50 事変 前編
魔物は、
魔物などという存在がこの世に存在しているのは変えられない事実として、
なぜ魔物などと、仰々しい名前で呼ばれるのだろう。
当たり前にあるというなら、それはもっとありふれたものでもいいのではないか。
逆になぜ悪魔でないか。悪物でないか。
もちろん名はどんなものでも理由があって名付けが行われている。真名により呪が存在する世界でいい加減に付けるわけがない。いい加減につけてもそれは時間とともに真実となる。真実が基となって名がつくのだから逆な話というわけだ。
魔物は、魔人も同じだが、『魔力を起源とする存在』だから魔物と呼ばれているらしい。
なんとまあ、単純な理由であるが、世界の大体が単純なことの積み上げだから、きっとこれは真実なのだろう。
だから彼ら魔族には、魔物にも、魔人にも、実は存在そのものが悪などということはない。
どこまでも、起源以外に人と違いはない。ただし、だ。
善だということもない。彼らはあくまで、『何か』の結果で忌み付された存在なのだ。
固有の意味があるのであって、それが善であるとか、悪であるとかは勝手な判断である。
愛や憎しみでもよいだろう。
政の腐敗でもよい。人を殺してもよい。
日々の営みでさえよい。
ただそれを飽くことなく続ければよい。
そうすれば、そこに『忌み』は生まれ、魔物が生まれる。それが知恵を得れば魔人となる。
もしかしたら、漫然と糞を垂れるように生まれる人や動物の類よりも、世界にとって意味のある存在かもしれない。
ただし、この魔と名付けられた存在を、ある一人の魔術師がなるほどと頷いた事がある。
その魔術師は、灰魔術と呼ばれる、正式には『積道』と呼ばれる新魔術の使い手だった。
その魔術師は何に対してなるほどと言ったのかと言えば、
魔属のことを、『忌み』より生まれた魔物や魔人と言ったことを、なるほどと言ったのだ。
上手いこと言うものだと。
魔とは『災厄』をもたらす者という意味を含んでいるが、それは存在そのものが悪だからということではない。
魔とは『執着』なのだ。強欲、貪欲などとは少し違うが。
魔とは『一つのことに囚えられた者』なのだ。
この拘泥を起源とするものが魔を冠する者たちなのだ。
長い年月を経れば、その意味は変わり、曖昧になって、人や動植物と見分けがつかなくなるが、起源は人と明らかに違うものなのだ。
一つのことに心を奪われたものは、自身やその側にいる者に疫をもたらす。
それが強すぎれば、人から見ればもはや生きているとは言えない。
だからその灰魔術師は、魔という存在を「なるほど」と頷いたのだ。
サウスギルベナ、貧民街。
サウスギルベナには整備された用水路が数本、南の海にまで、街を縦に流れている。
街の生活にも、区画にも重要な要素だが、もちろん川はこれだけではない。
さらに用水路からの支流が毛細血管のように流れている。
これは三百年間、オヴリガン公爵家が拡張整備してきたものだ。
街の北西部に斜めに広がる貧民街にも、そういう川はある。
貧民街の南地区にある地下下水道のことだ。
小さなものだし、汚水を通り越して粘り気のあるヘドロが流れる下水だが。
その地下に続く下水道は三百年前に作られたもので、現在は使われていない。
それゆえ、貧民街ゆえ、誰にも整備されることなくヘドロは溜まっていく一方だ。
さすがに、貧民街の住人であろうとこのヘドロを利用するものはいない。
飲めば一口であの世に行けるが、自殺の方法としても利用したくはないだろう。
この南地区は盗賊ギルドの拠点があり、最も危険な地域でもある。
その足元に広がる地下道に住んでいるのは、異臭を通り越して刺激臭となっている臭いが我慢できるごく数人ほどの変わり者だった。
この地下下水道に住んでいる変わり者たちにとって、利点は屋根があるということだけだ。
