23 毎日、職場に行くのは苦痛です
「おはようございます」
「あ、ああ」
自分の眼前にペコリと下げられた頭を見て、ナイジェル・グラフは少し戸惑いながらも頷いた。
早朝のアーガンソン邸。
その正門前にナイジェルは立っていた。やってきたのはまだ幼い少年。
エドこと、エドゥアルド・ウォルコットだった。
数日前初めて出会った時のことを思い出す。
貧民街で盗賊ギルドに追われていたナイジェル。そのナイジェルをソルヴ・アーガンソンに紹介して、借金を肩代わりさせ、さらにはアーガンソン商会の一員に仲介してくれたのがこの少年だ。
貧民街で飲まされた酒のせいで倒れた時は、毒でも盛られたのかと思ったが、単純に飲料用のものではなかったのが原因だったようだ。最初にエドから飲めるかどうかわからないと言われていたので、それでもがぶ飲みしたナイジェルが悪いのだが。
ただ、それを飲ませたエドの方も、麻酔薬を誤って吸い込んだせいでおかしな副作用を出していたから、あの時は本当に危なかった。小屋にいた子どもたちが助けてくれなければどうなっていたか。また礼を言いに行かなければなるまい。
「じゃあ、さっそく行きましょうか」
エドが言ったので二人で連れ立って歩き出す。向かうのは貧民街に近い酒場兼娼館。アーガンソン商会が人材派遣している施設の一つである。貧民街は盗賊ギルドの縄張。娼館は市街地側にある。盗賊ギルド運営の施設としては唯一市街地の中にある店だ。中と言っても、場所的には貧民街とは川を一本隔てたすぐ側にある。
ナイジェルとしては、盗賊ギルドとのトラブルの件もあるのであまり会いたくは無いのだが、仕事なのでそうも言っていられない。しぶしぶだが仕事に向かっている。
「明日から一緒の職場ですから」
そう言われたのは、昨日の事だ。
会うのはこれで数回目。にもかかかわらずいつの間にかナイジェルはこの不思議な少年の『師匠』になっていた。それがこの少年との『約束』だったからだ。
「変な小僧だな」
ナイジェルは内心で思ったことをそのまま口にした。そういう性分だったからだ。
白髪丸坊主の少年は不思議そうに長身痩躯の男を見上げる。
「朝一でなんですか?」
「普通、お前くらいの歳なら人から認められたいものなのにな」
「なんだ、そのことですか」
少年は何のことか分かったようで前を向いた。
エドとナイジェルの約束。
それはナイジェルがエドに『積道』教えること。
さらに今までエドゥアルドが覚えた積道術もナイジェルが教えたと口裏を合わせること。
つまりこれまで独学で修めた積道師としての成果を隠したいということだ。
おかしな『約束』だ。独学で一つの魔術を納めるということは才能、それも天才の証に他ならず、貧困層の人間、いや、家柄や縁故を持たない者は全て、成り上がるための唯一の手段であるはずだ。拘らないならまだしも自分の能力を隠すなどという人間は政治家か迫害されている者か、なにか事情のある人間しかいない。
そういった事の延長として、エドがどの程度積道を使えるのか早々に確認する必要があるだろう。
「理由は言ったでしょう?」
そうエドは返すが、釈然としない。
エドは目立ちたくないからだと言った。
「六歳児が独学で灰魔術を修めてたらおかしいでしょう?」
勿論だ。
ナイジェルが見たところ、この少年の魔術師としての実力は分からない。
灰魔術師の素質は魔力探知能力に大きく関わってくる。いわゆる『目』と言われるものだ。まずはその『目』があるかどうかでふるいにかけられ、大半の者が脱落する。この魔力探知に関しては実は人工的に付与することもできるが、それはともかく、ナイジェルの場合はその才能を認められて、灰魔術、つまり積道宗家に引き取られた。
ナイジェルの魔力探知の能力は、いわゆる魔術師と呼ばれる者の中でも高い素質があった。そしてその才能を培い、灰魔術師、積道師として弟子を持つことを許されているほどには修練を積んでいるナイジェルだが、この少年の魔力を感じることができなかった。
