12 瘠犬は最果ての地で面妖な白兎に出会う事
「しつけーぞ! クソッタレのゴロツキども!!」
ナイジェルは後方に向かって叫んだ。
だが、その叫び声に誰も反応しなかった。
追ってくる盗賊ギルドの男たち三人も、足を緩めなかったし、怒りもしなかった。
「たかだが金貨十枚ごときで生命まで殺ろうとすんじゃねー!」
もう一度叫んだが、やはり何も変わらなかった。
仕方ないので前を向いて懸命に走る。
ここは貧民街だ。
しかもサウスギルベナの貧民街である。
誰も助けてはくれない。追ってくるのが盗賊ギルドとなると尚更である。
やばいな!
ナイジェルは痩身の男である。そこそこ背も高いが痩身である。
痩身と書くとかっこいいがいわゆるガリガリだ。
筋肉は生活に必要な分しかついていない。後ろの三人相手に喧嘩して勝てる可能性はない。
背中に弓矢を背負っているが、使う隙がない。
遠距離精密射撃には自信があるが、速射は苦手で、走りながらなんて絶対無理。
そもそも後ろの三人を殺すわけには行かないのだ。そんなことをすれば泥縄だか泥沼だか、まぁとにかくますますまずいことになる。三人の盗賊が、三人の暗殺者になるだけだ。
ナイジェル自身、たかだが金貨十枚と言ったが、当然彼はそんな金は持っていない。
手持ちの金でどうにかここは納得してもらえないだろうか?
ゴソゴソとポケットを探ってみたが、出てきたのは銭貨(銅貨)が一枚と銀貨が二枚。
なるほど、絶対説得は無理!
なので、金をポケットに戻してまた全力で走りだす。
だが、そろそろ年齢的に限界がきそうだ。まだ三十前だが限界だ。
ナイジェルはメチャクチャに曲がれる曲がり角を曲がれるだけ曲がる。
そして三叉に分かれている路地まで来ると、後ろを振り返った。
よし! 視界から外れたぜ。
ナイジェルは懐から黄ばんだ紙片を二枚取り出した。
一枚を走りぬけざまに、路上にいたおっさんの背中を叩くように貼り付ける。
びっくりした貧民街の住民は振り向いたが
「わりいな!」
偶然ぶつかったように見せかけ、次におっさんが進むのとは別方向の路地に残りの一枚を置いた。ナイジェル自身はその置かれた方の路地に飛び込むようにして入る。
それから素早く言葉を紡ぎだした。
それは力を持った言葉だ。
すぐに魔術が発現される。
「いたぞ!」
路地に盗賊ギルドの人間の声が響く。
だが追手の三人は、なぜか先ほどナイジェルが札を貼り付けたおっさんに目掛けて走りだした。
おっさんはわけが分からず、しかし反射的に走りだす。
おっさんは勿論、三人の盗賊ギルドの人間も、ナイジェルが入り込んだ路地には目もくれずに走り去っていった。
「ざまぁみろ。ラーレスよ、永遠なれっだ」
足音と声が聞こえなくなって、ナイジェルはホッと息を吐いて、路地の壁に背を預けるとそのままズルズルと汚れた地面に腰をおろした。
冬は終わったばかりのまだ寒い春。
夏は遠いが、それでも全力疾走したおかげでかいた汗が気持ちが悪い。
水分も失われて、喉が乾く。
バッグから瓶を取り出した。酒瓶だ。だがさっきの騒ぎが原因なのか、底が割れて中身が空になっていた。
ナイジェルは天を仰いでから、諦めて酒瓶を放り投げた。
酒がほしい。
だが、表通りに行くわけにも行かない。
「ポイ捨てはダメだよおじさん」
どうしたものかと思っていた所に、声が掛けられて、ナイジェルはギョッと目を向けた。
路地の入り口に、幼い少年が立っている。
小さな体を覆うように、パンパンに荷物の詰まった肩掛けカバンを背負っている。
白い髪を丸坊主にして、いかにも幼い顔立ちだ。瞳は白目にルビーのように紅い虹彩。髪と瞳の色以外には特に特徴のない顔立ちの、普通の少年である。
だが、ナイジェルは驚いていた。
路地の入口には彼がかけた灰魔術がかけてあり、少年にはただの壁があるように見えるはずだ。
先ほど盗賊ギルドの三人が見ず知らずのおっさんを、ナイジェルと勘違いしたのも、この路地の前を素通りしたのも、ナイジェルの灰魔術による『幻覚』が原因である。
弓手であり、灰魔術師。
それがナイジェル・グラフの正体だ。
元々は王国への関所がある帝国北西部ブリタイン地方の猟師の出だが、灰魔術師の資質が認められて、積道宗家で修行を積んだ。
こう見えても階位は『真宮』。指導したり弟子を持つことが許されるクラスである。
あれ? 『真宮』の位はもう剥奪されたんだったか。
その辺のことは、ナイジェル自身かなり有耶無耶だったが、それくらいの実力はあるのだ。
