04 補佐官、ギルベナ領主に着任の挨拶をする
「あら、遅かったわね」
開かれた扉から姿を現したのは、壮年の婦人だった。
赤毛の燃えるように華やかで、ウェーブのかかった長髪。彫りの深い目鼻立ちがはっきりとした美女だ。
向けられた満面の笑みは、不信感や敵愾心といった欠片も見えないが、なぜかクレアは一歩さがってしまうような押しの強さが伺える。女性としては平均的な身長体格のクレアよりも頭二つ以上は高い。おそらく180センチ近くあるのではないだろうか。ただし体格は恐ろしく細い! クレアよりも随分背が高いが、体重を比べる気には全くなれないようなスタイルだ。とても三人の子持ちとは思えない。
「ええっと、ニレーナ様でしょうか?」
事前の情報と照らしあわせて、この女性がギルベナ領主スコット・オヴリガンの夫人であるニレーナであるだろうとあたりをつけて尋ねる。
しかし、公爵夫人が玄関の扉を開けて出迎えるものだろうか?
色々と訝しい点はあるが、外見的な特徴は、事前に聞いていた夫人のものと一致している。
ニレーナ・オヴリガンは元々帝都出身の貴族で、社交界でも有名な美姫『だった』。
スコット卿と結婚してからは表舞台にでることはなかったのだが。彼女が美の饗宴から姿を消してからもう二十年ほどになる。にも関わらず、目の前にいる女性の眩さにくすみは全く見えない。
「そうよ。あなたはクレアね。さあ、どうぞ!」
そう言って、ニレーナ夫人はクレアの持っている大型旅行鞄に手を伸ばす。
え? と思うまもなく手から鞄を奪い取ると、クレアは扉を開け放ったまま館の中に戻っていった。
三年分の荷物の入った大型旅行鞄である。クレアよりもかなり背が高いとは言え、あの細い体のどこにあんな力強さがあるのか。
唖然としながらも、クレアは館の中に入って、夫人の後を追う。
オヴリガン侯爵邸は帝都の一般的な貴族の邸宅とは違いエントランスホールがない。
一人分ほどの幅の廊下を抜けると広間に抜ける。
反対側の壁一面がガラス張りになっていて、裏庭からの光が入ってきている。廊下とは対照的な開放的な雰囲気。床面もここだけは光沢加工された石材が使われ、その真ん中には六人がけの背の低いテーブルが置かれていた。
おそらくここは応接間なのだろう。
とはいえ、応接室から裏庭の畑が見えるのはいかにも田舎貴族の邸宅だ。クレア自身も実家の屋敷を思い出して、なんだか親近感がわかなくもない。
ニレーナ夫人が床にクレアの鞄を置いた。
あっと思ったが、いまさらどうすることもできない。公爵夫人に荷物運びをさせてしまった。まさかそんなことを夫人自らするとは思わなかったので対応することができなかったのである。
「ちょっと、待ってね。今公爵を呼びますから」
夫人はニッコリと笑うと、そのままガラス壁の方へ歩いて行った。
「あ、はい」
なんとも間の抜けた返事を返して、首だけでヘコヘコと頷く。
だめだ。
クレアはゴシゴシと両手で両頬を撫でる。
夫人の予想外の行動にグダグダな対応になっている自分に気がついて、気持ちを切り替えるために顔を擦る。
夫人はそんなクレアに背を向けて、ガラス壁まで歩くとコツコツと細い指先で叩いた。
裏庭で畑仕事をしていた男が腰を上げて振り返った。
軍手を嵌めた両手は土で汚れ、頭には黒ずんだ手ぬぐいを巻いている。しかもバンダナ風に巻いているのでなく、ほっかむりだ。使用人だろう。
おじさんは太った体を起こすと、腰がいたいのか両手で腰を支えながら伸びをしている。
こんな貧乏な都市でも太れるんだなぁ。
などと思っていると、使用人のおじさんは、夫人の方を向いて、彼女が手振りで呼んでいるのを察して頷いた。
夫人がそれを確認してからこちらを振り向く。
クレアもグイッと背筋を伸ばして顎を引き、直立不動で夫人の言葉を待つ。
「クレア、すぐに主人はやってくるからちょっと座って待っていて。私はお茶を入れて来ます」
そう言ってキビキビと館の奥の部屋に歩いて行く。と思ったら途中で振り返った。
「あ、椅子は端にあるのから勝手に持ってきて頂戴」
なんというか、随分友好的というか、気安いというのか。経歴ではニレーナ夫人は生粋の中央貴族令嬢だった筈なのだが、これはギルベナに住んで20年だからなのか、元からこういう性格だからギルベナに嫁いだのか。