魔力は感じることはできないが、それは魔力を持たないことを意味していない。この世の存在であるかぎり魔力は全ての物が保有している。だから魔力を感じることができないのは、この少年の魔力耐性の値によるものである。
魔力耐性値は魔力における器の大きさと強度を意味し、その能力が高ければ高いほど、その器の中身が見えにくくなる。積道師の魔力探知能力はほかのどの系統の魔術師たちよりも優れた能力があるのだが、その目でも感じ取ることもできないというのはエドの魔力耐性値が異常に高い値だといえる。
加えて既にエドの薬学の知識が調合の段階まであることを考えると、本当に六歳児なのかも疑わしい。それを隠すための『約束』だと考えれば得心が行く。ナイジェルも魔術師の端くれとして、見た目が実年齢の保証にならないことを知っていた。
「心配しなくても本当に僕は六歳児ですよ」
人の心の中を見透かしたようにエドが言う。
「六歳児じゃなかったらこんなに苦労はしてません。目立っていいことなんてないし、独学でやっているのも限界だからナイジェルさんに師事するんですからぁ」
嘘くさいが、全く嘘とも思えない。それに特に邪悪な存在でも無い限り、ナイジェルは立ち入らないことを決めている。
人には人それぞれの事情があるし、それでナイジェルが助けられたのは事実だから。相互利益な関係であることは分かっているし、何にせよ、ナイジェルにとってこの話に乗らないことが金貨十枚以上の価値があるとは思えない。職にもありつけたし万々歳と言えばそうなのだから。
ナイジェル自身は気がついていないが、この程度のことで良しとしているから、今までいまいちな生活を送ることになっているのだ。独学で灰魔術をある程度使えるようになるほどの六歳児。もしナイジェルが野心的な人物であったなら、その天才児の師匠としての地位を利用しようと考えるだろう。まったくそんなことが頭にかすりもしないことが、この流浪の灰魔術師の性格を物語っている。
「しかし、商売人か……」
「? 嫌なんですか?」
「いや、まぁ、規則正しい生活なんてなぁ」
「娼館の従業員が規則正しいんですか?」
「毎日朝起きて夜寝る。そういう生活を真っ当な生活って言うんだろう」
「宗家で修行したんですよね? よく積道師になれましたね」
「だから、今こうしてるんだろうがよ」
だらだらとつまらない話をしていたら、そのうち酒場までやってきていた。
酒場を兼ねた娼館は貧民街と市街地を挟む用水路の側にある。まだ一般街とはいえ、すでに道路や周りの建物は荒廃とし、たむろしている男たちの服装も一層に粗末なものになっていた。
その中で、綺麗な、飛び抜けて大きな建物がある。看板はなく、まだ早朝のこの時間には閉まっている。エドの話ではほんの数時間前まで開いていたそうだ。
サウスギルベナでは日が落ちると治安上のこともあり、大半の店も家も扉を閉ざすが、港湾地域に加えて、この娼館だけが灯を落とすことがない。貧民街の中には夜だけ開いている小さな酒場もあるが、そういったところは無許可の店である。目の前の娼館はサウスギルベナで最も大きな『商店』だった。
「ええっと多分こっちです」
エドは正面の扉ではなく、路地の方へと向かった。生ごみのすえた臭いのする細い路を進むと小さな鉄製の扉がある。
「営業時間中も出入りはこっちからしかできないと思いますよ。正面はお客さん用の出入口ですから」
エドが忠告してくれた。エドも初めて来る場所のようだが、六歳と言っても商家に奉公しているだけあって、客商売の決まり事はナイジェルより詳しい。
エドが小さな拳で強く扉を叩く。
覗き窓が乱暴に開かれて、男の目がギョロリと覗いていた。
「なんだ?」
ぶっきらぼうに男が訪ねてくる。
「今日からこちらにお勤めすることになったアーガンソン商会のエドとナイジェルです」
エドがスラスラと答える。二十も半ばを迎えた男よりよっぽどしっかりしている。エド個人の頭のできというより、今まで客商売などしたことのないナイジェルと、一年ほどとはいえ奉公人としての経験のあるエドとの違いであろう。