それはそれで魅力的な物件ではあるが、現実的にこの貧民街でさえその選択をしている者はほとんどいない。
だから、それに最初に気がついたのは、たった一人の変り者の浮浪者だった。
ゴミを拾って餓えを凌いでいる彼にとって、小さな変化を見逃さないのはもはや習性だった。
動き、というよりも、音の異変だった。ザザザ、と何かが地面を這っている音。
ジッとその音に聞き耳を立てる。
やがて、それは中央の排水溝に沈殿するヘドロの上を、彼の方へとやってきた。
彼は側歩路に座っていたが避ける事もできなかった。
あっという間に黒い波が彼を覆った。
ザザザという、波のような音に、ボリボリという異音が混ざる。それはほんの少しだけの間で、すぐになくなり、黒い影が過ぎ去った後は誰もいなくなった。
最初の発見者は姿を消して、また誰かが気づくまで、黒い波は地下道を移動し続けた。
最初の発見者を再び見つけ、再び誰もいなくなり、再び徘徊する。
そうして、地下道に、誰も、なんの生き物も姿を消して、そうしてようやく、影は影でありながら、地下道から溢れだした。太陽の下に這い出てきた。影でありながら、遮る物の存在を必要としないそれは、生き物の存在を求めた。
この貧民街で、もっとも数が多く、大きな生き物。それはすぐに見つかった。
昼時の煮炊きする煙がいくつか見える、そんな時刻である。
影を一部分切り取ってみれば、それは説明のつく動物だとわかる。
鼠だ。
体長は尻尾以外の部分で十五センチほど。
黒い身体。月明かりのような黄色い目。
だが、一部分を切り離してみても、この現象、災害を説明することはできない。
小さな黒い鼠が、数万匹。黒い洪水のように次から次へと地下下水道から溢れ出てくる。
目についた生物を、大きな固まりから手当たり次第に貪っていく。その後には血痕さえ残さない。
『災厄』はこうして始まった。
三百年の統治機構が動き出したのは、貧民街の南地区に異変が起きた、ほんの四十分の後だ。
支配者の一つである盗賊ギルドから、オヴリガン公爵家邸と、ソルヴ邸へと連絡が届く。
使いの者であり、高櫓の鐘であり、日頃から賄賂を掴ませている者であり、間接直接に連絡が向かい、すぐさま街の治癒機能が動き出す。
災害直後の一報は当然、地理的理由から盗賊ギルドの耳に入った。
最初は、地下道から大量に鼠が溢れ出てきた、という知らせだった。
この時、盗賊ギルドの幹部たちは、危機感を持ってはいなかった。そんなことは日常茶飯事だったからだ。そんなことをワザワザ知らせるなと叱責したかもしれない。
だが、すぐに貧民街の異変に気づく。
鼠の大群が、人を骨も残さず喰らっているとの知らせがきて、幹部たちはこれが日常ではないことに気がついた。街に漂う空気が変わっていたということもある。
そこから支配者の一つである盗賊ギルドはすぐさま、残り二つの支配勢力に知らせをよこす。
ここまでで四十分だ。
一支配者が他の支配者に援助を求めることは、この街にかぎらず常あることではない。だから盗賊ギルドの判断はかなり素早い対応だと言える。それほど、事態はあっという間に悪化し拡大していたということもある。
アーガンソン邸には、幹部が直接使者としてやってきた。
娼館の経営者であるゴンズレイと腹心で現場責任者のディガンだ。これにも理由はある。
小柄で小太り、愛想の良さそうな老人であるゴンズレイは服装だけはソルヴ邸の調度品にも負けてはいない。ディガンの方は小ざっぱりした麻の服だ。商売柄清潔ではあるが、安物である。もっともこの男の場合はそんなことで気後れはしないが。
「またせたの」
応接室に老婆が入ってきた。たった一人で。
まがりなりにも盗賊ギルドの人間に会うのに小柄な老女一人で会うというのは不用心に思われる。