クレアは戸惑いながらも壁際に置いてある脚の細い椅子を3脚運んできて並べる。ホストの位置の斜め前に自分の椅子を配置したが、一応公爵が来るまで座らずに立っていた。
やがて二人の人物が応接間に入ってきた。
夫人ではなく、どちらも男性。一方は先ほどの畑仕事をしていたオジサンだ。
「?」
そのオジサンが初老の男性、格好から見るに明らかな執事を引き連れているからこの人物が公爵スコット・オヴリガンなのだろう。先ほどの農作業姿から紋章入りの長袖シャツ(チュニック)に着替えている。
でっぷりと大きさがあるが、体格がいいというよりふっくらした焼き立て麺麭みたいな人物だ。
40代、金髪に碧眼や、肥満体型など事前に聞いていた特徴と同じだから間違いないだろう。
しかし、いくら田舎だからといって公爵が畑仕事をしているものだろうか?
「いやー、待たせちゃったね」
ぷっくり丸々とした顔に笑顔を浮かべ、髭もないツルツル福々しい顔立ち。
やはり公爵に間違いない。確信はあるが、軽く驚いてしまった。
「このたび下治副司として着任いたしましたクレア・ホーキンスです」
とりあえず万が一公爵本人でなかった時のために自分の名前だけ告げておく。
「ずいぶん若いね。去年卒業したの? あ、ワシは分かってると思うけど、一応名乗っておこうか。儀礼的だけど、最初くらいはきちんとしないとね」
オジサンはそういうと、咳払いをして喉の調子を整えると、ちょっとだけ背筋を伸ばした。
「着任ご苦労。私がギルベナ領主、スコット・オヴリガンである。貴殿には帝国とこのギルベナの発展のため、身命を投げ打って任にあたることを期待する……と、まぁ、こんな感じでいいかな」
真面目な顔をしていたのもほんのひと時、すぐにゆるい表情に戻った。
「は、はぁ」
いいのか、と聞かれてもわからないので生返事になる。
やはり彼がオヴリガン公爵だった。
「じゃあ、一応任命状を貰える?」
言われてから慌てて公爵に直接手渡す。すぐ側に執事がいるが雰囲気的にそれで問題ないようだ。本来なら玄関で渡すべきだったが、いきなり夫人が現れたので機を逸してしまったのである。
「うん、クレア君ね。おや、前は司馬部だったんだねぇ?」
司馬部は司馬府の下部の下部組織で、軍事関係のお役所である。ただし、クレアは軍部関係と言っても事務屋だったが。
「はい。学院を卒業した後、輜重隊の管理補佐をしていました。ただすぐ後に書令府に出向になりましたけど。ご子息には書令府で指導していただきましたよ」
「ああ、オーランドの? あの子元気にしてる?」
「ええ(たぶん)」
公爵の長男であるオーランドの近況はよく知らないのでふわっとした返事をしておく。帝都を立つ前に少しこのギルベナのことについて教えを請うたくらいだったが、ぱっと見は元気そうだったのでこれで問題ないはずだ。
「しかし、書令府への出向ということは、三人続けて書令府からの着任だねぇ。うちは書令府のシマになったの?」
「し、シマ? さ、さぁまだ新人なのでよくその辺りの事情には詳しくなくて」
「ああ、ゴメンゴメン。治副司の着任先は結構どこの役所から派遣するのかが固定してくるもんだからさ」
「そうなんですか?」
「うん、同じ役所からの人脈の方が引き継ぎはしやすいし、仕事もね。まぁ大人の事情も大きいけれど、うちはほら『ハズレ』だから今まで固定の役所から来ることはなかったんだけどね。ハハハ」
「……」
どういう顔をしていいのか分からないので、極力無表情で通しておく。
「でもウチは治副司が好きに仕事をできるから、楽といえば楽だけどね」
さっそく仕事しない宣言をしていたスコットだが、クレアは気が付かないで「頑張ります」と頭を下げてしまった。あとでどういう意味だったかを骨身にしみて、後悔することになるだろう。
ティーセットを運んで部屋に入ってくるの夫人の姿が目の端に入ってきた。
この場合自分はどうすればいいのか悩む。手伝ったほうがいいのだろうか。公爵の側に控える執事をそっと見ると微動だにしないで立っている。
白髪の混じった黒髪に痩せた体。だが背中に定規でも入っているかのような背筋の伸び方は弱々しさとは無縁だ。どちらかといえば執事というより教師のようにも見える。無表情で結構怖い。
とりあえず彼が動いていないのだから、このままにしておいてもいいのか?
