29 一年前 前編
この大陸を支配する帝国は、その領土を五つの地域にわけている。
北方。
帝国発祥の地であり、始皇帝から連なる金髪碧眼の白人種はこの地方の民族たちだ。
帝都の以北は生物が住むことができない険しい岩肌と豪雪の山岳地帯であり、敵から攻められる心配もない。帝都からは大運河が南と東に伸びており、それがこの国の重要な交通網を形成している。この航路があるおかげで、領土の端から帝都までの旅程は一月ほどで済んでいるのだ。
中央。
温暖な気候や、広大な平野が占める地方で、帝国最大の穀倉地帯だ。その平野の畑は収穫時期には一面穂が風に揺れる光景が見られることから黄金平野と呼ばれる。文化的には保守的または後進敵な地域(簡単にいえば田舎)ではあるが、帝国の中央に位置する関係から他地方への食料輸出によって貧富の差が最も少ない地域でもある。
東方。
帝国はこの大陸を支配する国家を自認している。また最大の国家であることも間違いはない。
だが、西方に王国が建国される以前から、その支配下においている地域は、大陸全土の面積からいっても半分にすぎない。帝国以東には少数民族である帝国が異民族、蛮族と呼ぶ者達の集落が数百点在し、他にも魔族の王国や、エルフの集落も存在している混沌とした地域である。
建国以来千年。この大陸の東部からは異民族や魔獣、魔族の侵攻が見られたが、それを防いできたのが征夷大将軍を筆頭とする東方軍である。
西方。
三百年前まで未開の地であった西方大山脈の以西に、帝国から分裂して建国された王国に対して、盾の役目を負っているのがこの地域である。他地域よりも面積では小さいが、この地域を王国軍に抜かれると、すぐに帝都に達することもあり、近年の軍事的重要度では、緩慢化している東方よりも重い。主産業は大山脈を抱えていることもあり鉱山や工業、狩猟である。王国への唯一の陸路を有しているが、貿易は行われていない。
南方。
この地方は近年、南方とは呼ばれなくなっている。五つの地域は概ね二、三の行政区画『地方』に細分されているが、南方の場合にはその地方名で呼ばれるのが普通だ。
南方の地方は二つ。
大陸間貿易航路を持ち、自由都市があるドリッチ地方。ここ数十年で急速に発展してきた地域で、その原動力となったのは他大陸との海上貿易である。学校教育機関としては帝都の学園、学院が絶対的に優れたものであるという認識であったが、自由都市の教育機関の評価もこの数年急速に上がってきている。
もうひとつの地方、ギルベナ地方。南方と一括りに呼ばれていた時代の印象はこの地域が基になっている。
この地方が開拓され始めたのは三百年前。初代オヴリガン公爵が領主に任命されてからである。帝国が千年の歴史を持つことを考えれば、そのうち七百年間は放置されていた計算になる。
この地方は三方を劣悪な自然環境に支配されおり、唯一街を形成できるのが帝国最南端の地、現在はサウスギルベナと呼ばれている街だ。
サウスギルベナの人口は千人ほど。帝国内では中小都市である。しかしギルベナでは唯一の都市だ。
そして帝国で敵対国家、王国との貿易港がある唯一の都市でもある。
エドゥアルド・ウォルコットはこの街に生まれた。
生まれは不明だが、それはこの街では珍しくない。
育ての両親はこの街の豪商に仕えている夫婦。父親も母親も詳しい過去は知らないが、エドにとっては『良い親』だった。
両親共に定職につき、三食の心配もないほどには稼いでいる。家はこの街で最も安全な場所の一つであるソルヴ・アーガンソンの屋敷の中にある社宅。
口は悪いが、明るく、家族に対して責任感のある両親。
このような条件の両親に育てられたことはギルベナではかなり幸運な部類の家庭になる。
