変わらない日常①
初投稿です。
よろしくお願いいたします。
夜明け前の宿屋は、まだ寝静まっていた。
宿屋の一階にある酒場の椅子は卓の上に伏せられ、昨夜の喧騒の名残だけが、床板に染みついた酒と肉の匂いとして残っている。厨房の炉には灰が眠り、宿屋の裏庭にある井戸端には、空の水桶がいくつも並べられていた。
グレッグは、音を立てぬように裏口を開けた。
背は高く、肩幅も広い。扉をくぐるだけで窮屈そうな大男だったが、その動きは意外なほど静かだった。まだ夜の色を残す空の下、彼は井戸の縄を引き、水を汲み上げる。
桶を満たし、厨房へ運ぶ。
また井戸へ戻る。
それを何度も繰り返す。
厨房の水瓶がいっぱいになる頃には、東の空がわずかに紫を帯びてきていた。
次は薪だった。
裏庭の隅に積まれた丸太を台に置き、斧を振り下ろす。乾いた音が、朝の冷えた空気を割った。
一振りごとに、丸太は素直に割れ、薪の山がみるみる増えていく。グレッグは汗を拭いもせず、淡々と斧を振るった。
水汲みも薪割りも鍛錬になる。世話になっている宿の役にも立つ。
それで誰かが助かるなら、騎士の務めとして十分だった。
見習いであっても、心は騎士であるべきだ。
そう信じるグレッグは、もう一度斧を振り上げた。
「……薪割りが本当に騎士様のお仕事なんですか?」
背後から声がした。
振り返ると、裏口のところに宿屋の娘、リタが立っていた。寝起きなのか、栗色の髪は少し跳ねている。腰に手を当て、いかにも呆れたというポーズだが、表情は柔らかい。
斧を下ろし、グレッグは真面目に答えた。
「人を助けるのが騎士の務めだ。薪がなければ朝食も作れないだろう?」
「それは騎士様じゃなくて下働きの仕事ですよ」
「……そうだな、そうかもしれない」
「そうです」
リタはそう言って、またふっと笑った。
「我が宿の心優しき騎士様、いつもお務めありがとうございます」
からかうような声だったが、それは素直な心のこもった優しい礼だった。
グレッグは少しだけ目を伏せる。申し訳なさそうに。
「こちらこそ、長いこと世話になっているからな」
実際、グレッグがこの宿『銀の三日月亭』を常宿にして六年以上になる、当時十歳だったリタも今年十六歳になった。
それ程の期間、未だ称号が『見習い騎士』のまま結果を出せずにいる。その居心地の悪さを、こうやって宿の下働きの様な手伝いをして、誤魔化しているのかもしれない。そう思ったのだ。
「そういうところ、本当に真面目ですよね、グレッグさんは」
リタは嘆息して裏口から厨房へ戻っていった。扉が閉まる直前、彼女がもう一度こちらを見て笑ったのが見えた。
グレッグは斧を握りなおすと手早く残りの薪を割り始めた。
◇
朝食の頃には、宿屋兼酒場にも人の気配が増えつつあった。
厨房からは焼いたパンとスープの匂いが漂い、注文とそれに応える快活な声が聞こえる。リタは客席の間を忙しなく動きながら、時折グレッグの皿に何かを足した。
「今日も迷宮ですか?」
「午前は討伐依頼を受ける予定だ、午後から迷宮調査に入るかもしれない」
「また服に穴を開けて帰ってくるんですね」
「……なるべく気をつける」
「グレッグさんの“なるべく”は信用できません」
リタはきっぱりと言った。
返す言葉は見つからなかった。実際、昨日も袖口を裂いて帰ってきたばかりである。
リタは小さくため息をつきながら、彼の前に追加のパンを置いた。
「ちゃんと食べてください。大きいんですから、燃料もいるでしょう?」
「……ありがとう、助かる」
「それと、帰ってきたら先に中庭ですからね。血まみれで酒場に入らないでください」
「分かっている」
「本当に分かってます?」
「……努力する」
「そこは断言してください」
周囲の常連客がくつくつと笑った。グレッグは居心地悪そうに背を丸め、パンを口に運ぶ。
大男が年若い看板娘に説教されて小さくなっている姿は、この宿酒場ではもはや日常だった。
朝食を終えると、グレッグは部屋へ戻り、装備を整える。
鎖帷子、鉄板を仕込んだ皮の鎧と兜、使い込まれた剣、傷の多い盾。どれも高級品ではない。だが手入れだけは行き届いていた。
剣帯を締め、盾を背負い、最後に胸元の小さな護符に触れる。
光の精霊の印。
グレッグは一度だけ目を閉じ、それから宿を出た。
◇
街はまだ完全には目覚めていなかった。
石畳には夜露が残り、通りの端には薄い朝靄が漂っている。パン屋の煙突から最初の煙が上がり、遠くで荷車の軋む音がした。
東の空から差し始めた光が屋根の端をなぞるように、街を照らしていく。
街が目覚める直前の空気をグレッグはゆっくりと肺へ送った。彼はこの静謐さすら感じる空気感が好きだった。
グレッグは冒険者ギルドへ向かう道を少し外れ、周囲の建物から浮いた白い建物へ向かった。
この街にある光の精霊を奉った聖堂である。
白い石で造られた聖堂は、朝の光を受けて淡く輝いている。大聖堂と呼べるほど立派なものではない。だが、この街の人々にとっては祈りの場所であり、傷を癒やす治療院でもあった。
その前では、若い助祭が箒を手に石段を掃いていた。
グレッグに気が付くと彼女はぱっと顔を上げた。
「おはようございます、グレッグ様」
朝の光を受けたその笑顔は、聖堂の白壁よりも明るく見えた。