それが地の果てサウスギルベナの、しかも貧民街の路地で、盗賊ギルドから追われている。
その原因を話しだすと長くなるが、いや、簡単にいえば酒と賭け事が原因だが、今は目の前の少年だ。
とにかくこれでもナイジェルはいっぱしの灰魔術師である。
そのナイジェルのかけた『幻覚』が通じなかった。盗賊ギルドの追手には聞いていたから、発動しなかったことはあるまい。今も少年とナイジェルの間にはその幻覚の壁がちゃんとある。
だが、少年はそこに何も見えないかのようにすんなりとナイジェルの側までやってきた。
「おい、ボーズ。オメェ目が見えないってことは……」
「おかげさまで、ぱっちりお目々だよ」
少年の目を覗きこんだが、言うように、視力がないわけではないようだ。
「おじさんって……」
「おじさんって歳じゃねぇよ」
少年が何か言おうとしたが、気になったので早めに訂正しておく。抵抗したいお年ごろなのだ。
「いくつなの?」
「二十五、まだまだ二十代だ」
ナイジェルの答えに、少年はああと頷いた。
「ちょっと老けて見えるね。無精髭だし、汚い金髪だし、オデコきてるし……」
「へい! がきんちょ!」
まだまだ続きそうな言葉を遮る。少年はキョトンとしたが、すぐに言葉を変えた。
「どちらにしろ、六歳の僕からしたら十分おじさんだと思うな」
「これはシブイって言うんだよ。で?」
「で?」
「さっき言おうとした続きは?」
「ああ、おじ……そう言えば名前は?」
「あー、ナイジェル、ナイジェル・グラフだ」
「こんにちはナイジェルさん」
少年は大きな荷物を抱えたままペコリと頭を下げ、そして名乗った。
「僕はエド。エドゥアルド・ウォルコットです」
エドゥアルド・ウォルコットこと、エド。
この少年はギルベナ一番の権力者、ソルヴ・アーガンソンの家で働く丁稚の少年らしい。
流れ者のナイジェルにとって、ソルヴだろうが、ソルトだろうがどうでもいいのだが、ナイジェルは少年の後について歩いている。
理由は二つ。
一つは仕事を手伝ってやれば、少年が酒をくれると言ったからだ。
さらにはナイジェルが追われている盗賊ギルドの方もなんとかしてくれるとのことだ。
六歳児になんとかできる問題では無いような気がするが、エド曰く、旦那様であるソルヴに頼めばどうにかなるだろうという話だった。ソルヴは盗賊ギルドにも顔がきき、エドはそのソルヴに顔がきくらしい。眉唾だが、他に当もない。
もう一つは先ほどネイジェルの『幻覚』を見破った理由が知りたかったからだ。
エドはナイジェルが積道師、つまり灰魔術師であることも知っていた。
その理由について少年は一言で答えた。
「独学で積道を学んでいるから」
とのことらしい。
しかし積道に限らず魔術という高等技術は、独学でなんとかできる物ではないはすだ。少なくともナイジェルの常識ではそうだ。その辺りの興味も手伝ってこの少年についていくことにした。
少年は貧民街ではありふれた、あばら屋の一つに声もかけずにズカズカと入っていった。
入り口はムシロが吊り下げてあるだけで、防犯性もクソもない。そのムシロがまた嫌な臭いを放っているのだ。
ナイジェルが入り口から覗くと、三人寝転べばいっぱいなくらいの広さだ。
その狭くて薄暗い中に、瞳が幾つも光っていた。
臭いもまた酷い。
寝ているのが一人。こちらは大人。老婆のようだ。
その周りをギュウギュウに陣取って座っているのは子どもたちのようだった。
「調子はどう?」
「おにいちゃん!」
エドが声をかけると、子どもたちがエドの側に駆け寄る。エドのことをおにいちゃんと言っているが、中にはエドより年上らしいのこどもの姿も見える。
子どもたちの人数は五人。この狭い家にはそれでもギッチリといった感じだ。
寄ってきているのはまだ三歳か四歳くらいの女の子だった。貧民街の子供というだけあって、惨めなほど福々しさとは無縁の体つきというのが共通点だ。ナイジェルの痩身というのとは別種の痛々しさがある。
エドは駆け寄って、足にしがみついた女の子の脇に手を添えると抱え上げた。
大きな荷物を背負っている上に、女の子を抱え上げられるところを見ると、そこそこ力もあるのかもしれない。商人の奉公人ということだから、重いものを持つのも慣れているのだろう。
女の子の顔を覗きこんでから、他の子供達の方に目を向ける。
「ちゃんとキレイにしろって言っただろ? バカ兄ちゃん」
「ちゃんとやってるよ」
「やってないね。これはやったとは言わないよ。川の水でいいから体は毎日洗えって言ったろ。またグリグリやられたくなかったらキレイにしろっつーの」