そして幸運と言えば、エドとその同い年の兄であるヴェルンドは才能にも恵まれていた。
エドは他の子供とくらべて随分早く話せるようになった。文字も覚え、アーガンソン家の相談役であるジガ老の所蔵の書物を借りるようになったのは三歳になる前だった。
兄のヴェルンドが話せるようになったのは、エドよりも遅かったが、同世代の子どもたちの中で一番計算ができるようになったのは彼だ。手先も器用で、一つのことに打ち込みだすと周りが見えなくなるほどの集中力もある。
二人はきっと、将来アーガンソン商会の幹部になって、この家を盛り立てていくだろう。
誰もがそう思うほど、エド達の境遇は恵まれていたのだ。
それでも、この世界では悲しいことは起こる。
そのうち最もありふれた不幸がウォルコット家にも起こった。
エドにとって二番目の姉が病死した。
エドが三歳の時だ。
原因は瘴気化した土地で育った食物を口にしたことによる魔病に感染したこと。
エドは後に知ったが、魔病は処置さえ間違えなければ治療することが比較的簡単な病である。この街で唯一アーガンソン商会であれば、その身内であれば、十分な処置が受けられ、何事も無く門を閉じてじっと嵐が過ぎるのを待てばよかった。
それでも、姉は死んだ。
アーガンソン商会の見習い奉公人であった姉は、たまたま屋敷の外へ出た時に感染したのである。急性中毒だった。一緒に行っていた子どもたちも、付き添っていた大人も感染した。姉たちが今回の疫病騒ぎの始めの感染者の一人であったから。
死んだ姉のイーネは誰からも愛される少女だった。
家族だけではない。イーネと会った人はみな、彼女の柔らかな笑顔に癒やされた。
上の兄と姉にも、エドにも、神経質なヴェルンドにも、もちろん両親も。
この街では五歳までに半数以上の子どもたちは大人になることができない。栄養失調と病のためである。そこから十五歳の成人になることができるのはさらに少ない。これは犯罪等による死因が増えるからだ。
そんなギルベナで、裕福とは言え、姉のイーネが死んだのは確率的には当たり前のことなのかもしれない。
そんな当たり前のことにも、エドはよくなぜ姉が死んだのか考えるようになった。
姉は誰にも恨まれていたわけではない。少しのんびりとした性格で、それでいて人の機微には繊細で。
エドは特別に情に厚いわけではない。それどころか他人の不幸に対しては鈍感であるという自覚はある。実際、エドは仲の良かった姉が死んでも涙は出なかった。同じ三歳のヴェルンドも泣かなかったが意味が違う。エドはそう思っていた。
自分はイーネの死を理解していながら涙がでなかったのだ。
理由はわからない。
あれほどなついていた姉であったのに。死に顔を見れなかったからだろうか。よく当時の感情を思い出そうとしたが、だんだんとそれもわからなくなってきた。
自身の精神年齢が高いということを考慮に入れてもなお、自分自身の薄情な精神には気づかざるをえない。
だが、だが、それでも、
エドは姉の死について考えることが多かった。死に直面した直後は随分と感情的にもなっていた。哀しさとかではなく、怒りだったが。苛立ちだったが。
気持ちが落ち着いてくると、姉の死について何故ということを考えるようになった。
イーネはあと一月もすれば、所属部署が変わって、屋敷内での勤務になっていた。
もし疫病騒ぎが一月遅れていたら、姉は死なずに済んだかもしれない。
エドは自分なら彼女を救えたのではないかとよく考える。
三歳児だが、普通の子どもとは違うことを自覚していたから。
冷静に考えれば、それは不可能であることは知っている。
そもそも自分が『この世界の住人』を救う義務などあるのだろうか?