グレッグは立ち止まり、頭をそっと下げる。
「おはよう、セラ殿。今日も早いな」
「グレッグ様こそ。いつも通りですね」
「いつも申し訳ない、今日も良いだろうか?」
セラは一瞬、何かを言いたそうにした。だがすぐに微笑み、腰の鍵束を取り出した。
「すぐに開けますね」
聖堂の扉が、静かな音を立てて開く。
中はまだ薄暗かった。高い窓から差し込む朝日が、祭壇の前だけを細く照らしている。空気は冷たく、澄んでいた。
グレッグはいつもの場所へ向かう。
祭壇の真正面ではない。人々が祈りに来た時、邪魔にならないように、柱の陰に近い隅の席。そこが彼の定位置だった。
大きな身体を小さく折るように膝をつき、両手を組む。
そして、祈り始めた。
一度祈りに入ると、グレッグは動かなかった。
目を閉じ、手を組んで、ただ静かにそこにいる。呼吸すら、聖堂の静寂に溶けてしまうほどだった。
セラは祭壇の燭台を整えながら、ちらりと彼を見る。
大きな背中、ぼろぼろの鎧、傷の残った手。
伸びた黒髪から覗く伏せた目は、どこまでも穏やかであった。
華やかさとは無縁の、風雨に晒され削り取られてきたような冒険者の姿。それでも、セラにはその祈りが美しく思えた。
それは、深い森の中に座す苔生した巌の様な、そんな不思議な尊さと安心を感じていたからかもしれない。
セラは慌てて視線を戻した。自分が何を考えていたかに気づいて、少しだけ頬が熱くなる。
やがて、聖堂の外が明るくなり、街のざわめきが少しずつ増えていった。
一時間。
グレッグはきっかり一時間、微動だにせず祈り続けた。
そして静かに目を開けると、もう一度深く頭を垂れた。
「今日も祈らせていただいた、感謝する」
「いえ、こちらこそ、いつもありがとうございます」
セラはそう言って微笑んだ。
「どうか、ご無事で」
「ありがとう」
グレッグは微笑み返すと聖堂を出た。
その背を、セラは扉の前で見送った。彼が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと。
◇
冒険者ギルドが開く時間には、ちょうど間に合った。
木造りの大きな建物の前には、すでに数人の冒険者が集まっている。扉の横、壁にもたれるようにして、一人の女性冒険者がグレッグを待っていた。
しきりに指先で自分の髪をいじっている。落ち着かない時の癖だ。
「マリー」
グレッグが近付いて声をかけると、マリーと呼ばれた彼女冒険者は顔を上げた。朝日を受けた金の髪がきらりと光る。
表情がぱっと変わった。どこか物憂げだった彼女の顔に、大輪の花のような笑顔が広がる。
そしてすぐに口元を引き締め直した。
「遅い」
第一声は、それだった。
グレッグは足を止める。
「すまん、約束通りの時間じゃなかったか」
「私が待ってたんだから、遅いの」
「そうか、すまない」
「そこで素直に謝るところ、ほんと調子狂うんだけど」
「……すまん」
マリーは頬を膨らませるように言ったが、機嫌が悪いわけではなさそうだった。
周囲の冒険者たちがにやにやと笑う。
「おう、『猪殺し』!今日も姫さんを待たせたのか」
「朝から仲がいいねえ」
「そろそろ待ち合わせ場所をギルドじゃなくて宿にしたらどうだ?」
「というか爆発しろ」
マリーの顔が一気に赤くなる。
「う、う、うるさい!そんなんじゃないから!」
グレッグは真面目な顔で首を傾げる。
「宿で待ち合わせると、マリーの家から遠くならないか?」
「グレッグは黙って!」
なぜ怒られたのか分からず、グレッグは黙った。冒険者たちの笑い声が大きくなる。
マリーは耳まで赤くしていたが、やがて肩を怒らせながらギルドの扉に手をかける。まだ囃し立てていた周囲の冒険者たちを睨んで黙らせると、グレッグを従えて建物に入った。
「ほら、行くよ。今日は午前中に討伐、午後から迷宮調査の依頼を見るんでしょ」
「ああ。そのつもりだ」
「なら、受付が混む前に決めるよ」
彼女はそう言って、グレッグの半歩前を歩き出し、グレッグはその後を追う。朝のざわめきが二人を迎えた。
掲示板には新しい依頼書が貼り出され、受付のカウンターには職員が帳簿を広げている。酒場とは違う、冒険者たちの一日の始まる音がそこにあった。
グレッグとマリーは掲示板の前で足を止め、依頼書に素早く目を走らせてゆく。
「この森の魔物討伐はどう?」
「……『角兎』、増えすぎて畑にまで出ている、ふむ」
「場所は西門から出た先の畑地帯だね、午前中で片付くかな」
「急ごう、畑が荒らされれば農奴の皆が困る」
「そう言うと思った」
マリーは小さく笑った。
「午後はこっち、迷宮の中層調査……未確認の通路が見つかったって」
「……例の、『遺物』の噂がある階層か?」
「場所は近いと思うよ、どんなふうに繋がっているかによるけど」
グレッグの表情が、わずかに引き締まったのをマリーは見逃さなかった。
「……焦らないこと、いい?」
「分かっている」
「グレッグの“分かっている”は、たまに信用できない」
今朝、別の少女にも似たようなことを言われた気がする。
グレッグは少し考えたが、反論はしなかった。
「気をつける」
「うん、それならよしっ」
マリーは満足したように頷き、依頼書を二枚剥がした。
「じゃ、受付行こ」
「ああ」
二人は並んでカウンターへ向かうのであった。




