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「上がるぞぉ」
許可もしていないのに廊下をずかずかと歩いてくる男の足音が聞こえる。
間もなく現れた隼人はダイニングに突っ立っている私を、そして桜井を見た。
桜井にチラッと向けた隼人の視線に少し、ほんの少し不愉快さが宿っているように見えて、私は何故だか身体が軽くなったような感覚を味わった。
「俺の荷物は?」
ぶっきらぼうな問いかけに私は無言で寝室を指差した。
迂闊に声を出せば、心の動きがばれてしまいそうだ。
自分でもどっちに振れているのか分からない心の振子。
隼人は私と桜井の関係に興味なさそうに寝室に向かった。
男の意地で無関心を装っているのだろうか。
それともついこないだまで同棲していた女に対して本当に何の情もわかないのか。
寝室には隼人が残していったブラシや電気シェーバーなど身の周りの品をゴミ袋に入れて置いてある。
そのうち捨てようと思っていた。
だけど、捨てていなかった。
だって、まだ出て行って十日しか経っていないのだ。
私は餌のにおいにおびき寄せられる犬のように、ほとんど無意識に隼人を追って寝室に向かおうとした。
だけど、身体が前に動かなかった。
振り返ると、桜井が見たことのない真剣な表情で頬を紅潮させて私の手首を掴んでいた。
私はその場で桜井と無言で見つめあった。
自分がどんな顔をしているのか分からない。
隼人のところに行かせてほしい、と懇願するような目をしているのかもしれない。
すぐに寝室のドアの音がして隼人が戻ってくるのが分かった。
桜井が私の手首をパッと放す。
握られていた部分がひんやりして、男の熱い手を恋しくさせる。
再び廊下に姿を現した隼人は銜え煙草で、ダイニングに突っ立つ二人を覗き見た。
何故かは分からないが、桜井が私の隣に並び立つ。
隼人は見覚えのある赤い細身のライターで煙草に火を点け、余裕を醸し出すように片方の口の端を歪めて笑い、煙を吐き出した。
「これ、もらっとくわ。後は捨てといて」
そう言ってライターを弄ぶように空中に放り投げる隼人はテレビのドラマでチンピラが借金のかたに金目の物を持ち去るような分かりやすい品の悪さを全身から発散させていた。
それは私が隼人の誕生日にプレゼントしたデュポンのライターだ。
今、思えば、その日が本当に彼の誕生日だったかも分からないのだが。
じゃあな、と味も素っ気も未練も感じさせない乾いた声を残して、のっそのっそと隼人は去っていった。
間もなくドアが閉まる音がして、私は糸が切れた操り人形のようにアイロン台の前に座り込んだ。
隼人は何をしに来たのだろうか。
復縁を期待してきたが、知らない男が部屋にいて諦めたのか。
それとも、デュポンのライターを手放すのがどうにも惜しくて、のこのこ顔を出したのか。
それだけなのか。
「何だよ、お前。つけてきたのか?」
雨音に混じって部屋の外から隼人の驚いたような声が聞こえてきた。
「だって、心配だったんだもん」
すがりつくような若い女の声。
私から隼人を奪った女だろう。
「俺を信じろって」
出た。
隼人の得意のやつだ。
私は手がわなわなと震えるのを感じた。
何だろう、これ。
悔しさなのだろうか。
嫉妬なのだろうか。
あの「俺を信じろ」はもう二度と私に向かって言われることはない。
「松浦さん」
頭上から桜井の声が降ってくる。
「何?」
まだそこにいたのか。
何かまだ私に用があるのか。
顔を上げれば目が潤んでいるのがばれてしまう。
私は床に目を落とし懸命に声の震えを抑えて突き放すように言った。
「カラオケでも行きませんか?俺、松浦さんの好きな曲歌いますよ」
何故私が桜井に好きな曲を歌ってもらわねばならないのか。
私は鼻の奥がツンとするのをやり過ごしてから口を開いた。
「ミスチル、歌えんの?」
「ミスチルっすか。まあ、なんとかなると思います」
私は返事の代わりに乾いた契約書を桜井に投げつけた。
「なんとかなる、で歌ってほしくないのよ、こっちは」
桜井は受け取った契約書の表面を手で撫でるように確認した。
「乾いてる!ありがとうございます」
桜井は喜色を浮かべて私に深々と頭を下げた。
単純な男だ。
嬉しかったら笑って、悲しかったら泣いて、困ったらすがりつく。
世の中、そんなに自由に気持ちを外に向かって表現しても許されるものなのか。
「桜井君って悩みなんかないんでしょ」
「悩みがないのが、悩みなんですよねー」
そう言って頭を掻きながら豪快に笑う桜井を見ていると、つられて笑いそうになる。
私はアイロンを片づけながら、「用が済んだら帰れ」と玄関を指差した。
「お邪魔しました」
桜井は「うわっ。まだびっちょびちょ」と言いながら上着を羽織って私の言葉に従順にダイニングを出て行った。
あ、そう。
ここは結構素直に帰っちゃうんだ。
私は去っていく桜井の背中を横目で確認しつつ、胸に兆した寂しさを持て余し、「めんどくさい女」とぼそっと自分のことを非難した。
そして、その場で硬いフローリングの床に寝転がる。
ひんやりした感触が気持ち良くて思わず目を閉じる。
「ミスチル、頑張って練習しときますから、今度、カラオケ行きましょうね」
廊下の向こうで桜井が声を張り上げている。
私はそれを聞いて思わず頬を緩めた。
しかし、返事はしなかった。
ドアが開く音がする。
このまま眠ってしまおうか。
急に心地良いまどろみが身体に重くのしかかってきた。
私は桜井に掴まれた手首をそっと撫でた。
「行きましょうね」
雨の音に混じって桜井が念を押してくる声が響く。
私は少し桜井のことが可愛らしく思えて、頬を緩めながらほんの少し甘いまどろみに全身を委ねた。