もし救うべき人がいるとしたらそれは『この世界』では一人しかいないはずだ。
薄情な彼はそれがちゃんと分かっていた。
それでも、それでも……。
灰汁の様な気持ちがボコボコと湧き上がるのが不快だった。
エドはよく姉が死んだことを考える。
姉は誰にも優しかった。
姉は誰にも愛されていた。
強欲でも、愚かでもない、身を滅ぼすほどの願いを抱えていたわけでもない。
生きる資格があって、誰からも幸せになってほしいと思われる少女だった。
それでも姉は死んだ。
今回の魔病が発生した原因について、詳細なことを知っている人間はいないだろう。それは定期的に起こることであり、原因はその時々で違っていた。ギルベナの人にとって、起こったことと乗り切ることのほうが大切で、それで精一杯だった。
でもエドは知っている。
知ることになったのは偶然だったが、それでもこの街の誰よりも詳細な原因を知っていた。
姉の死に当初怒りを感じたのも、そのことが関係していた。それは死についてよりも裏切られたことに対するもので、しかも誤解だったのだが。
姉がなぜ死んだのか。エドは原因を知っている。
それでも誰のせいにしたらいいのかはわからない。
直接的な原因はこの世界ではありふれたもので、それによる結果を予測できなかったことを責る気にはなれなかった。
そして姉はなぜ死んだのかは未だにわからない。
根本的な責任は、もっと大きなとこにあるんじゃないかと漠然と感じていた。
そのことが影響していたのかもしれない。
ジガ老から借りる書物は薬の分野に偏りだした。
色んな事を実験するようになった。貧民街での『お医者さんごっこ』を始めたのもその延長だ。
エドは自分のことを偽るのを少しだけ止めた。
それまでエドは、周りの子供達に埋もれて、なんとなく目立たぬように育つことを心がけていた。
誰に言われたわけでもなく、きっかけになる出来事があったわけでもなく。
エドは目立たぬように生きてきた。
人より早く喋れるようになったが、人より早く文字が読めるようになったことも、人より速く計算ができることも、魔術師の素養があったことも隠して過ごしてきた。実際、喋れるようになるのと文字が読めるようになったのはほぼ同時期で、しかもそれは1歳を過ぎた頃にはそうなっていた。だが能力があることよりも、目立たないことのほうが生き抜く方法として最善だと思っている。
どうせ自分はこの世界では余所者で、通りすがりの人間だった筈だ。
自分がこの先どうなるか、それは彼にも分からなかったが、彼はこの世界でポツリと存在していたことだけは認識していた。
だから、彼は彼の生来の性質も手伝って、控え目に生きることが、どうあれこうあれ美徳であると思っていた。つまり、『帰る』『帰れない』を別にしても傍観者であることは、『あちら』でも『こちら』でも自分にあった生き方だと思っていたのだ。
姉の死をきっかけにエドは少しだけそれを止めた。
少しだけ気にしなくなった。そんなことに囚われて、手のひらに載ったなにかをとりこぼすことが上手い生き方だと思えなくなっていたからだ。
変わったのはエドだけではない。残された兄弟たちも変化が生まれた。
同い年のヴェルンドは少しだけ神経質な性格が治り、そのかわりに物づくりに一層熱中するようになった。おそらく姉の死をほとんど理解していないはずだ。五歳のヴェルンドにとっては二年前の出来事などほとんど覚えてはいない。それ以前の関わりも覚えていないだろう。それでも変わった。
唯一変わらなかった様に見えるのは、姉のミラだ。姉妹として最もイーネの面倒を見て、仲の良かったミラだったが、ミラの態度はイーネの死後も変わったところはない。
エドはそれがミラが薄情だからではないことを知っている。
ミラとエドは、ウォルコット家と血のつながりはない。それでもミラは家族の繋がりに強いこだわりがあることは知っていたから。
そしてミラの本当の親が、『良い親』ではなかったことを、姉の肌に残る痕から知っている。
だから姉がすぐに妹の死から立ち直ったのは、単純に不幸に慣れていたからだと、エドは思っていた。変わったところといえば、過保護なところくらいだが、もとからそうだった気もする。
では一番変わったのは?
それはミラと同い年の長兄、ラグだった。
いつも七つ下の弟達と馬鹿をやって、遊んでくれた兄は、時々考え込むことが多くなっていた。
そして、ある日の夕食に兄は両親に切り出した。
「父ちゃん、母ちゃん。俺、警備部にうつる」
荒唐無稽なことを、兄が言い出したのはある日の夕食だった。