同年代の子供の答えに、エドが六歳にしてはキツい調子で言った。だが言った男の子の方は、まだ幼いにもかかわらず、素直にゴメンとエドに謝っている。
「おばあちゃんの様子はどう?」
それ以上追求するつもりはないのか声色を柔らかくして、エドは老婆の布団の側に腰をおろした。子どもたちは場所を開けるために立っている。
「あんまり良くない。寝てるのか起きてるのかわかんないような感じ」
別の年長者の女の子が答えた。その答えにエドは考えこんで黙ってしまった。
子どもたちは心配そうにそれを見ていたが、やがて先ほどの男の子がナイジェルの方をチラッと見てきた。
「なぁエド、このおっさん誰?」
やっぱり貧民街のガキは口が悪いな。とは思ったが、病人もいるらしいのでそれを口には出さなかった。
少年の問いにエドが顔を上げ、ナイジェルの方を見る。
「ああ、このおっさんはナイジェルさんというおっさん」
そう言って、エドは立ち上がった。そしてナイジェルに手招きする。
「?」
ナイジェルが側に行くと、エドは自分の場所を空けて、ナイジェルを老婆の枕元に座らせた。
「ナイジェルさん。一応灰魔術師なんでしょ?」
場所を譲ったエドは、自分の持ってきた背負かばんを開けて中の物を取り出していく。
「一応ってなんだ。これでも『真宮』だぞ、多分」
エドは手を止めキョトンとして、ナイジェルの顔を見た。その表情は子供ぽくて可愛らしい。
「なに『シングウ』って、あと多分ってなに?」
「なんだ積道の勉強してんじゃないのかよ」
「独学でね」
言って、エドは袋の中から一冊の本を取り出してナイジェルに渡す。
「この本を貧民街で拾って、自分で勉強したんだ」
「独学ってお前いくつだよ。文字読めんの?」
ナイジェルがその本に目を通すと、それは確かに積道、つまり灰魔術の入門書ではあった。ただ現代積道ではなく、どうやら『原始積道』と呼ばれる、黎明期の積道についての魔導書のようであった。しかし幼児とも言える少年がこの本に書いてあることを独学で習得していたならば、紛れも無く天才である。いやそれすらも違和感がある。
「六歳って言ったでしょ。で、『シングウ』って偉いの? 凄いの?」
「『真宮』は灰魔術師の階位の一つだよ。えれぇ順に上・孔・太・玄・真・神・霊・子。ちなみに神つまり『神詠』で一人前。『真宮』はその一つ上だよ」
「へぇー今はそんなことになってんだね。興味深いけど、とりあえず今はこのおばあちゃんを見てくれる?」
『今は』というエドの言い方に、ナイジェルの方が興味が惹かれたが、素直に老婆の方に目をやる。
荒い息を繰り返して、目を閉じている。確かに起きているのか寝ているのかわからないような状態だが、虫の息なのは分かる。顔色も良くない、というか、肌自体がどす黒く変色している。
「魔病か」
老婆は病に侵されている、しかもナイジェルが一見したところ、魔力が原因の病気だろう。
「うん、そう。三年前に流行病があってね。原因は大豆が汚染されてたんだけど」
エドがナイジェルの予測を肯定する。
「三年前?」
しかし三年前の病でなぜ、今も苦しんでいるのか。その疑問にもエドは答えてくれた。
「確かにこの魔病に三年前にかかっていたのなら、もう全快しているか、死んでるかのどちらなんだけどね。このおばあちゃんは元々は軽度の発病だっだんだけど、ここは貧民街だから、全快できずに徐々に悪くなっていったんだ。こんな感じになったのはこの半年くらい」
エドは袋からナイフやら、金属製の箱やら、そしてなにか分からないランプのような、蒸留器のようなものを取り出してきた。作り的には粗末で恐らく自作のもののようだ。
「で、僕はその半年くらい前から、この貧民街の患者さんを看て回ってるんだ」
「なんのために?」
「人助けに理由なんていらないでしょ?」
にっこりとエドが笑っていった。天使のような笑顔ではある。
しかしナイジェルは、「嘘クセェ!」と思った。なぜだがそう思ったのである。
「それで、ナイジェルさんは一人前の積道師なら薬学の知識もあるんでしょ?」
エドの言うとおり、ナイジェルは薬学の知識も一通り修めている。積道は大きく天文道と鬼門道に分かれているが、その鬼門道の一分野に薬学がある。
「まぁ。どちらかっつーと天文道の方が得意だけどな」
言いながらも、ナイジェルは老婆の容態に目を向けた。
「……」
「一人前の積道師から見てどう?」