エドの答えに男は無言で、乱暴に覗き窓を閉めると、中から鍵を開ける音が響いていた。
鉄の戸が軋みながら内側へと開く。
「入んな」
男が顔を見せずに言ってきた。ナイジェルとエドは促されるまま中へと足を踏み入れた。
男はそのまま置くへと進んでいく。付いて行けばいいのだろうと、二人も後に続く。
照明のない暗い床にはゴミだか備品だかわからないものが散乱して、狭い廊下が更に狭くなっている。小さなエドはスイスイと男の背中を追っていくが、ナイジェルは廊下の散乱物を踏まないようにして進むのは一苦労だ。
「いいか、明日からは朝の時間帯は正面がまだ開いてるからそこから入んな。こっちには回ってくるんじゃねえぜ」
男が前を向いたまま言った。先ほどのエドの忠告とは違うが、この男の言う方が正しいのだろう。エドも「はい」と素直に返事していた。
そのまま男が突き当たりまでくると、そこにあるドアをノックした。
「どうぞ」
中からの声に従い男が部屋に入る。
そこは執務室のようだった。
娼館なら事務所とでも言ったほうがいいのだろうが、そこはちょっとした貴族の執務室のように見えた。先ほどの廊下とは違い、床には真っ赤な絨毯が敷かれている。毛の短いものだが、このあたりでは不似合いなほどの値段がするはずだ。
正面に置かれている机も、調度品も、娼館の雰囲気とは別のものである。
その造りの良い大きな机には男が一人座っていた。
老人だ。小柄で小太り、禿げ上がった頭、顔には笑顔を貼り付けている。この豪華な部屋には似合わない農民とか、商店の店主が似合いそうな脂ぎった男だった。
「よく来てくれた」
声もやはりだみ声で濁り聞こえにくい。
「おはようございます。アーガンソン商会から派遣されてきました。エドです」
まずはエドがペコリと頭を下げて自己紹介をしたので、それに続いてナイジェルも名前を告げた。
「ああ、今日からだったね。ワシはゴンズレイ、この辺りを『任され』とる。ま、がんばってくれ」
ゴンズレイと名乗った小太り老人は、それだけ言うと男に目配せをした。
「じゃあ、仕事場に連れて行くからついてきな」
ゴンズレイの部屋からあっという間に出される。
「あれが娼館の経営者か?」
また男の後を歩きながらナイジェルが尋ねた。その問に背中を向けた男が少し笑ったのがわかった。
「まあ、そんなところだ。だが普通に働いている限りは会うことはないから気にすんな。普段の仕事を取り仕切ってるのは俺だ」
「で、あんたは?」
「デイガンだ。この店については知っているか?」
「いや、この街の出じゃないんでね」
「この店は」
エドが口を挟む。
「ゴンズレイさんが経営者のギルベナ地方最大の娼館でかつギルベナで最も繁盛している店です。出資はアーガンソン商会と『その他』の人によってされていますが、経営にはアーガンソン商会は関わっていません。アーガンソン商会はこのお店と人材派遣契約を結んでいます」
デイガンが振り返ってエドの顔を見る。
デイガンと名乗った男は、ナイジェルよりも年上だろう。四十すぎくらいの強面の男だ。
身長は長身のナイジェルよりは低いが、体格はほどほどにがっちりとしており、喧嘩自慢という感じだ。だが、ナイジェルは猟師の出ということもあって、この男の足運びに特徴があることを見て取っていた。以前ナイジェルを追い回していた連中と同じである。
そのデイガンがエドを見た後、ナイジェルの方に説明を求めるように視線を向けた。が、ナイジェルは気にするなというように肩をすくめただけの返事を返す。
ナイジェルにだってこのエドという小さな少年のことなどわからないのだ。
「まぁとにかく、この小僧が言ったことで間違いはない。お前たちの仕事は併設されている一階部分にある酒場の雑用だ。お前の方は後々酒場の資材管理をやってもらうつもりだ」
「雑用ってのは具体的にはなんだい?」
