35 お嬢様の機嫌は良いようだ
その日、アーガンソン商会総帥の一人娘、ナタリー・アーガンソンはウキウキとした気持ちで教会での勉強会に参加していた。
こんなに気楽に勉強できるのはいつ以来だろう。って教会での勉強会が始まって以来だから二ヶ月ぶりなんだが。
ヴェルンドとエドゥアルドのウォルコット兄弟は今回から勉強会に参加していない。
あの兄弟と一緒に勉強しないでいいだけで、ナタリーの自尊心は修復されていた。とくにエドがいないことがこの小さな少女の心理的圧迫を大きく引き下げていた。
ヴィーたちが来なくなったのは、もう子供用の勉強会で学ぶ必要がないと、商会つまりソルヴが判断したからだ。
二人の兄弟に対する劣等感という意味では、根本的な解決になっていない。だが、ナタリーにとっては目の前から問題が見えなくなったということだけで十分である。
いつもは同い年の三人で座らされていたのだが、今日からはアルトナとプラムという二人の子どもたちと一緒だった。アルトナも、プラムも八歳。ナタリーよりも二つ年上ということになる。
二人の少女、それ以外の勉強会に参加しているアーガンソン商会の六人、そしてヴィーとエド。この十人の子どもたちは、ナタリーと共に育てられた幼馴染という存在になる。幼馴染というには少し歳が離れているが七歳年上のメイドであるミラも含めて、彼らは大きくなればアーガンソン商会の中核になることを期待されている面々である。だからナタリーからすれば幼馴染でしかないが、十人の子どもたちからすれば、ナタリーが『未来の総帥』もしくは『総帥夫人』であることを忘れることはない。物心がつくまえからそのことは自然と教育されてきた。
とはいっても、十人の、そしてヴィーとエドの姉であるミラを含めた、計十二人からなるつながりは、損得勘定抜きに幼馴染や兄弟としてのつながりでもあった。ナタリーとウォルコット兄弟の関係にしても苦手意識はあるにしても将来も続いていく関係であることは少女自身受け入れている。
この二つのつながりは子どもたちの授業態度にも現れている。
六歳から十歳までの子どもたちである。勉強なんて普通嫌がって、騒ぎそうなものだが、彼らの中にそんな子供はいない。
なぜならこの程度の知識を身につけることは、将来幹部になり今の関係性を保っていくために極々必要最低限の事柄だったからだ。そして落ちこぼれれば、アーガンソン商会の幹部になれるだけの能力がなければ、幼馴染の情などでは保つことができない関係だ。
だから子どもたちの誰もが真剣に勉強をしているし、真面目に働いている。当人たちにとっては教養を身につけているという意識は薄い、あくまでも実学として、仕事の一環である。会社の講習会のような意識だろうか。
ナタリーは他の子供たちの六歳当時と比べて勉強はできる方だ。それはもちろん本人の勤勉な性格にもよるが、働きながら勉強している子どもたちに比べて勉強量自体が飛び抜けて多いことが大きい。そんなナタリーやウォルコット兄弟ほどではないにしても、他の子供たちの教育水準も一般的なレベルと比較して高い。例えばアルトナは厩舎で、プラムは調理場で、それぞれ見習いとして働いているが、ふたりとも一般的な飼育員や料理人と比べても格段に知的水準が高かった。
『飛び級』で勉強会を終えたウォルコット兄弟は別にして、いや、奇行ばかりが目立つエドにしても、その行動が許されているのは、それがアーガンソン商会の利益のための試みだったからである。
「お嬢様楽しそうね」
勉強が始まる前のひと時に、アルトナが話しかけてきた。
「え? う、うん。そう?」
ナタリーは曖昧に答える。エドのことが苦手なのは本心だが、それを表にだしていい感情なのかどうかはまだわからない年齢だった。エドのことだけ悪口をいうことは、総帥の一人娘としてどうなのか悩むところだ。
「ナタリー様もエドが嫌いだものね」
あっさりとプラムが口にする。
「別に嫌ってるわけじゃ……」
エドのことは苦手なだけで、嫌っているわけではない。
小さな声で、細かな表現を訂正するが、プラムはニコニコとしながら続ける。
「でもお嬢様の気持ちもわかります。気持ち悪いものね、エドって」
いつもは柔和で、おだやかな性格のプラムが毒を吐くことに若干引きながらも、自分だけではなかったのだと安心もしていた。
「まー、プラムが嫌いなのは分かるけどね」
アルトナは肘をついて、手に顎を乗せた。
プラムは調理場で修行している。そこには数カ月前までエドが一緒に働いていた。当時エドは厨房の外回りの雑用、プラムは同じ見習いでも二年目ということもあって、調理場内での雑務。
当初はプラムもエドにはニコやかに接してはいたのだ。親友のアルトナと比べれば人当たりもよく誰に対しても優しい。もちろんそれは外面であって、内面はそれなりにエグい部分もあることはアルトナ達にはわかっていたが。
エドは当時、数ヶ月務めた鍛冶師見習いから食堂にまわされてきたところだった。
あまり手先が器用でないということで、鍛冶師見習いを事実上クビになったが、それ自体は珍しいことではない。プラムやアルトナだって、今の部署に落ち着くまではメイド見習いなどを経験してきた。
調理場にきた当初は、エドは料理人に向いているのではないかとプラムは思っていた。手先は器用ではないのは確かだが、それは努力次第で補えるものだと思うからだ。頭もよく、意外にコツコツと作業を続けられる根気強さもあった。なにより本人が食べることに並々ならぬ欲を持っている。
それを、調理場の総責任者である料理人ドラミクニも認めていたのだろう。すぐに仕事が終わった後に料理の基礎をエドに教えていた。