ルールが分からず居心地悪くしているクレアをよそに公爵が紹介を始めた。
「もう会ってるけど、妻のニレーナ、それからこっちが執事のマヨイ。あ、マヨイは苗字で、名前はゲコウなんだけど、エコーとか愛称で呼ぶと……」
「ああ、ハイ。わかりました。怒るんですね」
執事が公爵を凄まじい眼つきで睨んでいる。
「怒ってなどおりませんが、オヴリガン家は英雄初代オヴリガン公爵様より三百年、更に始皇帝を祖とする千年の時を重ねる血筋。主従の境ははっきりとさせておくべきかと思います。当家に経済的な余裕さえあれば奥様にお茶の用意していただくなどということもなかったのですが……ええ、余裕さえあれば」
マヨイの言葉にスコットは目を逸らした。
視線から逃げたスコットを放っておいて、ベテラン執事らしいマヨイが今度はクレアに目を向ける。結構な迫力でクレアは思わず腰を上げて逃げそうになった。マヨイはそんなクレアの様子にも表情を変えず、つまり鋭い眼つきのまま腰を鋭角に折り曲げて頭を下げる。
「オヴリガン家の内事を取り仕切っておりますマヨイでございます。家の中のことで何かご要望があれば金銭的なこと以外なら私に申し付けください。ええ、金銭的なこと以外で」
なんで、二回言うの!?
と内心の叫びを口に出さずにクレアは必死に頷く。
「とまぁ、この家には今住んでいるのはクレオリアを加えて四人しかいないから。この屋敷には家族以外の者は入れないようになってるからね」
「あ、あのぉ」
スコットの言葉に、クレアはこの屋敷に来てからずっと疑問に思っていたことを口にした。
「四人だけなんですか?」
「うん。君を入れて五人だね。次男もまだ帝都だから」
「防犯上は問題ないのでしょうか?」
クレアは門兵さえいなかったことを思い出す。この治安の悪いサウスギルベナで中にも外にも警備の兵がいなくて大丈夫なのだろうか。
クレアの言葉にニレーナ夫人が、クスリと笑った。
「クレアは私が出迎えた時に不思議に思わなかった?」
そういえば、と玄関先でのことを思い出す。
「誰もいませんでしたけど、私が来たのがわかりましたよね」
普通に考えれば、馬車の到着した音を聞きつけたか、窓から見えていたのだと思ったのだが。
ニレーナは笑みを浮かべたままマヨイの方を見る。
「?」
「防犯に関しては、当屋敷の中にいる限り私が保証致しますのでご心配は無用です。一階は浴室と食堂がありますが、それ以外は公務のために使われます。クレア様の部屋もご家族の私室もすべて二階にございますが、夜中に御用があるときは、食堂までいらっしゃれば私がすぐに参りますので」
「マヨイさんが寝ている時は?」
「いつでもいますのでご心配なく」
「……」
これは、夜中は大人しく部屋でしていろということだろうか。前任者達の引き継ぎでは夜も昼もないことも多いと聞いていたのだが。
「これは当家の基本的な、そして一番大切な約束事になりますが、『働かざるもの食うべからず』でございます。但し、働いてもない時はないですが」
「え? そこは働いたらご飯はあるもんじゃないんですか?」
「ギルベナですから。ご飯があるかどうかはクレア様がどれだけこの街を豊かにできるかにかかっております」
「大体の家事の分担は、ニレーナが料理と裁縫、マヨイが掃除洗濯、家の警備。あ、そうだマヨイ」
スコットの言葉に老執事が胸のポケットから一本の鍵を取り出した。黒茶色の木製の鍵である。
それをクレアに渡してきた。
「家の鍵ですか?」
受け取りながらスコットに尋ねる。大きさは20センチほどもあるがかなり単純な作りの鍵だ。
「これは一応魔法の鍵でね、正面玄関が閉まっている時にはこれで入ってきて」
「魔法の鍵なんですか?」