エドだけでなく、周りの子供達もナイジェルの言葉を固唾を呑んで待っていた。
それだけに、ナイジェルは言い出しにくかった。
魔病はそれほど治療が困難だというわけではない。
普通の病なら魔術ではどうにもならないことも多いが、魔力が原因の魔病なら、魔術でなんとかすることもできる。
ただし、原因が魔力による疾患部分に関してはだ。
この老婆のように、長期間の疾患による他の病の複合発症には他の治療法が必要である。
具体的には投薬治療をしながら、清潔な生活と栄養価の高い食事をすることだ。
だが、ここは貧民街で、この部屋を見れば経済状態など一目瞭然である。
栄養価の食事が取れるわけもなく、投薬治療のための費用に至っては彼ら五人の子どもたちが何回人生をやり直してもどうにかなる金額ではない。
「うん、わかった」
エドがナイジェルが何かを言う前に、口を開いた。もし本当にこの少年が魔病についての知識があるなら、ナイジェルの言わんとしていたことは察することができたと思う。
「みんな、外に出てくれる? あと今日の分の薬があるから、飲んでね」
そう言ってエドは小さな薬包紙を取り出して、出て行く子どもたちに渡した。
そして、子どもたちが出て行くと、エドは蒸留器の下部にあるランプに火をつけた。
「どうするんだ?」
残されたナイジェルは少年の方を見た。子どもたちがすんなりと老婆の側から離れたのが不思議だった。
「どうするって、できることだけやるんだよ。……それとさっきの子どもたちも知ってるんだよ。おばあちゃんが助からないだろうってことも。その原因が死ぬのはお金が無いせいだってことも。そして自分たちも一生金とは縁がないってね」
あまりに率直なもの言いだったので、ナイジェルは言葉を失ってしまった。
エドの方は黙ったまま、器具を調整している。六歳だからまだ生死観が無いのか、六歳にして達観しているのかわからないところだ。
「あ、そう言えば、お酒おごるっていってたっけ?」
突然エドが話を変えてきた。
「あ、ああ。そう言えばそうだったな」
すっかり忘れていた。
部屋の中は、蒸留器からモクモクと噴き出してきた煙で、少し煙ってきた。
甘ったるい匂いがする。
エドは煙の吹き出し口を調節して、それを老婆の方に向けようと苦心している。
顔を蒸留器に向けたまま、エドは自分の背負い袋を指さした。
「中にお酒が入っているから、それならあげる。消毒用に蒸留してあるからかなりキツいと思うし、僕は子供だから飲んだこと無いんで美味しいかどうかはわかんないよ」
その言葉に従って、ナイジェルが袋をあさると、土製の瓶が出てきた。
「この細長いヤツか?」
ナイジェルが瓶をかざすと、エドが顔を向け、頷いた。
「ああ、それそれ。もういっぺん言うけど、僕は飲んだこと無いから味は保証しないよ」
「酔えりゃなんでもいいや」
そう言って、ナイジェルは酒瓶の栓を開けると、匂いを嗅いだ。確かにキツそうな酒の匂いがする。だがそれをナイジェルは一気に喉に流し込んだ。
盗賊ギルドの連中には追い掛け回されるし、貧民街の実情を目にして、やりきれない気分もあった。酒が飲みたい気分だったのだ。
「っ?」
だが喉を滑り落ちた酒は、刺激を通り越して激痛が走った。だが喉が潰れたように声が出せない。
おまけに酔とは別の何かが急速に体に巡り、力が入らなくなった。
「……さっき人助けの理由を善意からだって言ったけど」
エドの声に、自然とそちらに目が向く。
「補足すると、鬼門道と黒魔術の錬金術の研究でもあるんだよ。ゆくゆくは白魔術の純強化も取り入れたいんだけど、あれはなんだが門外不出っぽいからなぁ、キャひ」
エドの紅い瞳が薄闇の中で光っていた。
少年は笑っていた。ニヤニヤと。
「な、なに……を……」
何とか絞りだすように言葉を発したが、それが限界だった。
体から力が失われ、座っていることもできなくなった。そのまま頭から床に崩れ落ちる。
助けてくれ!
もう声は出なくなっていた。
それでもナイジェルは必死にエドに助けを求めた。
だが少年は笑っていた。
「ケケケ」
「ぐぅ」
毒か。
言葉がでない。
「ケケケッケ」
「?」
だが、少年の様子がおかしい。と思ったらそのまま前方にぶっ倒れた。
「……」
崩れ落ちたままの無様な格好で少年を観察する。イビキをかき始めた。
こ、これは。
ナイジェルは悟った。これは陰謀ではなく、事故であると。
「……(助けてくれー!)」
当然返事はない。
やがて煙はナイジェルを包み、意識は暗闇に落ちていった。