事件は一月も経たぬ間に起こった。エドが試作した料理を口にしたドラミクニの全身に、世にも恐ろしい人面瘡ができるという、「エドゥアルドの呪いの料理事件」だ。
プラムもその場に居合わせたのだが、エドの料理を口にはしなかった。それまで何回かエドが試作してきた料理を目にして、それらがあまりにも珍妙であったために、エドがその時作ってきた薬草料理とやらを口にする気になれなかったのだ。
果たして、その判断がプラムの身を救った。
ドラミクニの全身に発生した何十という顔がこちらを向いて、「ゲゲゲ」と笑い声を上げる光景は今でもトラウマである。
それ以来、プラムはエドに対して「生理的に無理」判定を下していた。
「わたしはそんなに嫌いじゃないけどね」
とはアルトナの意見。
彼女は今、厩舎でエドと一緒に働いている。一月くらいの短い期間だが、まだあの白髪の幼児は大きな問題を起こしていない。エドは商人見習いも兼ねており、厩舎での仕事に加えてジャックという行商人について勉強している。アルトナは実際に「呪いの料理事件」を目にしたわけでもないし、仕事柄、泥や糞尿まみれでもそれほど抵抗はない。エド以外にもそういう男たちに囲まれて仕事をしているから、理解ができないことはあっても、それほど弟弟子に嫌悪感はなかった。
そんなアルトナの進路はまだ確定していない。
今のところだと、商人としてか、厩舎や在庫管理などの裏方になるかは彼女自身が決めていなかった。奉公人なので希望すればその職につけるというわけではないが、才能があれば本人の希望も通るとも聞いている。今のところ可能性としては二つの道だ。女商人というのも悪くはないが、そうなると今以上に勉強をする必要がある。動物の世話ができる裏方の仕事も嫌いではないので悩ましいところだ。
エドの方はこのまま商人として育てられる気がする。アルトナの見たところエドは動物の扱いも上手く、すでに馬に乗ることができた。才能というほどのものでもないが、適正があるに違いない。黙々と丁寧に作業できるので厩舎の仕事にも馴染んでいる。
ただ、エドはそれ以上に読み書き計算ができ、魔術師としての素質もあるという特別な才能があった。そのためジャックという魔術師でもある商人に仕事を教わっていたのだ。だから、旦那様はエドを商人にするつもりなんだと思う。
魔術師と商人というと無関係に思われるが、治安の悪いサウスギルベナから自由都市や帝都への行商の旅には、個人としての強さが(もちろん頭の良さも)ある程度は求められる。だから、アーガンソン商会で魔法を使える人間は、アルトナが知る限りみんな商営部に所属して、よく出張している。何歳かわからない老婆のジガだけは屋敷を離れることはないが、あの人に関してはそりゃそうだろうとアルトナも思う。
逆に今のところ、そして将来的にも戦闘力なんてものは持ちそうにないアルトナは、もし商人になるのならばそのことを解決する必要があった。傭兵を雇うということもできるが、魔法や剣が使える人間よりも、まったく無力な女であるアルトナがコストやリスクの面で不利なのは否めない。
「あー……」
そこまで考えてアルトナはあることを思い出していた。
「なあに?」
アルトナの漏らした声に、ナタリーとプラムは顔を向けたが、肘を付いているのとは反対の手で何でもないと示した。
エドは旦那様、ソルヴ・アーガンソンの隠し子だと言う噂を聞いたことがあった。アルトナとプラムも実際にその当時のことを覚えているわけではないので信ぴょう性がどれほどのものなのかはわからない。
ただそうなると、ナタリーとは腹違いの姉弟ということになるが、そのことについて今、口にするのは間違っているのは、アルトナにだって十分わかっていた。
だから口にはしなかったが、エドが将来、商人として頭角を表せばアーガンソン商会の総帥になることもできるだろう。ソルヴの性格から考えれば、縁故ではなく、実力主義なのだが、それなりの実力さえあれば、やはり血縁者に継がせたいものではないだろうか?
しかしそうなると、エドゥアルド・アーガンソン? 旦那様?
「それはないなぁ……」
アルトナがバカバカしい妄想を続けているのには気が付かず、お嬢様ナタリーは嬉々と勉強会の準備を整えて、授業が始まるのを待っていた。準備と言ってもなにか勉強道具がいるわけではなく、心づもりくらいなのだが。
生徒たちには毎回小さな石版と貝殻チョークが貸し与えられる。それを使って、教師役であるビアーセ司祭が大きな黒板に書いた問題を解くというのが授業スタイルだ。小さな石版と言っても子供たちには重いので、落とさないように気をつけなければならない。落として割ってしまえば弁償なので皆丁寧に扱っている。
ナタリーは早く始まらないかと、まだ若いビアーセの方を見た。
ビアーセ司祭はまだ前の席に座っている男の子たちとおしゃべりしていた。もうそろそろだがまだ授業が始まる気配はない。
今季の勉強会が始まったのは二ヶ月前のことだった。
ナタリーはその時に初めて司祭に会ったが、第一印象は随分若い先生だなと感じたくらい。子どもたちに勉強を教えるのだから学がある偉い人なんだろうとは思うが、接している限りは普通のお姉さんという柔らかい感じの人だ。金切声を上げたところも見たことはまだない。アルトナとプラムは五歳の時から一年間この勉強会に通っていたことがある。四年前のその時も、ビアーセ司祭が教えていたらしい。その二人が言うには当時から今のように優しかったということだ。
そんなことを考えていたら、背後の扉が勢い良く開いた。
反射的に振り返る。
そして、ナタリーは息を呑んだ。




