26 エド灰魔術を放つ1
「それで?」
ナイジェルは玄関のドアの隙間から、グウィネスが完全に立ち去ったのを見届けながら背後にいる六歳児に尋ねた。
白髪赤目の少年は、神経質になっている男とは対照的に、手持ち無沙汰にのんびりと立っていた。
「まずは、契約の確認をしましょう」
「契約の確認?」
持って回った言い方に、幼児の意図が見えない。だが、エドはそんなナイジェルに構わずに話を先に進める。ナイジェルも玄関のドアに背中を預けながらエドの話を聞くことにした。
「まずあなたは盗賊ギルドに金貨十枚の借金をして命を狙われていた。つまりナイジェルさんの命の価値は金貨十枚ですね。ギルベナでは世帯年収くらいです」
ちなみに帝国に流通している貨幣は主に三種類。銭貨(銅貨)、銀貨、金貨。
紙幣や小切手もあるが、巨額取引などでしか使われない。
当然のことながら貨幣価値はもちろん、為替比率も地域ごとにバラつきがある。
サウスギルベナでの物価は最も安い大豆の粉を混ぜた、赤ん坊の頭くらいの大きさの黒麺麭がおおよそ銭貨五枚。これは食糧事情が悪いギルベナ地方の物価なので、他の地方ならもう少し安く買える。大豆粉を混ぜた黒麺麭などという世にも恐ろしい味の麺麭が他の地方で買えればと仮定して。
交換比率は、大まかに金貨を一に対して、銀貨は三〇枚、銭貨なら二百枚だ。これもギルベナの為替レートである。そしてこの地方で最も使われているのは銭貨なのは当然のことだろう。
つまりナイジェルが盗賊ギルドに負っていた借金は銭貨六万枚。
「そう考えると、よくこれだけの借金をこの短期間にしましたね」
呆れたエドの声色に、ナイジェルはモゴモゴと口ごもった。さすがに六歳児に自分のだらしなさを指摘されると、二十五歳でも恥ずかしい。
「いや、それが……」
「あ、別に理由は聞かないですからいいですよ」
エドがピシャリと言った。
エドからすれば、なんとなく事情は察せられた。ギャンブルにハマったか、騙されたか。おそらく後者だろう。ただ、今となっては理由はどうでもいい。
「アーガンソン商会所属の、しかも魔術師なら返せない額じゃないから心配する必要はありませんよ。で、ナイジェルさんのアーガンソン商会との契約はちゃんと覚えてますか?」
「いや、ちゃんとは……」
ナイジェルとしては盗賊ギルドから追われることがなくなり、稼ぎ口を得たことが分かっただけで十分だったので、その他のことはよく覚えていない。
エドはこめかみを押さえて下を向いている。
「まったく、そんなことだから……」
はー、と溜息をついた。ナイジェルとしては先程のとおりあまり気にしていないので、その様子を黙ってみていた。
すぐにエドが立ち直る。
「アーガンソン商会は盗賊ギルドに横ヤリの迷惑料も含めて金貨十五枚を支払いました。そしてアーガンソン商会があなたに対して持っている債権は金貨二十枚です。金利はついてません。良かったですね」
ナイジェルは頷く。このことに関しては説明を受けたので覚えている。金貨十枚だろうが、二十枚だろうが払えないことには代わりはないので気にはしていない。
「さすがに金貨二十枚だと普通に酒場の店員をやっていてもなかなか返せません。そもそも何時間働いてもナイジェルさんの懐には銭貨一枚入りません」
「え? なんで?」
「成果報酬型契約だからです」
「なんだそりゃ?」
「歩合制です」
「いや、大体の意味はわかるけどよ。酒場の店員で成果ってなんだ? 灰魔術師の家庭教師のほうか?」
なんとなく騙された予感がする。ナイジェルはようやく興味がでてきて、背中を預けていたドアから離した。
「家庭教師兼ギルド員の方は報酬が支払われています。こちらは一日銀貨二枚。週五で月二十日。月収は金貨一枚と銀貨十枚くらいですね」
「お、結構いいじゃねぇ? それだと……」
「一年と三ヶ月です」
エドが即答した。
金貨二十枚の借金が一年と少しで返せるのなら美味しい仕事と言えるのではないか。
「悪くねぇんじゃねえか?」
素直な感想を言うと、商人見習いの少年がやはり呆れている。
「魔術師の技術が金貨二十枚で買えるなら安いものですよ。ナイジェルさんの灰魔術師としての知識はギルド員の研究成果の発表という形で根こそぎ持って行かれますよ。魔導師ギルド員としての研究も契約に入ってますからね」
「それは面倒臭いな」
だが、その他のこと、自分の知識を知られるということに関してはナイジェルは抵抗がない。元々研究者である魔導師ではなく、実践者である魔術師だ。知られて困る技術はない。もう宗家との縁も切れたと思っているので、いくら知識が漏れたとしても、借金が減るほうが大切だ。