貧乏貴族の家には不似合いな代物である。鍵をよく見てみたが、クレアにはただの木の鍵にしか見えない。
「この鍵がなければ、ご家族以外の方は日が落ちて以降にこの屋敷に入ることはできませんのでご注意を。万が一夜分に屋敷から出かけるときも持って出るようにお願いします」
「はぁ、はい」
「ワシにもよくわからないんだけどね。この屋敷にはアルベルト大師の防御結界が張ってあるらしいんだ。だから日が落ちてからはオヴリガン家の血筋の者以外にはこの屋敷は認識できなくなるんだそうだよ。ワシには普通に出入りできるからあんまり実感はないんだけどね」
「アルベルト?」
「セドリック・アルベルト様です」
クレアはマヨイからアルベルト某のフルネームを聞いてもピンとこなかった。おそらくは魔術師なのだろうが、クレアは魔術についての素養は皆無であったので誰のことかはわからない。
誰のことかわかっていないことが表情に出ていたのだろうか? マヨイが補足する。若干眉を潜めたように見えたのは気のせいだろう。
「積道の開祖である偉大なる魔術師にして、初代オヴリガン公爵様の参謀を務めておられた方です。この屋敷はそのセドリック様の強力な呪術によって守られております。私はその屋敷とオヴリガンの血を引く皆様の守護者としての役割を授かっております」
「そんなわけで、その鍵をなくしたら朝まで入ることはできなくなるし、作れるのはマヨイだけだからね。まぁ、悪意の無い人間には日中は自由に出入りできるんだけど」
「ええっと、マヨイさんは灰魔術師なんですか? 積道って灰魔術師ですよね」
クレアも積道が世間一般で灰魔術と呼ばれている魔法の正式名称であることは知っていた。帝都には玉兎院と呼ばれる積道衆達のお役所があるからだ。
「いえ、私はこの屋敷の保安と管理を司っているだけで魔術師ではございません。ついでに言えば家計についてもご主人様に任せておりますから私は関わりません」
「え、そうなんですか?」
家計のやり繰りというのは貴族は領地からの収入などがあるためにかなりややこしい場合が多い。だから普通は腹心の家来に任せるのだが、そんなことまで自分でやっているということか? そう思ったクレアだったが次にスコットが発した言葉に覆される。
「あ、ウチは基本的に治副司にやってもらうの。君の仕事だから頼むね」
「ええっとよろしいんですか?」
私的な帳簿の動きまで治副司、つまり中央からの監視役に抑えられると言うのは地方貴族にとっては避けたいことのはずであるが。
「少なくともワシの代になってからはそういうことにしているね。どのみち税は免除されてるし、元々余裕もない。それよりは中央の人間である君に管理してもらったほうがいろいろと誤解が生まれなくていい」
つまりは私腹を肥やすつもりもないということだ。いくら貧乏領地でも私腹を肥やそうと思えばできる。このサウスギルベナで暴動が起きないのも領主であるスコットの経営方針が大きいのかもしれない。
「わかりました」
クレアは頭を下げて了承の意を示した。
この辺りが生来の生真面目さというところだろうが、もしこの場面を前任者達が見ていたらため息をついたに違いない。要はスコットが私的なことである家計のことまで治副司であるクレアに丸投げしたにすぎない。こんなことはオヴリガン家、つまりスコット自身にやらせて治副司クレアはその帳簿をチェックすればいいだけなのだが。
それに気がつく前にどんどんと言質をとっていくスコットの怠け者具合も熟成の域に達している。きっと公務をこなしながら複雑な貴族の家計までやらなければいけないことを彼女は後悔することになるのだ。
まだ17歳のクレアはそんなことには気がつかずなんとか自分の任務を完璧にこなそうとしていた。
「そういえば、お嬢様はどちらに?」




