の目の中に、きらっと光が反射した。
彼が薄く微笑んだ。
「――どうも、ご令嬢」
トゥイーディアは肩を竦めた。
恩着せがましい態度は欠片もなく、淡々として見えた。
「こういう取り決めだったでしょ」