「とは言えアーガンソン商会としてもこれで何か利益を得ようというより、契約金みたいなものと考えたほうがいいかもしれません」
「契約金?」
「あい。ナイジェルさんの商人としての身分は今は見習いです。ですから食費とか最低限暮らすための費用は商会がもってますが、基本は無給です」
「さっき成果報酬型契約とか言ってなかったか?」
「そうそう、それです。おそらく商会は一年三ヶ月後、ナイジェルさんが借金を完済して、その時に適性ありと思ったなら本採用になると思います」
つまり、アーガンソン商会としては一年三ヶ月間の見極め期間を設けたというわけだ。
「成果報酬型契約と言いましたが、アーガンソン商会の商人には大まかに二つの雇用形態があります。一つは商会の直接の支配下に置かれている商人です。もう一つが、ナイジェルさんの雇用形態です。こちらはいち事業主として、アーガンソン商会と商売をするようなものだと思えばいいでしょうね」
「わからん」
即答した。というか興味が無いので飽きてきた。
「……。言ってみればナイジェルさんが個人の商人としてアーガンソン商会と商売するってことです」
エドも諦めたのか、説明が急に簡単になった。
「商人見習いの間は生活の面倒まで見てくれるんだからかなりいい条件なんでしょうね」
「ん? でも商人としてのイロハを教えてアーガンソン商会に利益はあるのか?」
成果報酬型契約というのは、エドの話では外部の商人のように思える。一年間で灰魔術師としての知識を得られるのだから、それ以降のためにわざわざ二十代半ばの男を一から商人として教育していく必要性が分からなかった。しかも直接雇用するわけでもないのに。
「ナイジェルさんに余程の商才がないかぎり、アーガンソン商会を通して商売するしか方法はありませんからね」
エドの話では、商行為というのは帝国内で勝手に行うことはできないらしい。商売をするには営業権が必要だが、それをアーガンソン商会が貸してくれるのだという。
「ま、簡単に言えばそういうことです」
詳しい話をするのは諦めたエドが投げやりに言う。
「そんなことを意識したことはなかったな」
ナイジェルは今まで消費者の立場だったから、普段買い物をしていた商売人達がそんなことになっているとは思わなかった。小さい頃猟師として暮らしていた時は、普通に物々交換していたと思うのだが。エドにそのことを尋ねると、さすがにそこまで小規模な取引までは摘発されないのが実情らしい。都市部で路上販売するくらいから摘発され、関所のない地方の村などで行商人をする分には、よほど運が悪くない限る捕まらないのだという。
「とにもかくにも、ナイジェルさんの頑張り次第です。だから頑張って。終わり」
パンとエドが小さな手を叩いた。
「で、ここからが僕との『約束』です」
「契約の次は約束か」
「僕は強制力を持っていませんから。それに僕からの報酬である総帥への仲介はすでに支払っています。後はナイジェルさんがそれに対してどうするかってだけの話です」
「お前に灰魔術師の修行をつける?」
「それはアーガンソン商会との契約に含まれてます。僕との約束は、僕が今まで独学した灰魔術の技術もナイジェルさんが教えたことにして欲しいんです」
「それでいいのか?」
「理由はさっきナイジェルさんが見たとおりです」
エドの言葉に先ほどまでいた女魔術師を思い出す。
「僕は今の家族と幸せに暮らしたいんです。だがら過分な評価は願い下げです。とはいえナイジェルさんのギルド員報酬から分かるように魔術師は高等専門職ですから食いっぱぐれもないですし。お互い損はないでしょ?」
「そりゃ俺もそうだけどな」
「じゃあ、そういうことで。なにそんなに大したことじゃありません。黙ってりゃいいんだから。新しく学ぶことの量が増えれば、元から知っていた知識なんて大した問題じゃないですから」
「本当の理由は聞かないほうがいいのか?」
何気なく、反射的に聞いていた。そのナイジェルの言葉にエドの表情が固まった。それからじっと赤い瞳が見つめてくる。
「もっと仲良くなったら……話すこともあるかもね」
それだけ言って、エドは後ろを向いて、並んでいる扉の一つに向かった。
そこだけは他の扉と違い、薄く、造りも安っぽい。
プレートには真新しく『積道術部門』と書かれている。その扉を開けたエドは中を覗いた。
「元は倉庫ってギニーお姉さんが言ってましたよね? 備品倉庫でしょうかね」
長細い部屋だ。中には中央に大きな長机が一個と戸棚が左の壁に並んでいる。戸棚は空っぽだ。それだけで部屋のほとんどが埋まっていた。ナイジェルとエドが入ればそれで満員といったところか。