それはそのまま、両者の力関係の差だ。
「で?」
短く老婆、ジガは尋ねた。
いつもゴンズレイ達と出会う時はこんな感じだ。つまらないモノを見るような態度。本当は会いたくもないが、会ってやっているという態度。
サウスギルベナ魔導師ギルドの長。しかし、この街の人間にはサウスギルベナの最高勢力、アーガンソン商会。その総帥ソルヴの相談役として知られている。街を不在にすることが多いソルヴに変わって組織をまとめているのもジガの役目だ。
「お忙しいところ、時間を割いていただき、ありがとうございます」
ジガの態度にもまったく気にした様子を見せないゴンズレイは深々と頭を下げた。顔には相変わらず笑みを浮かべて揉み手をせんばかりに低頭を保つ。だが、やはりジガの方は興味を示したように見えない。
はじめてやってきたディガンからすれば、当然やり過ぎだとは思っていたから、我関せずでソファには座らずにゴンズレイの後ろに黙って控えている。
十五年前、アーガンソン商会がこの街にやってきた時、ディガンは幹部補佐ではなかったが、すでに盗賊ギルドの構成員であった。だから当時あったと言われる『交渉』のことも話しとしては聞いていた。
だから、アーガンソン商会を舐めているわけではない。それどころか格上であることは分かっていた。
だが、格上だから下手に出ればいいのかというと、交渉というのはそれほど単純なものでもない。
だからこそ、なにをそこまで下手に出ているのか、と思った。
もちろん、幹部補佐としてディガンはゴンズレイのことを知っている。この老人は笑顔を浮かべながら恩人を崖に突き落とすことができる、そういう性質の男だと知っていた。だから表面上の感情などあてにならない。だから、ディガンは黙って立っていた。指示するまでそうしていろと言明されたこともある。
「で?」
ジガはやはり同じように、カラクリ人形のように短く言った。
「すでにお聞きになっているでしょうが、我々では少し手に余る事態が貧民街で起きておりまして、どうか人をお貸しいただけ……」
「断る」
ジガは、短く、冷たく、興味もなく意思を口にする。
「……魔法生物ですので、うちの暗殺者達では相性も悪くて、困っております」
ゴンズレイはジガの言葉を無視して続ける。
なんだ?
ディガンはゴンズレイの態度に違和感を覚えた。
ジガの返答は、予想ができたし、当然の答えだ。
貧民街は盗賊ギルドの領域であり、その内の出来事は彼らの責任である。お友達でもあるまいし、助ける理由がない。利益によって動かそうとしても、アーガンソン商会は貧民街がどうなろうと興味が無い。港湾荷役や鉱山労働は確かに貧民街の住人に頼っているが、例え今の住民たちが一人残らず死んだとしても、また新しい労働者はやってくる。ここはサウスギルベナ。奴隷さえも必要のない帝国の最南端。もっとも低い位置にある街だ。待っていれば堕ちてきた人間でまた勝手に貧民街は溢れだすだろう。
だから、ジガの返答は当然だ。そしてそれをゴンズレイが分かっていないはずはない。
なのに、老人の態度は、いつもの、女達を地獄に引きずり込む時の朗らかな笑顔を浮かべている。
なぜ? なぜそんな無駄なことを?
だとすれば、答えとして、交渉材料があるのだろう。と、予測はできる。
それが何なのかはわからない。
だから、その後のゴンズレイの言葉に、ディガンは声を漏らしそうになった。実際は漏らさなかったが、はっきりと驚きの視線を自分の上役に向けることになった。
「我が娼館に来て頂いているそちらの人材。なんといいましたかね?」
ゴンズレイの言葉に、興味のなさそうだったジガがピクリと眉を動かした。
おい! まさか!?
ディガンはその言葉に続きそうな言葉を予想して、背中の毛穴から冷たい汗が吹き出た。
脅す気か?