「雑用は雑用だ。この娼館は午前五時すぎまでは開いている。店じまい後の掃除と次の営業の準備とかだ」
「娼館の方の仕事もあるのかい?」
その問いに、デイガンが鋭い視線をナイジェルに向ける。
「お前ら男は娼館には出入りできない。下手な助平心を起こすんじゃねえぜ。この店の女は『俺たち』の大事な飯の種なんだ。商品に手を出してみろ、アーガンソンの人間だろうが後悔することになる」
「了解」
ナイジェルとしても借金を返せればいいので、別に面倒事を起こす気はなかった。興味はあったが。
「勤務時間は六時から十一時だ。」
「ゲっ」
思わずナイジェルがうめき声を上げたが、デイガンは無視した。エドも黙ったままデイガンの説明を待っている。
「そこから夕方日が暮れるまでは酒場部分は閉めている。昼間いるのは娼館部分に住みこみでいる連中だけだ。ここがそうだ」
デイガンは廊下から、酒場部分に入った。
酒場はそれほどは広くない。規模的には少店舗になるだろう。ナイジェルが他の街で見た酒場と比べてもこじんまりしたものだ。給仕兼受付がいるカウンターとその前のスペースに小さな丸机が三つ置かれているだけだ。立ち飲みらしく椅子は机にはない。壁際に二人がけソファが数脚置かれている。大きな階段が二階に続いているが、その先が娼館なんだろう。
「じゃあ、さっそく仕事をしてもらおう。あんたは俺と一緒に来てくれ。小僧の方は……」
デイガンは店内で掃除をしていた子供に声をかけた。
「ベック!」
日に焼けた、ざんばら頭の少年が顔をあげる。デイガンに呼ばれたと気がついたその少年はモップをおいてすぐに側までやってきた。
「なんですかデイガンさん」
ベック少年が、自分より随分背の高い男を見上げる。まだ十くらいの年齢だろうが、その声色にはねっとりと媚びを含んでいた。デイガンの方はその声色になんの感情の変化も見せずに、ベックにナイジェルとエドを紹介した。
「新人だ。こっちの小僧の面倒はお前が見ろ。仕事を教えてやんな」
「はい、まかせて下さいデイガンさん」
「お前はこっちだ」
ナイジェルはデイガンについていく前にエドに目を向けた。視線に気がついたエドがニッコリと笑う。
「じゃあ、ナイジェルさん。また午後に」
それを見ていたデイガンが歩きながらナイジェルにだけ聞こえるように言った。
「なんだがわからんが、気味の悪いガキだな」
同感だ。
だがナイジェルとしては珍しく思ったことを口にはしなかった。
「おい!」
先ほどまでの媚をたっぷりと含んだ態度とは真逆の、高圧的な声がエドに飛んできた。
それは初っ端にかましてやろうという、稚拙ながら打算的な思惑の言葉だった。
「はい、なんですかベックさん」
しかし、目の前の、自分よりも随分幼い男の子から返ってきたのは、反抗的でも、怯えでもない、満面の笑顔だったために、ベックの方がたじろいてしまった。
ベックはどこか別の街で生まれた。十二歳になる。
貧民街にやって来たなら、この街でいる限り、路上生活者になるか、『組織』に属するしか無い。
成人まであと三年あるが、それでも自分の立場は分かっているつもりだ。
このサウスギルベナには身分が五つある。
一つは貴族。
ギルベナ地方統治を司るオヴリガン家や、鍛冶師のシクロップ家など。彼らは豊かではないが、このサウスギルベナの統治機構を担っている。ギルベナ貴族は市民と変わらない生活で、普段は市井の日常生活に介入してくることはないが、災害の多い地域だけあって敬意は持たれている存在だ。
二つ目は、アーガンソン商会。
このサウスギルベナで最も富を持ち、最も恐れられている存在。
十五年前にサウスギルベナにソルヴ・アーガンソンがやってた時、何が起こったのかはベックにもわからないが、非合法組織である盗賊ギルドとの住み分けが行われた。貧民街を盗賊ギルドが、それ以外をアーガンソン商会が支配している。暗黙の了解でギルドは貴族とアーガンソン商会関係者に対して『仕事はしない』ことになっていた。
三つ目は市民だ。