「実験はできそうにないな」
やって来たナイジェルが背後から同じように覗きこんだ。
「もともとこの建物じゃ大した実験なんてできませんけどね。来る人もいないし広い場所が必要な時はこの入口の広間を使いましょう」
エドの言っていることは、ナイジェルにも分かる。広さ云々の前に魔術設備が殆ど無い。一応防御結界らしきものが建物全体に張ってあるが、この内部で行える魔術実験は小規模なものに限られるだろう。
それからエドは他の部屋を見て回った。鍵がかかっているのは他部門の部屋と倉庫。この建物は平屋建てで、入口の広間を囲むように五つの部屋があった。
「仮眠室とトイレはありますが、お風呂と台所はないですね」
言ってエドは灰魔術師部門の部屋に入ると、中から椅子を二脚持ってきた。
その内の一脚をナイジェルに渡す。
「誰も居ないんだし、さっそくこっちを使わせてもらいましょうよ」
そう言って広間の中央よりに椅子を置くと、そこに座る。ナイジェルもそれにならって、エドの正面に座った。
「話は長くなりましたが、今から灰魔術師部門と授業の始まりです」
「とは言え、魔術師ギルド員って何をやりゃいいんだ?」
「んー、魔術師ギルドのほうは何かやらなきゃいけないことがあればジガ様の方から言ってくるでしょう。それまではほったらかしにしていいんじゃないですか? 寝てたって日給は貰えますし」
「ということは、お前の灰魔術師修行の方か? で、どの程度やれるんだ?」
「さっき言ったとおり『始門』くらいじゃないですか?」
「実際どれくらいできるか見せてくれたほうが教えやすいんだけどな」
ナイジェルはエドを改めて上から下までジロリと観察する。しかし意識してみてもエドからまったく魔力は感じられないのは変わらない。
「仕方ないですね。あんまり使いたくはなかったんですけど」
エドがピョンと椅子から飛び降りた。
「何をすれば分かりやすいですか?」
「魔力を視認できればそれでいい」
先ほど使った『魔力探知』の効果が残っているので、エドが魔力を体外に放出すれば分かるだろう。
「じゃあ、『気撃』で」
エドが足を開き腰を落として構える。
『気撃』は魔力をそのまま打ち出す打撃魔術だ。白魔術師を使う司祭などの宗教家達がよく使う魔法である。だがそれは信仰上の理由で、魔力をそのまま打ち出す『気撃』は魔術師なら誰でも使える魔術だ。たしかにこの魔術なら魔法量、技術の高さなど実力を測るのにはいい選択といえる。
「おい! こっち向いて放とうとすんな」
ナイジェルが慌てて椅子から立ち上がる。
恐らく天才であろうこの少年の魔術である、『気撃』が殺傷能力が低い魔術でも生身の体で受ければ肋骨くらいは軽く破壊するだろう。
「だいじょう……」
言いかけた言葉を途中でエドが止める。幼い顔に皺を寄せて、力を溜めたままナイジェルに言った。
「一応全力でやりますが、感想は言葉を選んでくださいね」
「あ?」
「いきます!」
気合一閃。エドが腰に構えていた右手を突き出した。その先にはさっきまでナイジェルが座っていた椅子がある。
エドが大きく息を吸い込む。魔力耐性値が高いために循環している体内魔力は見えない。だが魔力を練っているのだろう。
やがて『魔力感知』を帯びたナイジェルの目にエドの魔力が写る。体外に放出された何の色も帯びていない透明の『光』が手のひらに渦を作っていくのが分かる。
発動までの時間がかかっているがこれはナイジェルに見せるためにワザとやっているのだろう。
やがて『光』の渦は球体となって、その表面をエネルギーのうねりが走る。
まだ小さな力だが、その球体の形、ウネリの波動はかなり滑らかだ。
魔術の発動技術としては、よく鍛えている。やはり独学というのは疑わしい。とはいえ、熟達の魔術師が姿を偽っているとか、転生者だとか、そういう超絶の魔術師の技術があるかといえばそれも違う。
魔術の基礎技術、起動と錬成、灰魔術でいうところの『起こしと廻し』に関しては問題ない。熟練度合いで言うと『始門』を越えている。『霊行』の階位、その中でも中位に届くかというくらいだろう。六歳児にしては天才的な腕前と言えるが、ナイジェルの見たところやはり才能というより努力して身につけた魔力精錬の技術のように感じた。
しかし、ちょっと時間をかけているな。
ナイジェルは少し違和感を感じた。エドの手にある魔力の球体はまだ小さい。いくらナイジェルに見せるためと言っても、大きくするのに時間がかかっているようだ。
「はっ!」
だが掌の『光』はそれ以上大きくなることはなく、『気撃』の魔力球体が放たれた。