あまりにも、無茶苦茶な予想で、ディガンはまだ確信を持てない。ゴンズレイがアーガンソン商会との力関係を分かっていないはずが無いからだ。
「ああ、ナイジェルさんと言いましたかね。それにエドゥアルド君でしたよね?」
「お主、何を言っておるのか……わかっとるのか?」
ジガが漸く、文章を喋った。しかし、そこにはまだ興味は見えない。
「もちろんでございます」
ゴンズレイは深々とまた頭を下げた。
「ご注進でございますよ、これは」
なんだ? ご注進?
ディガンはまったく話についていけない。
ご注進という言葉は違和感がある。警告や脅すときに「忠告」などと言うことはあるが、ワザワザこんな言葉を使った意味は何だ。
「実は、魔物が発生したのは南地区でございまして、ここは我らのギルド長の居所でもございます。そこに大規模な魔物の発生したことで、幹部の一人が先走り、ある暗殺者を解き放ってしまったのですよ」
ジガは何もそれに答えなかったが、話の先を待っているのは分かった。
状況は変わりつつある。
「殺氏家結末です」
その言葉の意味をディガンは知っていた。
ジガの埋没していた目玉が見えた。この老女もあの連中のことを知っているのだろう。
殺氏家結末。
サウスギルベナの盗賊ギルドに所属する暗殺者三人組の名だ。
だが、普通はどれだけ凄腕だろうが、名が知れることのない筈の暗殺者の名が知れているのは理由がある。
いや、そもそも彼らは暗殺者ではない。殺し屋でもない。
奴らはディガンが知る限り、疑いようもなく、殺人鬼と呼ばれる連中だ。
人でありながら、楽しみのために、生きるために、人を殺す存在。
その殺人鬼たちを盗賊ギルドは暗殺者として使っているだけだ。
彼らは隠すこと無く、畏れること無く、人を殺して、喰って、快楽に耽っている。
だから名が知れているのだ。
しかし、ジガはそこまでは知るまいが、あれは盗賊ギルド長の子飼いだったはずだ。となると、一部の幹部が先走ったのではなく、長の判断があったに違いない。もちろんそれをディガンが口にすることはない。
「で?」
「で? とはどういう意味でございましょう?」
「それが、うちから勤めに出しておる連中と何の関係がある」
「エドゥアルド君でしたか、彼は貧民街をよく歩きまわっているらしいですな。実は、今日も仕事が終わった後に、貧民街に出かけたようなのですよ。もちろん貧民街であろうが、アーガンソン商会の皆様に手を出す愚か者はおりません。……ですが」
殺氏家結末は別だ。
彼らの本質は職業で殺すのではなく、情動として殺しているのだ。損得で殺しているわけでも、社会性で殺すかどうかを決めているわけでもない。ただ殺すのだ。気分がムシャクシャしたり、うれしかったり、小腹が減ったり、なんとなくだったりして、殺すのだ。後先の事など当然考慮せずに。
「本来であれば、私の部下を動かして彼らを保護して、ここまでお連れするのですが」
しかし、とゴンズレイは続ける。それは本当に痛ましい表情で嘆いてみせる。
「ジガ様もご存知でしょう。今回の魔物の発生でどのような措置が取られるかは。私どもは確かに盗賊ギルドの人間ですが、娼館は用水路の『コチラ側』にあります。そこで、彼らを助けるためにどうか私にお力をお貸しいただけないかと……」
ゴンズレイが今日何度目かの頭を下げ、そのあと下から覗き込むようにジガを見た。
「……」
老婆は何も答えなかった。何かを考えている風にも見えない。ただ皺だらけの瞳を閉じている。
やがて「よかろう」と答えた。
ゴンズレイはその答えを聞いても、まだ表情を変えなかった。ただジッと老婆の顔を見つめている。
「だが、儂らは勝手にやらせてもらう。お主らは『コチラ側』とやらでおとなしくしていろ」
ジガのその言葉を聞いて、ようやくゴンズレイはまた頭を下げた。その日一番深々と頭を下げた。
それで、会談は終わった。