商売人もいれば、農民もいるが、このサウスギルベナの壁の中に住み、貧民街以外に住居を持っている中流階層の住民だ。彼らは戸籍を持っている。商人はアーガンソン商会の庇護下にあり、盗賊ギルドとの取決めを破ったりしない限りはその保護を受けられる。だから盗賊ギルドからの搾取に対しても逃れることができる。農民の一部もそうだ。中流階級と言っても他都市では貧困層に当てはまる者達である。
四つ目は、盗賊ギルド。
このサウスギルベナの貧民街。つまり帝国有数の暗黒街を支配する者だ。住民の数では一般市民の数よりも、貧民街の住民の方が多い。裏社会から這い上がることは絶望的だが上手くやれば貴族よりもいい暮らしができる。
五つ目が、貧民街の住人。
盗賊ギルドにも入れなかった連中である。才能がなく、頭が悪く、または病気を持っているといった負けたままで人生が終わりを告げる連中だ。物乞いが存在できないサウスギルベナでは日雇いで禄を食む。一年も経てば大半が入れ替わっていた。入れ替わった連中がどうなったのかは誰も知らないし、気にも留めない。
ベックは才能が認められて、十歳で盗賊ギルドに入った。
元々は流民の両親に連れ従ってこの街にやってきたが、両親がどうなったのかもう覚えていない。
「名前はなんだ!?」
ベックは目の前の小さな男の子に向かって怒鳴った。
「エドと言います」
と言ったので、すぐに殴ってやった。傷がつくと不味いので頭を平手打ちにする。
最初が肝心だ。
「歳も言えよ! グズ!」
ベックとエドの立場は違う。
ベックは盗賊ギルドに所属している子供。上手く立ちまわることができなければいつの間にかドブで浮かんでいることもよくある。
逆にエドはアーガンソン商会の丁稚だ。
外から人を雇い入れることも多い商会において、五歳から見習いとして働く丁稚は将来の幹部候補なのである。
もちろん上手くやれば、ベックだって盗賊ギルドの幹部になれるかもしれない。しかし普通にやっていたら、いつかは二人の立場は逆転する。
なら、今のうちに心理的に優位に立つのが重要だ。まだ世間がわかっていないガキを支配して、将来うまい汁を吸ってやろう。十二歳ながら、誰に教わることなくそういったことを考えつくのがベックの才能だった。
だが、
「ああ、それは気が付かなくてスミマセンでした。ベックさん。六歳になります」
頭を叩かれたエドはまたニッコリと笑顔を浮かべた。
ぞっとした。
だから思わず手が出た。
「ニヤニヤすんな!」
今度は握りこぶしで顔面を殴っていた。それに対して、エドは微動だにせずに拳を頬で受け止めた。
しまった。と思う。
やり過ぎだ。エドはアーガンソン商会から派遣されてきた人間で、盗賊ギルドの人間が手を出すことはご法度である。表沙汰に、跡が残らないようにしている分には構わないが。
見ればエドの鼻から血が流れている。
「かさねがさね申し訳ありません」
もってまわった言い方で、エドは布を取り出すと鼻の血を拭った。顔からは笑顔が消え失せ、だが、代わりに何の感情も浮かんでいない。赤い瞳がじっと見つめていた。
「さっさと仕事に行くぞ!」
ベックはまた怒鳴った。そして思わず、
「このことは誰にも言うんじゃねえぞ」
とエドに言ってしまった。あまり上手い方法ではない。案の定止めの一撃がすぐに返ってきた。
「分かってます。デイガンさんに告口したりなんてしませんよ」
ベックは十二歳だが、人を見極める才能で盗賊ギルドに入れてもらった。
そのベックにも目の前の幼児は理解ができなかったが、言った言葉をそのまま受け取ることは間違いだということだけは分かった。
不気味な子供だ。今まで見たこともないほど、得体が知れない。
分からないといっても、十歳の少年が六歳の少年を力いっぱい握りこぶしで鼻血がでるほど殴れば泣いたり怒ったり、何か感情が表れるものだ。
目の前のまだ幼児というべき少年は、何も表わさず、存在しないようだ。
それほど存在が希薄だった。まるでこの世のモノではないように。
印象だけで言えばそういう幼児だった。




